強い念を感じる理の用い方

特に誰に対する攻撃でもありませんので、軽めにお聞きください。

先日ツイッターを眺めていたら、RTで「法律なんて、現実の後追いでしかない。むやみにありがたがるのもどうかと思う」みたいなつぶやきが流れてきました。

たしかにその通りだと思います。だからこそ、法律を審議する機関があるわけです。

それはそれで良いのですが、ふとそのつぶやきをした人が、ずいぶん前にブログで何かの擁護として「問題だと指摘されていますが、別にそれって法律違反じゃないですよね」という旨のことをおっしゃっていたことを思い出しました。

うん、すごいですね。

首尾一貫していないとか、そういうことを言いたいのではありません。

誰だって考えが変わることはあるでしょうし、それが成長ならば喜ばしいことです。それに仮に弁護士ならば、依頼人の利益を最大限に優先するために、ある裁判と、別の裁判で持ち出してくる理路がまったく逆、ということもあるのだと思います。

主張の基盤となっていることに整合性がない点ではなく、「とにかく、議論に負けたくないのだろうな」というある種の念の強さがすごいな、と思うわけです。

その場その場に応じて、機能する理を持ってくる。自分が勝つために、あるいは負けないために有用なものをセレクトする。価値観と呼びうるものは、「勝ちたい」や「負けたくない」という気持ちのみ。

そういう印象を覚えたわけです。

個人的な考えとして、「勝つための議論」はあまり豊かなものにはなりません。勝つための議論では、自分の意見は絶対的に、圧倒的に、微塵の揺るぎもなく正しいものだとしなければいけません。でないと、論戦になりません。

でも、真理の追究というのは、「私にも正しいところと間違ったところがある」「あなたにも正しいところと間違ったところがある」じゃあ、どうしましょうか、というところから始まるのではないかと感じます。

もちろん、真理なんてどうでもいいよ。自分が正しければそれでいいんだ、という態度も、この広い地球の上ではいくらでも存在できます。

ただまあ、瞬間瞬間では正しいことを言っている人がいても、とりあえず時間の厚み的視点から、その正しさについて検証するのが大切だろうな、という気はします。

たぶん、本の読み方についても似たようなことが言えるでしょう。

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