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人に創作理論を説くならまず自作を晒せ

ここでは小説に限った話をするが、このジャンル、とかく人に書き方を指導したがる人は多い。他ジャンルに比べるともっともらしいことを言いやすいからだろうか。プロなら問題ないだろうが、それらの指導屋のなかには、どれだけの実績があるのかよくわからない人もいたりする。それどころか、当人の執筆能力すらまったく不明という人も多い。

それでも、世の小説志望家は藁にもすがる思いからか、正体すらよくわからない人のアドバイスを一生懸命聞いていたりする。いつも利用している小説投稿サイトでも小説講座のたぐいは一定の需要があり、よく読まれていた。そうしたコンテンツを書いている人のなかには、当人の小説をまったく公開していない人もいたが、これはおかしな話ではないだろうか。人に小説のアドバイスを仰ぐなら、まずはその人がどれくらい書ける人なのか、を知らなくてはいけないはずだ。その判断基準として指導者の小説を読まなくてはいけないのに、肝心の作品がないのでは実力を見極めようがない。なぜ、自分が人に教えられるだけの実力を持っているのだと作品で証明してみせないのか?

ここでいくつかの可能性が浮上する。もっとも大きな可能性は、当人の小説の実力は大したことがないというものだ。小説自体では人目を引くことができなかったため、小説の書き方という作者なら誰でも関心を持つテーマで文章を書くことで、人から仰ぎ見られようとしているのではないか。私の知人が「創作論を書いてみたいが、立派なことをいっているのに作品はあの程度なのですかと言われるのではないか」と心配していたことがあるが、そう言われないようにするには自作は公開しないほうがいいということになる。

書く能力と教える能力はまた別なのだ、という人はいるかもしれない。しかし、そういう話を私はあまり信じてない。自分でろくに剣を振るえない剣術師範などというものがあり得るだろうか。優れた剣士は必ずしも優れた指導者たり得ないかもしれないが、それは優れた剣士であることは優れた指導者であることの必要条件であっても十分条件ではない、ということではないのか。自分ができもしないことを人に教えるのでは理屈倒れのシュターデンだ。

本当に聞くべきはプロのアドバイスと素人の感想なのだ、という話がある。自分でろくに書けない人の小説講座は、一番聞いてはいけない「素人のアドバイス」だ。プロデビューしていなくても実力の高い人はいるが、それだけの実力を持っているかどうか判断するためにも、やはりその人の作品を読まないといけなくなる。創作論の説得力を増したいなら、やはり自作は公開しておいたほうがいいだろう。当人に実力があればの話だが。

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