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「宗歩の角行」読書記録

谷津矢車「宗歩の角行」を読んだ。
まさに、「天才の栄光と挫折」だろう。天才は、普通の人とは違う世界に住んでいて、すごい実績を残しても、結局孤独のうちに死んでいく。そういう話だ。

谷津さんはずっと歴史小説を書いている。全てを読んだわけではないが、その多くの作品で、才能ある人と、そうでない人の対比が鮮やかに描かれている。

「宗歩の角行」の主人公、天野宗歩は幕末の将棋指しだ。後に「棋聖」「実力十三段」と称される天才棋士。

わたしは小学校時代から将棋を指していたから、名前は知っていた。棋譜も動画で眺めたことはある。動画では「四間飛車・美濃囲いからの鮮やかな捌き」が讃えられていた。なにか少し不自然なところのある棋譜だとは思ったが、ソフトに解析させると別に悪手ではないらしい。つまり、わたしより遥かに強いわけだ。だが、それ以上追求して調べることはなかった。

だから、この小説を読んで、「ああ、こんな浮き沈みの激しい人生だったのか」と初めて知った。

現代の将棋のプロでも、当然、浮き沈みはある。中には罪を犯した人もいるらしい。だが、これだけ管理の行き届いた社会だから、野垂れ死のような死に方はしないだろう。
藤井聡太八冠を筆頭に、プロの世界は天才たちがひしめき合っている。そうした人たちのことをテレビやYouTubeで見るのだが、「破天荒」な人はほとんどいないと思う。みな、驕り高ぶることなく、謙虚で、真摯に将棋に向き合っている。
天才であるからこそ、真に謙虚になれるのかもしれない。
だが、思うのだ。
その謙虚さは、天才たちが社会と折り合うために着けている仮面ではないのか、と。世間に対しては、愛想の良い仮面を着けておく。しかし、その仮面の後ろ側では、凡人が追い付かないスピードで思考が巡っているのだ、と。
だが、「世間向けの仮面をつける技術」が発達していなかった天野宗歩の時代、彼は剥き出しの才能で世間と接してしまったのかもしれない。

王座戦で藤井聡太先生をギリギリまで追い詰めた永瀬拓矢先生は、将棋は努力だという。
わたしが目指している漫画家も、イラストレーターも、小説家も、プロの人は「努力」が当たり前の人だと、そういう記事を読んだことがある。
だけど、凡人のわたしから言わせてもらえれば。

プロになる人は、何か、そういう星の下に生まれてしまったとしか言えない何かがあるのだ。

羽生先生は、対局中のプレッシャーで吐いてしまうこともあるらしい。
漫画家の先生だって、辛くて苦しくて、それでも描き続けている。

なぜ、そんなに苦しくとも続けるのか。
それを上回る楽しさがあるからだろう。その楽しさを知ってしまった時、人は後戻りできなくなるのだ。それで、貧乏になろうとも、家族から捨てられても。

宗歩は角の使い方が上手かったらしい。作品の中で、「自分は角だ」と主張していた部分がある。確かに角は、動けるマスの範囲からすれば、最強に近い。ところが実は、角は最弱の「歩」に詰まされてしまうことがある。前に進めないからだ。また、守備には役に立たないことが多い。これも、前に進めないからだ。
宗歩の人生そのものが、角だったのかも知れない。最強に近いのに、ただの凡人に詰まされてしまったようなものだ。

蛇足だが。
江戸時代の定跡は、今のプロの世界では、そのまま通用しないものが多いのだろうが。
アマチュアの世界では、十分に戦えると思う。
わたしも、江戸時代の不思議な向かい飛車を駆使しして、ネット将棋で何回か勝ったことがある。もちろん、中級者、上級者相手には通用しないだろうが、初見で弱点を見破るのは難しいのかも知れない。
頑張ってもなかなか強くなれない人は、江戸時代の将棋を真似してみるのも良いかも知れない。AIもネット将棋もなかった時代、人間の頭脳だけで考えた叡智が、そこに詰まっている。

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