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対話的な本の可能性

本は死なない』の第16章「本と教育」より。

たしかになにかを学ぶというのは、事実を記憶することだけではない。本を読む場合でも、口承にみられる対話的な思考は非常に重要だ。本の内容を記憶するだけでなく、作者の意図を汲み取り、そこから考えを深めなければならない。

この章では、ソクラテスとプラトンが対比的に用いられています。

ソクラテスは「話し言葉」を重視しました。「書き言葉」による学びは、単に知識を頭に入れただけで(つまり理解していないにもかかわらず)、偉くなったような錯覚を持つ輩を生んでしまう、と。

そして、そのソクラテスの思想を、プラトンは「書き言葉」として残したのです。一種の皮肉と言えなくもありません。

単純な比較をしてみましょう。

「話し言葉」を用いた対話は、疑問をぶつけたり、内容を再確認したりといった行為により、深い理解へとつながる要素を持っている。

「書き言葉」は、そうした対話の可能性を減じる代わりに、より広い人にその知識・思想を広める効果がある。

どれほどソクラテスが頑張っても、一日十数人の人間と対話をするのが限界でしょう。でも、それが書き言葉として残された瞬間、ゆうゆうと限界を超えます。百人でも二百人でも、その考えを知ることができるのです。さらにそれは、時代を超えます。

私は『ハイブリッド読書術』で、プラトンの『パイドロス』を引用しました。この『本は死なない』でも同じ本が言及されています。ソクラテスが生きていた時代と、どのぐらいの隔たりがあるでしょうか。「書き言葉」は時代を超えるわけです。

しかし、私がソクラテスに向かって「これはどういう意味なのですか?」と問うことはできません。「あぁ、悪い悪い。表現が悪かったね。これは○○○という意味なんだ」という返答を期待するわけにはいかないのです。

記録として長期保存可能になるかわりに、情報が固定化されてしまう。それは一種のトレードオフなのでしょう。

しかし、電子書籍はそこに新しい形を生み出す可能性があるのかもしれません。

その上に、いくつかのレイヤーを載せていきます。

たとえば、読者が疑問に思った部分、気になった部分をハイライトしたレイヤー。その上に、著者による返答や、別の読者による議論が展開されるレイヤーも載せます。

そうして一つのコンテンツに、多重的にコンテンツが上乗せされていく世界です。

今のところ、本のコンテンツと、そうした議論は別のプラットフォームに置かれています。読者と著者のやりとりはメールやSNS、読者なりの見解の提示はブログ、読者同士の交流は掲示板や読書プラットフォーム、と分けられているのです。でも、それが一つにまとまるとしたらどうでしょうか。

固定化された情報をベースにした、対話型のコンテンツ。

そんなものが生まれてくるかもしれません。

もちろん、著者が没すれば直接的な対話は行われません。でも、対話の記録自体は残るのです。新しい読者も、その対話の記録を巡ることで、擬似的な対話を体験する、なんてことができるのではないでしょうか。

たとえば、自分一人で最初から最後までフンフンと納得しながら読んでいても、別の読者が「ここは、こうではないのですか?」と問いかけているのを知り、「なるほど、そういう視点もありうるのだな」と体験する。それは、新しい形の読書体験と言えそうな気がします。

※ここでのポイントは、それがもともとの「本」に組み込まれている点です。別のプラットフォームに散逸してしまうと、それは「読書体験」から一歩か二歩外れたところに位置してしまいます。

もちろん、こうした環境は、きちんとコミットする著者と読者があってこそ成立するものです。でも、まったく不可能な世界、というわけでもない気がします。

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