感謝の日々

顔の見えないやり取りでは、強い言葉に出会ってしまい、とても疲れてしまう時がある。
わたしが知らない人とのやり取りをし始めたのは、この騒動が始まって以後なので、歴としては相当に短い。
居ても立ってもいられず、何か衝動に突き動かされるように始めてしまったけれど、結果的にやってみて良かったと思っている。動かないよりは動いた方が、結果として進むからだ。

最近、こころの動揺が凄い。
思春期かと思うほど、揺られに揺られている。
寄り道して、勝手に傷つき、泣いている。
揺らがないだけの強い意思があると、確固たる価値観があると、そう思っていた自分と言う前提を、これでもかと覆す日々が続いている。
ところが、表では泣いているけれども、こころの奥底ではこれを望んでいるようなのだ。
自分でも訳が分からない。なぜこうも進まねばならない気持ちでいるのか。

思い出せそうで、分かりそうで、あと一歩がいつも届かない。
わたしには無理なのか、今は必要ないのか、それとも資格がないのか、ふとした瞬間に、落ちこぼれの烙印を押されているような気がしてしまう。
気が焦る、もどかしくてたまらない、すべて投げ出してしまいたくなる、わたしの悪い癖。
きっと、その本質を見抜かれているのだろうな。
あれはダメだとジャッジしてしまう悪い癖を直しなさいと、自分も人をもジャッジせず在るがままを受け入れるようになりなさいと、言われているのだろう。

先日、厳しい対応をされ、しかもこのように激しく戻されたいという思いもあったのに、自業自得なのに、ひどく傷ついてしまった。
とげはこころの奥深くに刺さり、痛くてたまらないのに、抜き方も分からない。痛いままでいないといけないのかも知れない。あぁ、これは罰なのだ、と思った。
その時、もう二度と会えないと思っていた人が現れ、慰めてくれた。見かねたように。初めて会う人も慰めてくれた。みんな、とても親切に、わたしを励ますためだけに時間を使ってくれた。
慰めの言葉は使われなかったのに、慰められていると感じた。わたしは彼らの言葉を聞いているうちに、こころが温かくなってきて、心底、感謝した。わたしは、生かされている、いまこの時もゆるされているのだ。と思った。
きっと、いままでもそうだったのだろう。

頭しか使われてなかったわたしの体も意識も、ここのところ、どんどん開かれていっている。こころが解放されたがっている。わたしにとっては未知の領域すぎて、実は少し怖い。おそらく小さい頃に無理やり閉じてしまったのを、また無理やり開かざるを得ないからだ。いや、もしかしたら、閉じていることすら気づかず、ずっと生きてきてしまったのかも知れない。光で、安心で、満たされたいのに、無意識の部分で少し怖く感じてしまっている。

そういうタイミングで、今回また人の優しさに触れてしまったのだ。何て温かいんだろう。こんなに満たされることってあるのか。こんなに温かいなら、わたしもそちらの世界に行くべきではないのか。何を怖がっているのだろうか。素直に進めば幸せなのではないか。と、また、頭が先に考えてしまっていることに気づき、苦笑する。

恥ずかしながら、わたしは、人からしてもらったことしか人にしてあげられないようなのだ。今回受け取った思いを、今度は違う誰かに、困っている誰かに、渡せたらいいな。少しずつ変わっていけたらいいな。
決意とともに、ここに記すことにする。

ありがとう、わたしと関わってくれる、すべての人へ。

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