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南北朝の最後の天皇、それぞれの悲哀

南朝最後の天皇となった第99代「後亀山天皇」

 後村上天皇の皇子で、兄の長慶天皇の後を継いで即位した。強硬派とされた長慶天皇とは異なり、和平派であったとされる。当時南朝方の勢威は地に落ち、もはや回復の期待も失われ、また北朝側も戦乱に疲弊したことから和平への動きがみられた。

 元中9年(1392)年に足利義満からの提案があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立などを条件として両朝の合一がはかられた。これに応じた天皇は、吉野より京都へ還幸して三種の神器を北朝後小松天皇に伝え、大覚寺の正寝殿御冠の間にて、南北朝合一が実現した。

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 天皇は太上天皇の尊号を受けて、大覚寺を仙洞御所として過ごしたが、待遇面で不満を持ったのと、両統迭立が履行されなかったことから応永 17 (1410) 年に再び吉野に出奔し、さらに伊勢国司北畠満雅の挙兵もあって南朝再興の動きに進んだが、これを危惧した北朝の根回しもあって同 22年に和議が成立、翌年天皇は京都へ戻った。言い方は悪いが、足利義満の政治力に翻弄されて、不本意な結果を受け入れるしかなかったと言える。陵墓は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨小倉陵である。

北朝最後の天皇となった第100代「後小松天皇」

 後円融天皇の嫡子で、父の譲位に際して崇光皇子である栄仁と皇位を争い、将軍足利義満の強力な推挙により親王宣下のないまま即位した。明徳3/元中9(1392)年に南朝の後亀山天皇から神器を継承し、翌年父上皇の死により親政を開始したが、天皇としての形式的権限はすべて義満が事実上の上皇としてこれを行使したことから、後小松天皇は全くの傀儡政権となり、天皇家の権威や権利は事実上終焉を迎えた。

 しかし、次男の義嗣を親王に擬して皇位簒奪をうかがっていた義満が急死して義持が4代将軍となると、天皇の権威が回復し、称光天皇に譲位して院政を復活させた。称光上皇の病死後は、栄仁親王の孫を猶子に迎えて後花園天皇として即位させた。禅僧として著名な一休宗純は長男とも伝えられ、一休寺(酬恩庵)にある一休の墓は宮内庁管轄となっている。

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 逸話としては、千本閻魔堂の普賢象桜の美しさを称賛し、義満にも見に行くように伝えたとされる。追号となった小松帝は光孝天皇の別名。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵となる。

 勝者の天皇であったはずが、義満によって自由を奪われた。内心は忸怩たる思いがあったに違いない。それでも「南朝を合一させた」ということで、歴史に名を残したのが救いか。

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