「普通」が難しい僕が「普通」になりたかった話

もはや過去形なんだけど、ある意味今もそうかもしれない「普通になりたい」という願望。
 
きっと僕だけじゃなくて、読んでくれている人たちの中にもいると思う。
 
普通になりたい。
特別になりたいなんて贅沢は言わないから、目立たず騒がず、平凡に、そして平和に過ごしたい。
 
そんな願望をもっている人っていうのは、前提として「自分は普通の範疇から外れている」と感じている。

ある意味、自分を特別視しているとも言えるから、自意識過剰なのかもしれないな。
 
でも、やっぱり、自分は普通の中には入っていないと今でも思うのだ。
 
まともに人間関係を築けない。
考えや行動が理解されない。
人が簡単にできることができない。
 
そういった違和感を抱えていると、つい「普通」を羨ましく思ってしまう。
 
まぁ、そうなると、そもそも普通って何?
どういう基準?どこで線引きされているの?
みたいな話になってくる訳で。
 
いまだに答えにたどり着けていないけど、現段階では「こうした疑問を抱かないで生活ができている」=「大多数の人間の常識の範囲内での生活にさほど違和感がない」というのが「普通の範疇」なんじゃないかと考えている。
 
普通になりたい僕はいつも考えている。
 
当たり前を当たり前にできたら、もっと楽に生きることができたんじゃないかって。
 
合わせられるだけで合わせたいわけじゃない。
合わせた方が穏便に済むとわかっているからそうするだけ。
それは経験から得た答えで、自然に行動できていることではないし、めんどうなのだ。こんなこと続けていたら疲弊してしまう。
 
普通を優先するあまり、心地よくないことばかりやっていると、自分を見失ってしまいそうだ。
 
答えはすでに出ている。
でも、自ら普通の枠を飛び出る勇気はなかった。
異物を見る目を向けられるのは恐ろしい。
 
だから僕は今日も、擬態して生きるのだ。
 「普通」を装って。

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