私に対する批判とその返答

先の記事を公開してから、様々な批判や文句が、自分の見えないところでも見えるところでも起きているし、DMも何件かいただいた
それには自分の挑発的態度が関係しているのだろうし(挑発的な方がいろんな批判くるかな、と狙った節はある)、まあ運動会自体を否定するような書き方に誤解した方も多くいるだろう。


その中でも、公開に踏み切ってくれたものを一つ引用して、それに対して建設的批判を付すことで、さらに自分の論を深めようという試みだ。
というか、自分はあえて運動会について未完のまま投稿し、
出てきた批判に反駁して自分の論を完結させようと考えていたが、
ぴったりな批判が見つかった。

引用は以下の色枠。著作権法における公正な慣行に従う。

まあなんていうかさあ、、筑紫丘生って良くも悪くも筑紫丘高校に固執してる人が多いっていうか
卒業して何年も経ってる人がさあ、何を今さら言って だから何?って思った
https://twitter.com/5xchidnfs2sqlfz/status/1259082572476239872?s=21

貴重なご意見ありがとうございます。
あとわざわざ開いて読んでくれてありがとうございます。

自分が先の記事を投稿するにあたり、このくらいの冷笑(皮肉とは区別する)はある程度の賛同を得られることはわかっていた。
このツイートを選ばせていただいたのは、単純にいいね数が多かったからである。


『固執』について

これについて、
「いや卒業して3年も経っていまだにツイッターの背景画像が運動会のやつに『固執』とか言われたくねえな
というお得意の嫌味の披露はここまでに控えておくとして、


この記事を書くに至った経緯や狙いを簡単に説明しておく。


まず、家にずっといて暇だから、
文章を書いておかないと脳が鈍る、とノート開設を思い立った。

最初は「京大」について書こうと思った。
そちらの方が身内にはウケるし、世間的にバズる可能性も高い。
だから最初は高校の同学年と京大生をターゲットに考えていた

だけど京大に、取り上げるほどおかしいことはないし、
ガオカのように雨漏りもトイレが臭くもない
京大は割と合理的で、
京大の入学式は学長の話の5分と学歌斉唱の10分で終わりだし、
トイレは綺麗で雨漏りもない。
自分の学びたいことは学べるし、質も高い。


それに比べて「筑高大運動会」は本当におかしい。
東京の友達にフィナーレの様子を見せたら爆笑された
「お前高校でこんなのやってたん」
って言われるけど、本当に自分でもそう思う

校歌指導もやばいぞ。
あんなの酸欠にして判断を鈍らせて服従させるっていう、
世紀の大事件を起こした某新興宗教と同じやり方だからな。

だから自分はターゲットを筑高生に変えて、先の二つの記事を執筆した。


側から『固執』していると見られるようなねちっこい文章が書けたなら、
非常に光栄なことである


『卒業して何年も経ってる人がさあ、何を今さら言って だから何?って思った』について

経緯についてはすでに話したが、この記事を書く動機について説明すれば、解決できる問題だと考える。
先にこの要約を読んでから下の文章を読むと、とても分かりやすい。
卒業してからしか気づけないことがある。お前に向けて書いてねえよ。



動機は明確である。
今ガオカに通う後輩たちに同じ思いをさせたくない。

自分は応援団の記事で予想以上に在校生の反応をいただいた。
だから先の運動会についての記事も、在校生に見てもらえる前提で書いた。

自分は本気で、
応援団や運動会をはじめとする、
理不尽な学校の体質で不幸になる人を減らしたい

と思っている。
この記事が在校生たちの考えるきっかけになってくれたら、
この上なく嬉しい

未来ある高校生が、この意味不明な苦役のおかげで、
学校に行くのが苦しくなったり、さらに体育科の授業が嫌いになったり、
一生障害を負うような怪我をしたりは、してほしくない。






別に運動会は、リレーとか大縄とかやって、「あいつ足速かったなあ」とか、「青ブロックのチアのダンスがよかったな」のイベントでよくないですか?
なぜあの暑い中何時間も外でだらだら整列の練習させられるんだよ。
軍隊か?戦争にでも行かされるんか?
そもそも筑紫丘の「伝統」って軍国主義時代の名残なのよ。
中にいて本当に楽しいのは「支配する権限を与えられた側」とその様子を観察する教師と保護者なんだよ。
そうやって味を占めた奴が自分にリーダーシップがあると勘違いして、イキリだす。(これには教師もリーダーの生徒も当てはまる)
みんながついてきたのは、お前のリーダーシップじゃなくて、軍国主義的システムのおかげだよ。
それをこうやって直接的に書かれるまで気づかないなんて、どんだけ国語力ないんだよ。『ちいちゃんのかげおくり』くらいからやり直せ。

というかこんな運動会それだけを批判してる文章じゃないことくらい読み解けよ、こういう日本の悪しき伝統を高校の運動会と応援団を例にして書いただけだよ、そんくらいの抽象化する頭なんてガオカ行っても手に入らないような高尚なものなのか?

運動会に興味ない生徒を、無意識のうちに下に見たりはしていないか?
そういう正義なんて、他のどこで役に立つんだ

応援団に怒られて何になる?「理不尽に耐える力」?
理不尽を是正する勇気の方が100億倍大事だ。


そもそも運動会は、「運動が好きな人」のためのものなのか?
そこのパラダイムの転換が、最も必要なことでは
「運動が嫌いな人でも楽しめる工夫」はどこにあった?







正直自分が在校中には、まだ「運動会」や「応援団」がどこかで役に立つかも、と批判しきる勇気がなかったが、
大学3年を過ぎた今、はっきりと言える。

あんなの、本当に無駄である、と。


その無駄なことに「楽しかったね〜」なんて付箋を貼って思い出として保存しておくのは個人の勝手だし、自分自身も楽しい経験だったが、
だからって、理性的批判を捨て、無批判に後輩にその悪しき「伝統」を継承するのは、賢くない。


自分の周りにも、そういう、意見に対して冷笑的な態度をとることを賢い所作だと勘違いしてる奴がいる。
だけど、同じく自分の大学の友達には、
本当に「日本をもっとよい国にしたい」というその一心で官僚を目指す人がいる。
「困っている人を助けたい」と、刑事弁護士を目指す人もいる。
成績も良くて、企業に行けば年収何千万なんて容易い人が、国を良くして、困っている人を助けるために、自分の時間を費やしてせっせと勉強している。


どっちを見習うかと問われれば、後者を自分は見習いたい。



卒業して高校を離れてからでないと、わからないことが山ほどある。
『今さら』ってなんだ。今だからこそ言えるんだよ。

最後に

最後に冷笑と皮肉、
(シニカルの訳語に皮肉的、
シニシズムに冷笑主義とあてられたせいで)
一見シノニム(同義語)に見える二つの語が、
実はアントニム(対義語)だと主張したい。

ジョルジュ・ビゴーの風刺画が日本史の教科書に載るのも、
それが冷笑ではなくて、皮肉という、建設的試みだからである。



それと、自分はこの文章を、
怒って書いているわけではない
「馬鹿」に「馬鹿」だとどれだけ婉曲的に伝えられるか、
という物書きの練習であり、
もともと書かないでおいた
個人的鬱憤を、皆に披露できてとても嬉しい


ここまで読んで、「馬鹿」なんて酷い言葉を、と思う方もいるかもしれないが、
そもそも「馬鹿」を下に見ている時点で
自分の価値観を今一度問うてみることをおすすめする。





と、誰かが申しておりました。









(正直バズりたいから書いただけ。筆者もこんなにバズるとは思わなかったよ。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?