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母校の「伝統」とか「歴史」とか ⑴

2020/04/20 0:02
加筆、修正を行いました。当該部分については⦅⦆で囲みます。
また、多くの在校生にも読んでいただいております。
重ねて申し上げますが、この記事は、
現在応援団員として頑張ってくださっている人を侮辱することではなく、
「応援団」という伝統を無批判に受け継いできてしまったことを
侮辱することを目的として書きました。
どうか、現在応援団員として頑張っている人を侮辱したり、
いじめたりすることのないようお願い申し上げます。
そしてこの文章を通して、
応援団その他、筑紫丘高校にある「伝統」や「歴史」について、
考える機会にしていただければ幸いです。


最初に申し上げるが、
私は応援団に所属し、頑張ってくれた人に敬意を表する。
バカにするつもりは毛頭もない。
人というものは、⦅必ず⦆行為の中にやりがいを見つけ、
達成感を得ることで、自分を保とうとするものだ。

⦅戦争に駆り出され人殺しをした者を憎んではいけないように、⦆
応援団員としての役割を全うした者こそ、
もっとも憐憫の情を向けられるべきであり、
むしろ、この「伝統」を無批判に継承しようとする者に
憤怒を禁じえないのである。

応援団について

⦅筑高生は⦆入学して間もなく、応援団という、意味不明な咆哮をあげながら学校の繁栄をお祈り申し上げるカルト集団に出会う。(個人的解釈である。)


壇上にいる団長と思しき人の
トゥーイン、キエー!」【tu:in kie:】
(意味:全員起立 どうやら団長の操る言語は日本語から派生したものらしい。口にピンポン玉大の球体が入っていると意識しながら大声を出そうとすると団長語に似通ってくる。偶然かしら。研究はまた後ほど。)

という叫びを合図に2,3年生は一斉に立ち上がる。
新入生たちは、ざわつき、まだ仲良くもない隣の人と顔を見合わせていると、
応援団の指揮のもと、先輩たちは腰を折り全力で校歌を歌い出す。
鼓膜を破らんとする大きな怒号の集合体に、戦くばかりである。


それからしばらくすると、「校歌指導」というイベントが行事予定表に入っていることに気がつく。「あれ、入学前に一度も説明されていないのに」先輩たちからその悍ましさを耳にしてはいるが、それを避ける術は無い


そしてその時は、大きな足音とともにやってくる。

「(教室から)さっさでろー!」と謂れのない怒号を浴びせられ
(団長以外の構成員は辛うじて日本語を喋っている)、
列になって行進し、
前と間が空いたら「間空けんな!」と一喝、
間を空けるまいと小走りしたら「走るな!」とまた一喝されながら(全くもって意味不明)、
体育館下の蒸し暑い部屋にすし詰めにされる(所謂”3密”)。

そこで、新入生は校歌と応援歌を一生懸命歌う羽目になる。
なんどもなんどもこの二曲をループする中、
声が小さかったら眼前で怒鳴られ(飛沫感染)、
腰を十分に反れていなかったら腰を無理やり折られ(接触感染)、
床は生徒たちの汗が滴り(ジム等で懸念されていたケースの感染)、視界が朦朧になる(免疫力低下)。
その中で、失神してしまった生徒や、酸欠で立っていられなくなった生徒が次々運び出される。
(私たちの見本となるはずの先生方は、ただ見ているだけである。
疑問の声も上げず、「伝統」の二文字に依拠し、それに盲従することで、
自分から責任を遠ざけるのが正しい処世術だと、
生徒たちは苦しみをもってそこで学ばされる。)

40分ほど歌ったのだろうか。喉は枯れ、腰は痛み、疲労困憊。
そこでやっと解放される。

これが3日ほど続く。

外に出た途端、汗が冷え寒気を感じ、自分が先ほどまでいた阿鼻叫喚に気づかされ、ハッとする。そして「ハッとする」が薄れていくこの過程において、生徒たちは「筑高教」に染まり、「真の筑高生」に一つ近づくのである。(ってか真の筑高生とかいう一つの目標に向かうことを強要する時点で「自由の校風」なんてあったもんじゃないな)

自由闊達な校風とは

自分は実際に入学するまで、”自由”の意味を履き違えていた。
つまり、本来的な意味で、自由ということばを捉えていたのだ。
頭が良い人たちが集まるのだから、意味不明な規律や、無駄な課題の押し付けのようなものはなく、合理的で効率的に物事は進み、議論は活発、と。

しかしそれは、全く違うのである。

朝課外とかいう先生にも生徒にも全くメリットのない課外授業を始め、「靴下は何色だ」「女子のヘアゴムの色は何色だ」とかいう意味不明な規律。
その意味不明な規律に勇気を持って立ち向かった人には冷ややかな目を浴びせることしかしない。

「近隣の他の学校に比べて」自由である、というどんぐりの背比べ的発想で、「鞄や靴が指定されてない」「風紀検査がない」なんていうおべんちゃらから、「自由な校風」と名乗っていたのである。
恥ずかしいこと極まりない。
中学校の時は頭が良いと言われていたが、高校に入学した途端、(同じように頭が良いと言われてきた人たちの中で)落ちこぼれになってしまい、プライドだけ捨てきれず、「分からない」自分が認められず、拗らせてしまった人のような哀れさに似ている。

筑紫丘高校の本当の学風とは

筑紫丘高校の脈々と受け継がれる校風とは、
「先輩たちが味わってきた苦しみを「伝統」として美化し、後輩にも同じ苦しみを味わわせなければ気が済まない」
というものだろう。

校歌指導でいくら苦しい思いをしようが、後輩たちが同じ苦しみを受けないように努力するものはいない。
タンブリングのピラミッドで怪我人が出ても、黙殺され、次の年も変わらず続ける。(先生の間で続けるか議論になった際、存続を求める生徒たちが多くいたらしい。)

苦しかった記憶を「思い出」として美化する作業を否定するのではない。
しかしそれは個人のうちで行われなければならない。

もしその美化が個人の域を出て、集団を支配するようになると、
「思い出」は「伝統」へ変容を遂げ、後輩たちを大きく苦しめることになることを、忘れてはいけないのである。

次回予告(大運動会について)

長くなっても読んでくれる人が減りそうなので、
ここら辺で終わりにします。
次回は、「大運動会」について、

①タンブリング(組体操)について
②女子のダンスについて

の二つのトピックを通して、
我々が高校3年間を通じて目指してきた、
「真の筑高生(笑)になるには」という観点からお話しできればと思います。



本記事写真の引用元:http://chikushigaoka.fku.ed.jp/Default2.aspx

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