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レヴィナス思想史—その試みと挫折


概論

はじめに

本稿は、学問バー@新宿のイベント(02/23)「哲学対話、レヴィナスに向けて、レヴィナスと共に」でお話しするレヴィナスの思想について、実際にプレゼンする内容よりも詳細に記述したものである。

レヴィナスの思想「について」と書いたが、レヴィナスの思想「について」語ることを、おそらくレヴィナスは倫理的に異議を唱えるだろう。後段で見ていくように、他者を対象化する営みは<私>を分離された自存的存在たらしめる上で必要不可欠だが、そうする行為は常に<他者>からの審問に曝されており、そのようにして存在する我が身は全面的に<他者>に曝されることになる。

このような問題を踏まえ、学問バーへのタイトルを「レヴィナス『に向けて』、レヴィナス『と共に』」とした。だが、この態度もまた不当である。というのも、そういう風に語ることによって、結局のところ「「レヴィナスに『向けて』について」、「レヴィナス『と共に』について」語ることになってしまい、最初の問題へと舞い戻ってしまうからである。

しかしそれでもなお、例え幾度挫折しようとも、<私>はここに存在し続けるし、その存在は<他者>に曝され続けている。だから、挫折し続ける他ない。

以下に書くことは、最後には全て取り消し線が引かれるであろう、長い長い挫折の記録である。レヴィナスに向けて、レヴィナスと共に挫折するとはいかなる経験であるか、お時間があればお付き合いいただけると幸いである。

レヴィナス——その生涯

はじめに、彼の簡単な経歴を振り返っておきたい。

彼、エマニュエル・レヴィナスは、1906年リトアニアのコヴノ(現在のカウナス)に生まれる。

厳格なユダヤ人であり、書籍商だった父イェヒエルと母ドゥヴォラは、息子エマニュエルを含む3人の子に最良の教育を与えるよう努めていた。実際エマニュエルは、6歳の頃から家庭教師にヘブライ語を習い、(母語はロシア語であるにもかかわらず)イディッシュ語で話す両親の言葉を理解するように躾けられていたと言われている。

第一次世界大戦勃発(1914年)後、レヴィナス一家は故郷コヴノを離れ、ウクライナのハルキウへと至る。現地のロシア人中学校に入るには、5名という厳しいユダヤ人定員制限を乗り越える必要があったが、エマニュエルは見事この難関に合格してみせた。

中学校で彼は、プーシキンやドストエフスキー、トルストイなどのロシア文学を熟読し、修正失われることのない彼の文学への愛好の礎を築いていく。『レヴィナス著作集』の第3巻には、青年期エマニュエルが遺したロシア語の詩・小説・散文が多数掲載されているので、ご興味ある方はぜひ手に取ってみていただきたい。

二月革命・十月革命・ロシア内戦などの動乱期を経て、レヴィナス一家は1920年にリトアニアに帰ってきた。そして1923年、エマニュエルは、フランス最東端のストラスブール大学に入学し、本格的に哲学の研究を開始する。

ストラスブールの地にて、彼の研究人生を決定づける一人の人物との出会いがあった。その人物こそ、現象学の祖、エトムント・フッサールである。
彼の『論理学研究』に魅せられたエマニュエルは、現象学を博士論文の主題に設定し、現象学の「本場」だったドイツのフライブルク大学に留学する(1928年)。現地にてフッサールとハイデガーから手ほどきを受けて帰国したエマニュエルは、1930年、博士論文にして最初の公刊図書である『フッサール現象学の直観理論』を発表した。本書はフランスにおける最初のフッサール研究書として認められ、エマニュエルはフランス現象学の紹介者として評価されるようになっていく。

同書の発表と軌を一にしてフランスへ帰化し、ソルボンヌ大学に籍を置いた彼は、ジャン=ヴァールやサルトル、ポール・リクール、エティエンヌ・ジルソンなどと交流を深めつつ、プライベートでは幼馴染だったライッサと結婚し、二児をもうけるなど、多忙ながらも充実して幸せな日々を送っていた。

しかしそんな日々も長くは続かなかった。数千万の命を奪った第二次世界大戦の戦禍が、彼の身にも無慈悲に降り注ぐこととなる。
1939年8月27日、エマニュエルはドイツ語・ロシア語の通訳兵として招集されるが、所属する部隊が1940年6月18日にドイツ軍に降伏したため、彼はドイツ軍の捕虜となる。

ただ彼はユダヤ人としてではなく、フランス軍兵士として捕虜になっていたため、アウシュヴィッツ=ビルケナウなどの絶滅収容所に送られることはなく、フランスおよびドイツの捕虜収容所で終戦までの期間を過ごすことができた。

捕虜収容所での労働は肉体的に厳しいものだったが、比較的自由な時間もあり、その時間で彼はヘーゲルやルソー、プルーストなどを濫読しながら、戦後思想の土台を形成していった。実際、1947年に出版された『実存から実存者へ』は、大半が収容所で書かれたものだったことが明らかになっている。

戦後、収容所から解放されたエマニュエルに待っていたのは、妻ライッサと娘シモーヌの無事の吉報と、両親と二人の弟がナチスに虐殺されていたという残酷な訃報だった。自分の周りの全てが無くなった/亡くなったのに、それでも何かが存在し続けているという過酷な事実——この経験が、『実存から実存者へ』の鍵概念である「ある」(イリヤ)へと結実していく——と向かい合いながら、「それでもなお/全てに抗して(malgré tout)」彼は東方イスラエリット師範学校の校長として、世界中からやってくるユダヤ人子女たちの教育に尽力した。

1950年代のエマニュエルは、教育者としての仕事をこなしつつ、意欲的に哲学およびユダヤ教研究に勤しんでいた。

この時代の彼に多大なる影響を与えた伝説的人物として、「シュシャーニ師」がいる。本名不詳、出自不詳の放浪者だった彼は「シュシャーニ師」と呼ばれており、驚異的な記憶力を持っており、タルムードやカバラーの細部まで漏らさず一言一句暗唱することができたと言われている。エマニュエルは彼の手ほどきを受けてタルムードを学び、その研究がやがてフランス語圏ユダヤ知識人会議における「タルムード講話」へと引き継がれていくこととなる。

また、当時アカデミズムの外で研究していたエマニュエルに哲学者としての活動の場を与え、後の彼の仕事の基礎となる場を授けた人物として、戦前からの知人であるジャン・ヴァールがいる。
エマニュエルはヴァールが主宰する「哲学コレージュ」というフォーラムに招かれ、のちに『時間と他者』にまとめられる4つの連続講義を皮切りに、1947年から1964年にかけて継続的に登壇することになる。これらの講義の記録は長らく未公開だったが、2009年から2016年にかけて刊行された『レヴィナス著作集』の第2巻に収録されたので、現在では誰でも読むことができる。

1950年代の仕事をベースとして、1961年、エマニュエル・レヴィナスは彼の第一の主著となる『全体性と無限』を国家博士論文としてソルボンヌ大学に提出した。また同年それはマルティヌス・ナイホフ社の「現象学叢書」の一冊として公刊された。

本書の存在は、既に世界的な思想家として知られていたジャック・デリダが1964年に発表した『エクリチュールと差異』に所収の論文「暴力と形而上学」において広く知られることとなる。「暴力と形而上学」においてデリダはレヴィナスの思想の卓越性を見出し、精密な読解によってその到達点を評価するとともに、その重大な難点を示し、エマニュエルの第二の主著となる『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』執筆の契機を与えた。

1960年代は、エマニュエルが哲学者としてのプレゼンスを高めていった時代であるのと同時に、ユダヤ思想家としても幅広く認知されるようになった時代でもある。哲学コレージュと並行して活動していたユダヤ人共同体向けの仕事がこの時代に『困難な自由』にまとめられ、1963年に発表されている。
また、フランス語圏ユダヤ知識人会議における「タルムード講話」のうち、最初の4つが『タルムード四講話』として整理され、1968年に公刊されている。この続編としてのちに『タルムード新五講話』が発表され、この60年代を通して、哲学者としてもユダヤ思想家としてもエマニュエルは大家として認められるようになった。

『全体性と無限』刊行後の一連の仕事——そこには「転回」と呼ばれる思想的な転換ないし深化があった——を経て、1974年、エマニュエルは第二の主著『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』を出版する。
この頃から彼の知名度は世界的にも極めて高いものとなり、フランス国内に限らず、オランダやアメリカ、イタリア、ベルギーなど各国のシンポジウムに出席し、精力的に講演・執筆を行うようになった。この時期の講演は『聖句の彼方』や『観念に到来する神について』などに収録されているので、気になる方はご一読いただければ嬉しい。

1980年代は、ソルボンヌ大学を退官したエマニュエルの思想についての研究が本格化していく時代である。レヴィナスを主題としたシンポジウムや雑誌特集がこの時代に多く組まれ、1990年代以降の本格的な研究書発表の基礎が構築されていった。
この時代の彼の仕事の多くは講演とインタビューによって構成されている。それらは『諸国民の時に』や『タルムード新五講話』に収められているので、ぜひご覧いただきたい。

リトアニアでの生誕、ロシアへの移住、ドイツへの留学、そして2つの大戦とジェノサイドを経て、パリにて思想の華を開かせたエマニュエル・レヴィナス。彼の生は、1995年12月25日——キリスト教徒にとってのクリスマス、そしてユダヤ教徒にとってのハヌカーの最終日——、静かに幕を下ろした。死没の2日後、パリ北東部に位置するパンタン墓地にて彼の葬儀が行われ、近親者や友人、教え子が集う中、彼の特に後半生に多大なる影響を与えたジャック・デリダが弔辞を読み上げ、「アデュー」(Àdieu:神に-向けて、今生の別れ)を彼に告げた。その言葉は、デリダが亡くなった2004年に『アデュー:エマニュエル・レヴィナスへ』と題された論集の冒頭にまとめられ、デリダのレヴィナス読解(そしてレヴィナスへの敬愛)を知る上での重要な資料として広く親しまれている。

もうすぐ没後30年を迎える中で、レヴィナス研究は国内外でますます活性化している。生誕100年を迎えた2005-2006年には、フランスを中心とする多くの国でレヴィナスを主題とする国際シンポジウムが行われ、また英語圏の研究者を中心に『レヴィナス研究』が創刊され、現在に至るまで刊行が続けられている。

日本においても、2010年に若手研究者を中心として「レヴィナス研究会」が立ち上がり、2018年には「レヴィナス協会」へと改組され、2022年には法政大学出版局から『レヴィナス読本』という大著が刊行され、レヴィナス思想をめぐる最新の研究成果がテーマごとに確認できるようになった。

本発表もかなりの程度『レヴィナス読本』の成果を基盤にしている。私のこの発表、そしてこの発表を聞いておられる方々の今後の研究の蓄積が、いつの日か公刊されるであろう『続:レヴィナス読本』の礎となれば幸甚である。

レヴィナス——その哲学思想


レヴィナスの生涯について一通り見てきたが、ここからわかる通り、彼は単に哲学者であるだけでなく、教育者であり、ユダヤ教徒であり、文学者でもあった。従って哲学的思想だけを取り出して彼を語るのは不適切であるが、時間の関係もあるので本日は哲学者としての彼の側面についてのみ概説することにする。

レヴィナスの経歴を踏まえると、彼の哲学的思想は大きく以下の4つの時期に分類できる(カッコ内は各時代の代表作)。


  1. 1930年代:フッサール、ハイデガーを中心とする現象学受容(『フッサール現象学における直観理論』、『逃走論』)

  2. 1940年代後半:<ある>(イリヤ)の恐怖とそこからの脱却についての主張(『実存から実存者へ』、『時間と他なるもの』)

  3. 1960年代:<他者>の「顔」を起点とする倫理学的思考(『全体性と無限』)

  4. 1970年代:「ディアクロニー」(隔-時性)および「痕跡」としての<他者>との関係(『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』)

少し長くなるが、各時代の思想の概要を追っていくことにしよう。

<ブックガイド>

  • レヴィナス協会 (2022) 『レヴィナス読本』、法政大学出版局。

    • 上記の来歴の記述は、本書の第一部「来歴」の記述を元に編纂している。

  • マルカ、サロモン (2016) 『評伝レヴィナス——生と痕跡』 、小手川正二郎・斎藤慶典, 渡名喜庸哲訳、慶應義塾大学出版局。


第1期:現象学紹介者としてのレヴィナス

ふつう、レヴィナスに固有な哲学思想の紹介がなされるとき、戦前の思想について触れられることは多くない。戦前の仕事はフッサールやハイデガーの現象学の仕事をフランスに紹介したという点に尽きており、彼の独自性を語る上では参考にならないと考えられることすらあるのが現状である。

しかし、まさにレヴィナスのその仕事こそが、哲学者レヴィナスの特異性を示すものでもある。彼の友人であるジャン=リュック・マリオンは、20代にしてフランスにおける現象学者の地位を築いたレヴィナスについてこう語っている。

「レヴィナスは現象学を、ほとんど同じ時、それが生成するのとほとんど同時にフランスに持ち込み、その知的風土に馴染ませたのです。今や現象学は、私の見るところ他のどの国よりも、おそらくはドイツ本国よりも、このフランスにおいて一層活力に満ちた哲学運動になっているわけですが、この極めて例外的な移植の根源にいるのは、したがってレヴィナスなのです」(マルカサロモン[著]、斉藤慶典・渡名喜庸哲・小手川正二郎[訳](2016)『評伝レヴィナス——生と痕跡』、慶應義塾大学出版会、60-61頁)。

レヴィナスについて話すためには、現象学の「この極めて例外的な[フランスへの]移植の根源」である『フッサール現象学の直観理論』について触れなければならない。そこで以下では、本書の概略について、簡単に説明することにする。

本書の要諦は、フッサール現象学における直観理論が、意識の存在論、そして意識を対象とする哲学的直観=反省によって基礎付けられているという指摘に尽きる。
フッサール現象学においては、どんな対象も意識によって構成されており、対象の存在の仕方と、その対象の意識への現れ方は等号で結ぶことができる。このような対象の存在の意味の基盤には、あらゆる対象を構成する意識の存在の意味をめぐる理論があり、それゆえにフッサール現象学の根源は意識に対する直観=反省であるというのが、本書におけるレヴィナスの主張である。


もう少し細かく内容を見ていこう。本書の本論は7章構成になっており、前半部(1章〜4章)は現象学的存在論を扱い、後半部(5章〜7章)では直観理論が展開されている。


1章と2章では、「事物」と「意識」の知覚の違いが論じられている。自然科学の対象である事物は、そのつど一定の射映=側面(aspect)を与え、刻々と変化していく一連の射映を通して同一のものとして知覚される。しかし、事物の射映の系列は決して完結せず、その知覚は決して十全的にならない。そのため事物は、「存在しないことがありうる」という様態でのみ存在することになる。これに対して意識は、知覚に対して射映を通してではなく直接的に現れる。内在的知覚は十全的であり、それゆえ意識は絶対的に存在する。この意味で、意識こそが存在の源泉であるとレヴィナスは考える。


3章と4章では、意識の志向性の対象範囲について、レヴィナスとフッサールの立場の違いが指摘されている。レヴィナスは『イデーンⅠ』に依拠しつつ、フッサールにおいて「自我」は意識の実的対象であり、それゆえ理論的意識だけでなく、感情や意志などの非理論的意識もそれぞれ独自の志向性を持っていること、従って現象学において世界は単なる事物の総体であるわけではなく、価値や関心によって彩られた豊かな構造を保つことを指摘している。
しかしながらフッサールは、表象だけが対象を与える「客観化作用」であるという主張を放棄せず、結局のところ理論的対象のみを世界の基層としており、この点をレヴィナスは批判している。


後半部の冒頭5章では、フッサールの直観理論の基礎が説明されている。意味志向は対象を単に空虚に思念するだけであるが、直観はこの意味作用を充実化し、思念されている当の対象を現前させることができる。それゆえ直観はあらゆる存在様態の対象を相関者として、対象への意識の現前という真理の根源的現象と一致する、というのが本章の要旨である。


6章・7章では、この直観理論の対象が「本質」「意識」へと深化していく。まず6章では、経験的事実に対して、本質はア・プリオリであることが指摘され、さらに本質は形式的本質=範疇と事象内容を含む質料的本質に区別されるが、レヴィナスは質料的本質を存在の可能性の条件として理解していることが示されている。例えば三角形の質料的本質とは、三角形が第一次的に何であるかを規定する述語であるが、これは三角形の存在(存在すること)が可能になるために実現されるべき条件として想定できる。したがって、対象の質料的本質を扱う学は、その対象の可能性の条件を探る自然科学に対してア・プリオリな学となる。


最後の7章では、存在の本質直観に先立って、現象学的還元に先立ってあらゆる存在の定立が宙吊りにされているにもかかわらず、直観が存在に到達できるのはなぜか、という「理性の現象学」の問いが提起される。そこで検討されるのが、還元された意識=純粋意識を対象とする哲学的直観=反省の理論である。意識は常に自己へ現前しているがゆえに、反省は意識の存在を十全に捉える。このことが尺度となり、直観一般が存在に到達することが正当化されるとレヴィナスは考えた。

本書は、題名だけ見るとフッサール『論理学研究』に対する中立的な注解のように見えるが、第3章〜第4章において示されているように、レヴィナスはフッサール現象学に対する自分自身の明確な視点を持っており、その視点から、決定的な箇所でかなり厳しいフッサール批判を行っている。

彼は、理論的観想すなわち「表象」の立場に偏向するフッサールの「主知主義」を指摘して、人間の具体的生の次元にまで思索を掘り下げる必要性を強調している(第3章)。彼はフッサールの「意識」が「体験」であることから「生」の概念への通路を見出し、<存在>とは対象が意識に与えられる時の与えられ方、すなわち対象が<体験される=生きられる>仕方に他ならないことを明らかにして、生こそが存在の源泉であるという解釈を提示している。

本書の邦訳にて訳者の佐藤真理人が指摘している通り、このレヴィナスの解釈には、フッサールの純粋意識を「世界内存在」というあり方をしている人間、つまり「現存在」として具体化したハイデガーからの影響を見てとることができる。

ある種偏ったレヴィナスのフッサール解釈は、「フッサールを不当にハイデガー化している」として、本書発行から現在まで批判され続けているが、他方でこの解釈は現象学における志向性の対象範囲を拡張することに成功していると好意的に捉えることも可能だおる。

ところで本書において、批判の対象はフッサールの「表象」主義的現象学であり、ハイデガーの存在論はレヴィナス解釈の基盤としての役割を果たしこそすれ、批判されてはいない。しかし、「第一哲学としての倫理」を主張する後世のレヴィナス——特に『全体性と無限』以降のレヴィナス——の立場からすれば、表象を基調とするフッサールの「主知主義的」認識論も、存在者を捨象して存在一般を求めるハイデガーの存在論も、「他者なきエゴイズム」の立場として共に批判されざるを得ないことになる。

訳者佐藤氏によれば、後世のレヴィナスによるハイデガー批判は、本書におけるフッサール批判の延長線上に自ずと現れるものと解釈することができる。そういった点を踏まえると、本書はフランスにおける現象学受容の嚆矢としての価値を持っているだけでなく、レヴィナス哲学の発展の基礎として、極めて大きな研究価値を持っていると言えるだろう。

<ブックガイド>

  • レヴィナス、エマニュエル  (1994)『フッサール現象学の直観理論 』、桑野耕三・佐藤真理人訳、法政大学出版局。

    • 本書執筆時のレヴィナスとフッサール・ハイデガーとの関係については、「訳者あとがき」を参照している

  • 平岡絋  (2018) 「フッサール現象学の直観理論」『レヴィナス読本』、法政大学出版局、71–73頁。

    • 本書の各章の内容説明はこちらを参照している

  • マルカ、サロモン (2022) 『評伝レヴィナス——生と痕跡』 、小手川正二郎・斎藤慶典, 渡名喜庸哲訳、慶應義塾大学出版局。


第2期:<ある>(イリヤ)の恐怖とそこからの脱却を目指すレヴィナス

レヴィナスの最初の著作『フッサール現象学の直観理論』はフランスにおける現象学受容において極めて重要な役割を果たしたが、彼は1930年代のフランスにおいて現象学とハイデガー哲学に対して最も透徹した理解を示していた人物の一人だった。

しかし彼はハイデガーの盲目的な追従者だったわけではなく、ハイデガー以前に戻る=存在を存在者の中に混同させることはできないけれども、ハイデガーの「風土」に留まることもできない、という独自の方向性を既に持っていた。

戦時下においてフランスは、ハイデガーが入党したナチスに占領され、従軍したレヴィナスはフランス軍捕虜として収容所に捕囚される。その間フランスには、ヘーゲルとハイデガーの思想がドイツから流入し、「フランス実存主義」という一大思潮を形成していった。

レヴィナスが本書『実存から実存者へ』を公刊した1947年という時代は、ちょうどその実存主義が全盛期にある時——サルトルが『実存主義はヒューマニズムである』を公刊した時——だった。本書は、「実存」(l’existence)を冠にした夥しい数の書籍の一つとして当時の人々の記憶に埋没し、バタイユやブランショなど、ほんの少数の知識人以外には無視されていた。サルトルのノーベル賞受賞拒否に感動したレヴィナスが、彼に賞賛の言葉を贈った時、サルトルがレヴィナスの名を忘却していたというエピソードは、本書出版時の「忘却」を雄弁に物語っている。

前置きはほどほどにして、訳者西谷修が「あまり見通しが良いとは言えない」(234)と評している本書各章の内容を、彼の解説に従って見ていくことにしよう。

序章および第1章「実存との関係と瞬間」においてレヴィナスはまず、「瞬間」(l’instant)が不可分なものではなく内的に分節されており、その中で「実存者」(l’existant)の誕生という出来事が起こっていることを示している。しかしこの出来事は、ハイデガーが言うであろう「本来的実存」(本来性を回復した現存在のあり方)の誕生を意味しているわけではない。

「実存者」の誕生とは主語が述語を支配するように、主体が存在を支配して立つことですが、この主体は自らの実存を重荷として引き受ける従属者でもある。従って、「実体化すること」(hypostase)とは「下に身を置くこと」(hypo-stase)として意味づけられる。

存在することとは自らを所有することであり、所有物となった自らの重みに苦しむこと。これが実存することの基本構造であるとレヴィナスは指摘している。さらに、疲労や怠惰といった実存の様態によって、自らを所有することで存在するという実存の二重性、自我の自己への繋縛が顕になることが示され、実存とは既にして一つの行為であり、そこから逃れることができないことが明かされている。

この逃走不可能性の検討が本書の主目的であり、以降の各章ではこの実存者のあり方が、実存者が実存する「世界」(第2章「世界」)、実存者がそこから生まれる「ある」(il y a)(第3章「世界なき実存」)、そして「ある」を「自己」として抱え込みながら主体が定位される出来事としての「実体化」(hypostase)(第4章「イポスターズ」)という3つの局面がそれぞれ記述されることになる。

第2章「世界」においてレヴィナスは、「世界」を(ハイデガーのように)志向性によって認識の次元で構成された世界としてではなく、それ事前に一義的な欲望としての「志向」に与えられたものとして見出す。

ハイデガーは世界内の諸事物を「道具」として捉え、道具としての諸事物との関連の中に位置付けられた現存在=主体のあり方(「世界内存在」)を「頽落」として位置付けたが、諸事物は道具である以前に欲望に供される「糧」(nourriture)であるとレヴィナスは考える。主体が「投企」されているのは、貧しい非本来的な世界ではなく、「糧」に満ちた豊かな世界であるとして、レヴィナスはハイデガーの「世界」規定を転倒させている。

とはいえ、糧に満ちた世界への浸潤は「下に身を置く」(hypostase)としての主体にとって時として「重荷」となり、疲労をもたらす。その重荷から身軽となる上で、意識の志向性は重要な役割を果たす。志向的関係とは世界との隔たりであり、諸存在を対象として外在化させながら、志向性の「光」のうちに回収・支配する営みであり、自我に「手ぶらの所有」を可能にするからである。ハイデガーは志向性の連関に現存在が位置付けられることを「頽落」として批判したが、レヴィナスは意識の志向性に対して、主体の重荷を軽くするものとして肯定的に評価している。

以上のように、第2章「世界」においてレヴィナスは、ハイデガーとの距離感を示しつつ、主体の実存の仕方を説いている。そして続く第3章「世界なき実存」では、第2章とは対照的に、主体の定位が不安定になるような限界的状況が論じられている。

本章でレヴィナスは、芸術による諸対象の「世界」からの分離と「世界」の想像的な無化による「ある」(il y a)そのものを記述している。
ここで言う「世界」とは事物との関係であり、第2章で述べられていたような「糧」との関係、あるいは志向対象としての事物との関係の総体を意味している。現代芸術の試みとは、この「世界」を瓦解することであり、「世界」の諸事物との連関から引き離された実在それ自体を示すことにあるとレヴィナスは言う。

「世界」から引き離される時、実在それ自体は不気味で捉えどころのない物質性として提示され、そこには「存在の不定形の蠢き」である「ある」(il y a)という事実が示される。
意識が「ある」から引き離されていることだとすれば、「恐怖」は意識からその「主体性」を奪いとり、「ある」へと回帰させる。それは、否定に否定を重ねても、その度に生じる何か——何かが「ある」ことそのもの——である。根源的な不安とは「無」ではなく、むしろ「ある」ことである。否定し尽くしてもなお回帰する「ある」に囚われているという事実——強制収容所に捕囚されたレヴィナスが、そこから解放されたとしても、あるいは別の何処かから解放されたとしても、なお何者かに囚われているという事実——に対して人は恐怖し、不安になり、眠れなくなる。

不眠としての「ある」に対して、意識の定位は眠りと休息を指し示す(第4章)。「土台の上に身を置くことで、存在を抱え込んだ主体は凝縮し、立ち上がり、自分に詰め込まれた一切のものの主人となる」。

「ある」の中に、己を休ませることのできる「ひだ」が生まれ、そこに意識が定位する。これが実存者の出現という出来事の内実であり、レヴィナスが “hypostase”と呼ぶものに他ならない。そして、糧に満ちた世界への定位は極めて身体的な出来事であり、「ある」の物質性は身体として、自己として自我の支配を受けることになる。
だがこのプリミティブな主体は、「瞬間」の中に閉じ込められた単独の主体である。この主体が自我の自己への繋縛を断ち切るためには「時間」——自我が繋縛されている<現>の次元の外側への移行——が始動しなければならない。<現>の囚人である自我単独では「時間」を始めることができない。それゆえ、「時間」の始動は「他人」の他性の介在が必要になる。

「時間」を走らせる「他人」と関係を持つことは、「ある」とは違う仕方で、「世界」の外部へと向かうことである。「ある」が「世界」の手前への回帰だったとすれば、「他人」との関係は「世界」の彼方への超出である。

この「他人」との関係を、レヴィナスは「愛(エロス)」と呼ぶ。「愛」する「他人」との関係は、「糧」としての事物との関係と違って、充足のなさそのものによって駆動する。「糧」は充足によって満たされる単純な欲望だが、「愛」は不充足そのものを欲望する、つまり不充足が不充足を呼び、常に増大し続ける終わりなき欲望である。だからこそ、「愛」する「他人」との関係は「世界」の外部への超出に繋がっていく。

ただし、この「愛」の運動は、単に外部への超越するものであるのではない。自我はどこまでも自己に繋縛されており、そこからは逃れられない。「外部」への脱出は、不可能な事柄なのである。しかしレヴィナスは、この不可能性のうちに積極的な意味を見出す。「愛」の運動とは不可能な事柄に対する欲望であり、「外部」への脱出が不可能であることによって、自己に繋縛された自我は「愛」すべき「他人」の他性を見出すことができる。
閉じ込められた<私>のその囚人としての事実のうちに、その事実ゆえの「愛」——至高の社会性を見出す。ここにレヴィナスの「他者」論が単なる外部的な「他者」論と一線を画す所以があると言えるだろう。

<ブックガイド>

  • レヴィナス、エマニュエル (2005) 『実存から実存者へ 』、西谷修訳、ちくま学芸文庫。

    • 本稿は「訳者あとがき」の解説を元に構成している

  • 石井雅巳 (2022) 「実存から実存者へ」『レヴィナス読本』、法政大学出版局、78–81頁。


第3期:「顔」の倫理へ向かうレヴィナス

『実存から実存者へ』において<他者>とは「愛」される<他者>だった。本書発行後、ジャン・ヴァールが主宰する「哲学コレージュ」での連続講義(例えば「存在論は根源的か」や「自我と全体性」)の中で、<愛>という終わりなき欲望の宛先としての<他者>とは異なる、もう一つ別の<他者>との関係を模索していく。それが、『全体性と無限』で主題の一つとなる<他者>との「倫理」的関係である。

レヴィナスの息子ミカエルによれば、『全体性と無限』は1955年にエヴィアン——アルプスの山々を望み、スイスとフランスを結ぶ三日月型の湖とともにある小さな街——の邸宅で書き始められた。哲学コレージュをはじめとする同時期の公園や論文を再構成しつつ、遅くとも1957年12月3日の講演「分離」の頃には本書の草稿が逆に講演の方に活用されるようになっており、死後発見された原稿からは、本書の初期の表題案の記述も認められている。

レヴィナスは当初『全体性と無限』を、教授資格博士論文——フランスでは、大学の教員になるには「アグレガシオン」と呼ばれる2つ目の博士論文を提出する必要がある——としてではなく、フランス出版大手のガリマール社から書籍として出版しようとしていた。しかしガリマール社の担当者に企画を断られ、落胆したレヴィナスは一時原稿を白紙にすることも検討したが、旧友ジャン・ヴァールの勧めを受けて博士論文として提出することにした。

この論文は無事受理され、2年後の1963年、レヴィナスはポワティエ大学の講師としての職を得た。さらに翌年の1964年、年少ながらも既に哲学者として確固たる地位を確立していたデリダが、詳細なレヴィナス論「暴力と形而上学」を発表し、その反響とともにレヴィナスの名は思想界に散種されていくこととなる。

以上のような背景を踏まえつつ、レヴィナス第一の主著『全体性と無限』の議論の流れを確認していこう。
本書は、「序」と本論(第1部〜第4部)、そして「結論」の計6部から構成されている。
序においてレヴィナスはまず、あらゆるものを包摂して<同>(le Même)も<他>(l’Autre)も消滅させる状況を「全体性」と呼び、この概念が西洋哲学を支配していることを指摘する。

そして本書の課題を、全体性に巻き込まれることのない<同>と<他>との関係の記述することとして定めている。

序章に続く第一部は、本書全体の総論としての位置付けを有しており、本書全体の議論の流れが短くまとめられている。
第一部ではまず、この<同>と<他>との関係性が、西洋哲学において伝統的に想定されていた関係とどう違うかが論じられる。主体—客体の関係や対象の認識など、西洋哲学の伝統的なテーマの中には、他者との関係について論じられているものも多数あるように思える。

しかし、例えばデカルトに端を発する主体—客体関係は、その関係を媒介する「第三項」(le tier)を前提にしており、根源的な意味での<他>が排除されている。<他>に思える客体は、実際のところは主体を中心とする<同>の圏域の中に位置付けられており、<同>から離れた固有なる<他>としては想定されていないのである。

では、<同>に吸収されない<他>との関係とはいかなるものであるか。それは、<同>の支配的な運動に対して抵抗し、異議申し立てを行い、<同>の振る舞いそのものを審問するものとしての<他>との関係である。<他>は支配できず、<同>の支配可能な領域の外側から到来し、そのあり方を問いただす。この関係が「顔」として語られる「倫理」(éthique)であり、本書第3部までの議論はこの「倫理」のあり方の詳細な吟味に宛てられている。

この「倫理」の関係において、第一に求められるのは<私>(moi)が分離された存在であることである。<他>は<同>からの無限の——<同>の支配によって踏破できないような——隔たりから到来する。宗教的な恍惚のように、<私>が<他>と合一するような経験においては、根源的な<他>は到来しない。逆説的な言い方になるが、分離され、自存する<私>——「無神論的」な私——に対してのみ、<他>の呼び声が聴取されるのである。

続く第二部でレヴィナスは、「倫理」の前提となる「分離」を成立せしめる出来事について、いくつかの側面に分けて詳述している。

<私>の<同>としての最初の運動は、自らの生の「糧」の「享受」である。
私たちは空腹を満たす「ために」パンを食べ、お金を貯める「ために」仕事に勤しむが、私たちはそれ以前にパン「によって」生きて、労働「によって」生きているとレヴィナスは指摘する。私たちの生の一挙手一投足は、単に何か別の目的を満たすために機能するのではなく、それ自体で私たちの生を満たす「糧」となる。パンを食べるという行為は確かに空腹を満たすが、それ以前に私たちの生の一ページを埋める糧となる。

私たちは、それ自体としては所有不可能な環境である「エレマン」(élément)に浸りながら、そこにあるものを糧として享受して幸福を得ている。しかしこれだけでは、<私>の生は分離された自存的なものにならない。享受は「糧」を「与えられる」経験であり、刹那的な幸福の享受に過ぎない。享受によって、その都度の瞬間において幸福な存在として自存することはできても、持続的に存在し続ける確固たる<私>として自存することはできないのである。

そこで、享受における直接的-受動的関係から後退し、自らを構成するものを対象として所有し、「内省=集約 recueillement」できるような場——「家」という内奥性の次元が開かれる。「家」に居住する主体は、「エレマン」の中に浸る自然的存在と決別し、「エレマン」と不即不離な関係にあった事物をそこから引き剥がし、対象として所有し、<私>の一部とすることができる。
「家」が起点となって、世界は<私>にとっての世界となる。すなわち、<私>が獲得し、所有すべき世界となって現れる。ここにおいて、自存的存在としての<私>が立ち現れ、「分離」が果たされる。

ところで、「家」に住まうことで<私>は「分離」した存在となるが、ここにはすでに「他人」の啓示がなされている。それが、「家」という内奥的生の次元を可能にする「女性的なもの」(le féminin)である。「家」という場は、優しさや温かさを感じられるような場として<私>に開かれ、<私>は世界の荒波から距離を取る形で、その「家」に後退し、休息することができる。

「家」に居住するとき、<私>は優しさや温かさに包まれ、身を落ち着けられる。この現象をレヴィナスは、「女性的なものに迎え入れられること」として記述する。「家」における優しさや温かさは「女性的なもの」の現れであり、<私>はその「女性的なもの」に抱擁され、その上で「家」における表象や所有が可能になるとレヴィナスは考えた。

第二部が「分離」という事態の記述だったとすれば、第三部は「分離」された主体に対して<他>が現れるという、まさに「倫理」の啓示そのものについての記述であると言える。
「分離」された主体は、世界を糧としてではなく、表象とすることができる。言い換えれば、言語によって事物を主題化させることができる。

この表象作用は、言語化であるのと同時に世界の共有化でもある。すなわちそこには、<他者>との関係性の道筋が既にできている。「家」という窓のない閉じた空間を開ける穴が、言語を介して開かれるのである。

表象を介して<他者>と世界を共有するとは、<他者>のあり方をその共有化された世界の中に位置付けることである。ところが、いかなる形でも表象不可能な、位置付け不可能な<他者>と相対することがある。その時、<私>は<他者>からのこんな声を聴く——汝殺すなかれ。すなわち、「私をあなたのそんな世界の中に置いてくれるな。私は<ここ>にいる。<ここ>にいる私から目を離すな」という訴えが聴こえてしまうのである。

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