母校の「伝統」とか「歴史」とか ⑶

先日、ツイッター上で、我が母校についての記事を見つけた。


同学年のさかいというサッカー部の人が、應援團と運動会という、
筑紫丘では触れにくい話題を取り上げて、強烈に皮肉っているみたいだ。
それには賛否両論議論が巻き起こって、
彼は予想以上の反響に、一面では驚き、
また一面では、その二つがなくなる方向に事が進むかもと、
喜んでいるのかもしれない。
自分も「昔のことだ」と考えるのを放棄するほど忙しいわけでもないし、
自分も、彼の意見をベースに、自分の考えるところを述べようと思う。


⑴では應援團、⑵では運動会について書かれていて、
⑴の内容を要約すると、
「應援團はカルト的で、無意味な伝統に依拠した無用の長物である」
⑵の内容は、
「運動会は軍国主義的で、理不尽を押し付けるトラウマティックなものだ」
ということだ。


私は、一部に賛同し、一部に賛同できない。

それは彼の思考の道程を追いかけているのかもしれないし、
或いは少し先にいるのかもしれない。

應援團について

彼は、特に校歌指導という行事について書き立て、應援團の可笑しさを伝えようとしていた。

確かに、校歌指導とその実施方法に関しては、自分としても兼ねてから問題意識はあった。
自分にも、汗が滴り失神する人が続出するあの練習風景を「阿鼻叫喚」と表現するのを理解できないとは言えない。

しかし、その問題それだけで、應援團全体の存在を否定するのは、
やや飛躍したものだと考える。

部活動の応援に駆けつけ、夏でも長袖の学ランで、一生懸命応援する姿は、
個人的感想として、とてもカッコ良いと思う。
それは問題ないとして、

少なくとも彼らのおかげで、私たちは校歌を全力で歌うことができる。
そしてそれを初めて見た人は、ブワッと鳥肌が立って、なんとも言えない感動を覚えるのであるし、卒業生は、変わらない伝統に、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。

その感動は、1000人で歌う「第九」を聴いたときのようなもので、
うまく言葉にはできないけれど、圧倒的なものである。
この存在を否定することは、できない人が多いと思う。

また、伝統や懐かしさを感じた卒業生は、母校にさらなる親しみを感じ、
寄付をしてくれたり、社会人として講演してくれたりするかもしれない。

昔の生徒と今の生徒をつなげ、無言のうちに結束を生み出すのは、
「伝統」だとおもう。



彼はこの「感動」だとか「懐かしい気持ち」だとか、およそ理性的だとは思えない情感に身を寄せることを毛嫌いしているように見える。

しかし実際、人間の行動を決定づけるのは、
欲求という、理性とは真逆の位置に対峙するものだと思う。
(「欲求に背く」ことを理性的だと捉えると、「欲求に背く」欲求は存在するから、真逆とするのは正確ではないが、その代わりとなる言葉が自分の語彙からは見つからなかった)

しばしば、睡眠だとか、ゲームだとか、SNSだとかの欲求に、
「せねばならない」という気持ちは負けてしまうものだ。


彼は、理性に価値を置くことを、
正しいことだと全く疑っていないようだが、
理性の脆弱さを、再考すべきだと思う。

もちろん感情というものを、理性的な道具である「文章」によって伝えるのは難しいが、
理性には太刀打ちできない「何か」の存在は、
彼に一年半交際している彼女がいることからも、認めざるを得ないものだと思うし、
「言葉」で伝わらないからこそ、校歌指導や運動会の類のことが行われている。



話を戻すと、
実施方法に問題はあるとしても、
人との繋がりや、人に感動を与える試みとして、
應援團と、校歌指導は、必要であると言えるかもしれない。

というか、「必要」と「不必要」を天秤に掛けたとき、
今のところ「必要」の方が少し重いと思う。


運動会について

運動会が軍国主義的だという意見は、(軍国主義という言葉自体との整合性はさておき)ある程度説得力のある意見かもしれない。
というか学校全体が、徴兵制が起源と言われる「体育会系」の風潮が強い。

「先輩・後輩」の関係も徴兵制のシステム上「そこにどれだけ長くいるか」で「上下関係」を形成させることが「集団の統率」を簡単にできたからだと推測できるし、

戦中の教育現場では、「徴兵に出しても恥ずかしくない人間を育成する」ことにある程度重点は置かれていたわけだし、戦争の終わった今も、いまだその色は抜けきれていない。

運動会から軍国主義時代の風習を取り除いていくことは、大事なことである。
そこには自分も賛同する。

しかし、まず、
リーダーズがしばしばモチベーションの低い層に無理解だ、という意見は、過言である。
改めるならば、彼らは、モチベーションの低いという事実だけ認めて、「なぜ低いのか」を考えることを放棄していると思う。

例えるならば、貧しい人に食事を与えて職を与えないのに等しい。
「なぜ貧しいのか」→「なぜ職がないのか」→「なぜ働けないのか」
というような思考の発展を、彼らは放棄している。

貧しい人に食事や金を与えても、表面的な援助にしかならない、という点は、全体を見る必要のある人間には心に留めて置かなければならない。

だが、その一点だけを取り上げて、彼らを「無能だ」と言い下げることには怒りを覚える。

彼らは運動会の成功と、生徒の幸せというトレードオフの中で、もがいているわけだし(成功を「生徒全体の幸せ」と定義すればいいのだが、しばしば教師たちの考える「成功」に抗うことはできない)、そもそもあれだけの大きなイベントを執り仕切ることは、リーダーズや運営委員が全力を尽くしてやっと達成できるような、至難なものである。

運動会に全力で取り組みたい人たちが不憫な思いをしないように、彼らは全力を尽くしている。

彼らは、両立不可能な二つの願いを、高モチベ層と、低モチベ層の、二つの側から求められる。
その時、先生から受けていた指導と通じる姿勢の高モチベ層からの意見の方が耳に入りやすいことを、責めることはできない。

責めるとすれば、この運動会のシステムを責めるべきである。
いや、⑴で、應援團員を責めず、応援団の組織そのものを攻撃していたから、⑵でもおそらく、彼は運動会という「システム」の話がしたいのだろう。それにしては言葉足らずではあるが。


最後に

皮肉というのは、彼にとって、
敵わない相手に一矢報いるための武器であるのかもしれない。

おそらく彼は、校歌指導で倒れていく友人を見て、辛い気持ちになったのだろう。

そして筑紫丘の用意する「運動会」だとかにかまけて勉強を忘れ、
結果受験に落ちたり、本来行くはずでない大学に行ってしまったりした人を見て、深く同情しているのだろう。


その自分が感じた悲しみを原動力にして、「應援團」と「運動会」という、一人では全く歯が立たない相手に、皮肉をもって一太刀浴びせよう、
という、途方も無い作業なのかもしれない。

もっと詳らかに言えば、
「なくなるはずのない」この二つに対して
それが在り続ける以上避けられない問いを投げかけ、
疑問を感じさせることで、
この二つの「伝統」が持つ権力を、なんとかして削ごうという試みか。



しかし「悲しみ」という感情を出発点にして、合理的に「應援團」や「運動会」を処理しようとするのは、その根拠が感情だという点において、やはり脆弱なものにならざるを得ないことには、留意しておかなければならない。


彼のその一太刀浴びせようというその気概には、同情を禁じ得ない。
ただそのために書いた二つの文章は、
一見理性的なように見えて、至極感情的な論調であることに、
読者は注意しながら読まなければならない。





いや、待てよ。

彼が本当にただ暇つぶしにそれらしい文章を繕って、
タブーに切り込んでセンセーションを生み出そうと考えて、
そうしてまんまと閲覧者数は2000人を超え、
賛否両論議論があちこちで巻き起こって、
その中で見つかった拙い文句に、
人々をニヤつかせる嫌味で反駁して、
そうやって生まれたハリボテの理論に対して、
本当のインテリから鋭い指摘を食らってあたふたなんかして、
熱心に考察した自分のような存在を、嘲笑ったりなんかして、
感情溢れるDMに、最もらしい返信をしてあげて、
表情が見えないのをいいことに、真面目風な文章なんぞしたためて、

應援團という自分から遠い存在のときは、
「もっとやれ」だの「僕もそうおもう」だの言うくせに、
話が運動会になり、リーダーズになった途端、
「この人は乱暴」だの「挑発的」だの文句を言いはじめる、
そんな都合の良い人間をたくさん観測しながら、
そんな「人が何かを叩いているのを見るのが好きだけど、いざそれが自分に向くと怒り出す」人間をたくさん観測しながら、
一つには面白がり、もう一つには絶望し、

これに関わってくれた人全員を皮肉るような、
一部の人にとって最高のエンターテインメントを提供できたと、
画面の前で、シニカルな微笑を浮かべているのだとしたら。






自分は怒りと皮肉とをもって、彼に次の言葉をおくりたい。





あなたはほんとうに、暇人なのだなあ。









やはり、もう一言だけ付け加えておく。


自分はあなたのような人間が、大好きである。

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