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ボウヤ書店の使命 番外編 

 書き留めておかなければならないことがやまほどある。
 が、ひとまず、昨日(2023年6月13日)、「植田工 本木理紗 二人展」学芸大学”準備中”の初日に出掛けたことを書いておきたい。6月13日(火)~18日(日)11時~19時 会期無休 入場無料であり、いつものトロッコ運転で書いていると会期が終わってしまいそうだ。
 ”準備中”とはギャラリーの名称で、展覧会が準備中なわけではない。しかし準備中との名称から推測すると、あたかも準備中であるかのごとく新鮮なアートを展示し続けるギャラリーなのではないか。
 今回の「植田工 本木理紗 二人展」もその名称にふさわしく、まるで二人の即興セッションのような瑞々しさがあった。

 ガラスを素材としたアートに関しては、先月、サントリー美術館で見てきたところで、儚さと媚びない強さ、経年変化によって重厚感が生まれることなどを知ったところだったが、今回の本木理紗さんの作品ではさらに、自由さ、均整のとれた歪み、自然界にある露の永遠化など、新たな表現の要素を感じることができた。
 自然界の雫や露というと、言葉で書けばどこにも不純物などないように思える。でも、実際に街で見るそれらには、人工物としての鉄やその鉄分の滲み、突起物の介入があって、密かに耐えるように震えている。まさに私達の生の現実であり、痛みを伴う甘美さでもあり、涙や、傷を負った心の姿でもあるが、本木理紗さんのガラス作品ではその消えそうな真実の瞬間を捕らえた超写実性が感じられた。打ち込まれた鉄の滲みがこちらの身体に感覚を与える。時に、誰かの心の消えない落書きもある。
 植田工さんの(この方は私の絵の先生なのだけれど、ここではさんと書くことにする)絵画作品は、そのガラス作品のもつ自然界に存在するものとしての形象を、改めて補完して確認させてくれるし、絵画作品のもつ色彩にとっても、ガラス作品の存在が改めて立体的な自然界のものとして生命を吹き込んでいた。
 雨露のある森。
 森の中の雨露。
 それぞれの作品だけでは説明文なしには生まれてこなかったはずの再現が、二人展というコラボレーションによって生み出されていて、私はいつまでもそこに居たかった。ヒヨドリたちの居る森や、雀たちが居る町の鍵穴に観る、あのはかなげな雫の美。
 ガラスによって、その一瞬性が永久化されていることに私は感動してしまった。消えてしまっても仕方のない、ただ消えてしまうだけが運命の透明な雫が、アーティストの手によって永遠性を得ていた。倒れそうで倒れないフォルム。歪んでいるのに完璧な形。儚そうで儚くはない。透明であっても傷を受け入れることができる。純粋の先にある完全な世界とはこのようなものだと嬉しかった。母子像を抽象化した作品にも変わりゆく時の瞬間としての抱擁と、普遍的美としての永遠性が豊かに溶け込んでいたのだった。

 個人的に、案内葉書にも掲載されていたガラス作品には特に驚かされた。

ガラスの中を排水管らしきものが貫いている。その先に野性的な雑草の絡み合う色彩の絵画が掲げられている。私は、数か月前に発見した私の気に入っている森での排水溝を思い出した。
 それは私の小説『駅名のない町』の記述から地図を起こしてみると、本当なら存在しているべきなのに存在していないトンネルを象徴するもので、小説ではなぜか隣町なのに向こう側に行くのには回り道をしなくてはいけない状況になっており、それを打破するならば小説内にトンネルが必要だと思っていたところ、鳥達が森で私を呼び止め、「そのトンネルはこんな感じ」と教えてくれた排水溝だ。

今年、冬の間、森では池のある空間は整備のためにこちら側と遮断されていて、オレンジのネットが張られていたのだが、その排水溝の中を虫になって通り抜ければ向こう側に行けるのにと思ったものだった。猫ならばネットを楽々と潜り抜けて向こう側へと侵入していたのだが。
 向こうに行けるようで行けない。
 見えているのに遮られている。
 そんなガラスの壁を排水管が貫いている。
 なんというアートだ。
 見えない壁を突き破る人工的な知恵。その潔い抽象表現に私は心打たれた。
 

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