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諏訪地域の神社で御柱が立っている範囲を調べてみた ー序文ー

諏訪の町中を歩いていると目に留まるものがあります。それは御柱です。
神社の社殿の四隅には必ずと言っていいほど、木の柱が立てられています。稲荷社のような小さな祠にも、道祖神のような道端の石塔にも、結界を張っているかのように木柱が立ててあります。大きさは社殿や祠に応じて、電柱を越えるくらいの太さと高さがあるものもあれば、傘を地面に突き刺した程度のものもあります。あまりに洩れなく立っているので、諏訪地域内全ての神社や祠に立っているのではないか?という印象さえを受けます。

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御柱が立つ風景が、盆地内の様々なところで見られます

これらの大元となっているのが諏訪大社といえるでしょう。諏訪大社は諏訪湖周辺部に、上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮という4つの宮があります。それぞれの社殿の隅には御柱と呼ばれる4本の柱が立てられています。大きさは柱によって異なりますが、高さ15m以上、直径1m以上、重さ10t以上になります。

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諏訪大社下社秋宮の御柱

諏訪大社の御柱祭について

計16本の御柱は、6年に一度の御柱祭(寅年と申年、数え年で7年に一度といわれることも多い)のときに立て替えられます。八ヶ岳の麓の森などから切り出された御柱は、氏子たちの手で山から街へ曳き出されます。宮によって12~20㎞と差がありますが、川を渡ったり、坂を下ったりといった道のりを経て、諏訪大社の社殿の4隅に立てられます。氏子たちがまたがった御柱が、急坂を転げ落ちるシーンは、テレビなどで見たことがある人もいるのではないかと思います。

各地で行われる小宮祭

諏訪大社の御柱祭が申と寅の年の4~5月に行われた後、夏から秋にかけての間に、他の神社などでも御柱の立て替えが行われ、これを小宮祭と呼びます。1992年に長野日報が行った調査*によると、集落が主体となって御柱を立てる計画がある小宮は、263社あったそうです。それに個人が立てるものや、小さな祠や石塔のものを含めるとさらに数は増えていきます。実数を正確に把握することは難しいものの、総社数は700以上だとか、御柱の総数は3000本は下らないなどとも推定されるようです。さらにその調査当時にも御柱を立てる社の数は増加傾向にあったとか。それから30年”も”経ったのか、それとも30年”しか”経っていないのか、何とも言えないですが、御柱を立てることはこの地域の人々にとって、「古くからの伝統を絶やさないようにするもの」というよりかは、今もなお「暮らしの中に息づいているもの」となっている印象を受けます。

*上田 正昭,図説 御柱祭,郷土出版社,1998年

「諏訪」地域について

「諏訪」と呼ばれる地域は現在の自治体でいうと、西から岡谷市・下諏訪町・諏訪市・茅野市・富士見村・原村から成っています。明治時代に設定された諏訪郡の区域は、この6自治体の区域とほぼ一致します。また江戸時代には、高島城(諏訪市)に本拠を置いていた高島藩が、この地域一帯を治めていました。
また、諏訪盆地と呼ばれるように、まず諏訪湖を中心とした平地部分があって、その周囲は山に囲まれています。諏訪から外に出るためには基本的には、山を越えなければいけません。山の尾根は水の流れを分ける分水界であり、古くから、そして現在に至るまで地域と地域の境目とみなされることが多いところです。
つまり現在の6自治体の市町村境は、歴史的にも地理的にも、諏訪の内と外を分ける境界となっており、これまでもなってきた、とみていいと思います。

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出典:https://www.pref.nagano.lg.jp/koho/10koiki/suwa.html

御柱の風景は基本的に諏訪盆地内だけに見られるもので、天竜川を下って伊那盆地まで行けば御柱は立っていません。塩尻峠を越えて塩尻市に行っても同様です。と、ここで気になってくるのが、この御柱がどの範囲まで存在しているかです。

御柱が存在している=諏訪という認識は、大方間違っていないと思います。けれど周縁部どうなっているのか。諏訪内外の境界とは何か関連を持っているのかを調査してみよう、というのが今回の調査の趣旨です。

詳しい人に聞いてみた

さて、今回この調査をするにあたって、まずは下調べとして「諏訪市博物館」を訪れました。諏訪大社上社本宮から、道路をはさんですぐのところにあります。ここには「すわ大昔情報センター」という資料室が置かれていて、様々な文献資料のほか、学芸員の方も常駐しています(ちなみに資料室の一角にはジャンプがずらっと並んでいました)。

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諏訪市博物館。入口にも御柱のようなモニュメントが立っています

御柱について伺ったところ、
(1)諏訪地域内においてはいくつかの例外があるものの、全ての社に柱が立っていると考えていい
(2)江戸時代、高島藩領の飛び地が松本や塩尻にもあり、そこの社にも御柱は立っている
(3)全国的に見ても御柱がたっている諏訪神社などが数多く存在している
(4)各地域の御柱の管理や立て替え=小宮祭は、その地域の人々が自主的に行っている
などといったことがわかりました。

(1)~(3)を踏まえると、御柱がある範囲は思いの外広いようです。どこまで立っているかを調べようとすると、塩尻や松本、さらには全国にまで調査範囲が広がってしまいます。なので御柱と諏訪地域の範囲の関連性を調べるためには、「どこまで柱が立っているか」ではなく、「どこから立っていない社が出現するか」を調べた方が良さそうです。
(4)について、大社の御柱祭が氏子しか参加できず、どの地域の誰が御柱を曳くのかなどがきちんと決められているのに対して、小宮祭は子供が柱の上に乗ったり、観光客が参加できる場合もあるようです。

調査方法について

前述のとおり諏訪は盆地で、山に囲まれています。平野部で他地域と接している場合に比べれば、外に通じる道はそれ程多い訳ではありません。今回は、諏訪と外を結ぶ道のうちで、主要な4つを選んで調査することにしました。
①和田峠(国道142号 旧中山道・江戸方面)
②塩尻峠(国道20号 旧中山道・京方面)
③天竜川沿い(伊那街道)
④富士見峠(国道20号 旧甲州街道・甲府方面)

いずれも近代以前から街道が通っていたり、水運に用いられたりといったルートでした。

①和田峠と②塩尻峠は、かつて五街道のひとつであった中山道が通っていました。現在も国道に指定されている重要な交通路です。昔も今も山越えの道は地形的な制約を受けます。反り立つ山に対して、どのようなルートを辿って上っていけば、楽に早く越えることができるのか。徒歩、馬車、自動車など、時代ごとの交通手段によって、そしてトンネルなどの土木技術の進歩によっても、適当なルートというのは変わっていきます。このふたつも、旧中山道、旧国道、現国道というように、時代とともに道が移り変わっています。

③の天竜川は、諏訪湖の唯一の出口となっている川です。伊那街道は、五街道である中山道や甲州街道に比べるとマイナーですが、内陸国である信濃から海へアクセスする物流ルートとして、塩を供給するための重要路でした。

④の富士見峠はかつての甲州街道で、現在も国道20号が通っています。また、かつては信濃国と甲斐国、現在は長野県と山梨県の境となっています。八ヶ岳山麓の高原エリアで、①と②の峠に比べてかなり緩やかです。

もちろん山が横たわっているとはいえ、諏訪と外の地域を結ぶルートは現在では、国道、県道、そして地図に載らないような小さな道も含めていくつもあります。それらを洩れなく調査するとなると大変な労力と時間を要することになります。4つの主要な道に沿って調べることで、御柱の立地状況の大まかな傾向がわかるのではないかと思っています。

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