「渋谷系」とは何だったのか? 〜都市論と現代POPS史から読み解く〜 part.7

・ポストモダン消費とPARCO文化の関係性 

 part6にて吉見・北田は1970-80年代PARCO文化が高度な消費文化を顕在的に現したものと述べているが、この先行研究が仮に正しいとした場合、このPARCO的という「消費文化」が同時代における「ポストモダン消費文化」と類似していると考えることができる。この節では間々田の著書を参考に「ポストモダン消費」の先行研究を踏まえ、PARCO文化との関係性についても論じる。

 1970年、ボートリヤールは「消費社会の神話と構造」を著し、消費社会論という分野を世間に知らしめた。1980年以降になると消費社会研究は欧米諸国で盛んとなり、ポストモダニズムと結びついて研究がされてきた。

 ポストモダンという言葉は19世紀末に早くも利用されており、書物には20世紀になってから登場している。また芸術上および哲学・思想におけるポストモダニズムは一時期注目を浴びたものの、大部分の人にとっては縁のないものであり、1970年代になると感心が衰えていく。しかし、この衰えと対照的にポストモダニティへの関心が高まっていった。1980年年代以降、社会や文化が全般的にポストモダン的になったということである。

 間々田はこうしたポストモダン的な現象が指摘される中で、消費文化の中にポストモダン的現象が典型的に現れていると考えられた。この消費文化におけるポストモダン的現象の特徴について3つの事例を挙げている。まず、「脱合理主義」が挙げられる。具体的には繁華街をぶらつくなどの遊戯的な消費行動や審美化の追及などである。2つ目として消費の多様性、過去の参照などに見られる、「脱構築化」である。そしてシュミラークル的(オリジナルなきコピー)なものが盛んに生産・消費されるようになる「シュミラークルの優越化」である。この3点をポストモダン的な消費現象の特徴とした。

このポストモダン的な消費の典型的な例としてPARCO文化が当てはまる。

間々田はポストモダン的文化の第三の特徴として、シュミラークルの優越化を挙げているが、商業施設や商業空間においても、シュミラークルは数多く生まれていると述べる。こうしたシュミラークル的事例を、北田は渋谷に存在する「スペイン坂」を例にあげて論じている。

スペイン坂

博報堂のマーケッターであった紺野登は渋谷のスペイン通りについてこう言及している。

「この通りで私たちが目にするのは様々なスペイン性、リゾート性を表す記号である。…そしてこれらのほとんどは本当のリゾート地そのものではなく、あるステロタイプ化されたリゾートイメージからの引用である。従ってスペイン通りとはすでにあるシュミラークルそのまたシュミラークルなのである。」

 前節でも論じたように、70~80年代にかけて渋谷という街は西武-パルコの主導のもとテーマパーク的な消費の場として空間的に構成されていったと北田は述べる。その中でスペイン坂はこの時代の消費文化である「シュミラークルの優越化」を顕著に表している。

 PARCO文化の特徴として、街の文化をまるごと変えていったことが挙げられる。そうした中で公園通りの電話ボックスを欧米風にし、坂の名前も変えていった。しかしスペイン坂はスペインにある坂をそのまま日本に持ってきたのではなく、日本風にアレンジをすることによって渋谷という街に馴染んでいった。このようにして渋谷にあるもの全ては欧米の文化を模倣していき、日本人がイメージしているものにアレンジして渋谷における文化として統一されていったのである。

・カウンターカルチャーとしてのPARCO文化 三浦展の仮説

 こうしたPARCO文化の虚構の空間戦略、高度な消費文化について渋谷系ムーブメントとの接点とは逆に、消費社会研究家の三浦展は著書の中で二人の意見とは全く逆の意見を論じていることに気づいた。三浦はPARCO文化を消費社会の象徴として考えるのは間違いであり、PARCO文化の本質は1960年代後半のカウンターカルチャーにあると述べた。

 三浦と前者2人の大きな違いとして、三浦は1982~1990年の間にPARCOに勤務しており、実際にPARCO文化を直近で感じている。三浦は当時の入社試験を回想し、PARCOの印象を聞かれた際、自由でアウトサイダーな雰囲気のある表参道のような露店と答え、意外と的をえていたのではないかと語った。そして1980年以降拡大した都市文化とPARCO的(露店的)な都市文化を「システム」対「反システム」とした。システム的な都市文化はパノプティコン的な管理社会型の文化とし、それに対し反システム的な都市文化とは管理を嫌う神出鬼没なゲリラとしている。1970年代の新宿西口にいた昔ながらの占い師が、高層ビルが立ち並び無機質となったそこに存在していたことで面白さを出したことを一例に挙げ、こうした「反システム」なことが都市のヒューマニズムを生み出したと考える。PARCOの立ち上げ人である増田通二と堤清二は渋谷を何度も訪れ歩いたというが、こうしたヒューマンスケールレベルからのアプローチがあったからこそ公園通りが作り変えられたと考えた。

またサラリーマンとしてPARCOに在籍した経験から、「1980年代-消費社会-PARCO公園通り」という吉見から北田へと受け継がれたPARCO文化のイメージを真っ向から否定し、このような「古典的」な考えが踏襲されていることに疑問を覚えている。

 さらにPARCOが空間を虚構化し、消費者をコントロールする「ディズニーランド」のような空間ではないとした。増田は「ディズニーランドに住んだら気が狂う」と対談で述べており、ショートケーキハウスの立ち並ぶ住宅地の気持ち悪さも指摘している。そういう感覚の持ち主が都市の虚構空間化・ディズニーランド化を進めるだろうかと疑問視する。さらにディズニーランドの虚構的な空間の魅力を1980年代において中心的に展開した吉見俊哉が公園通りというお手頃の素材を活用して、勝手に語られたと述べた。吉見や北田は「パルコの宣伝戦略」(1984)を唯一の論拠としているが、PARCOには他にも多くの都市論があり、三浦が編集を務めた「アクロス」と呼ばれる消費イデオロギー雑誌を見ればPARCO文化=虚構の消費空間であることが誤っているとすぐ気づくことができると論じている。

・part6.7のまとめ

 ここまで吉見・北田・三浦によるPARCO文化分析について先行研究調査を行ってきたが、吉見・北田はPARCO文化を1970年代そして1980年代における消費社会と見ていた。前者は公演通り周辺を中心として「現代的」な都会人が「見る・見られる」といった関係性を持ちながら舞台を作り上げていったと論じ、そこに高度化された1970年代の消費社会の特徴を見た。後者は吉見論をベースとしながら1980年代に入ってからも、渋谷・公園通りはPARCOの「広告都市」として若者たちを「演者」に仕立て上げたと述べている。また両者とも1980年代におけるPARCO文化を東京ディズニーランド的な空間戦略であると述べている。

 その一方、三浦は高度な消費社会空間の象徴としてのPARCO文化を否定し、自らの勤務経験を元に1960年代のカウンターカルチャーにその本質があると述べた。

参考文献
間々田孝夫、2007、『第三の消費文化論 モダンでもポストモダンでもなく』、ミネルヴァ書房
三浦展、2006、『自由な時代の不安な自分』、晶文社
三浦展・藤村龍至・南後由和、2016、『商業空間は何の夢を見たか』、平凡社

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