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他者からの評価

自分の演奏はどうなんだ?って考える時の「評価」について。

ピアノを弾いていると、自分のやることが「どう伝わるか?」をよく考えるのだけど、たまに「評価を気にすること」とごっちゃになってしまう。

いや、あらためてすごく似てると思う。なぜなら「他者の存在」を思考の中に招き入れる必要があるから。自分のことだけ考えてるわけにはいかない。

そんな「他者の存在」がある中でも「どう伝えるか?」のことだけを考えていられればいいんだけど、なかなかそうはいかない。こういう時の他者はだいたい存在自体がはっきりしていなくて、ふわっとした概念でしかないことが多いんだ。その「他者」は何が好きか、男なのか女なのか、どんな性格なのか、そういうのが全くない存在。

そしてついついそれに影響されて「自分の演奏はいい演奏なのか?どんな感情を呼び起こし、どんな風に受け取られるのか?」っていう「評価」の視点が浮かび上がってくる。むくむくと。まるで黄色の液体に青いインクが垂れて、薄い緑が現れてきた時みたいに。もう止められない。

だって、そもそも「他者」って言ってる時点でふわっとしてるんだもの。もうどうしようもないと思ってる。

そういうときに僕はどうするか?あるいはこれからどうしていくか?を考えた。

最近の答えの1つは「他者の存在」っていう青いインクそのものを排除しちゃうこと。そもそもを断つ。そうすると「評価」という概念自体がなくなっちゃう。『交通事故をなくしたいから、運転を気をつけるんじゃなくてクルマ自体をなくしちゃう』感じに似ているかな。
それは同時に「伝えたい」もなくしちゃうんだけど…それはひとまず置いておく。

自分の世界に閉じこもって、レモンイエローの自我だけを見て、内へ内へと潜っていく。

僕はそうやって自分一人になると、なぜか「伝えたい」ところだけがひょっこり帰ってくる。

僕は子供じゃないから、親がお金を出してくれるわけでも発表会やコンクールの準備をしてくれるわけでもない。自分を露出させていくこと、仕事を作ることも考えなくっちゃいけない。ただピアノが上手くなることだけを考えていればいいわけじゃあない。

そして僕はアーティストじゃない。アートなんておこがましくて言えない。だから僕がこれから「ピアノを弾いている」ためには、考えて考えて、どう伝えるかを考えなくっちゃいけない。

30歳からピアノを弾こうとするってことは、全部やる必要があるんだ。
そのために、まずはひとりぼっちになる思考を行うことが、僕にとっての1歩目として今1番しっくりきている、という話。

#ピアノ #思考の調整 #伝えること #2019