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「鉄路の行間」No.16/泉鏡花『高野聖』の冒頭で描かれた明治の鉄道の旅と敦賀駅

 現在の北陸本線は1889(明治22)年に米原〜長浜間が開通し、同時に全通した東海道本線とも接続。新橋から敦賀までレールが結ばれた。福井まで北陸本線が延びたのは1896(明治29)年。金沢に達したのは1898(明治31)年だ。金沢出身の泉鏡花が文学を志して上京したのが1889年。その後、何度か帰郷しているが、鉄道が開業するまでは敦賀や福井から江戸時代と変わらず歩いて向かったことだろう。

 鏡花が作家としての名声を確立した『高野聖』は1900(明治33)年の発表だ。旅の僧が飛騨の山中で出会った怪異譚だが、その導入部分が北陸へと向かう鉄道の場面となっている。おそらく、東京と金沢を行き来した際の経験が下敷きになっていると思われる。

敦賀駅
新幹線の駅も姿を現して始めている、現在の敦賀駅

 話の聞き手である「私」は新橋を夜9時半に立ち、話し手である僧は掛川から乗ったと描写されている。敦賀着は翌日の夕方である。復刻された1894(明治27)年11月1日発行の「汽車汽船旅行案内」をひもとくと、新橋発午後9時55分発の列車がある。掛川発は午前3時13分。交通機関が限られた明治の頃なら、これはまだ良いとして、名古屋は午前9時23分着・9時33分発。「名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。」という描写とは辻褄が合わない。

 米原は午後12時20分着。当時の時刻表では列車の行先がわからないが、おそらく神戸行きであったであろうから、ここで乗り換えになるが、そのような描写もない。あるいは新橋〜敦賀間直通の客車も連結されていたのか。米原発午後1時15分、敦賀午後3時09分着。まあ、夕方とも言えなくはない。作品中の列車は各駅停車としても足が遅すぎるが、鏡花らしい、空想上の列車であったのか。

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明治時代の名古屋駅(パブリックドメイン)

 名古屋で買った鮨を見て、「私」は「蓋を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯の下等なので。(やあ、人参と干瓢ばかりだ。)と粗忽ッかしく絶叫した。」とある。当時の旅の食事の事情がわかる。諸説あるが、駅弁は1870〜80年代に鉄道の発展とともに誕生したとされているから、弁当を買うこと自体は、鉄道の旅としては、もうふつうの行為であっただろう。現在のような折詰に入った駅弁は1890(明治23)年の姫路駅が始まりという説があるので。この鮨も折詰だったと思われる。でないと五目飯は入らない。

1902年の駅弁販売風景
1902(明治35)年頃の駅弁販売風景。(パブリックドメイン)
名古屋駅駅弁売店
現在の名古屋駅には、もちろん立派な駅弁売店がある
名古屋駅復刻弁当_中身
中身には雲泥の差があるだろうが、泉鏡花の時代にはもう折詰の駅弁はあった

 敦賀に着いた「私」は、殺到する客引きに辟易しながらも、旅の僧と同宿になる。
 この時の敦賀駅は今の場所ではない。1882(明治15)年に開業してから1909(明治42)年に移転するまでは、氣比神宮のすぐ脇。現在の気比神宮交差点から敦賀郵便局付近にかけてのところにあった。なるほど、官有鉄道の駅として開業したから、令和の今日も郵便局、消防署、交番などが固まって立つ国有地なのだなと納得した。

 福井まで延伸する時、この駅から折り返す形で線路が敷かれたが、それでは不便なので駅を移し、現在の線形となっている。2023年には、北陸新幹線が敦賀まで延びてきて東京駅と直結される予定だ。120年あまりの時の流れは激しい。

旧敦賀駅付近
現在の旧敦賀駅付近。『高野聖』に出てくる敦賀駅は、氣比神宮の門前にあった


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