見出し画像

守破離について(エッセイ)

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/08/31 第516号より

画像1

規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな
 『利休道歌』(千利休)

何か新しいことを学ぶときに「守破離」はよく持ち出されます。私なりに定義すれば以下の通りです。

「守」:示された型を身につける
「破」:示された型と自分とのズレを自覚する
「離」:ズレを起点として新たな型作り上げる
(このとき、型作りの感覚には「守」で身につけたものが活きてくる)

まず最初は、師匠から提示された「型」を徹底的に身につけます。このときは、「盲信的」でなければなりません。つべこべ考えずに、いわば鵜呑みにしてそれを身体にインストールするのです。

それが終わると、いろいろなものが見えてくるようになります。「これはAのためにやっているのだな」とか「このBは私には合わないな」といったことです。

型を盲信的に身につける前に、この判断を走らせてしまうと、勘違いする可能性が強く出てきます。「Bは、Xの状況においてYするために必要だが、私はXではなくてZな状況になるから合わない」というのではなく「Bって無意味」みたいな感覚先行の判断になるのです。これでは、次なる一歩は踏み出せません。

人間は何かを身につけなくても、自前の知識で判断できると考えがちですが、もちろんその多くは誤謬を含んでいます。それを戒めるために「盲目的に学ぶ」わけです。

この段階になると、「型」をアレンジして使えるようになります。型の意義を知っているからこそ、状況に合わせてカスタマイズできるのです。

で、それを続けていると、やがては最初に提示された型がほとんど不要になります。むしろ、自分の在り方を出発点としたやり方を組み立てられるようになります。

しかし、その「やり方を組み立てる」という知的プロセスを走らせるためには、「やり方を組み立てたもの=型」が自分の脳(のスキーム)に取り込まれている必要があるのです。

たとえば、空手で「攻めの型」と「守りの型」があるとして(適当に書いています)、自分の流派を立ち上げるなら「攻めの型」と「守りの型」を作ればいい、ということがわかります。逆に、「型」に関する知識がまったくなければ、どのような動作体系を築けばいいのかがまったくわかりません。つまり「型」が作れないのです。

つまり、「守」において「示された型を身につける」ことには二つの意義があります。一つは、その型によって示される体の動かし方をインストールすること。もう一つは、体の動かし方の「デザインパターン」を学ぶこと、です。

たとえば、タスク管理に関して言えば、私はもうGTDとはずいぶん違うやり方で管理を行っています。使うべきリストはほとんど使っていません。しかし、「リストを作ってやることを管理する」という大きなパターンはそのまま踏襲しています。やることを頭の中に置いておかず、何かしらの外部装置に保存して参照する、という「型」は自分なりの方法論を立ち上げるときにでも有効なのです。

ある人間Xさんがいるとして、そのXさんが存在する世界Yがあるとします。その際、型Aは、X→Yの矢印部分を担当するものとなります。つまり、インターフェースです。

プログラミングの初心者に向かって、「じゃあ、インターフェイス部分のコードを書いてください」と言っても「いんたーふぇーすって何ですか?」となるでしょう(なると思います)。概念が欠如している状態では、実装方法への思考は立ち上がりません。まず、概念を獲得することが先であり、そのために「型」は役立ちます。

守破離というステップアップ方法がどこまでの射程を持っているのかはわかりませんが、何かを学ぶときには、特にその最初の一歩は、虚心で、いわば盲目的に学ぶ必要があります。疑義を挟むのはそれからでも十分です。

もちろん、だからこそ欺瞞的な商売が入り込む余地があるわけですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?