第十八回 はじまりの数字、あるいはメディアの物差し

「はじまりの数字」と聞いて、あなたはどんな数字を思い浮かべるだろうか。

おおざっぱな推測ではあるが、たぶん「1」を思い浮かべる方が多いだろう。たしかに「1」は、0と決別する数字であり、はじまりの数字にふさわしい雰囲気をまとっている。

しかし、はたして本当にそうなのだろうか。

1は、存在を示す。

1という数字が示すのは、そこに何が在るという事実だ。対して0には何も無い。スイッチのオン・オフと同じである。

そう考えると、1はたしかに「はじまりの数字」のように思える。

でも、そこには動きというものがない。1は、在ることを示すがそれはまだ静止している。

図形を考えてみよう。

点が一つある。その点は在ることを示しているが、大きさを持っていない。

点が二つになると、そこを結ぶ線が生まれる。線は幅を持たないが長さを持つ。さらに点が増え、結ぶ線が合計三つになると、今後は面となり面積を持つようになる。

この変化は、「動き」と言えないだろうか。

つまり、「はじまりの数字」は、2である。

以前、「1000冊の本を紹介する」という企画を見かけた。面白そうな企画だと思って、しばらく眺めていた。そう、そのときは眺めていただけなのだ。言うなれば、「あの人の面白い企画」といった感じ。そこには動きはなく、ただ「在った」だけに過ぎない。

しばらくして、それを真似する人が生まれた。別の人が同じ企画をスタートさせたのだ。それはつまり2の登場である。

その瞬間、私の中のパラダイムが動き出した。「そうか、これは私もやっていい企画なんだ」という認知が生まれ、わずかではあるが世界の風景が変わって見え始めた。

その瞬間、それはもう「あの人」の企画ではなくなっていた。企画があり、それをやっている人が「あの人」と「この人」(真似した人)になったのだ。

だったら、僕がそこに加わっても何も問題はなかろう。

動きが生まれたのだ。

同じように、「三極発想法」というものを見かけたときも、パラダイムのシフトがあった。発想のメソッドなのだが、これはマンダラートという手法によく似ている。しかし、たしかに違いはある。

「三極発想法」を知る以前の私は、マンダラートしか知らず、単にその手法を眺めていただけだった。しかし、三極発想法を知った途端、こう思った。僕にも、何か別の発想手法が作れるかもしれない。

動きが生まれたのだ。

1は、ただ「在る」ことを示すだけだ。2が、それに動きをもたらす。

数字が1だけならば、それは循環するしかない。0、1、0、1、0、1。言い換えれば、そこに広がるのは「在る」か「無いか」のスイッチ的な表現だけである。

でも、もしそこに2というものが突きつけられたらどうなるだろうか。1に1を加えて2が生まれるならば、それにもう一度1を加えて3を作ることができる。その3にさらに1を加えて、とどんどん数字を大きくしていける。

2が提示された世界とは、そうした可能性が提示された世界ということだ。

ちなみにこれが3になると、一番最初の安定を作り出す数字になる。GPSは3点を使うし、三角形は一番点の数が少ない多角形である。他にも3が安定化を示す例はいくつもある。

1は在り、2が動きを作り、3が固める。そんな関係がこの世界にはあるのかもしれない。

有名な動画がある。デレク・シヴァーズ の「社会運動はどうやって起こすか」だ。

もし見たことがないのなら、一度視聴をお勧めする。シンプルでいて、力強い(あるいは少しの恐怖を伴う)内容が語られている。

デレク・シヴァーズが3分ほどの動画で語っているポイントは、「最初のフォロワー」の重要性だ。

ムーブメントは最初のバカ(嘲笑される人)が起こすのではない。もちろん、その人がいなければどうしようもないのだが、かといってそれだけですべてがうまくいくわけではい。1は、1のままでは動きは生まれないのだ。それが2になったとき、はじめて広域に広がっていく可能性を持つ。

何かを観測し、認知し、評価する人。つまり、後に続く人。そういう人が価値を作るのだ。生前はまったく評価されなかった画家が、没後かなり経ってから突然有名人になる、という現象もこれと同じことを指し示している。

僕はこれを「価値とは見出されるものである」と表現した。

この言葉が含むものは、すごく大きく、かつ重い。

価値は自分ではコントロールできない。できることは、価値の原石を提供することだけだ。あとは、それがどう磨かれるのかを待つしかない。

でもって、僕もまた別の何かの価値を見出す役割を担っている。その二重性は、ワクワクもするし、ドキドキもする。

「メディア的に生きる」とは、何かと何かをつなぐ生き方だ。

それはゼロからイチを生み出す仕事である__必要はどこにもない。イチとして提示されたものに、もう一つ付け加えて提示するだけでもいい。それはつまり、最初のフォロワーになるということだ。

そしてそれは、動きを作るということでもある。

「メディア」とは媒体である。つまり、中間体である。

その評価は、どれだけ新しい価値を生み出せたか__どれだけ新しいつながりを生み出せたか__で決まってくる。

メディアそのものではなく、つなげた先(リンクの先)にどれだけ価値をもたらせたのか。それだけがメディアの物差しである。それ以上でも、それ以下でもない。

そこを無視して語られるメディアの「パワー」の話はすべて無視して構わないと僕は思う。そんなものは本質ではないし、長続きもしない。

1を生み出せるバカさ。2を生み出せる勇気。いろいろあるだろう。

どちらにせよ、「価値とは見出されるものである」はメディア的な生き方の根底を支える考え方になるだろう。

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