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炊事班長 ②

邱 力萍チュウ リーピン


 4.

 いやでも、李班長には一日五回は会う。
 顔を洗うお湯も、お茶を入れるお湯も、夜足を洗うお湯も、李さんがいる厨房からもらってこなきゃいけない。それだけでまず一日二回は厨房に行く。
 それから、一日三食。李さんから、食事をもらわなければならない。
「李炊事班長」と呼ばれている割には、厨房には李班長一人しかいない。ひとりなのに「班長」の呼び名は意味がないじゃない。
 班のメンバーが変わらないだけでなく、もうひとつ絶対変わらないものがあった。それは李班長の毎日の服装だ。
 紺色の「中三装」に汚れた白いエプロン。
 それ以外、李班長の毎日の仕事のパターンも一緒!
 朝、まだ誰も起きていないうちに、李班長は厨房の前で木の根っこを割り、その日使う薪を準備する。
 それから、五右衞門風呂ほど大きな鍋に湯をいっぱい沸かす。そのお湯が沸いたら、二十個ほどの魔法瓶に詰める。
 その魔法瓶を各弁公室に配るのも李班長の仕事だ。
 それがすべて終わると、李班長はやっとみんなとの一日が始まる。
 毎日厨房でご飯を炊いたり、野菜を洗ったり切ったり。それを一段落したら、李班長は必ず厨房前の石段にしゃがみ込み、たばこを吸う。一服したら、お昼を用意する。午後も同じだ。
 夜になったら、趙お姉ちゃんも書記も公社で働く人達はみんな家に帰る。私たちと李班長だけは公社に泊まる。
 李さんの部屋は厨房の隣にあるらしく、私は入ったことはない。というのも、李班長はいつも厨房にいるからだ。
「李班長はいい人なのよ」
 三日目の朝、お湯くみに行きたくないと言った私の背中を、母さんがそっとたたいた。
「でも、私たちのことが嫌いみたい」と、私は口を尖らした。
 開いた部屋の扉から、向こうの厨房の窓に映った李さんの小柄な背中が見える。
「李さんは嫌いなんて言ってないよ」
母さんは仕事着に着替え、麦わら帽子を手に取った。
「お肉、用意してくれないし!」
 お肉を食べたかったから文句を言った訳じゃない。李班長は私たちを嫌っているから、用意してくれない。それが悔しかった。
「それは私たちに対して怒っているわけじゃないの」
 母さんはもう気にしていないようだ。
「でも、毎日会っているのに、何も話さないし…」
 別に話かけてもらいたいわけではないが、趙お姉ちゃんやら劉さん達と比べて、李さんと付き合うのは気軽ではない。
「人を見た目で判断してはいけないからね」
 私は部屋の隅に置いた魔法瓶に目をやった。
 白い梅の絵柄に、春の鳥が横に飛んでいた。
「いつお世話になるか、分からないでしょ?仲よくしないと!」
 兄ちゃんっていいな。私はあの嫌なおじいさんの手から、ご飯をよそってもらわなきゃいけないし!一緒に遊べるような人は一人もいないし。
 あのおじさんのお世話になる何で!
 私は早くも家に帰りたくなった。
 そういえば私たちがここに来たのはまだ一週間もたっていなかった。

  お世話になりたくない人に、お世話になる日がやってきた。
 やっと一週間経った週末、自分達の家に帰れると思っていたら、母さんは「今日は帰れない」と言う。
 夜、批判大会があるそうだって。
 それに参加しないと、思想改造ができないと母さんは言う。
 ラジオでよく聞いたことがある。「我々の周りには根っこの悪い人がたくさんいる」って。
 本当のところは狼のような陰険な人が、ウサギのようにやさしい顔を装って、社会主義を裏切るチャンスを狙っているって。
 その人達を見つけたたびに、この批判会が開けられる。
 その批判会で、参加者はその悪い人の陰険なところを明らかにし、みんなで気をつけようとする。
 批判会に参加しないのは、自分の考え方はまだ党の教えの様に固まっていないか、それとも悪い人になりかけている証拠だと言われる。
 私は母さんをそんな人になってほしくない。
 でも、一人お留守番するのも嫌だ。
「よく考えて。兄ちゃんは毎日おうちで留守番しているのよ」
 母さんはいつもの笑顔をどこかで忘れて来たみたい、いらつきが言葉に見え隠れする。
「兄ちゃんには父さんがいるでしょ!ここには誰もいないだもの」
 私はベッドに座り、母さんに抗議した。
「今日だけじゃないの?母さんはもう行かなきゃ。分かるでしょ」
 母さんは部屋の窓を閉めてくれた。
 窓の外はもう真っ暗だ。
「夜十時になったら、帰ってくるから」
「十時っていつ?」
 私は、十時はいつだか分からない。
「いつも寝る時間よ」
 母さんが外を見る。
「風があるから、ベッドに入って。一眠りしたら帰って来てるわ」
「嫌!私も一緒に行く」
「夕雨!あなたをここに連れてくるだけでも大変だったのよ、知っているの?ちっとも大人の気持ちを分かってくれない!それくらい我慢してちょうだい!」
「だって、一人じゃ怖いんだもん。トイレはどうするの?」
 みんなが帰ったあと、この公社は落城した城のように静かになる。
「隣の李班長に頼んでくるから、大丈夫よ」
「いや!言わないで」
 李さんの目は、目玉があっても動かない。しかも、歩くと体が揺れている。体中からたばこの臭い匂いがする。
 どう見ても悪い人にしか見えない。
 母さんがいないことを彼が知ったら、あの人私をどうするか!
「はいはい!いやなら言わないけど、どっちにしろお留守番してよね。それと、外のおトイレに行けないのなら、ここでして」
 母さんが唾を吐く「痰ツボ」を部屋の隅に置いた。
「ここでね」

  母さんは行ってしまった。
 私が泣いても、叫んでも、母さんは風の中に消えてしまった。
 私が言ったように、木の扉を閉めて横から棒で押さえた。誰も入ってこないように。
 電気を点けたままにして、布団に入った。
 天井を見上げ、自分に麻酔をかけたいほどと思った。それほど自分に早く眠りに入りたかった。
「チュ、チュ」
 ネズミの声だ。ここに来た三日目に、部屋にネズミがいることが分かった。
 隣の厨房から来たかもしれないと母さんが言う。
 いくらシンデレラの話の中に出てくるカボチャを引くネズミを想像してみても、実際のネズミは可愛く思えない。しかも、黒い糞が天井から落ちて来るし……夜中に、私の枕もとを走っているかもしれないのだ。
 私は天井の音がするあたりを見る。薄暗く、何にも見えない。
 電気を消した。
 そうしたら、ネズミは私がいる場所がわからないだろう。
「チュ、チュ」
 ネズミの声がもっと大きくなった。
 何匹いるだろう。私はベッドを揺らして「ゴッゴン」とわざと音を立てた。
 しばらく静かになったが、
「チュッチュッチュ……」
 またネズミの鳴き声がした。さっきよりもっと多かった。
 しかも、屋根裏に詰めている藁を走り渡った音がした。
 扉の隙間から吹き込んだ風がカーテンを揺らし、外では「ゴ―ゴ―」と音を立てて荒れ狂っている。
 また電気の紐を引っ張って点けると、その弾みで、ちっとも明るくない裸電球がゆらゆら揺れた。
 壁に映った食卓やイスの影も、不気味に揺れる。
「チュッチュッチュ」
 またまた音がした。
 天井の丸太の上に、手の平よりも大きいネズミが長いしっぽをピンっと伸ばしてシュッと走り去るのを見えた。
 私のところに下りてくるだろうか。
 ネズミに私の居場所を絶対知らせちゃだめ!
 私は電気の紐をもう一度引っ張った。
「ピッ!」
 明かりが消えると同時に、紐の手ごたえがなくなった。
 ベッドに起き上がり、暗い闇の中で紐を探る。
 元から切れたんだ。手の中の細く長い紐を空中でいくら振っても、やっぱりどこにもつながっていない頼りのない紐だ。
 もう電気がつかない。

 「母さん~母さん~」
 私は外に向って大きい声で叫んだ。
 まだ母さんが行ったばかり。私の呼び声が聞こえるに違いない。そう思いたかった。
「戻ってきて!母さん」
 私は床をはって扉に手をかけ、観音開きのその隙間から風に向って叫んだ。
 向い側に李班長の部屋に明かりがついている。
「お母さんーお母さんー帰って来てよ!」
 早く、早く!この声で母さんの足を止めたい。母さんは今どこにいるの?
「ぎ~ぎ~」
 向いの李さんの扉が開いた音がした。
 私が黙った。
 涙を含んで黙った。
 ネズミは?みんな静まり返っている。
 足は布の靴を吸いとった音がした。
 李班長の足音だ。
「どうしたん?」
 ダン、ダン
 李班長の拳が私の部屋の扉を叩いた。
「…、…」
「ドアを開けろ!どうしたん?」
 開けろって?母さんがいない時に、開けろって!
 私は七匹の小ヤギを思い出した。
 まさにこんな夜に私を……?
 彼は包丁を持っているし、大きな鍋も持っている。
「帰って!関係ない。母さんを呼んできて」
 あっ、母さんがいないこと、自分で言っちゃった。
「母さんは批判会だろう?十時に戻ってくるよ!」
 李班長は知っていた!
 どうしよう!母さんが帰ってくるまで、十分時間があるのだ。李班長は私をどうでもできる。
「どうしたん?」
 李班長はドアを叩くのをやめて、やさしく言った。こんな声は初めてだった。
 でも、狼も最初こんなやさしい声をしていなかったっけ?
「電気の紐が取れちゃったの。電気がつかない」
 わっ!私が何と言ったの?そんな弱気なことを!
 怖くても、怖いと言ってはいけない!母さんがそういったじゃないか!
「つけてあげようか?」
李班長は扉の向こうで足を動かしていた。そんな音が聞こえてきた。
「入ってきたらダメ!」
 私は扉を強く押した。床の土が素足に冷たい。
「だったら、寝なさい」
 足の音がまたした。
 李班長は帰ろうとしただろうか?
「帰らないで!」
 思わず口から飛び出したのは、心の声だった。きっと。
「どうして?」
 足音が止まった。
「……怖いから」
 私の声に、鼻水の音が混じった。
「何が怖いの?」
 私は隙間から、外を覗いた。
 いつもの「中三装」が、わずかな明かりで色褪せていた。
「ネズミ、お化け、あと…」
 あと、あなただ。
 私は最後のことを言えなかった。言ったらおしまいだ。
「ネズミはおまえより小さいし、お化けなんかいないよ。寝なさい!」
「寝られない」
私も地面にしゃがみこんだ。
「今、何時?」
 私は李班長に十時と答えてほしかった。
「八時」
 扉の向こうで影もしゃがんだ。
「何かお話ししてくれないかな……」
 私は寝る前にいろんな話をしてくれた母さんを思い、李班長に頼んでみた。
「何の話?」
 影が懐から長い棒を取り出した。たばこだ。
「あの、プリンセスがプリンスに会って、結婚するお話」
 ストーリは知っているが、何度でも聞きたいお話だ。
「何だそれ。俺は知らん!」
 紙の音がした。
 たばこを包む紙の音だ。きっと。
 李班長はすぐには帰らないつもりのようだ。
 李班長って、本当に悪い人じゃないかも。お母さんが言った通りだ。
「何でもいいから、一つ言って」
 私は自分のお爺ちゃんに頼むように言った。
「ケッー」
 喉を鳴らして、李班長はペッと唾を吐いた。
「昔、昔」
 シュッ。火が付けられた。マッチを持っているんだ。李班長は!
「長い髪の毛をした、綺麗なお嬢さんがいた」
「やめって!」
 私は想像してしまった。
 綺麗な人はいつも死ぬのだ。しかも、長い髪は幽霊のシンボルだ。
「違うのにして」
「どうしたんだ、おまえさん」
 煙は扉の隙間から、苦みを含んだ匂いが漂ってきた。
「それは何となく知っていたから、違うのがいい!」
「ゴッホン」
 李班長は咳をした。
「昔、昔、頭の悪いやつがいた」
 これならいい。私は耳をそば立てて、静かに待っていた。
「母さんに醤油を買って来るようと言われ、一元のお金と茶碗を渡された。母さんは「騙されないで、一元分のお醤油をきちんともらって来てね」と何度も何度も言い聞かせた。やつは「母さん、大丈夫。僕はそれほどバカじゃない」と言って家を出た」
 私は笑った。その先が何となくわかる。でも、聞きたい。
「それで、どうなったの?」
 私は問いかける。
「やつは醤油屋に行って、醤油をくれと頼んだ。しかし、茶碗が小さく、一元分の醤油が入り切れない。またおいでと醤油屋さんが言ったが、やつがだまされるじゃないかと怒った。「残りもいますぐ持って帰る。僕の上着のポケットに入れてくれ!」
「あははは」
 私は笑った。さっきの鼻水はもう乾いた。
 想像した結果と違ったが、ポケットに醤油を入れるなんてほんとうに馬鹿だ。
「もうひとつ」
 私はまた頼んだ。
「昔、昔…」
 聞いているうちに、床からの冷気で足が冷えてきてしまった。
 風が少し収まったが、母さんはまた帰る様子がない。
「ベッドに上がっていい?」
 私は扉の向こうの影に言った。
「いいぞ。もう寝る時間だ」
 扉の向こうの影も立ち上がった。
「でも、もう少しいて!」
 私はその足音を止めた。
「いいよ」
 李班長は座ったらしく、服は石段がこすれる音がした。
「俺はしばらくここでたばこを吸うから、安心しな」
「本当?黙って帰らない?」
「大丈夫。おまえが寝るまでここにいるよ」
「私、どうやって分かるの?李さんがいること……」
「たばこのにおいがするだろう。それがする限り、俺はここにいる」
「約束してね」
「約束?人を信じな」
 私は黙った。それ以上言ったら、李班長が怒るかも。
「ね、何で、李班長は批判会に参加しないの?」
 私はもう一つ気になることを聞いてみた。
「俺には俺のルールがあるから……」

 月も出てこないこの夜、李さんの煙草の煙はネズミも寝かした。

 
5.

  三月の日差しは差し込んでくる部屋で、私は田舎のおばあちゃんに手紙を書いた。
 母さんが手紙を書いたからだ。
「おばあちゃんへ」
 私は母さんの横で真似して書いた。
「お元気ですか。私たちは元気です」
 これは決まり文句のようなものだ。母さんが風邪をひいた時もそんなふうに書いたことがある。
「もうすぐ小学校に入ります。いいでしょう。さよなら」
 最後のこの文句は母さんに教えてもらったら、私は紙の一番下に、自分の名前だけを大きく書いた。
 会ったこともないおばあちゃんだ。
 でも、私のことをとても愛してくれている。母さんがいつもそう言っているから。私はずっと手紙を書きたかった。
 でも、字が書けなけなかったからしょうがない。今回初めて、大人のように手紙を書いた。
 おばあちゃんはきっと驚くだろう。そして、ずっと遠くて私をすごくほめてくれると私は思う。
「そうね。そろそろ鉛筆も用意しなきゃね」
 そう!私は小学校に行くことになった。近くの小学校の校長先生が入ってもいいと言われたんだって。
「公社の社長が特別頼んでくれたの。いい子にして、学校の先生の言うことをよく聞くのよ」

  こうして、私は小学生になった。
 小学生になったので、鞄はもちろん新調した。教科書はいらないと母さんは言った。その代わりに、筆箱と、絵がかける紙をくれた。
 みんな読む本は、私は読めない。「1+1」は分かったけど。だから、みんなが本を読んだり、字を書いたりする時間、私は好きなようにしてもいいことになった。
 座ってても、寝てもいい、お絵描きしてもいい。そして、すごく飽きたら、外の広場で遊んでいい。
 そんなことをしてもいいのは、私だけ。
 みんなより一歳年下だから、それでいいんだと母さんが言う。
 小学校に行く日は楽しい。自分と同じような子に会えるから。しかし、みんな私のことを馬鹿にしている。誰も話かけてくれない。
 赤ちゃんだって。
 先生が言ったことが分からないし、字も書けないから。
 一番後ろに座っている私のことを、誰も気にしてくれない。
 今日だって、私が手をあげても、先生は当ててくれないし。
 そんな中、私はついつい鞄の裏にあるポケットに手を伸ばした。
 そこに、二枚丸いビスケットが入っている。
 私は画用紙の上に、一枚のビスケットを出した。半分に折って、すり合わせた。
 すぐ、紙の上にくだけた粉で小さな山が出来た。
 私はくちびるを唾で濡らし、紙に近づけ、ついてきた粉をなめた。
 砂糖の甘さとほんのわずかなバニラの香りがした。
「あの子、授業中にビスケットを食べている」
 前に座っている子が、叫ぶ。その子は、さっきからずっと私の手に持っていたビスケットを見て、指を銜えていた。先生が言った。
「夕雨ちゃんは聴講生ですから、みんなと同じだと思ってはいけません」
 私は「聴講生」の意味が分からなかった。でもみんなと同じじゃないということは分かった。
 母さんも言った。幼稚園がないから、ここは幼稚園代わりなんだって。
 だから、ビスケットをくれた。
「でも、あなたがビスケットを食べると、みんなが欲しいがってしまうね。夕雨ちゃん、がまんして」と先生はやさしく言った。
「そうなんだ……」
 みんなの前で言われることは、結構恥ずかしい。
 でも、何で母さんはビスケットをくれたのだろう……。

  帰り道で、私は本の入っていない鞄を背負った。走ると、鞄を腰のあたりに当ったり、お尻を叩いた。
「待てっ」
 学校を出たばかりの道で、さっきじっと私のビスケットを見つめていた男の子が通せんぼをした。
 彼の隣に、彼より、つまり私より一つ頭ほど背の高い男の子がいた。
「さっきのビスケット、出せよ!」
 私は鞄を押さえて、片手で裏のポケットを触った。
 丸いビスケットが一枚、ちゃんとある。
「何で?」
 私は彼に聞いた。
「学校に持ってきちゃいけないんだ。だから俺に渡せ」
 彼はそのまま手をつき出した。
 私はおそろおそろと、ビスケットを差し出す。
「明日も持ってこい。じゃないと、お前はこの学校に来ちゃだめだ」
 どうして?でも、この子はこの学校で一番強い子らしい。私は彼の口ぶりからそう思った。
 ビスケットを持ってこないと、学校に来ちゃいけないんだ。
 私はその子をじっと見る。
 彼はビスケットを半分に割って、隣の男の子に渡した。二人は笑いながら行ってしまった。

  私は何日もビスケットを食べていなかった。お米も定量供給しているくらいだから、ビスケットは私たちにとっても高級品だ。しかも、この田舎の店にはなかなか置いていない。
 だから、私も学校に行く日しか貰えない。
 私は、自分のビスケットを取られるのがとても悔しかった。
 あの二人が近づいて来ると、どうしたらいいか分からない。
 母さんにも言えない。
 だって、あの子たちが言ったもの。「母さんに言うな」って。
 私は、ほのかにバターとバニラの香りがするビスケットの匂いを嗅いだだけで、運び屋のように学校に持って行く。
 自分のもののようで自分のものじゃないビスケットを、私は学校に持って行きつづけた。
 悔しさの中、一つだけいい思いもある。それは、ビスケットを持っているのは、あの子たちではなくこの私だってこと。
 あの子達は毎日、このビスケットだけを待っている。それ以外、私に何にも悪いことをしなかった。
 ビスケットだけだった。
 しかし、とうとうその日がやってきた。
「母さん、今日のビスケットは?」
 昼ご飯の後、母さんがくんで来た水を木桶に入れて、お茶碗を簡単に洗っていた。
「ちょっと待ってくれないかな。ご飯が終わったばかりなのに…」
「だって、私は早く学校に行きたいだもん」
大人ばかりのこの人民公社の中で、私は相手になってくれる人を見つけることはできない。
「待って……」
 母さんが濡れた手をズボンで拭いて、つま先を立て、壁についた高い棚から、青い花模様がついた缶を取ろうとした。
「あっ」
 母さんの手が何かを思い出したように空中で止まる。
「忘れた?買うのを」
 私も思い出した。昨日、貰ったビスケットは最後の二枚だった。母さんは今日買ってくると言ったのに。
「ないの?いやだぁ」
 私はあの二人の男の子を思い出した。
「今すぐ買いに行こう!」
 私は母さんの手を引っ張った。今なら間に合う。
 ここから歩いて五分、ビスケットを置いてある供消社がある。
「今は無理よ。母さんは午後遠いところに行くから、すぐにトラックが迎えに来るわ」
「どうしよう~いやだ。すぐ行く!」
「夕雨!」
 お母さんの顔に笑みがなくなった。
「一日ビスケットがないだけで、そんなわがままのことを言うじゃないの!」
「だって…持っていかないと学校に行けないから…」
 私はとうとうあの男の子たちのことを言ってしまった。
「もう!」
 母さんはそれを、私ほど重大なことだと思っていないようだった。
「何で先生に言わないの?」
 そう、何で私は先生に言わないかって、だって、私は教科書を持ってない人だもん。
 先生は私の先生じゃないもん。
「今日はないんだからどうしようもないでしょ。その子たちにそう言いなさい」

 トラックは早くもやって来た。
母さんは鍵を私の首にかけ、急いで外に出た。
一人で家の中に居たくない。私はドアに鍵をかけて、石段に座った。

 「学校は?」
 李班長が大きなお鍋を抱えて厨房から出てきた。鍋を洗ったあと、野菜の葉っぱが浮かんでいる水をそのままで石畳みに流した。
 水は石と石の間に浸みこむ。野菜は石の上で乾き、夕方箒で掃かれる。
「…、…」
 私はまぶしい太陽を眺めた。もう四月なんだ。
 やめようかな、学校に行くの。
「母さんも仕事に行ったのに、おまえはまだ学校に行かないのか?」
「…、…」
 本当のことを李班長に言ったら、なんと言って笑われるだろう。夜のネズミも怖がるし、友達もできない弱虫の子って?
「早く学校に行きなさい」
 李班長が優しかったのは。あの夜だけだった。あの夜が過ぎったら、李班長はいつもの李班長に戻った。
「早く行きなさい」
 李さんはお鍋を日によく当たるところに置き、裏を返した後、地面をつつくように片足を引きずりながら、私に向かってきた。
「こどもは学校に行かないと、悪い子になるぞ」
「嫌。今日は行けないだもん」
 私は、ぺたんとした薄っぺらのカバンをタオル代わりに、その上に顔をふせた。涙がボロボロと落ちた。

 「一緒に学校に行こう!」
 李さんは私の手を引っ張った。
 いやだよ!だって、家の人に言ったらいけないとあの子たちが言ったもの。こうやって大人を連れて行ったら、あの二人に余計に怒られる。
「何か怖いのかい?悪い奴がいたら、俺はこの手で殴ってやる」
「母さんが喧嘩をしたらだめだって言ったの。口で言いなさいって……」
「馬鹿なこと!俺は知識分子が大嫌いだ。言いあいばかりでは、何の解決にもならない。時と場合によっちゃ、喧嘩もいいことだ!ついてこい」
  頼りになりそうにない弱い大人が、私にくっついて学校まで来てしまった。
 断ればよかったのかもしれないが、私の方がもっと弱いから、断ることすらできなかった。
 登校口で少し待っていたら、いつも目がつりあがったように見える同じクラスの男の子がやってきた。鞄を手で振り回しながら、背の高い男の子と争うように走って来る。
「あいつらが来たら、ちゃんと俺に教えるんだ!」
 私は李班長の痩せていた方の足を見た。李班長も、役に立つ唯一の目で私を見ていた。
 李班長があの男の子たちにちゃんと勝てるか、とても心配だ。
 男の子は私の隣の人に気づいたようだが、足は止めなかった。
 私は走り去る二人の背中を指差して、「あの子達」と小さな声を漏らした。
「君たち!」
 李班長の健常な足が、力強く男の子の方に踏みだした。
「俺たちのこと?」
 呼ばれることを想定していたかのように、男の子達はピタッと足を止めた。
 同じクラスの子は身長の高い子を見上げて、半分笑った表情で振り返る。「毎日、この子からビスケットを取っただろう!」
「やってないー!やったとしても、あなたには関係ない!」
 大きい子は一歩前に出てきた。何歳だろう。李班長の背とそんなに変わらない。
「お前ら、そんなことして恥ずかしくないのか?」
 李班長は私を置いて、一人で前に進んだ。
「何だ!ただのビスケットじゃないか!食べたよ。どうだ~瘸子!」
「なんだと?瘸子?!もう一度言ってみろ!」
 李班長は大きい子の襟を片手でつかんだ。同じクラスの男の子は一歩後ろに下がる。
「こんな小さい女の子に手を出すなんて、おまえたちは男か?」
「男でも、女でも、お前には関係ない」あくまでも強気だ。
「この子はビスケットをいっぱい持っているじゃないか。俺達はただ分けってもらっただけだ!」
「分けってもらった?恥ずかし気もなくよく言えたな!それは分けてもらったじゃなくて、強盗だ。分かるか、強盗だぞ!侵略者と同じことをしたんだぞ!」
 侵略者!私は初めて、彼らが悪かったんだと悟った。
「この子は何も言わないのに。お前はだれなんだよ!」
 男の子は負けてはない。同じクラスの子は、強く大きい子の洋服を引っ張った。
「夕雨が言えない分、この俺が代わりに言うんだ!お前らは、農民だろう!農民は、農民らしく生きて行け!他人から奪うんじゃない、自分たちの力で作っていくんだ!」
「そんなの知るか!」
 やっと李班長の手からのがれ、二人の男の子は走り去ろうとした。
 その後ろ姿に、李班長は叫ぶ。
「覚えてろう!もう一度やったら、俺が許さんだぞ!言っておくが、こう見えても瘸子の俺は戦争中、弾に撃たれても敵を倒したんだ、怖いものは何にもない!」

 「言葉で言ってるだけじゃ、ここでは何も解決しない。分かる?たまにこうしなきゃいけない時もある」
 あの二人の逃げた姿を見て、李班長の顔に初めて私と同じような笑みが浮かんだ。

  それから、私はよく食堂に行き、李班長にまとわりつくようになった。
「忙しい!帰れ!邪魔だ」
 李班長は、ちっとも打ち解けた様子がない。
 しかし以前と違うのは、眉を額に結ばせながらも一声をかけてくれるようになったことだ。
「外で干した豆を鳥に食われないように番をしなさい」
 私は李班長の助手になった。

 趙姉ちゃんもそれを認めてくれているようだ。
 李班長はいつも忙しく、なかなか話してくれない。
 一番話せるのは、やっぱり一日が終わって、夕日を見ながら石段でたばこを吸っている時だ。
「あの……この足は本当に弾が当たって怪我したの?」
 私は棒のようにやせ細った彼の右足を見る。
 その時、李班長はきっとヒーローのようにカッコよかっただろう。
 国のために身を捧げるなんて。私にはそんなチャンスはやってこないだろう。
「…、…」
 たばこの葉は固まっていた。李班長はそれを取り出して、手で少しずつちぎった。
「その時、何て言った?」
 映画の中ではみんな、「国のために!」と叫んでいた。私は今、その肉声を聞きたい。
「怖かった」
「え?」
「仲間が死んだんだ!目の前で……」
「だから今、一人なの?」
「え?」
 煙草を入れる手が止まった。
「それはまた、別のことだ」

 「一人でここにいるの、さびしくない?」
 私は彼の髭を見る。髭はずいぶん白くなっている。
「一人、一人の人生があるんだ」
「私、李班長の班のメンバーになってあけようか…?」
 私を入れたら、この炊事班は二人になる。
 李さんを班長にしてあげるよ。だって、戦争のヒーローなんだから。
 私は李班長が「怖かった」と言ったことを忘れたかった。
「ぷっ」
 李さんが笑いを鼻から噴き出した。藁でかまどから火貰い、そのままたばこに火をつけた。

***瘸子***—-足の不自由の人

 

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