告られるは幸福なのか

※過去に書いたものを少しいじって再掲。
異性と気まずくなって、コミュニティを抜ける。
経験した人は、きっと少なくないはず。

息苦しさを感じることなく過ごせるメンバー。
そのうちのひとりに異性として見られて、告白されて。こっちはそんなつもり、なかったのに。

居心地のよかったはずの空間が、自分の安心・安全が確保できない危険地帯に様変わりする。

どんな選択をすれば、穏便にコトが済むのか。
苦慮するのは、どういうわけか告られた側。
断ることで、みんなに気まずい思いをさせてしまうのではないか。受け入れても、みんなとの関係が変わるんじゃないか。それでもしも別れたら、みんなとも離れてしまうのではないか…。

私だけが知らないところで、メンバー内で結託して「いけるよ」「頑張れよ」「あいつだってお前のこといい感じに思ってるよ」なんて盛り上がられてた日にゃ…!

断ると「思わせぶりなやつ」とか「コミニュティクラッシャー」とか、そんなふうに見られるのかな…と、膨らむ被害妄想。

もうここにはいられない、とひとりぼっち支度を始める。

異性とか抜きでみんなと楽しんできた時間を奪って、私の安息をおびやかしておいて、告白したほうは引き続き居心地のいい空間で失恋の傷を癒してもらう。

なんだよ。それは。告白される側って、幸せなご身分かな? いや、ありがたいけど、こんな私を。急に重たい感情をぶつけられた「被害者」なのに、すごく孤独な気がする。これから告白する人はたくさんの人を味方につけてから、好きな人に突然に感情をぶつける。これってけっこうな暴力じゃあないか? 居場所がなくなるかもって、怖い思いをする自分が間違いなのかしらん。

過去の経験から、「告られるって苦しい」と捻くれた見方をしてしまう。
この思いを未だにぬぐいきれないのは、どちらかというと両想いに憧れを抱かない性質ゆえかもしれない。

でもこのひねくれた意見には、告白する側がどれほど怖いかという視点が欠けている。

告白する側は、自分はあなたに惚れているので今の関係を変えてほしいという「お願い」をするわけである。

お願いをする立場は、強い立場ではない。
受け入れてくれるか、拒絶されるか、その答えを相手に委ねて待つ時間はきっと不安だらけで。

他人に自分の敏感でやわらかい部分を晒して、「さあご判断を」って、そうとうな勇気だと思う。
そんな勇ましい姿を突然に見せられても、こっちは望んでないから困るのに…という話ではあるけれど。

でも。だから。晒されたからには、告られた側も晒し返すべきなのだな、と思う。

こっそり逃げる準備を始める前に、自分にとってコミニュティがどんな空間なのか、そこであなたと接するのがどんな意味を持っているのか、言葉を尽くすべきだった。

友人とそんな話をしていて、「告白」を「終わりのはじまり」だと捉えてしまいがちな人は少なくないのでは、と思った。

#日記 #恋愛 #感情 #雑記

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