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解読 ボウヤ書店の使命 ㉖

中編小説『ハイシャサン』の読み直し。
この小説は『文學界』に応募したが落選したもので、2013年頃の作品。『キャラメルの箱』に調子が近いことから、『キャラメルの箱』の次に書いたものと思われる。
しかし、落選したからというのでもなく、私自身が書いた感覚が他の作品よりも希薄で、降りてきたものを必死で書き取った感が強かったので、長い間読み直すこともなく《ボウヤ書店》に放り投げていたものだ。
今回、解読をするに辺り読み直すと、誤字もあるし、文の推敲があまりにひどく、それらを逐一直すのに時間が掛かった。よくこれで応募などしたものだ。
それから、改めてこの作品の意味を考えてみると、色や土地名などから深い予言でもあったことがわかり驚いているところだ。予言だったので、多くの人に知らせなければと思い応募したのかもしれない。その件に関しては後日、改めて書く予定だ。実在する人物、建物、団体などとは一切無関係のFictionであることは強調しておきたい。
今日のところは読み直しを一気に掲載する。

《「ハイシャサン」 文 米田素子

 とにかく初美に言われた通りに歩いた。どこも似たような風景だろう、東京なんて。ひとつ間違えれば目印を失って永遠に迷子だ。しかも、この暑さの中を道に迷ったりしたら、きっと取り返しがつかないほど気分が落ち込むに違いない。
 ああ、右の奥歯がじんじんと痛む。きれいに舗装された道路から真夏の太陽が照り返して焼け付く。暑い、なんだってこんなに暑いんだ。左腕で顔の汗をぬぐった。ホテルから出てまだ十分も経たないのにシャツの背中はすでに汗でぐっしょりと濡れてしまった。
 ホテル前の大通りを南に進み、エッソがあったら左に折れて、それから、天羅屋さん、モデルガン屋さん、駄菓子屋さんと見て、その駄菓子屋さんの横の細い路地を入るのだっけ。今朝、電話で初美に聞きながら書きとったメモを確かめつつ、間違わないように歩いた。
 大通りからひとつ入れば古い町並みだ。日に焼けて色あせた暖簾をかけた天婦羅屋の引き戸には「準備中」の札が掛かっている。もうランチの時間は過ぎたからだろう。この辺りでは、躍起になって二十四時間営業する店ばかりではないらしい。傍を通ると、つけつゆの出汁と揚げ油の匂いが空気に染みついているのを感じた。いつかこの天婦羅屋がなくなった後でさえ、残された空気はこの匂いのままだろうと思うほど、その匂いは徹底的だった。見習いらしき青年が頭に手拭いを巻いて腰に白い前掛けをし、水色のプラスティックのバケツを持って現れ、店の前のアスファルトに打ち水をしている。そうするとアスファルトからも出汁と油の匂いが立ち上がってきそうだ。隣のモデルガン屋前にはリュックを背負った中学生くらいの男の子が一人いて、店の中を覗き込んでいる。夏休みを利用して遠くから来たのだろうか。
「東京が侮れないのは、ほんとにちっぽけなお店に見えても、びっくりするような世界的マニアな品揃えの店が、路地裏に平然と何年も存在し続けていることなの」
 今朝の電話でモデルガン屋の説明をする時に初美はそう言った。なるほど。でもこのモデルガン屋が世界的マニアな品揃えを誇るかどうかなんて、こんなリュックを背負ってまで遠くから見に来る奴にしか分からないだろう。分厚い眼鏡越しにかぶりつくように中を覗く男の子の体から、憧れとやや残虐さの混ざった快感がにじみ出ているのを見て身震いした。東京が深くて恐ろしいのか。それとも人間の業が深くて恐ろしいのか。いや、そう感じてしまう偏見が過ぎるのか。
 モデルガン屋と同じ建物を二分している隣の駄菓子屋には「かき氷」の張り紙があり、中を覗くと夏休みのプール帰りと思われる小学生たちが全員同じように日焼けしてかき氷を食べていた。東京下町在住の小学生だろう。都会と下町と世界的マニアを遊び場にしてかき氷をつつく奴らだ。末恐ろしいなと思う。純朴よりも純、世渡りよりも知恵、金持ち自慢よりも趣味的深み。暑さのせいで、着色料たっぷりのかき氷にさえ心惹かれつつも、右奥の歯のことを考えると食べる気にはならなかった。それに、あの日焼けして目をぎらつかせた小学生たちに混じるのは気後れがする。
 そこを過ぎると、確かに初美が言った通り電信柱に「湯島歯科医院はこちら」との広告が貼ってあった。広告には赤い矢印があり、それに従って行く。難なく「湯島歯科医院」が現れ、とりあえずの場所までたどり着いたことになる。
 辺りは歯医者独特の消毒液の匂いがした。その「湯島歯科医院」の建物前で立ち止まって、いったいどうしてこの湯島歯科医院じゃだめなんだろうと思った。玄関に続く二段しかない階段の前まで行き、庇の下に立って、かりそめにも直射を避けられたことにほっとしながら、もう一度左腕で額の汗をぬぐった。きちんとした、よさそうな歯医者じゃないか。この歯医者でいいのに。どうせ旅の途中の応急処置なのだ。どうしてこれじゃだめなんだ。この東京の暑さは、長野県の、しかも山育ちの身体には厳しいものがある。もう歩きたくない。しかし、今朝、初美は何度も念を押すように「湯島歯科医院」じゃなくてね――、と言ったのだ。
「そうやって、たどり着いた歯医者さん、湯島歯科医院じゃなく、その湯島歯科医院さんの横にある細い路地を、さらに奥へと入っていったところにある歯医者さんに行くのよ」
 初美は滑舌のよい声できっちりと言った。「そこからの路地は曲がりくねっているように思うけど、結局は、目的の歯医者さんに着くから心配しないでいいわ」
「どうして、その、最初にたどり着いた湯島歯科医院じゃだめなのさ」
「だめってことじゃないのよ。でも、その奥の歯医者さんがいいの。行ってみてよ」
「奥の歯医者さんって、それ、どういう名前の歯医者さんなの」
「名前はないの」
「えっ、名無しの歯医者?」
「そうよ。だたの歯医者」
「それちょっと、怖くないか」
 声のトーンを下げて言う。「怪しすぎるだろう」
「怪しくなんかないし、怖くもないわよ。私何度も行ってるから」
 声を高くしてしっかりと断定する。
「いやあ、それはちょっとねえ。保険証は後でうちから送ってもらうから、できれば当たり前に名前のある歯医者に行きたいんだけど、だめ?」
 少々、間があって、
「でも、あなた、この夏しか、東京にいないんでしょ?」
 今度は諭すように言った。
「まあ、そうだけど」
「で、そのたった一度の夏に、めったにない歯痛になったんだよね」
 意味深に柔らかいトーンで言う。
「ええ、まあ」
「だったら行くしかないわ」
 結局、きっぱりとした声に戻って背中を押した。
「そう?」
「ええ、そう」
「だったら行くしかないだろうね」
 従姉の初美に強く勧められて断り切れず、諦めて抵抗をやめると、もう少し詳しい道筋を聞いてから電話を切ったのだった。

 諦めたのにはそれなりに理由がある。初美は昔から強情で、一度言い出したらなかなか意見を変えようとはしないのだ。
 初美がまだ十四、五歳の頃だったか、遠い先祖の何回忌とやらで、お彼岸に親戚中が長野の実家に集まっていた時のこと。床の間に飾ってあった古伊万里の器に料理を盛るべきだと言い出して聞かなくなった。それは代々受け継がれている秘宝中の秘宝で、たまたまその時法要をする先祖がその古伊万里に縁があるというので、奥に大事に仕舞ってあったものを今回だけ取り出し、母が皿立てに載せて飾り、親戚中で鑑賞すべきものとして床の間の上に置いていたのだ。東京から到着した初美は親戚同士の挨拶もそこそこに、古伊万里を前にしてあねさん座りでぺたんと座り込み、ひとたび座り込んだかと思うと、大人も子ども「初美ちゃん」と声をかけるが一向に返事をしなくなった。一番小さい従妹が「初美ねえちゃん、麦茶ですよ」と言って、お盆に載せた麦茶とおせんべいを届けても振り向きもせず、古伊万里の前からじっと動かなくなった。さすがに三十分もそうしているので初美の母親が近づいて、
「あなた、いいかげんにしなさいよ。そのお皿がどうかしたの」
 と強い語調で問いかけたところ、やっと口を開いた。
「あのお皿がかわいそうよ」
 初美は鼻をすすりながら泣き始めた。「どうしてお皿に生まれてきたのに、表面に刺青みたいな絵を描かれて、あんなところでチンと座っているだけなんて」
 隣りの部屋から様子をうかがっていた母が、台所仕事の手を休めて傍まで来て初美の隣りに座り、
「初美ちゃん、あれはね、ああいうものなの」
 その縮れ毛の頭を撫でた。
 どういうわけか親戚中で初美だけが当時天然パーマと言われる縮れ毛で、しかも長く伸ばすのを嫌うので肩辺りですっぱりと切り揃え、裾が広がって数珠の房のように見えた。
「高価なものでね、飾っておくものなのよ。私たち親族の家宝なのよ」
 くすんくすんと泣くだけなら、まだ感じやすい年頃の少女の感傷だろうと言えなくもないが、母がなだめると、初美は余計に声を大きくし顔を歪めながら怒り狂ったように泣き叫び始め、髪が頬にへばりついても気にせず首をいやいやと振る様子は、まるで幼児そのものだった。
「お皿は上にお料理を乗せて食べるものよお」
 いいかげんにしなさいと初美の両親が叱っても泣くのをやめず、なおさら髪をバサバサと横に振って足をバタバタさせた。「あれでお料理を食べたい、食べたい、食べてみたいのよお」
 初美の弟の雪太郎はまだ三歳ほどの年齢で、騒いでいる初美の横におとなしく座ってビー玉を転がしたり、おもちゃのトラックの荷台にビー玉をたくさん入れて畳の縁を「ブーン」と走らせたりしていた。初美が駄々をこねるのを見るのが慣れっこなのかもしれない。
 それは不思議な光景に見えた。子どもたちの中ではもっとも大人に近いお姉ちゃんである初美が、強情を張って古伊万里で料理を食べると泣いている。その初美に何人もの大人が関わって、なだめたり叱ったりしている。その横で幼い弟が黙って静かに遊んでいる。
 その後、どのような経緯だったか、数日間のうちの夕飯時に、その古伊万里の上に薄く切ったお刺身が乗せられて食卓に登場した。それはフグの刺身だった。祖祖母であるトメばあさんが、知り合いの魚屋に頼んで、急遽フグを取り寄せ、さばいてもらったのだった。
 しかし、届いたら直ちに食べるのではなく、フグの刺身が乗ったお皿を食卓の上に置いて、トメばあさんは初美を目の前に正座させ、お説教を始めた。もうすでに八十近い年齢であるにも関わらず、一人暮らしの東京からわざわざ長野まで来て、落ち着いたと思ったら初美の騒ぎとなったのだけれど、さすがにこれは言っておかなくてはいけないと思ったのか、年齢のせいで声は随所で震えがちではあったが、毅然とした調子で初美に話を始めた。
「初美ちゃん、このお皿というのはですね、普通に肉じゃがなどを乗せて頂くお皿ではないのでございますよ。ごらんなさい、これはフグというお魚のお刺身でね、なかなか普通には売っていないの。長野のこんな山ん中じゃね、それは届けていただくのに大変なことでしたよ。だけどね、初美ちゃん、いくら泣いても、この古伊万里さんに肉じゃがや切り干し大根の煮物なんかを乗せちゃいけないんですよ。よく見てごらん、この柄を。これは刺青じゃございませんよ。何年もお皿の絵付けの修行をした職人さんが、一生懸命に描いた芸術ですよ。こうしてフグのお刺身を乗せてごらんなさいよお、きれいに透けて、却ってお皿が素敵にみえるじゃありませんか。こういうものを乗せるためのお皿なのですよ。ね、初美ちゃん、お皿は上にお料理を乗せて食べるものだと言ってもですよ、こうして、ふさわしいものを乗せなければいけないんです。そうでないなら、つんと皿立ての上に乗っかって、あたしの御用はまだまだ始まりませんよってねえ、働かなければいいんですよ。あなたもね、これから大きくなってお嫁に行くこともあるだろうけれど、女だからこうしろああしろって、下働きするばかりが能じゃなく、お皿立てにね、チンと座って綺麗でいることもそれはそれで別にいいんですよ。文句あるなら、お前さん、フグの刺身でも、もってきてちょうだあいってねえ」
 おっほほほほほと震えるような声でトメばあさんは笑い、正座している初美も肩を揺らしてくくくくと笑った。「まあ、でも、あんたが大泣きしたおかげで、こんなフグを食べられることができるのですから、お父さんもお母さんも、みんな得をしてしまったということですよねえ。特にあの、あなたの弟さんがねえ」
 確かに誰よりも雪太郎がフグの乗った古伊万里を見てはしゃいでいる。
「かあちゃん、あのおさしみ、きれいねえ、かあちゃん、ゆきたべたいよお、ゆきたべたいよお」
 実際、古伊万里の細やかな色合いが半透明の身から浮き上がって見えてきれいだった。しかし雪太郎のはしゃぎぶりに対して、初美の古伊万里とフグに対する反応はそれほどでもなかった。はしゃいでいる雪太郎を見て、くくくくと笑っているだけなのだった。
「このフグは家宝に乗ってるんだからね。心して食べなさい」
 母が何度も言って、誰かが箸を向けようにも「傷をつけちゃいけないから、そっと掬うようにとりなさいよ」といちいち窘めたので、親戚中、やはり古伊万里は飾っておくためのものなのじゃないかと感じたに違いない。
 他にも初美は、春休みで集まったときに、チューリップのことを「あれは果物だから食べられる」と言って、今すぐに食べたいとねだったり、冬休みには「今年のクリスマスのサンタさんは青色の洋服で登場しなければいけない」と言って、みんなで作ろうとしているクリスマスカードのサンタの色を青で塗りつぶしたりして困らせた。考えてみれば、どれもこれもあまりに突拍子のないものではあるが、実害のないわがままなので、みんなで「初美ちゃんが困ったことを言い始めた」と騒ぐことで、退屈な時間がそれなりに刺激的に過ぎ、幼い子どもたちも却っておとなしく過ごしたともいえる。毎年なにか印象的な出来事が起きるので、普通ならそっけなく終わりがちな親戚の集まりという時間が、みんなにとってそこそこ楽しいものとして記憶されているのも、初美のおかげだったといえるかもしれない。いずれにしても、そんな風に、言い出したら聞かないからとの諦めに乗っかって、いつの間にか親戚中の子どもたちを仕切るのが初美の常だった。
 その後、五年ほどしてトメばあさんが、東京の家の玄関先で転んで寝たきりになってしまった時に、その世話をたった一人ですると言って聞かなかったのも、お決まりの強情の一つだろう。年寄りがこういうことになってしまっては、年齢も年齢だしどうにもならないから、知り合いの養老院に預けようとした親戚中の反対を押し切って、東京にあるトメばあさんの家にいきなり住み込んでしまった。その時は初美もまだ二十歳そこそこで、当時通っていた大学も辞めてしまった。もったいないことをして、それにあんなことしていたら婚期を逃すとみんなに言われながらも、本人は気にする様子もなく平然としている。そうは言っても、すぐに困ったと泣きついてくるだろうとみんなは予測していたが、いつの間にかオムツを変えたり寝返りさせたりすることも覚え、何事もなく淡々と世話をしてしまった。
 それからもう七年も経つがトメばあさんは未だに生き続けて、さすがに初美の行く末を心配した母が、「卓也、この夏休みにちょっと行ってみてきなさい」と言ったのだった。恐らく、母自身が上京して様子を見たりしたら藪蛇で、母自身がその件に関わらなくてはいけなくなるのが怖いのだろう。まずは息子を調査員として送り出そうと思い付いたらしい。
「ただし、あなたは近くのホテルに泊まること」
 念を押されて、御徒町駅前にあるビジネスホテルに宿をとらされた。東京でしばらくホテル住まいといった状況に興味もあり、
「資金くれるなら」
 とふっかけ、
「あなたって子は、一人でトメばあさんの世話をしてくれてる初美ちゃんと正反対でちゃっかり利己的なのね」
 と嫌味を言われつつ、そこそこの軍資金を頂戴したのだった。
 当初の計画では、最初だけ初美を手伝い、後はそのお金で東京見物をしたり千葉の海まで足を運んだりして、この夏を思いっきり楽しんでもいいかなと考えていたのだが、罰でも当たったのか、ホテルに着いた早々、歯痛がやってきた。歯が痛くなることなどめったにない。それがこんな時にわざわざどうして。今朝、市販薬でも痛みがごまかしきれなくなって、初美に歯科医を紹介してくれと頼んだのだった。

 さて、目的地である名無しの歯医者など、怪しいと言えば怪しい。しかし七年もこの土地に住んでいる初美の言うことだ、間違いはないだろうと思い、「湯島歯科医院のずっと奥にある名無しの歯医者」に行くと決意したのだが、いざそれが、これからと目前に近づいてくると、やはり気が進まなくなった。
 湯島歯科医院のレンガ風の建物や、きちんとした「歯科診療項目」の看板を眺めていると、この病院で充分よいと思う。外から見る分には衛生的だし、駐車場には数台車があることを見ると患者も入っているのだろう。評判が悪いのではなさそうだ。
 もちろん、これが歯科医院じゃなく理容室というなら、名無しであろうがまだいい。髪の毛くらいどうなったところでまた伸びてくるだろう。しかし歯医者だ。ブラックジャックじゃあるまいし、看板もあげない歯医者で、もしも麻酔もしないでキリキリと工具のようなもので削られたりしたらどうするのだ。湯島歯科医院の常識的な建物の前にいると、なおさら「名無しの歯医者」が危なっかしいものに思えてきた。しかも、あの破天荒な初美の言うことだ。大丈夫なのか。ふと、古伊万里の前で駄々をこねて泣いた十四、五歳の初美の姿が思い出されて、あの初美の言うことを信じてよいのかと不安になる。
 とりあえず、湯島歯科医院前にある専用駐車場の敷地に入って、植木を囲っている煉瓦塀に腰かけた。ズボンのポケットから携帯を取り出し時刻を見た。もう午後三時になろうとしている。二時を過ぎれば少しは涼しくなるかと思ったが、一向に暑さが静まろうとはしない。痛む右下奥歯辺りの頬を手のひらで押さえた。首筋を汗が流れて背中までつぅと辿る。痛みも手伝って額からも汗が拭き出し、左腕でそれをぬぐった。背中からズボンの腰のあたりまで汗が垂れて濡れている。歯はハンマーで叩くように痛くなってきた。これはひどい。
 ――どっちにしても、この痛みにはもう耐えられない。
 肚をくくって立ち上がり携帯をしまうと、初美に言われたことを思い出しながら再び歩き始めた。初美は湯島歯科医院の建物のそばにある自動販売機の横から路地に入るのだと言った。確かに自動販売機がある。その横にタクシードライバーがこっそり用を足しそうな細い隠れ道が続いている。
 ――なるほど、この道だな。
 言われた通りに辿って行くと、その路地は幅が一メートル半ほどしかなく、おかげで建物の陰になった空気は少し涼しかった。
 ――どうせ初美には逆らえないし、てくてく行くか。
 暑さも手伝って勢いを増した血流のせいで、痛みが脈打つようになってきた。奥歯と歯茎辺りの頬を手のひらでかばいながら、路地をよろよろと歩き始めた。どうしようもない。もう指示通りに路地を行き、名もない歯医者にこれから行くのだ。気分としては負傷した兵士だ。いや、負傷した兵士なんて、もちろん大げさであることは承知の上だが、痛みに耐えつつ足を引きずる気力で行くのだ。似たようなものだ。すっかり何もかも諦めつつ、だらだらと足を動かして歩いた。
 道は確かにくねくねと曲がっている。初美は「いくら曲がったとしても、結局は一本道だから安心して行けばいい」と言った。そうだな、確かにくねくねはしているが、そこから横道に入れそうな場所はない。湯島歯科医院の高いビルの横を過ぎたら、一度垂直に左に折れる。すると目の前にブロック塀と、その塀からはみ出してくる庭木が現れた。庭木は枇杷の木らしくオレンジの小さな果実が濃い緑の間にちらほら見える。ブロック塀の横には薄く水の流れる細い溝があり、溝と路地の間からは一本の朝顔の芽が生えだしているのが見えた。十五センチほどの高さだろうか。植えたわけではないだろう。どこからか種が飛んできて根付いたのか、ここでは育つわけもないと知らず短い背丈を伸ばしている。
 ――なんだ、みじめっぽいじゃないか。
 頬に当てた手のひらを外すこともせず、ちらりと流し目でその朝顔の芽を見ただけで、すぐに忘れてまたよろよろと歩いた。もちろん、歯の痛みは最高潮となり、それどころではなかったのだ。
 ブロック塀が終わると、すぐにまた垂直に右に折れる。ブロック塀の続きに、今度はいわゆる大きな屋敷の木の塀が現れて長く続き、突き当りに子育て地蔵尊が現れると、また、かくっと左に折れて、そこからは急な下り坂になっていた。上を道路が走るので向こうまで無理矢理通した下り坂で、人が歩けるだけの狭いトンネルになっていた。
 つまり、初美の言うように単にくねくねと曲がっているだけではなく、カクカクと折れたり、突然暗い坂道に入り込んだりしている。いかにも一本道ではないように見えるが、他に横道へと曲がる選択肢がないため、結果的に一本の路地であるらしい。時々何かを煮炊きする匂いがするかと思えば、下水道が近いのかアンモニア臭がすることもある。どこかで車が走る音がしたり、遠くの学校でブラスバンド部が練習をしているらしい音も届いてくる。東京といえども、ひとつ路地を入れば田舎と同じように人が生活しているのだ。ジンジンする歯に顔をしかめながらも、むっとする暑さの中に様々な匂いや音を拾い歩いた。
 十五分ほど歩いただろうか。道幅がやや広がった道路の横切る場所に出た。小さな横断歩道と横断信号がある。
「信号が出たら渡ってね。そのまままっすぐ入った路地の右手にあるから」
 初美が電話を切る直前に言った言葉を思い出した。とにかく間違えることはなく、ここまで来たらしい。ほっとして、横断信号が緑に変わるのを待った。一台だけ白い軽自動車が通り、排気ガスの匂いを残し、しんと静まったところで信号の色が変わった。
 渡ると、その先の路地は少し右側に下っている。その少し下ったところに二階建ての建物があり、その前に小さな立て看板があった。「どうぞいらっしゃいませ」と書いてある。白いペンキを塗った薄いベニア板に、黒のマジックペンで書いた無造作な文字だ。よく見ると、その「どうぞいらっしゃいませ」の下に小さくカタカナで「ハイシャサン」と書いてある。
 ――なるほど。これがハイシャサンか。
 入り口は白い木枠の扉。普通の住宅みたいな建物で、表側の横幅は狭いが、奥には長くなっているようだ。湯島歯科医院で見た歯科診療項目などの表示はどこにもない。ただ、「ハイシャサン」と書いてある。
 少しいら立ちを覚えた。歯の痛みは最高に達している。これだけ暑い中を歩き、やっとたどり着いて、こんな簡易なベニアの看板に「ハイシャサン」と書いてあるだけだなんて、これほど腹立たしいことはない。
 ――歯医者に来る人間は誰だって歯が痛いのだ。こんなふざけたような、気持ちを逆撫でする書き方があるもんか。
 とはいえ、どんなに腹立たしく感じたとしても、引き返して湯島歯科医院に行くわけにはいかない。とにかく直ぐにでもこの痛みをどうにかしてもらわなければ、あのくねくねしてかくかくした一本道を一歩たりとも歩きたくはない。
 沸き起こる怒りに手伝われたこともあり、迷うことなく、白い木枠の扉の取っ手を勢いよく掴み、重みのある扉をぐっと手前に引くと、室内のエアコンの涼しい風がわっと漏れ出してきた。
「いらっしゃいませ」
 高く、きれいな声だ。
 見ると中には大きなテーブルがひとつあり、二十代くらいの女性が三人座ったまま一斉にこちらを見ている。
「どうぞお入りくださいませ」
 三人が声を揃えているらしい。
 ステレオからチェンバロの音がする。バロックだろう。起伏のない切り刻むような旋律が、室内を透き通ったものに構築し直している。町に天婦羅屋の出汁や揚げ油や排気ガスの匂いが存在していることなど、一瞬にして忘れさせる透明感だ。ここでは空気の重さすら軽いのだろうかとさえ思わせる。よく効いたエアコンの涼しい風が滔々と押し寄せて、首筋や額の汗をあっという間にひかせた。もう中に入りたくてたまらない。
「あの、ここ、歯医者さんですよね」
「はい。そうでございます」
 やはり座ったまま、三人とも顔だけをこちらに向けて高い声を揃えて言う。
 よく見ると三人とも髪を顎のラインで切りそろえたボブスタイルで、髪の色はそれぞれ、赤茶色、黄茶色、黒であった。どの人も色が白く口紅の色が淡いピンクで、マネキン人形を思わせるほど肌がきれい。
 立ち尽くしていると、三人がさっと椅子を後ろに引いて、テーブルの脇にきれいな姿勢で揃って立った。服装は看護婦のようでもある。アイロンの効いた白いコットンワンピースに水色の細いベルトをして、その上から黒いカーデガンを羽織っている。身長は百六十センチメートル程度で細身。三人とも同じような背丈であり、顔もそっくりなので、ひょっとすると三つ子かもしれない。どの女性も目が涼しげに細く、それに不釣り合いなほどに睫が長かった。鼻は高すぎもせず品のよい形であり、端的に言うと、「もしも三人揃っていなければ、まるで印象に残らないほど整った顔立ち」だ。その三人に見つめられて、少々うろたえた。まだ扉の近くに立ったままだった。
「歯医者というか、歯科医、ですよね」
 ハイシャから、シカイと言い方を変えてみた。
「もちろんでございます」
 三人は声を揃えて言う。テーブルの上には大きな芥子色の花瓶があり、百日紅とハイビスカスが活けられている。その鮮やかすぎる赤とピンクの花にくらくらしながらも、やっともう一歩部屋の中に進み、
「では、治療してもらえるんですよね」
 花の色による眩暈で痛みすら忘れそうだった。
「はい。お望みであれば」
 ――お望みであれば? 一体どういう意味なんだろう。歯医者に来て治療を望まない人間がいるとでも言うのか。
「もちろん、望んでいますよ」
 さらにもう一歩進んでテーブルの前に立ち、頬に当てた手を外して、その指で後頭部を思いっきり掻き毟った。意思は正当に通じているのだろうかと困惑する。
「では、ここにおかけになってお待ちください」
 赤茶色のボブスタイルの女性が言い、テーブルの一番奥の方に行って、背もたれのある椅子を少し引き出した。オールドアメリカンを思わせる木製の椅子であり、他の二人も、こちらがどうするのかをじっと見つめている。このように見つめられたらもちろん座らないわけにはいかないだろう。たとえその椅子が歯医者らしくないとしても、あの強情な初美がきっぱりと勧め、表の看板に「ハイシャサン」と書いてある歯医者なのだから、座らないわけにはいかない。
 そうしてオールドアメリカンの椅子に座ると、入ってきた玄関扉を正面に見て、左側は一面ガラス張りになっていることが分かった。ここに座るまではゴムの木や幸福の木といった観葉植物やチェストに遮られて見えなかったのだが、ガラス張りの壁の向こうには中庭があるのが見える。ガラスの壁半分は水色の朝顔が咲く蔓が覆い、残りの半分は薄い貝殻をつないだ暖簾らしきものが、まるで突然降り出した雨のように何本もぶら下がっていた。その朝顔の蔦と貝殻の暖簾の間から中庭を見ると、ど真ん中に大きな白いリクライニングチェアが一つあった。まるでバリかどこかのリゾートホテルにあるカウチであり、しかも白いリクライニングチェアの上には柔らかそうなクッションが置いてある。後ろにはグリーンのパラソルがひとつ置いてあり、日よけの役割を果たしているようだった。
 ――まさか、あそこが治療室?
 痛む頬を抑えながら考えた。ここまでの成り行きであれば、それもありえなくはない。なんといっても「ハイシャサン」と看板に書いてしまうセンスなのだから。だけど、あんなリゾート風の空間でまともな治療ができるというのか。いや、つまり、あれが治療室であるはずはない。でも。だが。しかし。ここまできたらもうどうにでもなれとの気持ちで、オールドアメリカンの固い椅子の背にどっかりともたれかかり、足をずるずると引き出してだらしなく、浅く座った。どちらかと言えば大柄な方なので、足が大きく座面からはみ出して投げ出された。黒いデニム。履き古したスニーカー。考えてみればこのファッションからして、すでに横柄になり得ることを前提にしてはいないか。ゆえに節度のない座り方が似合っている。言い訳、か。
 こちらがどっかりと座ったのを見届けると、赤茶色のボブスタイルの女性は、黒のボブスタイルの女性に目で何やら合図をした。黒のボブスタイルはそれを受けて大きくうなずき、ガラス向こうの中庭に続く扉の横をすっと抜けて、さらに奥にある廊下へと消えていった。その動きはあまりに滑らかであり、歩くというよりは、すっと抜けてすっと消えたかに見えた。それから、ずっと奥の方でぎぃと扉を開ける音がして、
「お客様がいらっしゃいました」
 と高い声が聞こえ、
「はい、かしこまりました」
 と、それに応える女性の高い声が聞こえた。
 ここでも小さな違和感を覚えた。
 ――医者が、はい、かしこまりましたと言うか?
 目を閉じ、手のひらを頬に当てたまま首を傾げた。どうも合わない。何もかもが合わない。想像しているものとは合わない。インテリアも歯医者からはかけ離れているが、声しか聞いてはいないが、医者のイメージも、どうも合わない。
 つまるところ、イメージする医者というのはこうである。
 診察室か研究室のデスクの横に、くるくると回りながら動く肘掛け椅子に座っている。患者の方には肘掛けがなくても気にしない。患者が不用意にくるくると回る椅子に、なんだか尋問でも受けるかのように、申し訳なさそうに座らされ、医者の方では自分だけが肘掛け椅子に座っていることに気づきもしない。そして看護師や助手に話しかけられても、平気で返事もしないままのこともあり、不機嫌に眉間をひそめ、カルテにインクでクランケなどと書いているのだ。だから、あの、たった今聞こえてきた「はい、かしこまりました」の返答は、どうも医者らしくない!
 ――しかし、そもそも患者のことを堂々と、お客様と言うなんておかしいじゃないか。まあ正直言うとそういうことなんだろうけど。
 それでもひとまず、名無しの病院に対する感想が、たったひとつでも浮かんだことに安堵を覚えた。たとえ、どのような感想であったにせよ、白紙でなにもないよりは安心するものだ。それが「全くもって違和感」という、どうしようもない感想であったとしても。小さく自己満足して、よしよしとうなずきながら目を開けると、テーブルにルビー色の飲み物が置いてあった。
「クランベリージュースでございます。よろしければお飲みください」
 赤茶色のボブスタイルが銀色の丸い盆を抱えて立っている。目を閉じている間に彼女が用意してくれたようだ。クランベリージュースは円筒形のグラスに八分目ほどの高さまで入っていて、氷で冷やされているために液体の入っている部分はグラスの表面が細かい水分で覆われている。いかにも冷たくておいしそうだ。でもクランベリージュースってどういうものだっけ? 飲んだことがなかった。一度も飲んだことのないものを飲むのは躊躇するものだが、グラスがうっすらと曇るほどに冷えた飲み物は真夏において最大に誘惑を発しているし、赤紫色の液体はブドウジュースを連想させて実においしそうに見えた。
「どうもありがとう」
 だらしない姿勢を改めて、背筋を伸ばして座り直し、水分で覆われたグラスを持って一口飲んだ。甘酸っぱい。「あーおいしい」歯の痛いことも忘れてひと息に飲み干した。
 赤茶色のボブスタイルは、おいしそうに飲むのをいかにも満足そうに見て微笑み、グラスをミンサー織のコースターに戻すのを確認すると、銀色の盆にグラスとコースターを乗せ、中庭とは反対側にある部屋へと入っていった。ということは、そちら側にはどうやらキッチンらしきものがあるのか。
 ――まるでカフェだな。
 また腰をずらして両脚を投げ出し、背もたれにどっかりと座るスタイルをとった。
 ――こんな横柄な態度でいられる歯科医院もそうはないね。
 やがて、医者らしきものに連絡を終えた黒のボブスタイルが奥の部屋から戻り、再びテーブルの前に現れた。と、今度は黄茶色のボブスタイルの横に行きひそひそと何かを耳打ちをする。黄茶色は大きくうなずき、
「では、向かいます」
 と、有無を言わさぬ調子で中庭に続く扉の前に向かって歩き始めた。
 黄茶色のボブスタイルは中庭に続く扉の前に立つと、こちらの目をまっすぐに見て何を躊躇することがあろうかと言うように、どこか慈悲深い光を放って微笑んだ。中庭にある夏の光がガラス張りの壁を通してこちら側まで届き、黄茶色の髪の輪郭を金色に光らせていた。光を背にして立つ微笑みを見ていると、全身が柔らかく痺れたように感じ、オールドアメリカン風の固い木製の椅子に寄りかかりながら、ぼぉっとして気が遠くなり、慌てて助けを求める気持ちで残りのボブスタイル女性の目を一人ずつ見た。どちらも「どうして向こうに行かないの?」と言いたげな目で見返す。初めから二人ともがこちらを見つめていたのだ。一心に見つめられると、体中を細かく痺れさせる感覚の上に、さらに細かな粉が流れていく感じが加わり、体中の血管がさらさらと流れ、皮膚表面の産毛が一斉に立ち上がった。
 ――なんだこの歯医者は。この人たちは誰なんだ。
 その粉が光りながら流れる眩しい感覚に飲み込まれそうになりながら、それでも二人の方を見続けると、赤茶色のボブスタイルが首を右に傾げて不思議そうに唇を軽くつき出し、「どうして?」との表情をさらに強めた。慌てて目をそらし、黒のボブスタイルを見るとやはり同じように三十度ほど首を傾げている。もう、どこにも答を教えてくれそうな人間はいない。他に患者らしい人も見当たらない。苦し紛れに両方から目をそらし、テーブルの真ん中にある百日紅とハイビスカスの花に最後の救いを求めて見つめた。音楽はチェンバロ。バッハ。バロックである。ガラス張りの中庭から部屋に光が漏れこんでいる。蔓に咲いた朝顔の影と暖簾につながれた薄い貝柄の影が、部屋の床に漏れこんだ光の上に切り絵のように落ちている。
「どうして向こうに行かないの?」
 芥子色の花瓶の中で、花ですら首を傾げて見えた。頬から手を離し、一度姿勢を正してからぼんやりと立ち上がった。
「そうだな。どうしてだろう」
 扉の前に立つ黄茶色のボブスタイルの女性を見ると、さあどうぞと言わんばかりに微笑んでから、中庭へと続くガラスの扉を力強く開けた。
 この時にはもうすっかりこの状況に対して肯定的な気分になり、何かを疑う気持ちも失せて、意志のない人間の如く扉まで歩いた。さらに扉から中庭に出ると、少し陽が傾いてきたせいか猛暑といった風情ではなく、そのぬるい空気がエアコンで冷え過ぎた身体にはむしろ心地よい気もしながら、足が勝手に動いてリクライニングチェアに向かって歩き、黄茶色のボブスタイルに促されるままにそれに乗り、身体を委ねた。夏の太陽は真上にいるのだろうか。しかしそれも、パラソルが遮るので眩しくはない。
「それでは目をタオルで覆います」
 黄茶色は言って、白く柔らかいタオルが目の上に置かれた。ラベンダーの香りがふんわりとして、この時すでに歯の痛みを忘れそうなほどの眠気に襲われた。目で覆うタオルだけではなく首に巻くタオル、足元にかけたらしいタオルなど、その全てから優しい香りがして、歯の痛みごと柔らかいものに包まれていく気がした。そうだ、こうなってしまうと歯の奥のキンとした痛みすら、どこか甘美なものに思えてくる。すると遠くからワゴンのようなものがゴロゴロと引かれてくる音がして、どうやら横に止まり、
「まずはお掃除させていただきます」
 と言う声がしたかと思うと、夏だというのにひんやりとした細い指が顎に触れて、唇から下をすっと首に向けて引くようなしぐさをした。見えないがやはり黄茶色のボブスタイルの女性だろう。こうしてタオルで目を覆ってしまうと、三人とも声すらすっかり同じだったことに気付かされる。
「お口を大きく開けてくださいませ」
 再び声がして、言われた通りに口を開けると、ステンレスの棒のようなものが口の中に差し込まれ、そこから小さなシャワー水のようなものから流れ出し、その液体が、歯や舌をシュワシュワと回旋しながら洗浄し始めた。いつも行く歯医者のように強い洗浄力ではない。液体がとても柔らかく流れ出してくる。そして、洗浄しつつ、もうひとつの細いホースで水分を吸い取り、吸い取ってはまた、シャワーでシュワシュワと洗浄している。そしてそれを繰り返しては、小さな鏡のついた棒を差し込んで汚れや傷のある場所を点検し、点検し終わるとまたシュワシュワと液体を口の中に流し込んできた。時々口から液体がつうと溢れだすと、機械的な言い方で
「もうしわけございません」
 と言い、シャワーなどのスイッチを止め、首もとに掛けられた柔らかいタオルの端で流れ落ちる液体をやさしく拭った。
 どれほど時間が経ったか。ひんやりとしたシャワーの水で口の中を洗われたせいか、驚いたことに歯痛はほとんんど収まりかけていた。
「お待ちください」
 黄茶色のボブスタイルが言うと、機械を止めて片づけるような音の後、ゴロゴロとワゴンを引く音がして、別の部屋に入ってしまった。
 目を覆われたままで不安でもある。あのシャワーや吸い取るためのホースが、この中庭にどのように現れて口の中を掃除したのかを確認したいと思う。だから、このタオルを取って見てみようとも思うが、見ることが怖い気がした。悪いものではないはずなのに、見てはいけない気がする。何も見ないでこのまま、ラベンダーの香りに包まれ、ぼんやりとリクライニングチェアの上に横たわっていたいと思った。
 しかし、今、何時頃だろう。湯島歯科医院の前では午後三時だったのだから、歩いてくるのに十五分。クランベリージュースを飲んだりして、さらに十五分。中庭でいろいろと洗浄をしたから、もう四時は過ぎているだろうか。
 そこでほんのすこしタオルをずらしてガラスの壁の方を見た。ガラスに立てた棒を頼って絡まる蔦に朝顔が咲いている。青い花びらが満開だ。
 ――妙だな。もう夕方だというのに、朝顔が満開だなんて。あれは夕顔? それとも琉球朝顔?
 不思議に思いながらタオルの隙間から花びらを盗み見ていると、夕方になりかけた風が、建物の屋根を経由したらしく、微かに日向の匂いを予感させながらすいと顔の上を撫でた。奇妙な風だ。海風みたいな潮の香もするが、ところどころで地下鉄の階段から立ち上がってくる煤けた匂いも混じる。それに吹かれてしまうと、ぬるく汚されていくような風だ。風は頭の先から足先まで舐めるように吹くと、その後、ガラス張りの壁の半分に掛けてある薄い貝の暖簾に届き、雨粒みたいに見える貝殻がいっせいにしゃらりらしゃらりらと鳴った。貝殻もハラハラと蝶の羽根のようにはためく。中庭の土に落ちているパラソルの影も風に吹かれて揺れている。しゃらりらしゃらりら。時間をふるいにかけるように貝殻は鳴って、もうすぐ屋根の向こうい隠れてしまう太陽が最後にキーンと四方八方に光ってこちらを照らした。
 そのとき遠くで電車が行く音が聞こえた。このぬるい風が遠くの音をここまで届けたのだろう。街の人が乗り、どこかへと連れて行く電車の音。
 その電車の音を聞いて、はっと我に返った。街は近くにあるのだ。しかし、いったいここはどこだ。幻なのか。目の上のタオルを剥ぎ取り、がっと上半身だけ起こして見渡すと誰もいない。三色のボブスタイル女性も見当たらず、ガラス張りの中庭にあるリクライニングチェアの上に寝転んでいたのだ。見ると先ほどまで満開に咲いていたはずの朝顔はしぼみ、すでにこれから訪れる夜露に濡れまいとしてらせん状に口をつぐんている。
 ――いったい今何時なんだ!
 心が叫ぶと同時に、また風が吹いた。今度は時の流れをかき混ぜてしまうような風だ。朝顔は口をつぐんだが暖簾の貝殻はあった。やはり、しゃらりらしゃらりらと鳴って、貝殻は生きているかのようにハラハラと震えて揺れ、揺れながらガラスの壁も打つのを見ていると、ガラスの壁の向こうに何人かの人がうろうろとしているのが見えた。どうやら、診察を待つ患者数人であるらしい。急にほっとして立ち上がり、ひざにかけたタオル類が全て庭の土に落ちるのも気にせず歩き出し、正しい状態を確認しようとして、貝殻の暖簾をかき分けガラス壁に近づきそれにへばりついて向こうを見た。やはりテーブルはあった。花瓶もあり、花もある。
 ――なんだ、幻ではなかったのだ。
 あまりの歯痛で気分が変になって、むしろ異様に高揚してしまったのだろうかと思い、気を取り直して待合室に戻ることにした。入ると、待っている患者が数人いる。
 ――よかった。
 ステレオから流れてくる音楽はオルゴール。どうやら、チェンバロの奏でるバロックは終わり、流行の歌をオルゴールにしたものに変わっていたようだ。あの曲はなんだ? オルゴールになってしまえば曲名が思い出せない。いや、あれは、スピッツのチェリーだ。
「お待たせしました」
 オルゴールの音楽から切り離された声がした。先ほどの黒のボブスタイルの女性だ。こちらの当惑など無関係に消えたり現れたりする。
「これから診察室にご案内します」
 作り笑いをした。作り笑いほど、この世的なものはない。なんて自然な笑顔なのだ。
 ――ああ、よかった。作り笑いだ。
 安心を深め、おとなしくベンチチェアに座っている他の患者たちを見た。七十近い女性が分厚い女性雑誌を見ている。その横に座って自動車の絵本を見る五歳くらいの男の子が足をぶらぶらさせている。四十代のぽっちゃりとした女性は手作りらしきストールを足元にかけてエアコンの冷気を遮りながら、熱心に携帯電話でメールを打っていた。誰もこちらを見ることはない。それぞれがそれぞれに夢中だ。
 ――つまり。ごく普通の歯科医院だ。
 安心したところで、
「あの、ところで赤茶色や、黄茶色のボブスタイル方は?」
 聞くと、
「さあ、どなたのことでしょう」
 黒のボブスタイルの女性は首を傾けた。
「いや、どなたって、さっき――」
「さっき、なんですか」
 女性は黒い瞳でしっかりと見返した。目がはっきりと丸くなり、その黒目がこちらの言うことや、言おうとしている時間をがっしりと掴み取ろうとするように、徐々に真剣さを増していく。
「いや、だって、さっき、僕はあの中庭の椅子に座って、黄茶色の髪の女性が――」
 ガラス壁の方を振り返ってリクライニングチェアの方を指さそうとすると、そこには椅子はなく、草むらのようにも見える花壇があった。「あ、いや、どうなってるんだ、片付けたのですか」
「椅子などございません。あれはハーブ園です」
「ハーブ園?」
「ええ、先生が育てていらっしゃるんです」
 黒のボブスタイルの女性は真実を掴み取ろうとする黒目を緩めて力なく微笑み、先ほどとは逆側に首を傾けて、視線を一度足元の方にすっと落とした。斜め下を柔らかく見ている。それから、再びこちらを上目使いに見た。口紅の色が赤に変わっている。さきほどは三人ともピンクだったはずなのに。頬もほんのりとオレンジに染まっている。「先日も、先生は新しい苗をイギリスから取り寄せて植えられたのです」
 黒のボブスタイルは、そう言った後、満足気に深く息を吸い込んみ、目だけで天井を見上げ微笑んだ。「先生」がイギリスから新しいハーブの苗を取り寄せられたことが、彼女にとってとても特別な出来事であるかのようだった。
「先生は歯科医であるだけではなく、ハーブの研究もされています。ハーブというと、何か雑貨や嗜好品のように思われていますが、実は痛みや炎症を和らげる効果があるものなのです」
 そう言うと、黒のボブスタイルはテーブルの花瓶の中から一本の草を引き抜いた。気づいていなかったのだが、花瓶には一本だけ、緑色のなんということもない草が入れ込んであったらしい。
「ほら、これです。新しいミントなのです」
 黒のボブスタイルは茎から水が滴り落ちるのも気にせず、目の高さまで持ち上げしみじみとそれを眺めた。「ご覧になって。下から根が出ている」
 確かに、茎の下からか細い根が出ていた。新しく取り寄せたミントを挿し木で増やそうとしているのだろうか。
「気付かなかったでしょ」
 彼女は急に馴れ馴れしい言い方をした。「この花瓶に、このミントがこっそり入っていたってこと」
「ああ、そうだね。たった一本じゃ香がするほどでもないし、ハイビスカスや百日紅が狂ったように赤いから――」
 言いかけると、
「そう。そうよ。狂ったように赤い」
 黒のボブスタイルはハーブを持っていない方の手の人差し指を立てて、とてもよい発見をしたと言わんばかりに言葉をなぞった。それから、静かに声のトーンを落とした。「だから気付かなかったの?」
 確かにそうだ。ハイビスカスや百日紅が狂ったように赤いから、ミントに気付かなかったのだろうか。もしも、ミントが正々堂々と、ガラスの花瓶に活けられていたら、それをそうと気付いたのか。
「いや、僕は、ハーブというものを知らないから」
 オルゴールのチェリーはスカーレットに変わっていた。黒のボブスタイルは額の辺りをぼんやりと眺め、無表情なままつぅと涙を流した。
「そうではないの」
 流れる涙を拭きもせず、しかしきっぱりとした声で言った。「気付かれないようにしてるのよ。そもそもミントは」
「そうなんだ」
 流れる涙を見て、浮かない返事をした。無表情なまま流れる涙というものを、映画の中ではなく初めて見て、その行く末を見届けることの方がミントの話よりもずっと興味をそそられたからだ。この涙はどこまで流れ落ち、そして、いつまで流れるのか。
「ええ、そうよ。そうでなければ――」
「そうでなければ?」
 涙は雨樋を流れ落ちる雫のように感情を含まず継続された。
「そうでなければ、ひとつには、効果がなくなる」
「そうでなければ、効果がなくなるんだね」
「ええ、そう。そして、もうひとつには――」
「もうひとつには?」
 点滴のように落ちる涙を見ながら、すでにその答に対する興味をすっかりなくしていることに気付いた。ハーブのことなんかより、涙の意味の方が知りたい。そしてどこか、この涙が終わることを恐れて、答えを引き延ばしたかった。
「何だと思われますか」
 答えずにいると、黒のボブスタイルは手に持っていた新種のミントを見せてくれた。「よく見て、そして考えてみて」
 緑の茎があり、ありきたりの葉っぱが付いている。葉っぱは茎よりも少し淡い緑で、見るからに柔らかそうに開いている。歯には葉脈があり、茎の下から生えだした根っこは、半透明の白。力ない髭のように見えるが、これを土に差すとどんどんと枝分かれして大地をつかむのだろう。よく見て、考える。
 考えても答えを見つけられないでいると、黒のボブスタイルは手のひらの甲で涙をきれいに拭い取って、
「ごめんなさい。大げさに考えることはないのです。ただ、よく見て、考えればいいと、何か困ったことがあった時には、先生はそうおっしゃるのです。この、ハーブのミントをたくさん生けたところで誰も気付きもしないだろう事実に関して、私たちは心を痛めるでしょうか。しかし、このミントが自らそうしていると知ったら驚くでしょうか。先生は私に教えて下さったのです。このミントは自らそうしていると」
「なんのために?」
「なんのためかしら。先生は教えてくださいました」
「なんのためだったのですか」
「いいえ、よく見て考えてください。自分で考えるのです」
「どうして、教えてくれないのです? あなたには先生が教えてくれたんでしょ」
 そう畳み掛けると、彼女は軽く前歯で下唇を噛み、目を細めながら見返して、鼻にしわを寄せながらあまりにも意図的すぎる満面の笑みを浮かべた。それは哀しくも満面に、すべてを拒絶して、先生と彼女の領域を固く守りこむように。そして、やはり答は言わなかった。
「あの、その、先生というのは、女性ですか? それとも男性ですか?」
 あれは、ここの医者の言葉なのかと不思議に感じた。女性の声だった。女性の声で「かしこまりました」と言った言葉を思い出して、あの声の主が「先生」だと言うなら、それは女性だ。しかし、それが女性なのか、男性なのかをなぜだか知りたいと思って、切実にそう聞いた。
「それは――。どうして? 気になりますか」
「いや、その、どうしてだろう。そうですね、気になった」
「どちらかである場合は治療を受けたくないのですか」
「いや、そうではなくて――」
 自分の興味の中に、いかがわしく、歪み、間違ったものを感じた。性別のことではなく、今ここで性別を気にした自分自身について。「まあ、いいです。もう、とにかく、診察室に案内してください。治療してくれるのでしょう?」
 明るく言葉を切り替えると、黒のボブスタイルも思い出したかのようにうなずいた。
「もちろんです。さあ、こちらへ」
 中庭横の廊下をコツコツと歩き――いつの間にかハイヒールを履いている――、たどり着いて診察室の扉を開け、「どうぞ」と言う。中に入ると、そこにはまた、あのリクライニングチェアがあった。間違いなくそれは中庭にあったリクライニングチェアであり、黒のボブスタイルが「そんなものはない。ハーブ園があるだけだ」と言って否定した白いリクライニングチェアだ。いったいどういうことなんだ。夢でも見ているのだろうか。この時を夢で見たのか。いわゆるデジャブというものなのか。
 リクライニングチェアの横には衝立てがあって、衝立の向こうには歯医者がいるらしく、影が動いていた。
「どうぞ、おかけになってください」
 黒のボブスタイルは言った。もう限りなく無表情だ。さっきとめどなく涙が流れたことをすっかり記憶から消去してしまったかのようだ。当然座るでしょうと言わんばかりの事務的な表情でこちらを見ている。しかしすでに、それには座る気がしなかった。リクライニングチェアの横にはワゴンがあり、その下には白いタオルがたくさん積み重ねてある。ワゴンの足の周りにはラベンダーの花がたくさん括りつけてあり、見ると上には洗浄用らしき銀色の機械が置いてあった。
 ――これは、ひょっとして、中庭で僕の歯を洗浄した機械じゃないか。
 エアコンで涼しいのに背中にすっと汗が流れる。掌もじっとりと汗ばんできた。
「どうぞ、早くおかけになってください」
 黒のボブスタイルがもう一度言ったが、どういうわけか、この椅子に座ってはいけない気がした。ここに座って、また白く柔らかいタオルを目に置かれてしまうと、今度は本当にとんでもないことが起きてしまう気がした。それが何かは分からない。でもとにかく何か、とんでもないことだ。逃げよう。初美が何と言おうと、このハイシャサンから逃げよう。
「あの、その前に、お手洗いに行ってもいいですか」
 おどおどしながらどうにか考え出した嘘を言うと、黒のボブスタイルの女性は首を傾けて眉間に小さくしわを寄せ、困惑した表情を見せながらも微笑んだ。
「構いませんが、ひとつお伺いしてもよろしいですか」
「なんでしょう?」
 まだ何かわけのわからないことが起きるのか。
「あの、歯は痛むのでしょうか」
「えっ? 歯ですか」
「ええ、治療に来られたのでしょう」
「そうでした。右の奥歯の――。あっ、痛くない。そういえば痛くない」
 大声を出してしまった。「すみません、声を大きくしすぎました」
 黒のボブスタイルの女性は手のひらを口に当ててふぅっと息だけで笑い、
「いいんですよ。時々そういう方がいらっしゃいますの」
「そうですか」
「ええ、必ず、赤茶色だの黄茶色だの言って、そして、診察室に入ると、お手洗いに行ってもいいですか、と言われるのです」
「いや、その――」
「そして、そのまま、ここに戻ってはこられずに、こっそりとおうちに帰って行かれるのです」
 そう言って彼女は診察室の扉を開け、これまでとは違った、少し低く強い語調で「さあ、お帰りなさい」と言うと、また首を少し右に傾けてこちらを見た。あの真実を掴み取るような目だ。黒目の縁がかっと開き、でも、今度は微笑まなかった。その語調に驚きながら、リクライニングチェアの横にある衝立てをちらりと見た。カーテンとしてかけられている白い布に、人の影が映っているのが見える。
 ――あ、ボブスタイルじゃないか。
 映っている影は、きっちりとしたボブスタイルで、影だからそれが、赤茶色なのか黄茶色なのかは分からない。でもやはりいたのだ。あのボブスタイルの女性が。衝立の向こうで治療の準備をしているのか、金属が重なる音がチンチンとするのを聞くと、少し寒気がして、
「そ、そうですね。もう帰ります」
 慌てて扉を出た。廊下を小走りに抜け、表の部屋にたどり着くとやはりそこにはテーブルがあって、芥子色の花瓶の中には百日紅とハイビスカスの花が活けてあった。
 ――夢ではないようだ。
 さらに汗がじわっと出て、テーブルの横にあるベンチに座っている待合人を見た。確かに待っている患者もいる。先ほどと同じように七十代の女性と、五歳くらいの男の子と、四十代の女性だ。手編みのひざ掛けも掛けている。本を読み、携帯でメールを打っている。先ほどと何も変わらない。相変わらずこちらには全く興味を示さない。みんな自分のことに夢中なのだ。それから、ガラスの壁の向こうにある中庭の方に目をやると、どうしたことか、そこにはあのパラソルとリクライニングチェアがあり、一人の男がまさに案内されようとしていた。Tシャツを着て、黒いデニムを履き、足にはスニーカー。そして右頬に手を当て――。
 ――あれは一体。
 案内をしている女性の髪の色は――。
 もう髪の色を確認する前に、転がるようにして外に出た。出なければいけない。この空間を出なければ。
「ありがとうございました。またお越しください」
 三人の女性の揃った声が聞こえて、白い木枠の扉はパタンと閉じた。するともう、むっとした夏の町角だ。心臓はまだ高鳴っている。頬に冷たい汗が流れた。拭おうとして気づいた。これは汗ではない。涙だ。無表情のままで、あの黒のボブスタイルの女性のようにつぅと涙を流していたのだ。
 立ち尽くしていると、自動車が一台行き過ぎて、その後、スクーターと自転車が通り過ぎた。
 閉じたままの白い木枠の扉を茫然と見た。扉の斜め横にベニア板の看板がある。白いペンキで塗られ、マジックで「どうぞいらっしゃいませ」と書いてあり、下に小さく「ハイシャサン」とある。
 ――到着した時にみたものと同じじゃないか。
 右頬に手を当てた。歯痛はもうなかった。
 ――いったい、なにが起こったんだ。
 ズボンのポケットから携帯電話を取り出し時刻を見た。午後三時十五分。湯島歯科医院で見たのがちょうど午後三時。それから、くねくねかくかくと歩いて、たぶん十五分程度。で、どうして、今、午後三時十五分なのだ? 今、到着したばかりと言うのか。いや、この中でいろいろなことがあった。ボブスタイルが三人いて、ジュースを飲んで、椅子に座り。
 しかし、もう一度扉を開いて確認する勇気はなかった。何はともあれ、歯痛はない。かちかちと上下の歯を噛み合わせてもみたが、微かにでも響きそうな痛みもない。あれほどハンマーで殴られるような痛みがあったが、すでに感じない。ということは、やはり何かが起きて、何かが変化した。ただし時間だけはそのままだ。
 ――とにかく帰ろう。
 そうだ、とにかく、今、歯医者はいらないのだ。謎はそのままだったが、歯医者に行く必要がないことは事実だ。携帯電話をポケットにしまい、横断信号が緑に変わったのを見て、短い横断歩道を渡り、またあのくねくねかくかくの細い路地に入った。
 来る時には下りてきた細いトンネルを、今度は上り、子育て地蔵を見てお屋敷の塀を見る。しばらく行くと、ブロック塀が現れて、細い溝と路地のアスファルトの間から先ほど見た朝顔の蔓が伸びていることに気づいた。一本だけの朝顔がブロック塀の横に沿えてある細い緑の棒を頼りにくるくると巻きついて、ずっと上まで伸びている。誰かが棒を添えたのだろうか。棒の丈が終わると、塀の上にある枇杷の木の枝にまで蔓を伸ばして巻きついて、絡まり合う異種同士の出会いのように互いを手繰り寄せ合っている。日当たりのよくない路地に、午後になってようやく西陽が差したのか、ぽっと青い朝顔が一輪咲いている。立ち止まって、その奇跡のように揺れる青い花びらを眺めた。
 ――いや、これは、確かさっき見た時、まだほんの芽ではなかったか)
 歯痛に耐えながら歩いた道ではあるが見覚えがある。あの時、咲くことはないだろうと惨めそうに見下して通り過ぎたものではないか。いやしかし、そんなにすぐに伸びるわけもないだろうが。
 ――俺は大丈夫か? 日付までおかしくなっているんじゃないだろうな。
 すると携帯が鳴って、出ると初美だった。
「どう? 着いた?」
「いや、もういいんだ」
「いいんだって、歯が痛いんでしょ」
「いや、それを聞いてほっとしたよ」
「何言ってるの」
「俺が歯が痛いって言ったのは今朝だよね」
「そうよ。大丈夫?」
「うん、もう治ったんだ。初美が教えてくれた歯医者はよかったよ」
「え、もう治療、終わったの」
「うん、終わった」
「そう。じゃあ、うちにおいでよ。夕飯みんなで食べようよ」
「みんなって、寝たきりのばあさんと?」
 ふふふと初美が笑う。
「まさか、ばあさん歩き始めているんじゃないだろうな」
 それを聞いた初美がまたふふふと笑って、
「とにかく、食べましょうよ。みんなで」
 と言い、「家の近くのスーパーまで来たら、もう一度電話して頂戴」と電話を切った。
 携帯をズボンのポケットにしまうと、もう一度目の前の朝顔を見た。こんな場所だから、誰かが植えたのではないだろう。野生か? 薄緑色の細い蔓が棒に巻きつくように伸びているのを見ていると、「ハイシャサン」で見た新種のミントのことを思い出した。あのミントはどうして気付かれないような風体をしているんだろう。そんなことを望んでいるのだろう。この青い朝顔ですら、こうして目を引く色をして咲いているのに。
 ――よくもまあこんなところに生えて、しかも花を咲かせた。
 花びらにそっと触れて
 ――いったいどこから種が飛んできたのか。
 そう考えたところではっと思い出した。あの中庭の朝顔。
 ――あの中庭から?
 すると、しゃらりらしゃらりらと、貝殻の暖簾が音を立てた気がして耳を澄ませた。しかし、音は鳴らなかった。いや、鳴るわけはないだろう。
 その代りに行き交う自動車の音がした。地下鉄の匂いを背負った風が吹いて、しかもそれは天婦羅屋の出汁と揚げ油の匂いを含んでいる。
 ――腹が減ったな。
 歯が痛いときには、空間の重苦しい染みのように感じた匂いが、今度はうまそうな食べ物の匂いに変わった。
 ――いや、確か今は準備中だ。だってあれから、それほど時は過ぎていないのだから。
 ここまでくれば大通りも近い。
 とにかく、歯痛は治ったのだ。歩き出した。路地はまだ薄暗い。あの自動販売機が見えれば、正当な湯島歯科医院の駐車場に出るだろう。そしてやはり、いつの間にか路地を過ぎ、そのうち大通りに出た。

 初美が「みんな」と言ったのは猫のことだった。トメばあさんが寝たきりになる前から飼っている猫であるらしく、よれよれの白猫とよれよれのトラ猫がいた。トメばあさんは寝たきりとは言っても頭の中まで完全に朦朧としているわけではなく、多少はあの世とこの世を行ったり来たりするようだが、猫が近づいてくると
「この子だちに牛乳を飲ませてやらなくてはいけないのです」
 と震える声で言うらしい。「シロちゃんの方には角砂糖を入れて、トラちゃんの方にはココアを入れてやってほしいのです」と、きっぱり。
「猫にココア? 聞いたことないな」
 と言うと、
「でしょ? 私もトメばあさん、やっぱりもうろくしちゃったと思って、気にせずそのままの牛乳をやってみたら、少しペロンと舐めるだけで横を向くの。で、手の甲をペロペロ舐めてから私の顔を見てニャアというわけ」
 初美が言った。
「ほんとかあ」
「ほんとよ。見てみる?」
 そう言って、ココアを入れない牛乳を器に入れてトラ猫の前に差し出すと、やはり飲もうとはしない。「ほらね」そして、しばらくしてココアを少し振り入れるとペロペロと舐め始めた。
「おお、確かに、そうだな。でも、じゃあ、角砂糖を入れたものをトラ猫にやったらどうなるか試してみようよ」
 夕飯も終えて退屈になり、悪乗りして言った。初美はぶどうを洗って、ガラスのお皿に乗せてテーブルの上に置いている。
「それがね、トメばあさんがそれはやらないでって言ったの」
 初美はぶどうの皮を指で剝き始めた。
「ほんとに?」
 初美の指先には黄緑色のドロップのみたいなぶどうの実が現れる。
「ええ、あの震える声でね、『トラちゃんには角砂糖はやらないでね。いやそれは、トラちゃんにだってそれを飲もうと思えば飲めるのだろうけれども、私はね、シロちゃんとトラちゃんが別々に好みがあると思いたいのですよ。だってねえ、猫ちゃんだって、そんな風に好みがあると思った方が楽しいでしょうよ』ってね」
 黄緑色の実を口の中に入れ、皮をお皿の端に置いた。
「ふうん」
「あ、ごめん、卓也くんも食べたい?」
 ぶどうの皮を捨てるための器を食器棚から取り出して、お皿の端に置いた皮をつまんで移した。勧められ、ぶどうの粒をひとつもぎ取り皮を剝かずにそのまま口の中に放り込んだ。
「まあ、トメばあさんの猫なんだし、言う通りにしてあげればいいと思って、そうしてるの」
 初美は立ち上がって白猫用に角砂糖入りの牛乳を用意し、テーブルの下に置いた。「でも最近では、シロの方に角砂糖を入れてもあまり飲まなくなったのよね」
 シロが居間の端っこから台所までよたよたと歩いてきて、テーブルの下に潜り込んだ。確かに近寄ってはきたが飲もうとはしない。初美はまだ二十代。それなのに、この家の中の初美以外の存在はヨタヨタして年寄りばっかりなのが不思議だった。トメばあさんも台所の 隣の部屋でほとんどずっと眠っている。
「こんなことを何年も続けていて不安にならない? あ、ごめん。親戚中で押し付けている状態なのに、こんなこと聞いちゃって」
 ぶどうの皮を口から取り出して捨てる。
「いいのよ。私がこうしたかったんだから」
 初美はまたテーブルに着いてぶどうを食べ始めた。
「どうして? 他にやりたいこと、いっぱいあるだろうに」
「たとえばどういうこと?」
「そうだな、それは、えっと、恋愛とかね、たとえば」
「ああ、恋愛ね。結婚とか?」
「うん。いや、ここにいても恋愛とかできるの?」
「そうね、やろうと思えばできるでしょう。むしろ、やりやすいんじゃない。親戚からお金の援助はあるわけだし、結構、のんびりとしている部分もあるのよ」
「そうなんだ。でも、恋はしない」
「うん。というか、もうしたの。し終わった」
「へえ、恋をし終わるなんてことあるんだね。失恋したってこと?」
「そうじゃないわ。説明できないけど」
 初美はまた、ぶどうの皮を真剣に剝き始めた。シロが立ち上がって、初美の足の周りをくるりと一回りして存在を主張している。「あら、シロちゃん」
 初美はシロを抱き上げると膝の上に乗せて首から背中を撫でた。心地よさ気に目を細めてどっかりと落着き、シロは小さくニャアと鳴いた。それを見た時、あの「ハイシャサン」で黒のボブスタイルが「先生」のことを考えながら満面の笑みを浮かべたことが思い出された。二人だけの世界。くっきりと固く境界を作って外側を拒絶している。シロと初美だけの世界。
 たぶん、初美は「し終わった恋」の話をしたくないのだろう。「終わった恋」というならいい。また次に始まる恋がありそうだ。だけど「し終わった恋」は飛行機から見る果てしない空のように取り返しがつかない。その取り返しがつかないものについて質問する勇気はなかった。
「それより、あの歯医者なんだけど」
 ぶどうの皮を指で取り出し、声のトーンを明るくしてから言った。話の内容を切り替える意味でもある。
「あ、どうだった、よかったでしょ」
 初美は高い声を出した。目を閉じていたシロがちらりと目を開けて、どうということないと言いたそうにあくびをした。
「よかったというか、奇妙だった」
「奇妙」
「うん。というか、いつも、あんな感じなの?」
「あんな感じって?」
 その日の体験を話すべきかどうか迷った。自分の中でもまだ整理がついていなかったし、こうして初美とトメばあさんのそばでぶどうを食べていると、あの「ハイシャサン」での出来事は幻だったんじゃないかと思えてきたからだ。
「だから、あんな感じだよ。カフェみたいだった」
「カフェ。ふうん、それから?」
「えっとね、テーブルが真ん中にある歯医者なんて奇妙」
「テーブル、か」
「あるでしょ、テーブル」
「あるのかな?」
「だって、何度も行ったことがあるんだろ?」
「うん、ある。何度も」
「だったら知ってるんだろう」
「いや、何度も行ったっていうのはね、目の前までなの」
「なんだって!」
 思わず立ち上がった。「目の前までしか行ったことがない歯医者を紹介したのか」
 ふふふふ、と初美は小さく笑った。
「ごめん。でもあの看板、おもしろいでしょ? それで、あれなんだろうと思って、うちに来る不動産屋さんに聞いたの。あれはなに? って」
「なんだって言った?」
「歯医者、と言ったの」
 初美は猫を抱いて隣の部屋に行き、シロの居場所となっているマットの上に寝かせて、再び台所に戻ってくると流し台で手を洗い、またブドウを食べ始めた。手を洗ったのを見て、なるほど、あれはトメばあさんの猫なのだと確信を持った。自分の猫なら洗わないのではないか。そんなことないか。
「歯医者です、と言って、それだけ」
 初美は座ったばかりなのにまた立ち上がって「テレビ付けていい?」と言った。
「もちろん、どうぞ」
 反対する理由もない。初美はリモコンでテレビをつけると、ニュース番組をやっていた。その日の夏祭りの話題や景気対策についての話題が流れていた。
「その不動産屋さんがね、時々治療してもらっているというのだけど」
 初美はまた椅子に座って続きの話を始めた。「別に歯が痛いわけじゃないって言うのよ」
「へえ、歯並びを直すとか、プラークコントロールとかだったの?」
「それが、そうでもないらしくてね、僕は歯が痛いわけじゃないし、プラークコントロールをしたいわけでもないのだけれど、あの歯医者に行くんだって言うの」
「変わってるね」
「そうなの。変わってるでしょ」
 初美がぶどうを食べるのをやめて頬杖をついたところで、直感的に、初美の「し終わった恋」の相手はその不動産屋であるだろうと感じた。ピンク色でもなく、またどんよりとしたブルーでもない色に、初美が包まれて見えたからだ。そうだ、ぶどう色。
「ねえ、どういう歯医者だった?」
 再び初美が頬杖をやめて口を開いた。
「そうだな、どうだったかな」
 卓也は何もかも正直に言っていいものかどうか迷った。もしも、本当にその「し終わった恋」が不動産屋である場合、あの歯医者で起きた奇妙な感覚を言うべきではない気がしたのだ。「自分で行ってみればいいじゃないか」
「それがね、私が行くといつもお休みなの。定休日というわけでもなく休み」
 初美は今では腰まで伸ばした縮れ毛の髪を後ろでひとつに束ねていたが、一度ゴムを外して緩め、また再び後ろでくくり直した。「なんとなく縁がないのかなと思っていたら、後で分かったことなんだけど、きちんと理由があったのよ」
 今度はテレビを消した。「私がその歯医者に行ってみようとする時には、前もってトメばあさんをデイケアサービスに預けることになる。なかなかトメばあさんを車いすに乗せて、あの細い路地を行く気持ちにはなれないからよ。だけど、先週になって初めて教えてもらったことなのだけど、トメばあさんはデイケアサービスに行くたびに、歯医者を呼んでくれ、と言って、あの歯医者さんを呼んでいたらしいの。歯の洗浄を頼んでいたのよ。昔馴染みだからあの歯医者だけしかだめなんですよ、ってね。どうせ呼ぶことになるんだからと言って、デイケアセンターの方で、私から予約が入るとすぐに歯医者さんをリザーブした。だから、トメばあさんがデイケアサービスにいる時は休診で、いつでも私は歯医者には入れないようになっているわけ」
「ふうん」
 隣で眠っているトメばあさんをちらりと見た。何を思って歯医者を呼んでいるのだろうか。なにかをたくらんでいる寝顔ではない。皮膚は茶色く水分を失った干しいちじくのように見え、呼吸も樹木がする息のように静かだ。不安もなく期待もない。ただ生き物がそこにいて、消え入りそうな何かを慎重に保っているかに見えた。この意図を失ったかのようなトメばあさんが、何か考え事をして歯医者を呼んでいるとは考えられなかった。
「どういう歯医者さんなのかと聞くと、高畠さんも同じような反応をしたわ。そうだな、どうだったかなって」
 後ろに束ねた髪を一方の肩の方に回して両手で撫でている。子どもの頃には固い針金のように見えた縮れ毛が今では自然なウェイブとなって肩の上で空気を含んでいる。「高畠さん、歯医者の話になるとズレ落ちそうにかけているメガネを急に直したりして、『ところでなんですけれど』とか言って話をはぐらかすのよ」
「好きだったの?」
 転がり落ちるビー玉のように、その質問を自然に口から出すことが出来た。いや、たぶん、出せるように初美が話の溝を掘ったのだ。メガネを直すしぐさまで観察しているなんて、好きなのに決まっている。
「そうよ、好きだったの」
 やはり、転がり落ちたビー玉は予定された溝を滑り、欲しかった初美の答を突いたらしい。
「つまり、し終わった恋の相手は、その不動産屋の高畠さんなのか」
 ぶどうの実をひとつ口の中に放り込みながら言った。「で、何をし終わったの?」
 少し気まずい空気が流れて、
「何もかもよ」
 初美は唇を噛んだ。ベリーA。ぶどうの品種だ。巨峰よりも少し濃くて野性味がある。
「どうして、終わらなくてはいけなかったの」
 ぶどうの皮を口の中からつまみ出して皿の上に置いた。「他に好きな人が出来たとか? それとも相手に奥さんがいたとか」
「違うわ」
 滑りやすい溝を予定通りに転がっていたビー玉が、とつぜん座布団の上にどさりと落ちたように、話はそこで中断した。だけど、それも予定通りの着地点だったのだ。
「つまり、あれは、し終わったの」
 し終わった恋、というのは突然座布団の上に落ちたビー玉のように動かなくなるというわけ。そもそもの意味が変わるわけでもなく、転がっていた溝がなくなり、柔らかく座るための台座の上に置かれた、ということらしい。もう展開しようがない、ということか。
 それから、初美はゆっくりと経緯を話してくれた。

 初美が高畠と出会ったのは七年前のこと。トメばあさんが倒れて、初美が世話をするために引越してすぐのことだった。トメばあさんには、夫から受け継いだ不動産がいくつかあり、家賃収入でこれまで暮らしてきた。それらの銀行の管理などを任されていたのが高畠で、出会った時はまだ三十そこそこだったが、すでにトメばあさんの信頼は厚いらしく
「うちの不動産のことだったら、それはもうなんでも高畠さんに聞けば分かりますから、初美ちゃん、あの人に聞いて頂戴よ」
 と言って、「不動産の書類関係は二階の奥の部屋の押入れダンスの中に仕舞ってありますから」と付け加えると、その後は不動産のことは一切何も言わなくなった。
 初美が二階の奥の部屋にある書類を調べてみると、初美が考えていたよりもたくさんの貸し物件があり、トメばあさんの銀行口座には家賃がたくさん入り、また、親戚にたっぷりと分配されていた。
「そっか。みんな分配をもらっていて、それでも養老院に預けようと言ったのね」
 書類を膝の上に置いて溜息をついた。
 トメばあさんが倒れてから初めて高畠が家に来た時、
「親戚への仕送りはどうしますか?」
 と初美に聞いた。「もしも、介護を引き受けられるのであれば、トメさんに頼んで仕送りを停止し、初美さんが使いやすいようにすることもできるとは思いますが」
 まだ二十になったばかりであった初美には、それを判断することはできなかった。かと言って、初美の親も周りの大人も、本気で初美がずっと寝たきりになったトメばあさんの世話をすると考えているわけでもなかったから、「どうすればいい?」と相談する状況でもなかった。親戚中それぞれに、自分がもらっているお金のことが、早々と初美に知られるところになったとは思ってもいなかっただろう。
「どうするのがいいかしら」
 初美は戸惑いをそのまま言葉にした。「私、何も考えずに、私がおばあちゃんを看るって決めて大学も辞めて飛び出してきちゃったから」
「そうですね。介護にいくらかかるのか、そして、初美さんの生活にいくらかかるのか、その辺りをざっと計算してみましょうか」
 高畠が言って、
「そうしてくださると、助かります」
 と初美が言った。
 高畠は黒いビジネスバックから介護センターの資料や介護用のおむつ、医療制度などの資料を取り出し、それからルーズリーフと計算機とボールペンも取り出した。その資料や計算機から煙草の匂いがして、つい初美は
「お煙草を吸われるのですか」
 と聞いた。「もしもそれなら、灰皿をお出ししましょうか」
 高畠は初美の煎れた茶托の上に乗った湯呑の方を見て、
「いえ、僕は。お茶で結構です」
 と言い、すぐに計算を始めた。無言のまま、計算機の音が鳴り、ボールペンでルーズリーフにいろいろなことを書き込んでいく。書き込みながら、
「事務所のパートナーがヘビースモーカーなものですから。すみません」
 と言った。資料から立ち上った煙草の匂いは高畠のものではなかったのだ。
「そうでしたか。ごめんなさい、余計なことでした」
 初美は声を小さくした。
 いろいろと計算した結果、今まで通り親戚への仕送りを継続しても、細々とならやっていけるだろうということが分かり、
「だったら、当面はそのままにしておいた方がよいかと僕は思います」
「そうよね、だって、私ひとりが取っているって思われたら嫌ですし」
 そう本音を言うと、高畠は一呼吸おいてから目を細くした笑顔を零し、
「まあ、それもそうですけれど、いきなり仕送りを停止すると先方もお困りでしょうし、初美さんがすべてを背負うという決断を、今やらなくてもいいかと思います。もしも介護をやってみて、やっぱり無理があったと思う日が来たら、仕送りを受け取っている親戚中を集めて、どうしましょうかと問い合わせる方法もあります」
「そっか、そうですよね。その方が、私も安心していられるし」
 それからも、税金のことや管理のことで、初美は高畠からいろいろと教わり、月に一度は顔を合わせているうちに互いに思いが通じて関係ができた。段々と好きになったのではない。最初に会った時に好きになって、その証拠を見せ合っていった。

 恋なんてそういうものだろう。最初に好きだと気持ちに気付いた方がアプローチし、好きの気持ちを封じ込めている方が気付かされていく。気付かせる方が好きな人間と、気付かされる方が好きな人間がいて、それがうまく合うといつまでもゲームは続く。それでもいつか、好きだとの証拠が必要なくなり、そこからはどこへも進めなくなる。それを「し終わる」というのかもしれないし、あるいは、最初に出会った瞬間に好きだとわかるのであれば、本当は初めから「し終わっている」ようなものかもしれない。最初に既に「し終わっている」のだとしたら、「し終わる」ことが別れの原因にはならないはずで、その場合は別の理由がある。たとえば、もっと他にやらなければいけないことができてしまった、とか。なぜ好きだったかの本当の理由にたどり着いてしまった、とか。

 初美があの「ハイシャサン」の存在に気付いたのは、その「ハイシャサン」の裏にある八部屋のアパートがトメばあさんの所有しているものだと知った時のことだった。なぜか、これだけは高畠さんの不動産屋ではなく、別の不動産屋が管理していた。しばらくは気づかなかったのだが、銀行の通帳を見ていると、一つだけ関係のないところから入金があることに気づき、調べたところトメばあさんの姉が亡くなったときに、子どもがいないからとの理由で相続した物件であるらしかった。初美がそのことに気付くまでは、静かに入金が繰り返されているだけだったが、気付いた途端、いろいろと問題が起き始めた。たとえば、住人の一人が昼間っからお酒を飲んで暴れたり大声で歌を歌ったりするので、初美が頻繁に呼び出された。呼び出されて着くころには暴れた本人は眠ってしまって問題が収まっていることが多いのだが、それでも容赦なく呼び出される。
「トメばあさん、ごめんね、ちょっと出かけてくるね」
 と、トメばあさんを家に置いたまま自転車で向かった。
 そんな風に自転車で向かっていた時、裏手にある「ハイシャサン」に高畠が入っていくところに出くわした。いつものようにスーツを着てビジネスバックを持っている。初美が声をかける前に扉の中に入っていき、扉がパタンとしまるともう中は見えなかった。
 ――あら、高畠さん。あんなところにいるなんて。
 もう恋人同士だと確認し合っている頃だった。自分の恋人を偶然、他所で見かけるのは不思議な感じがした。自転車を停めて建物を眺めてみた。普通の住宅のようにも見えるが、看板もありそれは住宅ではなさそうだ。
 ――いったいなんだろう。
 次に高畠に会った時、この前、偶然見かけたと言い、「あの建物はなあに」と初美は聞いた。高畠は「歯科医院だよ」と言った。「湯島歯科医院もあるのにどうして?」と初美が聞くと、
「そういう歯医者じゃないんだ」
 と言った。
「じゃあ、どんな歯医者さん?」
 と聞くと、
「そうだな、どうだったかな」
 と答えた。そして、ずり落ちかけたメガネを慌ててきっちりと書け直し、「ところでなんですけれど」と話題を変えた。何度かそういうことがあり、「ところでなんですけれど」の後に続く話題は、秋なら紅葉狩りに行かないかという話だったり、ディズニーランドに行こうという話だったりした。
「行けるわけないじゃない。トメばあさんがいるんですもの」
 初美が言うと、
「そうだったね」
 残念そうに言う。
「誰か他の人と行ってきてね。でも女の人は嫌よ。男の人と行ってね」
 と言っていたのだが、あるとき、高畠が
「僕だってたまには女性と外を歩いてみたいんだ」
 と漏らし、
「そっか。そうよね」
 初美が納得して、いつからか、「外では他の女性と会ったりしてもいいよ」と言うようになった。
 それでも、女性とは会わないでね、と言い続ければよかったのかもしれない。そうすれば、大ゲンカして破局を迎えたとしても、恋は途中のまま終止符を打って、再会を待てたのかもしれない。それを、外で他の女性と会ったりしてもいいと言った途端、たぶん、恋は「し終わった」のだ。完全な形になり、もう手入れすることのできなくなった絵画のように大切にされ、溶け込み、忘れられた。

 目の前で初美はぶどうを食べている。
 食べながら「し終わった」恋のいきさつを、ところどころ話し、そして、ところどころ隠した。
 その話を聞きながら、高畠が何度もあの歯医者に行ったということは、中庭だけではなく、奥にある治療室のリクライニングチェアに座ったのだと思った。
 ここに座ったら、本当にとんでもないことになると直感して座らなかった椅子に、高畠は座ったということになる。
「ねえ、どんな歯医者だった?」
「そうだな、普通の歯医者だったよ」
 そう言うしかない。
「ほんとに?」
「うん、ほんと」
 シロが薄目を開けてニャアと鳴いて、ドキっとする。
 ――猫はごまかせないな。
「まず、受付があって、どうされましたかって言う。そして、案内されて、治療をするんだ。あ、そうだ、ひとつ違うことと言えば、痛くないの」
「そうなの?」
「うん。そう。痛くない。ハーブとか使ってるらしいよ」
「ハーブか。なるほどね」
「高畠さんって実はハーブが好きだったんじゃないの?」
「そうかな」
「それで、恥ずかしかったんだよ。それで言えなかった」
「そうか」
「それに、猫はハーブが嫌いなんだよ。だから、ハーブを使って歯を治療してるって言ったら、この家に入れてもらえなくなるって思ったんじゃないか」
「なるほど」
 無邪気に信じたふりをして、「でも、そしたらどうして最初から、卓也くん、そう言わなかったの」
「さあ、なんでだろうね」
 とぼけて、「ハーブの好きな男って苦手?」と聞いてみた。
「どうかなあ。でも、本当にもう、あれはし終わった恋なの」
「寂しいこと言わないでよ。もし、戻ってきたら、ハーブ野郎お帰りって言ってやらなくちゃ」
 それを聞いて、ふふふふと初美は笑った。
「どうせ、不動産のことで来るんだろ」
「うん、そうなんだけど、最近、ヘビースモーカーのパートナーの方が来るの」
「そうなんだ」
「でね、」
「で?」
「いや、別に」
「あ、まさかその男と」
「そうじゃないのよ。でもね、やけっぱちになってそれでもいいかって、ちょっと」
「ばかじゃん、それ。試されてるんだよ、高畠さんに」
「そうかなぁ」
「男心がわからないんだな」
 最後にひとつぶどうを食べて、皮を皿に出すと立ち上がった。
「じゃ、俺、帰るわ」
「もう?」
「うん、また今度来るし。夏休みは長いから」
 外に出ると夏の夜風が心地よかった。
「トメばあさんいるし、ここでいいよ」
 すぐに玄関扉を閉めて深呼吸した。この家の入り口は狭く、玄関扉の近くにひしめくように鉢植えが置いてある。サボテン、ヒヤシンス、それから――、この葉っぱ。
 ――あ、これ、あの新種のミントじゃないか!
 ハイシャサンで見たミントのことを思い出した。
 どうして、このミントは「気付かれないようにしているのか」と、黒いボブスタイルが問いかけたミントだ。よく見て、そして、よく考えて。
 どうして、このミントは気付かれないようにしているのか。誰が植えたのか。高畠なのか。それとも、ほんとは初美なのか。あるいは、ヘビースモーカーの新しい男なのか。
 よく見て、よく考えよう。
 しかし答えは見つからなかった。
 あのとき黒いボブスタイルは氷砂糖が溶けるように涙を流した。葉っぱに触れてみた。果物のような香がした。甘いミントだ。
「し終わっていない」恋?
 煙草よりもミント。そっと仕掛けられているんじゃないか。
 ある程度、好きである証拠を出し終わったら、今度は小さく仕掛けるのだろう。
 恋はゲームだ。
 昔、古伊万里の前でワーワー泣いた初美を思い出した。
 ――あの初美が、あれに気付くかなあ。
 足をバタバタさせていた姿もよみがえる。
 新種のミントの答。
 気付かれないようにしている。気付かれないささやかさが命。終わったかに見えたものをよみがえらせること。
 少しだけ葉を摘んだ。
 それにしても、今朝のあの歯痛はなんだったんだろう。
 ミントを口に入れてむしゃむしゃと食べ、ホテルに向かった。

(了)

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