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第7球 「蘇生」


「この前に日本人の友達と飲みに行ってさぁ、趙さんと一緒にいるとほんまに楽しいわぁ!って言われたんやぞ!」

大学の学生課へ向かう途中、学生会活動をしていた頃の朝青の指導員の言葉が思い出された。

なんともない日常会話の中での言葉だったが、俺はその時、とてつもない衝撃を受けたのだ。

あ、この人、日本人に自分の事を「趙(チョウ)」って呼ばせてる!?そうか、そういう生き方もあるんや!

日本名で生きて行くことが当然だと思っていたけど、実はそうじゃない。

朝鮮名で生きて行く生き方もあるやん!

それまで身近な在日同胞といえば親族ぐらいなものだった。

そして、みんな日本名で生活していたし、互いに朝鮮名で呼び合うことなど皆無に等しかった。

ところがその指導員は、日本人に朝鮮名で呼ばれ朝鮮人として付き合っているのだ。

この事実に触れた時、俺の朝鮮人としての可能性が大きく広がった。

今年、大学に無事合格したものの、俺の学生証の名前は日本名の「M岡」のままだった。

というのも、高校で名前を変更することなくそのまま受験をしたので、大学側は俺を「M岡」として登録せざるを得なかったのだ。

入学式直後の自己紹介の時に、そのまま朝鮮名でしようと決意していたにも関わらず、

「えっと…僕の名前はM岡って言います。ただ…実は在日朝鮮人なので(パク)っていう名前があります…」

と、とてつもない緊張感に襲われ煮え切らないものになってしまった。

しかし、俺の中ではもう決めていたのだ。そう、大学からは朝鮮名で生きて行くということを。

「今まで18年間使用してきた愛着ある名前だし、友人などから呼ばれていた"松岡"をこれから"パク"と呼べというのはちょっと酷ではないか。

それに本名を名乗るということは自分が朝鮮人であることを周囲に明らかにすることであるが、周囲の人々へ自分が朝鮮人であることを告知していれば特に意味はないのではないか。」

確かにこのような考えも当初持っていた。

しかし、「18年間使用してきた」ということは逆に「18年間しか使用してきていない」と言い換えることができる。

人間の一生を80年としても残り62年は本名を使用できる。

ましてや、人間関係がさらに広がるこの時期にこそ変えるべきだ。

卒業して就職した時、「社長すいません。僕、明日からパクっていう名前で働きます」なんてまずできないだろう。

この大学生の時に変えることができなければ、俺は一生変えることができない。今しかないのだ!

朝鮮人として「蘇生」するのだ!


「すいません。実は学生カードの名前を変えたいのですができますか?」

学生課に入るや否や、俺は窓口にいた職員に尋ねた。

「はい。できますよ。その名前を確認できるものはありますか?」

俺は事前に準備していた外国人登録済証明書を見せた。

「あ…このパクのほうへ変えるということですかね…?」

一瞬だが職員は戸惑っているようだった。

「そうです。名前をM岡からパクへ変えるんです。」

「分かりました…。ただ…その…元の名前に戻したりなどは基本的にできませんがそれでも大丈夫ですか?…」

素直に受け付けて処理をすればいいものを、その職員はやたら慎重に確認を取ってきた。

おそらく珍しかったのだろう。

日本名から、出自全開の朝鮮名へ変更する申し込みなどめったにないから。

俺は、その職員へ自分なりの「覚悟」を示すべく、相手の目をじっくり見ながらもう一度「名前をパクへ変えるんです!よろしくお願いします!」と伝えた。

そして、数分後、俺は「M岡」ではなく「朴」と変更された学生カードをとうとう手にすることとなった。

同時に、それは本名で生きて行くことを決めた一人の在日朝鮮人の誕生の瞬間でもあった。

自分が成長するにつれ「朝鮮人として生きたいという感情」が、まるで「空気」のようにどんどん発生していた。

しかし、日本名という「ゴム風船」がその空気を閉じ込めていた。

どんどん発生してくる「空気」を閉じ込め抑えつけ、朝鮮人として生きたいと望む俺を阻んでいた。

この溢れる「空気」を外へ解き放つにはどうすればいいのか?

答えはひとつだった。

そう「本名宣言」という針の一刺しで「ゴム風船」を破裂させることしかなかったのだ。

また、ウリマル(朝鮮語)も話せず、文化や歴史も知らない朝鮮人が、失ったものを取り戻して朝鮮人として生きていこうとする時、人間らしく生きていこうとする時、まず即座にできることは何か?

それは「本名を名乗る」ことではないのか?

日本学校出身者が意思次第で即時にできるのは、これしかない!

学生課で名前を変更し、学校の登録もパクに変わったことで、その後の自己紹介では堂々と「僕の名前はパクって言います!」と言えるようになった。

それから、学校で自己紹介をするのが何とも心地良くなってきたぐらいだった。


5月のGWも終わり、学部生同士仲良くなり始めた時、その内の一人であったSが急に話があるといって俺を食堂へ呼びだした。

「何やろう?話って?」

普段は豪快に笑い合い、互いにふざけ合ってた仲であっただけに俺は少し緊張しながら尋ねた。

「ごめんな、急に呼び出したりして。

…実はな…俺、パクに話しておきたい事があってな…」

普段の彼の雰囲気とは打って変わって、かなり真剣な表情をしている。俺の緊張度はピークに達しつつあった。

「お…おう…なんでも言ってや…俺みたいなんでよければ…」

Sは周囲を見渡し、そして小声で話し始めた。

「パクさぁ、その、被差別部落※って知ってる?」

正直、去年までは高校生だった俺にはなじみのない言葉であったが、小学校の人権の時間に習っていたのでその言葉の意味は知っていた。

(中世末期ないし近世初期の封建社会において、身分的・社会的に厳しく差別された人々が限定された地域に定住することにより形成された集落。未解放部落や部落ともいわれるが、行政的には同和地区と呼ばれる。)

「おおう…知ってるよ…そんなに詳しくはないけど…。それがどうしたん?」

「実はなぁ、…俺…ブラクやねん…」

予想外だった。

ひょっとしたら「自分も在日やねん」というカミングアウトかもしれないとは思ったが、そのはるか上だった。

彼の今までの学校での明るさや豪快ともいえる笑い方からは想像もできない告白だった。

「え?そうなんや!…なんか…す…すげえなっ!笑」

とりあえずナイ―ブなことだししっかり答えなければと思ったのだが、なかなか気の利いた言葉が出てこずヘタクソな返しになってしまった。

「俺なぁ…パクとここ数日過ごしている内に、在日として普通にみんなと接しているお前を見てたら、なんか俺も誰かに言いたくなってん。

でも、かといって他の奴らに堂々と言えるかと言うとそれもまたビビってしまって…。

で、パクなら分かってくれるんちゃうかなぁって思って話をしてみてん。

…ごめんな、なんかいきなりこんな話して…。」

Sは緊張から解放されたせいか、話し終えるといつもの表情になっていた。

正直、動揺したが同時に自分と似たような葛藤を抱いている彼に共感できたし、最近になって本名で生き始めた在日朝鮮人に対して自己の秘めていたものを話してくれたことがなにより嬉しかった。

「いや!全然ごめんとかじゃないぞ!そうか、そうなんや!

正直、俺、勉強不足やから詳しいことまではあまり分からんけど、ただ俺もお前もなんか…こう…似てるよな。

でも、お互い抱えていることは全く恥ずかしいことでもないし、むしろそれは自分を語る上でめっちゃ大切な物やと俺は思ってる。

まぁ、部落の場合は、国籍は日本やし、言葉も日本語やからその違いを他の日本人たちと示すのは難しいやろうけど、それでも持ってるルーツはやっぱり彼らとは異なるし、そこにこそSの魅力があるんやと思うぞ!」

自分でもなぜこんなにすらすらと話せるのか不思議なくらいに、俺はSに対して語った。

「あー!!やっぱパクに話してよかったわ!なんかスカッとした!またなんか朝鮮のこととかいろいろ教えてな!」

「おうまかせとけ!俺も正直まだあんまり知らんけどな!はははは!」

おお!これこそまさに真の朝日交流!!と笑いあいながら感じていたが…

「あ、ただなぁ…」

Sはそう言うと、急に伏し目がちになり、しばらく黙った。

「何?どうしたん?」

俺が尋ねると、Sはどこか物悲しそうな表情で口を開いた。

「…俺が部落ってこと

……他の連中にまだ言わんといてな…」

この時、俺は部落差別の根深さを感じざるを得なかった。

国籍も文化も言語も同じ日本人でありながら、住んでいる場所の違いだけで差別され、それを隠してしまう…。

在日朝鮮人とはまた異なる複雑な問題を彼は抱えているのだと感じた。

単に名前を変えることで、自分が日本人ではないと公表しやすいという点では、もしかするとSよりも自分は恵まれているのではないかと思ってしまうほどだった。

「…おお…分かった…俺からは絶対に言わへんわ…」

「ありがとうな…」

彼はそういうと、またいつもの表情に戻った。

ただ、俺の中では嬉しさと物悲しさが混ざり合っていた。



自分が朝鮮人として生きようと決め、その第一歩として名乗った朝鮮名。

しかし、この何気ない「一歩」が、自分の想像をはるかに超えた意義を持ち、大きな影響を外部に及ぼしていく可能性に、俺は少しずつ気付きはじめていた。

今日もコリアンボールを探し求める・・・

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