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第11球「プライド」


「俺は将来お金儲けして、その金で淡路島を買い取って、そこに<在日の国>を作ってやる!」

学生会会長をしていた頃、周囲にこんな「おそろしい」発言をしていた。

「韓国も北朝鮮も俺の国じゃないわ。特に北朝鮮なんかひどい国やん。餓死者とかいるし、独裁やし。俺らが住んでるのは日本や。両国とも自分の国とも思えない。これからは在日独自の民族性を守っていくねん。」

無知というのは恐ろしいもので、自分の国のことを全く知らない奴ほどルーツを軽視し、極端な考え方に行き着くいい例だった。

ただ、無知ではあったけれど、それなりの「民族性」があったことはやはりその辺の日本学校生とは違ったようだ。

さて、そんな俺が初めて朝鮮民主主義人民共和国(以下共和国)へ行ったのが大学に入学して間もない時だった。

留学同では毎年夏に「祖国訪問代表団」を結成し共和国へ訪問している。

朝鮮学校出身者は高校三年生の修学旅行で訪問済みだが、日本学校出身者の俺は初めてだった。

なぜ行こうと思ったか?

理由は二つある。

一つは、自分の意見に説得力を持たせたかったからだ。留学同に所属し、そこでの討論などで当然自分と祖国との関係がテーマとなる。

その時にマスコミの偏った情報だけでは自分が共和国について語る内容に説得力を持たせられなかった。ディズニーランドに行ってきたこともない人に「ディズニーランドってめっちゃ楽しいよ!」などと言われても「いやでも行ったことないんやろ?全然説得力ないわ」と思うだろう。それと同じことだ。

また、共和国へ行ってきた先輩などほぼ全員が感化され、差はあれど肯定的な立場へ変化していくことにも興味があった。あれだけマスコミで「悪魔の国」として宣伝されている国に対して、一度行ってきただけで意見を変えるその根源に迫ってみたかった。

もう一つの理由は、チャグナボジ(父親の弟)がいるからだった。

チャグナボジは20台前半で結婚し、そのすぐ後に周囲の反対を押し切り共和国へ帰国した人だった。小さいころから親戚が共和国に住んでいるということは聞いていたのだが、実際に会ったこともなく、今回の祖国訪問を機に会いたいと思うようになったのだ。

なぜ帰国したのか?

帰国して今はどう思っているのか?

それを純粋に聞いてみたかった。

1997年の夏、共和国では「苦難の行軍」という時期で国全体が食糧不足に陥っていた。

人民たちの生活も非常に厳しく正直行くことすら躊躇したが、「行ってみたい!」という衝動が勝った。

新潟出張所というところへ行き、「貨客船万景峰号92」に乗り港を出発。一泊して元山というところへ着いた。

韓国へも一度も言ったことがない俺からすれば、この元山の景色とその地が生まれて初めての「祖国の風景」「祖国の地」だった。

何もかもが感慨深く、その匂いまで今でも鮮明に覚えている。

ピョンヤンに入るとそこはまた別世界であった。まず何よりも感じたのは看板の少なさだった。

普段はあまりに当たり前すぎて気づかないかもしれないが、日本には町のいたるところに看板が乱立している。資本主義の象徴だといってもいいのだろうが、この看板の少なさが余計に建物の灰色感を強調し、俺に「モノクロな街・ピョンヤン」のイメージを植えつけることになった。

電力不足ということもあり、行くところすべて節電しており薄暗い場所ばかりだった。インフラの整備が世界でもトップクラスの日本に住んでいるだけに、その不十分さは正直とても目についた。

やっぱり暮らしは厳しいんやな。みんな苦しんでるんやな。

そういったある種同情ともいうべき感情が祖国を訪問した当初の俺の素直な気持ちだった。

ところがである。そういった経済的な苦難とは逆に、なぜか人々の顔は暗くなかった。接すれば接するほど気さくだし、冗談を言うし、熱く国家を語っていたのだった。

一体この人たちはなんなんだ?なんでこんなに笑っていられるのか?食糧も少ない、電気もまともにつかない、しかも常に戦時体制。

でも、みんなが卑屈じゃなく笑っている。

なぜだ?

共和国で過ごす内にこんな疑問が出てきたのだった。

そんな中、ある出来事が俺にその答えを導くヒントを与えてくれた。

共和国での移動は基本的にバスなのだが、そのバスに一時的だが一人の女性がお弁当係として同乗していた。車中では学生たちの歌合戦で盛り上がっていた。

そのときある学生が「ヌナにも歌ってもらいましょうよ!ねぇ、いいでしょ?」とその弁当係の女性にお願いしたのだ。

彼女は少し戸惑いつつも、しぶしぶマイクを握り歌い始めた。その歌声はまさにプロ並みで、バスに乗っている全員を魅了する素晴らしいものだった。

歌い終わるとバスの中は大喝采となり、中にはスタンディングオベーションをする奴までいた。

俺も興奮して「ヌナ!素晴らしい!コマッスミダ!」と力強く拍手した。

「そんなに歌が上手いのであれば今からでもプロになれるんじゃないですか?いやなるべきですよ!」と彼女に言った。

他の学生たちもつられて「そうですよ!今からでも歌手になれますよ!」「オンニみたいに綺麗なら大人気ですよ!」と囃し立て始めた。

彼女は顔を真っ赤にして「コマッスミダ、コマッスミダ。」と言った。

だが、一瞬迷ったような表情をしつつ、少し間を置いてゆっくり話し始めた。

「確かに歌手になりたいなぁと思う時もありました。でも、私にはしてみたいことがほかにあるんです。」

歌手よりもなりたいものがあるのか?一体どんな夢なんやろう?俺は彼女の次の言葉を待った。


「実は、靴を作りたいんです。」


全員が驚いた。「え?本当ですか?」「なぜ靴を作りたいんですか?なんかもったいないなぁ」という声も出た。俺も口には出さなかったが似たようなことを思った。

彼女は予想していた反応に笑みを浮かべつつ、ざわつきが収まるのを待ってまっすぐ前を向いて話し始めた。

「確かに、歌手になって、大好きな歌を歌って、人々に喜んでもらうことも素敵だし憧れはあります。でも、それはその一瞬だけに終わってしまいます。ずっと続くわけではない。

ただ、靴はずっと長く、そしてたくさんの人に履いてもらえるんです。一瞬ではなく、履く人がいる限りは、ずっと私はその人たちに役立つことができる。私はだから靴を作りたいんです。」

衝撃だった。

彼女は自分の幸せを個人範囲で考えていないんだ。自分自身の夢の中に、したい職業とか自己実現だけではなく他人の幸せの実現も入っているんだ。それを含めて自分の幸せととらえているということか?

俺は生まれて初めて、そういった生き方を堂々と話す人に出会った。照れながら笑っている彼女の姿を眺めながら、俺は共和国の人々の誇りに触れたような気がした。

祖国訪問も残り数日となった頃、俺はとうとうチャグナボジと会うことになった。小さいころから親から話に聞いていた人にとうとう会える。家族で宿泊先に来てくれるということだったが、正直まだ半信半疑だった。

昼間の日程を終え、夕方ホテルに着いた。バスを降りると、指導員が俺の名前を呼んだ。「イェ!」と返事し、指導員のほうへ向かうと、「君の親戚がすでにホテルにいるぞ。1階のレストランだ。」と教えてくれた。

来た!とうとう来た!俺のアボジの弟!20代前半で夫婦で帰国した人!

一体どんな人なのか?俺はそう思いながら、待ち合わせ場所に駆け足で向かった。

レストランに入ると名前を呼びかけられた。そこには初老の夫婦とその息子らしい30代の男性がいた。俺は誰が自分のチャグナボジかすぐにわかった。あまりにもその人がハラボジに似ていたからだ。そしてアボジの面影もあった。サンチュンにも似ていた。とにかく親戚であることは外見だけで分かったのだ。

「あにゃしみか!初めまして!お元気でしたか!?」

こんな時、映画とかなら涙流して抱き合ったりするのだろうけど、俺はただただ本人に出会ったという興奮でただただ一杯だった。

「これが私の妻で、これが私の長男や!!」

たどたどしい日本語だったが、関西弁で家族を自己紹介してくれた。話を聞くと共和国へ来たばかりの時は当然朝鮮語もまともに話せず、それから必死で覚えようと努力し、30年以上も日本語を使わなかったらしい。俺と話すために日本語を使おうとしてくれているのだが、あまりにも使わずに今まで来たのでほぼ忘れてしまったとのことだった。

俺も大学1回生ということもあったので朝鮮語もあまり理解できなかったのだが、幸い叔母さんが日本語をまだ話せたので間に入ってもらい話をしていった。

俺の一つ下の娘がいること、長男は金策工業大学に通っていること、ピョンヤン市内に住んでいるなどいろいろ分かった。

チャグナボジも、

「オモニや兄さんは元気にしてるか?」

「そうや!昔住んでたところに友人がいたんやけどその人に会えたら元気にしていると伝えておいてくれ!」

など俺にいろいろ聞いてきた。終始嬉しそうに俺と話をしてくれた。

「俺はなぁ、今日はほんまに嬉しいんや。妻の親戚はよく来てくれてるんやけど、俺のほうの親戚は一度オモニが来てくれたぐらいで、全くなかったんや。でも今日こうやってお前が来てくれた。本当にコマッタ!」

チャグナボジは俺の手を取って、少し目に涙を浮かべながらそう言った。俺もその言葉を聞きながら本当に来て良かったと思った。面会も終盤に差し掛かった時、俺はまだチャグナボジから聞き残していたことがあった。

共和国へ帰国して今どう思っているのか?後悔はしていないのか?帰りたくないのか?

正直ストレートに聞くのは躊躇したし、本音は話してくれないのではという思いもあった。

しかし、聞きたかった。

今の俺とさほど変わらない年齢で結婚し、夢と希望と熱意をもって帰国、その後貧しい生活を余儀なくされ、現在も苦しい生活状況にあるはずだ。親や家族、友人が住んでいる経済的に豊かな日本へ帰りたいはずだ。後悔しているに違いない。俺はチャグナボジの本音を聞き出したかった。

「あの・・・」

と俺が口を開くと同時に、チャグナボジは俺にこう言ってきた。

「お前も日本で頑張りなさい。私も頑張る。こっちへ来て経済的にも大変だったし、親戚たちに手紙出していろんなものを送ってもらった。懐かしく帰りたくなった時もあったわ。

でもな、わしにも誇りがあるんや。自分が信じた道が間違っていない。意地でも貫き通してやるという気持ちがあるんや。お前なら分かってくれると思う。」

俺の気持ちを察したのか、たまたま偶然だったのかは分からないが、俺が一番聞きたかったことを最後に話してくれたのだった。混じりっ気のない澄んだ目で、力強く俺に話してくれた。

あの最初の訪問から2年が経ち、俺は再び祖国の地へやってきた。あの頃とは異なり、今度は一定の知識も理解もしている。

今回の目的は、「自分の中で共和国をどう捉えるべきか?」ということと、「チャグナボジの近況はどうなっているのか?」を知るためだ。

2年前とは異なり、店や看板も増え、電気もついている場所も多かった。経済的には徐々に回復しているのかなと肌で感じた。

前回はいけなかった白頭山の頂上にも行くことができ、頂上の「湖」の水を手ですくって飲み「俺はとうとう聖水を飲んだぞー!スーパー朝鮮人だぁー!」とか訳のわからないことを叫んだりした。

一連の行程を経ながら「祖国の人はやたらに俺たちのことを心配してくれている。日本に住んでいて逆に心配になっているのは俺らのほうやのに、逆に彼ら彼女らは気を遣い俺たちのために一生懸命になってくれている。住んでいる場所は違うし、おそらく生き方も違うだろう。

でも、会うたび同胞として、同志として見てくれている。

これが民族なのだろうか?これが祖国というやつなのだろうか?

俺は二回目の訪問でそう感じた。

そして終盤、再びチャグナボジと会う機会が訪れた。

今回も宿泊先へ来てくれるということで待ち合わせた。

1階のロビーで待っていると、2年前と変わらないなつかしい顔でチャグナボジたちがやってきた。

「元気にしていたか?」

「はい!チャグナボジもお元気そうで!」

今回は長女も一緒に来てくれた。長男と合わせて、計5名で夕食を共にすることになった。

「またよく来てくれたなぁ!ほんまに嬉しいぞ!」

チャグナボジの日本語は、二年前より少しうまくなっていた。俺も、この二年で基礎的な朝鮮語の勉強をしたので、片言ではあるけれどなんとか使いながら話した。

その後、長女があれから金日成総合大学へ入学したこと、長男がそのまま大学院へ進み近々結婚するということ、などたくさんの話をした。俺も家族のことや、留学同活動などについて話した。

二年前の緊張感はさほどなく、それよりも本当に親族として気軽に話ができた。

「二回目の訪問はどうやった?たぶん日本に比べればまだまだやと思うけど、共和国は必ず豊かになるし、わしらはそれを信じて今も生きてる。貧しい人もおるし、子供二人を大学へ通わせることができたことは本当に恵まれていると思う。今も社会主義政策がなかなかうまく進行していないのはみんな分かってる。でも前進するしかない。

この国は誇りで生きてるから。」

そうなのだ!

この国はその「誇り」で満ち溢れているのだ!

前回来た時もそれを強く感じていた。経済的に苦しい、準戦時状態、自由も制限されている。逆に言うと「誇り」を持たなければ屈してしまうのかもしれない。

「誇り」を持ち続けることで逆境を乗り切り、生き抜いているのかもしれない。

「誇り」を語るチャグナボジの姿が、共和国の姿と重なった瞬間だった。

「アラッスミダ。僕も日本でどういったことができるかわかりませんが、チャグナボジのその誇りを見習って、僕なりの誇りをもって貫いていきたいと思います!」

そして、再会を誓い、俺は数日後祖国を後にした。

幸せ、祖国、誇り、そんな日本では青臭いことを俺は二回目の祖国訪問で深く自分なりに学べたような気がした。


しかし、現実とは本当に恐ろしいもので、俺はその直後資本主義、そして友情のもろさを痛感することになる。

今日もコリアンボールを探し求める。

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