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出版社というメタ情報と巨大な「一冊の本」 #burningthepage

本は死なない』の第十三章「グーグルが「読書用フェイスブック」になる日」より

書店に行って「今日はあの出版社の作品を読みたい」と思って本を探す読者などいない。

本書を読んでいて、違和感を覚えたのが上の表現です。

もしかしたら、日本とアメリカの状況は違うのかもしれません。少なくとも私は「出版社の作品」で本を探すことがあります。

たとえば「岩波新書」。

やっぱり「岩波新書」を読みたいときの気分と、「星海社新書」を読みたいときの気分って違います。どちらが良いとか悪いとかの話ではなく。それぞれの新書にはテーマや方向性みたいなものがあるので、それに合わせて本を選ぶってことは珍しくありません。

でも、こういう本作りはもしかして世界的にみて珍しいのかもしれません。そもそも新書というフォーマット自体が日本的な感じがします。

そういうツッコミを一応入れた上で、著者の主張の続きを読んでみます。

読者が求めているのは面白い本だ。好きなジャンル、好きな作家、好きなテーマの本を探しているのであって、その本がどこの出版社の作品なのかはまったく気にしていない。

出版業界に足を踏み入れると、「どこの出版社から発売されているか」を気にするようになりますが、多くの読者さんはそうではないでしょう。

たとえば、私は商業出版の出版社さんからも、セルフパブリッシングでも本を発売していますが、そこのことが本を買う人にすさまじいインパクトを与えているとは思えません。

もちろん、製作の過程が違うので、同じ土俵に並べるのは無理がありますが、紙の本でも「○○出版社さんから発売されている倉下さんの本だから買う」みたいな状況はあまり考えられないでしょう。

メタ情報としては、やや弱いわけです。

だから、さまざまな本をネット上の「一冊の本」にまとめても、大きな弊害は生まれないと著者は言います。

出版社も、自分たちの本が他社の本ともリンクでつながるというアイデアには反対するかもしれない。彼らはブランドイメージを気にするからだ。だが昨今では、実のところ出版社のブランドというのはほとんど意味を持っていない。

たしかに、ブランドイメージは読者にさほどアピールしません(むしろ意識するのは小売り側でしょう)。

出版社の垣根を越えて本がリンクされるのは、たいへん良い方向だとは思いますが、それが出版社的な概念の解体・無意味化につながっていかないかどうかについては若干の心配があります。

買う側が「出版社名」に注目していなくても、本の作りや編集の傾向の好みはあるでしょう。背景にある出版社の存在が影響を与えているのです。

著者がイメージする「一冊の本」プラットフォームがどのような形になるのかはわかりませんが、もしそれがコンテンツを同一のフォーマットに落とし込む方向に強制するようなものになった場合、「本」の多様性は失われてしまいます。

それはもう、本同士のリンクではなく、巨大なwikiに過ぎません。で、wikiと「本」は本質的に違ったものなのです。少なくとも私はそう感じています。

ネットに存在する巨大な「一冊の本」は魅力的ではありますが、それで損なわれるものには注意を払う必要があるでしょう。

ただ世の流れとしては、そちらに向かって進んでいくのかもしれません。少なくとも、情報交換効率は、その方が飛躍的に高まるでしょう。コンテナによる物流のように。

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