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バンコクのヒンドゥー寺院で感じる異国の情緒と街中のヒンドゥーの神々

当たり前だけど、単純な国なんて1つもない。そこに暮らす人々が長い歴史を紡ぎ、様々な事情が絡み合いながら複雑化した文化は、知れば知るほど面白い。

ある日、自宅で友人に蓮の花細工(蕾の状態で花びらを折る)を教えてもらいながら「シーロムのヒンドゥー寺院に行ってみたい」と何気なしに話すと、

「まだ15:00前だし、これが終わったら行こう」

と、行くことになった。


ずっと気になっていたヒンドゥー寺院へ

95%が仏教徒のタイ(※細かく言うと色々あるが一応95%)、そんな国にあるヒンドゥー教の寺院。それだけで興味をそそられる。
マイノリティ文化に興味を持つ傾向は昔からのようで、随分前からバンコクには立派なヒンドゥー寺院があることを知っていた。にも関わらずビビりな私は「一人で行くのも寂しいなあ」と行ったことがなかった。

その時、すでに誰の目にも妊娠中であることがわかるお腹だった。「行きたい場所には今のうちに行かないと」という友人の優しさだったんだと思う。

バスに揺られること数十分。
この辺りのことは私に聞いてくれ!と言わんばかりの友人の後をトコトコついていく。

今回の写真はどれも質が悪く、ごめんなさい。
寺院前でお供え用の花を売っている。

空気が違う。寺院内で未知の体験。

お供え用の花を売る店がある。お香のせいだろうか。空気が変わった。
ふと前方を見るとカラフルなものが視界に入る。ヒンドゥー教特有の色使いだ。

完成までに10年以上もかかったらしい、極彩色の塔門(ゴーブラム)

通称ワット・ケーク(正式名称:Sri Maha Mariamman Temple)は1895年、南インドのタミル地方からバンコクにやって来たインド人たちによって建てられました。 ※ワット・ケークวัดแขกは直訳するとインド人寺

マレーシアに住んでいたこともありヒンドゥー寺院が珍しいわけではないが、信者さんの祈りを側で見ることはあっても "実際にお祈りをしてみよう" と思うことはなかった。信仰していない人間が立ち入るとリスペクトに欠ける気がしたからだ。(※私が勝手にそう思っているだけです)

かつてはヒンドゥー教徒以外は院内に立ち入ることが禁じられていたそうだが、
今は異教徒にも開放している。※撮影禁止

ワット・ケーク内を見渡すと、8割9割がタイ人だ。彼らがヒンドゥー教徒とは思えないが、祈る顔は真剣そのものだ。

友人は慣れた様子で靴を脱ぎお供えセットを購入した。
「異教徒の方もどうぞ」と両手を広げてくれる寺院に飛び込まないわけがない。友人の後をトコトコとついて行き、お供えセットを購入する。

ヒンドゥー教の原則に従って、
・寺院に肉の類を持ち込んではいけない
・月経中の女性は敷地内に入ってはいけない
・寺院内は撮影禁止など、いくつかの制約があります。

https://sanay.jp/sri-maha-mariamman-temple-wat-khaek/

実はこの後のことは断片的にしか覚えていない。ドキドキオロオロしていたことだけは覚えている。まさに私が初めての文化と接する時の状態だ。
小心者のビビリなので、アワワワワと心の中が焦りでいっぱいになるいつものやつだ。

バナナを一房いただいた

神様の前でロウソクと線香を立てお祈りをし、一番奥のヒンドゥー教僧侶に残りのお供物をお渡し、あれよあれよという間に終了していた。しっかりと覚えているのは、おでこにティカ/ビンディと呼ばれる赤い斑点をつけもらい、お水とヒンドゥー教の神様カード、そして大量のバナナを頂いたことだ。

ティカをつけてもらって喜ぶ私

この辺りはインドの商人で栄えた街だった

ヒンドゥー寺院がなぜここに?

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、シーロムは多くの外国人商人や宝石商の拠点となりました。この時期に、シーロム地区に宝石関連のビジネスが集積し、宝石取引の中心地として発展しました。

イギリスは18世紀中ごろからインドの支配を推し進め、その支配は1947年まで続いた。その間行われていたタミル人優遇政策とタミル人商人の関係性は分からないが、イギリス領インドから多くのタミル人商人がタイへ移住し、この辺りはとても栄えていたそうだ。

今でもこの辺りには宝石店が多く、しかも多くがインド系の商人であることから「歴史」が歴史ではなく「今」も続いていることが感じらるはずだ。

街中のヒンドゥー教の神々。タイとの関係は?

改めて外から見ると圧巻。

今回足を運んだヒンドゥー寺院(ワット・ケーク)は、インドからやってきた移民が建てたヒンドゥー教寺院で元々は信者のみに開かれた場所だった。

一方で、タイにいると明らかに仏教ではないヒンドゥー教の神々を目にする機会が多いのではないだろうか。

紀元前1世紀~2世紀「海のシルクロード」からやって来たインド人と共にヒンドゥー教が東南アジアに到達。東南アジアの多くの国でインド風のなにかを感じるのはそのためかもしれない。

タイでよく見られる小さな家のような祠(サンプラプーム)
元々はインドのバラモン教の習慣で精霊信仰や仏教とは関係がない

タイも例外なくインド文化の影響圏だった。
アンコールワットが元々はヒンドゥー寺院だったことは有名な話だけど、タイの遺跡にも元々ヒンドゥー寺院だったものが存在する。仏教が広く伝わる前の話だ。

ここで興味深いのが、緩やかに2つの宗教が混ざり合って・・・というわけではなく、タイにはヒンドゥー教を取り入れた決定的な時代があるらしい。
約300年続いたアユタヤ時代(1351年 - 1767年) だ。

ガネーシャが祀られている

スコータイ時代には仏教を用いて国を統治しようとした。(実際には仏教の研究が進み広く仏教が伝わった)しかし、アユタヤ時代に入るとと王の力をより強固なものにしようという動きが出てきた。人々の平等を説く仏教ではどうしても弱くなってしまう部分だ。

アユタヤ王朝時代には「王は仏教の保護者としての王」の思想をスコータイ時代から引き継ぎつつも、クメール帝国から「王は神の権化である」というバラモン(ヒンドゥー教)の思想を取り入れることで王そのものを神格化していった歴史がある。

この思想はタイ文化をヒンドゥー色に変えた。言語にはサンスクリット語からの借用語が増え、文学、演劇などではヒンドゥー的色彩の強いものが発生した。宮廷内の作法やしきたりなどにもこの傾向が顕著に見られ、国王に対する敬語としてのラーチャサップ(王語)を作り出し、オーンカーンチェーンナムの儀式に見られるような難解な作法を生んだ。

Wikipediaアユタヤ王朝

なんだか少しタイのことが分かった気になってきた。

現代も国王は「すべての宗教の庇護者」であり、仏教徒でなければならないと規定されている。一方でアユタヤ時代からの流れもくんでおり、現国王の戴冠式でもバラモンの儀式が執り行われたようだ。

一連の行事で最も重要な戴冠などの儀式が王宮であった。聖水で身を清めた国王は、バラモンの司祭から王権を象徴する品を受け取り・・・

朝日新聞

タイの中にヒンドゥーが刷り込まれてきた歴史を考えると、街中にヒンドゥー教の神々が祀られ人々が祈る姿はごく自然な気がする。

(タイ仏教の見解としては、ヒンドゥー教の神々は神話の産物として位置づけ、信仰の対象にしていないらしく、仏教寺院では装飾の一部だそうだ。)

一般人とガチ勢は別、といったところか?(単語のチョイスw)

「タイは仏教国」と言われることが多い。もちろん仏教徒が多い国なのは間違いないが、その複雑な状況を知れば知るほど面白い。
中国系の話や精霊信仰の話、まだまだ語り切れないタイの宗教観。タイでキリスト教の布教を許されたのは中華系タイ人のみだった歴史。だまだ知らないことだらけ。

そこに暮らす人々が長い歴史を紡ぎ、様々な事情が絡み合いながら複雑化した文化は

知れば知るほど面白い。


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