大いなる壁との対峙

「壁」と「卵」。ウォール・マリア。断絶の壁。

いくつかの想像力が、__それも現代的な想像力が壁というモチーフを用いている。それは何を象徴しているのだろうか。

現代社会の閉塞感をそこに見出すのは簡単だろう。しかし、それだけではないはずだ。

壁は断絶を生む。壁は安全を生む。

壁は作られる。生み出される。維持される。

壁は私たちの一部でもあるのだ。

村上龍は、1977年に『海の向こうで戦争が始まる』を著した。向こう側は、海によって隔たれていた。そこは、陸続きの場所ではなかったのだ。

現代では、そのイメージはほとんど通じない。世界は「つながって」しまっているからだ。(現実の物理的制約はともかく)すべては地続きである。海による遮断が入り込む余地はない。

だからこそ、壁が立ちはだかる。

壁は本来地続きの空間を区切るものだ。そして、自然のものではなく人工物だ。誰かしら、何かしらの意図によって生成されている。誰かが、そこに壁を作ることを望んだのだ。

おそらく、その視点を含めれば、ATフィールドも壁の一種として数えることもできるだろう。

壁は、切り分ける機能を持つ。それが無くなった世界は、混沌でしかない。人類補完計画はそれを目指すものであり、ATフィールドによって個は個たり得ている。

壁は人を守る。それはつまり、システムであり、装置である。それが大きな力を持って私たちの前に聳え立っている。個人が刃向かう術はない。少なくとも、そのような無力感はあまりにもリアルである。

また、壁を壊せば世界が良くなる、と単純に信じ込むことはできない。

なぜならば、第一に壁は私たちを守っている。壁と対比されて持ち出された卵もまた殻を持っている。これも断絶を象徴するものだ。しかし、これを壊すことはできない。

壁、あるいは壁的なものすべてを攻撃の対象としてしまうと混沌が生じる。

もう一つは、壁は誰かに作られた、ということだ。だから、壁そのものを壊しても、壁を作るという意志が存在している限り、壁は再び姿を変えて顕現するだろう。それでは、時間稼ぎにしかならない。
※それでも、何もしないよりはマシと開き直ることもできるかもしれないが。

壁はときに卵を押しつぶそうと迫り、またつながっているものを遮断しようとする。その遮断は、共感不足という形で人の心に滲み出てくる。

「海の向こう」は、他人事である。しかし、共感不足は「他人事」ですらない。

鯨が殺される場面に罪悪感を覚える人でも、夕食にはチキンを美味しく頂いている。共感不足とは、後者のようなことだ。そこに、心の存在があるとは見出しもしない、という状況だ。

そうなると「どうなっても知ったこっちゃない」という無関心な態度だけでなく「積極的に搾取してやろう」という思いすら生まれかねない。

そして、それが壁に力を与えるのだ。

どのようにして、そのような壁と対峙すればよいのだろうか。もう少し考えてみたい。



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