自己否定「される」方法

こんにちは、レインです。

今日は…自己欺瞞について語ってみようと思います。

「自己欺瞞?なんじゃらほい」と言う方もいらっしゃると思うので簡単に言うと…

「自分を偽る行為」ですね。
本当は怖いのに「全然大丈夫」と思ってみたり
本当は嫌なのに「それめっちゃ良いじゃん」と言い聞かせたり。

誰かに対してそういう対応をするのが良くないという話では無く
自分自身の本音をそっちのけで、「普通はこうだから」で片づけていないかどうかという話です。

もう少し言い換えるなら…「感情を無視する」という事ですね。


これの良くない所は「自分に嫌われる」点。
これに気付けずそのまま放置して過ごした結果
好きだったはずの食べ物から何も感じ取れない。な~んて現象が起こります
(誰の話だったかな~ ←これも自己欺瞞)


そんな訳なので本当にマズい。
自分を無意味に苦しめたいという欲望に駆られた時だけにしておきましょう
(需要が病んでる件について)
(自己欺瞞とセットだからしゃーなし)


ただ、これ…気付くのめちゃくちゃ難しいんですよ。

いや、人によっては…
「自己欺瞞何それ美味しいの?マズい?ならなんでそんなことするのさ」
位の感覚で全くの無縁な方もいらっしゃると思うのですが(笑)

問題はそうじゃなかった方。
私の仲間ですね(鬱陶しい)

(残念ながら)私の仲間になってしまっている方には割と聞きなれたワードかもしれません。


とにもかくにも。無縁じゃない人にとっては
気付くのが難しい。

だって、「無視してる」なんて実感が無いんですもの。


いつの間にか、自然と、当たり前のように
「やってしまっているもの」なんです。
どういうことか?


例えばです。
リンゴが好きなAさんが居たとしましょう。
その人に「果物が好きなんだね」と声をかけたとしましょう。
その時Aさんは(確かにリンゴは果物だ)と思い浮かべます。
するとAさんの回答は「はい。果物が好きなんです」となる。

周りに合わせる為に、相手の話を否定しない為に、
合わせられず、否定してしまい、他人からの評価を下げないようにと、
自分の主張を、ちょっと捻じ曲げて外に出す。理解する方。

本当に要注意なんじゃないかと思っています。


何が問題なのか?
それは…
「リンゴは果物の一種類だけど、果物はリンゴ以外にも存在するから」です


めっちゃくちゃ当たり前のことを言いましたね私(笑)
えぇと…何が言いたいのかと言うと…

「自分本来の主張を、他人の評価に合わせて、少し歪ませる」
という事についてです。


Aさんはこのやりとりの後
「あの時はこの人に合わせて リンゴではなく、果物が好きと答えた」
という区別、理解…つまり


「建前として「果物が好き」という事にした。」
この理解が明確にあれば良いんです。


でももし、そうじゃなかったら。
ましてや、そういうつもりで「果物が好き」と言った事を忘れてしまっていたらどうなるか。

Aさんの記憶には
「私は果物が好きなのだ」というインプット。自分の定義だけが残ります。

こうなったら完全に自己欺瞞ですよね。
だって、好きなのは「りんご」であって「果物全般」ではないはずですから。

そして、周りの人にも「果物が好き」という評価が広まり
優しい誰かは「Aさん果物すきだったよね。詰め合わせ盛って来たよ!」とか言ってくれる。

Aさんは「ありがとう!」と喜んで受け取る事でしょう。
そこに、りんごが含まれていれば。
そして、ほんの少しのモヤモヤ…違和感を抱えながら。

そして、その僅かな違和感は、「僅かだからこそ無視される」
Aさんは「果物を喜んで受け取った自分」に違和感を持てない。


そうやって行った結果。
本当に果物が好きだった! というなら僥倖。

でも、そうじゃなかったら?


そして、こういうやりとりが、
「日常的に、当たり前のものとして、価値観として繰り返されていたら?」

Aさんは何度、自分自身を裏切って生きている事になるのでしょうか。
(特大ブーメランが飛んできてますね)


それじゃあまぁ、困る訳ですよ。
その先にあるのが自分からの否定。

自己否定ってするだけじゃないんです。
「される」ものなんですよ。自分に。

どう否定されるのか?
そうですね…こればっかりは身体の声としか言いようがないので、言葉で表現するのはちょっと難しいですが…

強いて言えば
「こいつに自分の身体は任せておけない」でしょうか。
「こいつに、自分の主導権を握らせちゃいけない」かもしれません。

そういう、私たちが普段
何かをしたい。されたい。
あれをしよう。これはどうしよう。

といった「意志」に対する反逆。
サボタージュが起こります。

自分にサボられます(笑)


そのやり方は自分(意志の方)がどんな人間かに依存するでしょうし
自分(意志の方)が何をされたら困るのかにも依存するでしょう。

自分の身体は自分自身の事を良く分かって居ますから。
一番嫌がる事をするでしょうね。

私が自分の身体にされたことは「好き嫌いの感覚を狂わせること」でした。

「お前(意志)が好きなのはこれで、嫌いなのはこれだろ? じゃあ、それがごちゃごちゃになったらどうなるんだろうな。」

いや…違うか。どちらかと言えば…

「お前(意志)は俺(身体)なんだから、分かるんだよ。本当に好きな事、嫌いな事。なのに、お前は無視し続けた。なら、俺も知らねぇよ。」

みたいな。


本来、同じ存在なはずですもの。
それが、言葉によって、社会によって、価値観によって、常識(擬き)によって捻じ曲げられ、「それが好きな事なんだ」と誤認してしまった。

現代病として鬱が挙げられる理由…分かる気がします。
だって、皆やるでしょ。こういう事。

自己防衛のための建前。使うでしょ。
それは、周りに対して防塁を築くと同時に
自分自身の声すらも聴きとり辛くする。

諸刃の剣なんだって事だけは、お忘れなきよう。

諸刃であるって事を忘れた瞬間。
自分を守るための鎧の内側に、棘が出てきますから。

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