心理機能を鍛えるという発想がなんかイヤなの、言葉にしてみる

こんにちは。

最近なんか
モヤっとしてるお話ばかり
してる気がします。

モヤモヤしてるんだと思います。
(なんとか構文)

えっとそれで。
懲りずに
お気持ち表明するんですが。

類型眺めてると
結構見ますよね?

何とか機能が弱いから云々
どこそこ鍛えて億り人

みたいな。


そんな強く主張したことは
ないですけど
自分の記事でも
ちょくちょく言ってたりします

イヤなんですね
この発想


このモヤモヤは
なんだろ~?って
ちょっと言葉にしてみたら
分かりました。


自然物が好きだから
自然の摂理に反することが
半ば自動的に不快で

「心理機能を鍛える」が
「野生動物に服を着せる」みたいなのと
同じカテゴリーに入ってる。

ゆーて
都会のマンションで
不自由なく暮らしてる私は
人工物と人為に囲まれてるわけで
最大限
その利益を享受してるのだけど

心って
私的にはあるがままで
いいはずのものって
思いが強くて

自分の中にありながら
どこか自然物と
同じような捉え方を
私はしてるみたい。

だから
それが自然の摂理で
生きていく中で
環境に揉まれて

雨が川を作るように
氷河が大地を削るように
移ろい
変わり行くのは
いいと思えるのだけど

そこにダムを作って
湖を作って

っていうのが
どこか無理を感じてしまうし

自然に反すれば
その歪みの報いを受けると
私は思ってしまう。

これもスケールを変えて
地球や宇宙から眺めれば
そのような人為もまた些事で

転んだときにできた擦り傷に
かさぶたができて

あるいは朽ちた木に
きのこが生えて

あるいは沈んだ鯨に
ヤツメが群がって

やがて分解されていく

だから
何が自然か人工かなんて
どうあがいたって
自然しか存在しないんだって

そう考えることもできるとは
思うけれど


やっぱり、なんかイヤ。

心とは
あるがままに流れていて
由縁があって意味があって
今の形になったもの。

それがもっとも
美しいのではなくて?

人の心の動きに
一定の説明を
つけられるようになった

それは間違いなく
先達の叡智で
ありがたく享受するものだけど

本当のとこ
人間は人間のこと
たぶん分かってないし

古代の何もない頃のほうが
却ってその事実を重く受け止めて
外界への敬意があったかもしれないね

犬は猫になれないし
腎臓は肝臓になれない

それは別に
忌むべきことではなくて
ただそういうもの

私はそう思う

私は心も身体も
外の自然物と同じで
あるがままに委ねたいと
思っていたんだね

何より心を歪めたくない。

でもそうね
賢い猫ぐらいに
なろうとしてみるのは
あるかもしれないし

私の考えも
単に究極の怠惰なだけかも
しれないから

考え方とか
その意味にもよるかも
しれないね

おしまい。

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