見出し画像

日本という国の始まり その9

表題の上にある写真は、官宣旨ではあるが、全く無関係の書面だ。もちろん国宝・重要文化財である。保元三年(1158年)紀伊国に書かれた官宣旨である。


昨晩、研究会に行くと、仲間から徳島県の某研究者の投稿論文の一部を頂いた。阿波忌部に関する記事で、中世約定書について論じている。

それにしても、思ったよりも早く、時が来た。

私の予想では、現在の御殿人(三木家第28代頭領 三木信夫氏)が亡くなられた後に、これに類する論文が雨上がりのタケノコのように出てくると思っていた。

徳島県の中世古文書であるところの、該当官宣旨(案)が何故、国宝・重要文化財の指定を受けないのか不思議であった。が、自分なりに研究していると矛盾点に気付き、なるほど、そうかと何気に納得できた。同時に、研究者の推薦が得られない故に文化財にならないのだと推測できた。

きっと当時は、権威付けするために、あるいは地方政治・軍事を有利に運ぶ為、文書を偽造するのがトレンドだったのだろう。時期的に、南北朝でもあったので尚更なのかもしれない。

この下文は、素人なりに読んでも疑問が残る。
事書を読んでも意味が分からないし、武家文書か公家文書か判別できない。止め書きも果たしてこれでいいのだろうか?ちょうど、約定書の頃だ。


正慶元年十二月の文書
暦應元年十二月文書

御殿人が、忌部の末であることを先般否定された。これは出自を中世に遡って勉強されたことによる大きな成果であったと思う。足しげく御殿人宅に訪問し、ディスカッションした甲斐があった。

中世文書を参照するかぎり、現御殿人は阿波忌部の末とは到底思えないし、百歩譲って末だとすれば、直系ではなく、傍流である。しかも、忌部における序列は低いと推測される。看板の文言に掲げた内容は受け入れがたい。

ロータリークラブ設置の看板

私の主張は、以前から同じく、「三木家は太古から御殿人にして、阿波忌部の長に御衣人を任せて麁服調進を統括していた家筋だ」との思いは変わらない。今となっては新たなエビデンスが見つかる可能性も低いだろうし、私の主張を裏付ける書が見つかるとも思えない。が、形としてそうでなければ践祚大嘗祭は意味をなさないように思える。

中世、阿波の山間部においても、動乱があったと推測される。新秩序を作る上で地方の行政官らはかなり苦労したのではないだろうか。新旧の勢力が入り乱れて多少なりの武力衝突もあったと推測される。

疑問が晴れない頃、県立博物館副館長(現博物館長)長谷川賢二氏を表敬したおり、古文書の読み方や、中世文書の詳細についてレクチャーしていただいた。専門家でもないのでよくわからないものの、自分なりに研究して得られた結論は、確信に近づいていた。

そんな折に、今回の福家清司氏の論文だ。(「契約したのはだれか、通説に挑む『忌部の契約』の謎-「御衣御殿人契状」と阿波忌部氏長者」)

ただ、福家氏の主張と異なるのは、三木家が新興勢力という位置づけではなく、太古から調進に関わっていたが実働部隊では無かったのだというのが私の説だ。そうして、この書状の時代に、直接なんらかの形でコミットするようになったのかもしれないと想像する。あくまで実働部隊は、太古より阿波忌部がやっていたのだ。また、延喜式に書かれている麁服の伴走者たる者は阿波忌部(の長)であってプロジェクトリーダーでは無いというのが私の主張だ。

三木家は天忍穗耳命の末裔だ!

天孫降臨と真床追衾、践祚大嘗祭の本義

しかし、
これらのことは国体に関わる大切な事であるからして、慎重に議論しなくてはならないとも思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?