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いやはての集いの場所に【短編小説/ネムキ】

このいやはての集いの場所に
われら ともどもに手さぐりつ
言葉もなくて
この潮満つる渚に集う……

かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに

T・S・エリオット “The Hollow Men”より
「渚にて」(ネビル・シュート:著/井上勇:訳/ハヤカワSF)


「うそ、これ頼んでないよ、どうしたの……!」
 思わずリカがこう口走ったのは、大きすぎる驚きと喜びの感情からだった。

 彼女は信じられない思いで、目の前の熱いコーヒー入りマグカップと、それを置いた若い男を見つめた。彼は自分のマグカップをかざして、笑った。
「今朝はやく、コーヒー豆を見つけたんですよ。驚かせようと思って、こっそり粉にしたんですけど。ミルが無いから金槌と乳鉢で。大変だったけど、なんとかなりました」
「なんか音がするなあとは思ってたけどね。すっごくびっくりした。嬉しい、ホント、嬉しい。とっくに諦めてたのに」
 リカはそっとマグに顔を寄せて、コーヒーの湯気を手のひらで仰ぐようにして香りを確かめた。彼は誇らしげに顔を輝かせ
「熱いうちに。さあ」
 と言った。彼女は首にかけた手拭いを取ると、土に塗れた両手を拭いて、まくったシャツの肘から手先までをついでに拭いた。リカの薬指にあった指輪の跡を、彼はさりげなく目に留めた。ふたりは軽くカップを打ち合わせて乾杯すると、目を閉じて慎重に口をつけた。リカはひとくち飲み込むと恍惚とした表情になり、大きなため息をついた。
「……っあー……美味しい。こんなに美味しいコーヒーは、初めて」
 彼も眉間に皺を寄せ、じっくりと味わってから「……うまい。沁みますねえ」と唸った。
「うん。そういえばこんな味だった」
 少しずつ味わいながら飲んでいるコーヒーが半分に減った時、リカは思い出したように顔を上げて、彼──ミサワに「ありがとう」と言った。ミサワは微笑み、リカは言葉を繋いだ。
「幸せ。人ってどんな状況でも幸せって思えるんだね。食べたり飲んだりすることで、幸せ感じる感覚、すごく久しぶり。そう、こんな感じだったよね……」
 ふたりはどちらともなく、窓のほうに顔を向けた。

 窓の外は暗い。時計の針は午前十時四十五分を示しているが、時間の概念はとっくに意味を失っていた。
 外界からの通信はインフラの停止と共に完全に途切れていて「壁の外」の状況を確かめる術はない。部屋の端に寄せられた椅子のひとつに、リカは腰掛けていた。脇には机が三つ並んでいて、その上に電池式のランタンが幾つか置かれ、薄暗い室内を照らしている。
 この場所は以前、培養室だった。闇に沈む隅に目を凝らせば、壁ぎわに寄せられた棚の上に、ガラス製のシャーレや測定器具が積み上がり、埃を被っているのが見えるはずだ。
 床の空いたスペースには、土が入った水槽が所狭しと床に並んで、じゃがいもが栽培されている。土で汚れたシャツとジーンズを身につけ、手拭いを首にかけた農夫のようなふたりは、この場所に勤務していた研究者だった。


◇◇◇


 日本を中心とした直径約五千キロのドーム型の「円」の中には、韓国、台湾、中国とロシアの一部、フィリピンが含まれていた。

 三年ほど前のことだ。
 はじまりは空中に突然現れた黒い筋だった。

 筋は急激に面積を増して、巨大な「壁」となってそそり立ち、さらに上空を覆うように伸びてゆくとドーム型になった。この「壁」はいったい何なのか。どんな観測機器も壁に近づくと狂ってしまい、確かめる術がない。
 ひとつだけ確かな、恐るべき事実は「壁」が、直径を少しずつ縮めているということだ。
 慌てふためいた各国の政府は、壁の内側から砲弾を撃ち込み、ありとあらゆる破壊を試みた後、最後に核兵器を撃ち込んだ。しかしいずれも、ただ吸い込まれてゆくのみで、黒い壁にさざなみひとつ立てることができなかった。

 物理学者たちは、壁はどうやら目に見えるブラックホールのように、触れたものを吸い込んでしまう未知の物質で、吸い込まれたものがどうなったのか観測できないが、おそらく消滅しているだろうと述べた。専門家も何も解らない、と匙を投げたも同じだった。
 壁を破壊しようとする努力もむなしく、空は黒く覆われていった。やがてドームの天井が閉じて太陽は姿を消し、ドーム内の世界は永遠の夜のなかに閉じ込められた。
 予想通り、外界への通信が困難になった。回線は海底ケーブルで繋がっているものの、電波が遮られたせいだった。

 ドームは海外でも無数に出現し、数年のうちに隈なく地球上を覆うことがわかってくると、世界中の人々がパニックに陥った。

 日本を中心としたドームの、さらにその中心は東京都品川区の外れにある研究機関だということが判明した時、人々は家も仕事も捨てて、こぞってそこへ押し寄せた。目端のきく海外の人間も、交通機関が動くうちにと家族を連れて日本へ移動し、あっという間に入国のキャパをオーバーした。直ちに入国制限が行われ、時を置かずに全面入国禁止になった。
 最初のパニックの波が収まるまでどうにか機能していた行政も、一年足らずで停止した。モノの流通が途絶え、インフラが止まると、人々は水と食べ物、燃料と発電機を確保できる場所に集落を作り始めた。

 行政停止と共に警察や軍の抑止がなくなり、世界は無法地帯になった。人々のあいだには常に暴力があり、日常が支配と服従、略奪と闘争であふれた。
 だがそれも長くは続かない。壁の中の動物、植物、人など、生命活動をしているものが、消滅し始めたからだ。
 個体の先端が突然、黒く染まり、黒い部分がみるみる身体を侵食して、やがて空中に溶けるように消えてしまう。それが起こると、人ひとり消えるのに一分かからなかった。年齢も性別も状態も関係ない。消えるのは生きている有機物に限る、ということ以外なにも分からない。

 そしてついに、人類は争うことをやめた。
 人々は手を取り合い、声をかけ合い、協力し合うようになった。
 そう遠くないうちにすべての人間が滅ぶこと、誰もが決して逃れられないことがあきらかなら、限られた時間を諍いと支配に怯えて暮らすよりも、支え励まし合って生きることを選択するほか道はない。
 みんな、ひとりで消えていくのが嫌なのだ。消える時に手を握ってもらい、別れを告げる相手が必要なのだった。

──おそらく人類史上で初めて、完全な平和が訪れた。

◇◇◇

 いつしか、次第に迫ってくる黒い壁を、リカは「世界の果て」と呼ぶようになった。
 “果て”は、着々と、この研究所に近付いてくる。建物は八階建てで、今いる階は六階だったが、“果て”はもう、ここからはっきりと見える。

「このペースだと、果てがこの建物を飲み込むのは、今日の夜、かな」
 マグカップの表面を覗き込みながらリカが言った。ミサワは答えた。
「僕たち、果ての向こうを見ることができそうですね」
 リカはミサワの表情をうかがった。窓から景色を見ようと言っているかのように平静そのものだ。
「果ての向こうが見たいの? あなた、根っから科学者なんだね」
「リカさんは違うんですか?」
「私は……どうかな。……ね、こうなってみて、私たちが科学者であることに意味があると思う?」
「意味? もちろんありますよ。あるのかないのか、なんて考えることこそ無意味です」
 リカは驚き、目を大きく見開いた。ミサワのほうを見たが、彼は窓の方に目を向けていたので、それに気がつかなかった。
「ふふふ」
 リカの笑い声に、ミサワは驚いて振り返った。
「どうしたんですか?」
「なんか可笑しくて」
「は?」
「ごめん、こっちの話」
 ミサワはリカを訝しげに見つめたが、絡んだ視線を彼女が逸らした。ふたりの間に沈黙が漂った。ミサワは話の継ぎ穂を探したが、諦めたように、コーヒーに目を落として呟いた。
「この先の飯のことを心配する必要がないって、おかしな感じです……明日のこの時間は、僕も、リカさんも、この研究所も、果てに飲み込まれたあと……いまこの地球上に残った人類はどれだけいるんでしょうか。それとも僕とリカさんが、最後の人類なのか」
 窓の外に立っていた欅の木が、黒い空間に侵食されて、空気中に溶けていくのが見えた。リカはまた、少し冷めたコーヒーを口に含むと、喉を通ってゆく複雑な苦味と香りを味わい、静かに問いかけた。
「ミサワ君、怖くないの?」
 ミサワもコーヒーを少し飲んで、答えた。
「三年も、心の準備をする期間があったんで。そう言えばリカさん『渚にて』ってSF小説、ご存知ですか?」
 リカは首をふった。
「核戦争直後のオーストラリアが舞台なんです。北半球はすでに壊滅していて。南半球のオーストラリアにも、数ヶ月後には核の灰が降るので、被曝は免れない……つまり残りの人類も全て、一年以内に死ぬ。その状況のなかに居る人たちの、選択の物語です」
「選択……」
「そうです。主人公はアメリカの原子力潜水艦の艦長で、国に妻子もいた。でも戦争でアメリカは壊滅して、家族も軍も失った。所属する場所が無くなったんです……で、ある出来事が起こって、彼は選択を迫られる。軍人として成すべき事をなすか否か。行動することに意味があるのか。責任を果たす相手はもういないのに」
「あなたは、意味があるかどうか、そう考えることが無意味だ、と言ったよね」
「だって我々は科学者ですから。壁について考えても分からない、なら意味ないから考えるのやめよーって、やめられますか? 無理でしょ。簡単に思考停止できるなら科学者になんかなりませんよ。なら、意味の有無を問うのは不毛です」
「……その物語の軍人は、国が無くなったし軍人やめよー、とは、いかなかったのかな」
「そこなんですよ。彼はそれまで、戦争で人を殺してきたはずです。仕事だったから。でも……国が消えても、人を殺した事実は消えない……そんな簡単に放り出せるものじゃないはずです」
「確かにそうかも。先が無いからといって、自分のこれまでの生き方を全否定は、簡単にできないよね」
「…………」
 ミサワはまた戸外に目を向け、黒々とした「果て」を睨みつけた。その横顔をリカは眺めた。

◇◇◇

 二年前は、日本中から避難してきた人間が、この辺り一帯にひしめき合っていた。
研究所の人間はすべて、人々の間を駆け回って、研究所に保管してあった燃料と発電機、備蓄保存食を配ったり、集落の代表を集めて今後の食料生産の計画を立てたり、病人にベッドを貸したりしていた。

 所長のナオヒサは、機能しなくなった行政の代わりに、集まった人々に尽くそうとした。研究成果を発表する機会が潰えた今、せめて税金で運用してきた施設を人々の役に立てよう、という考えからだった。
 ある程度、集落の運営に目処がついたころ、ナオヒサは消えた。そのあとは、彼の妻で研究所の科学者でもあるリカが、人々を支え続けた。

 あの頃の、リカの記憶はぼんやりとして曖昧だ。
 とにかく忙しかったはずだが、細部が思い出せない。いつも何かにせき立てられるように走り続けて、立ち止まっちゃダメはやくはやく、と焦る感覚だけが残っている。

 そして半年前。残りの人数は三桁まで減った。残った人々は研究所で寝起きし、部屋の中に土を盛って作物を植え、裏の川から水を運んで炊事をし、共同で使っている場所の掃除をした。永遠の夜のなかで、日常生活が営まれた。
 誰かが消える時は、必ず誰かがそばで見送った。毎日、櫛の歯が欠けるように、ひとり、またひとりと人が減っていった。
 十日前に残り三人になり、その三日後に同僚のカエデが消えた。そのとき彼女を見送ったのはリカだった。

◇◇◇

「カエデちゃんの最後の言葉、そういえばまだ伝えてなかったよね」
「……!」
 ミサワは微妙な顔をした。リカはそこに現れた感情を読み取ろうとした……気まずさ、狼狽、羞恥、戸惑い、悲しみ……彼の目線が一瞬、頼りなく泳いで、リカに向けられる。
「彼女、なんて?」
「とらないで」
「え?」
「とらないで、って言ってた」
「…………」
「ミサワ君を私から取らないで、リカさん。て、ことだと思う」
 彼は眉間に皺を寄せ、横を向くと大きく息を吐き出した。
「付き合ってたわけじゃないです」
「でも寝てたよね? あなたたち」
「まあ、かなり前に一度、断って。でも“果て”が出現してから、また誘われて。いまさら拒否する理由もないかって……」
「未来もないし。恋愛感情の有無なんて、もう関係ないよねって?」
「だってそうでしょ」
「そうかもねえ」
 ……また沈黙。リカは手元に目を落とした。コーヒーの残りは僅かで、黒い液体を透かして、マグカップの底が見えている。……これを全部飲み込んだら、言おう。
 ミサワの大きなため息が聞こえた。目線を上げると、彼は険しい顔でリカを見ている。
「この流れでいうの、すごく自分がクズみたいで嫌なんですけどね。僕は、僕が、まえにカエデさんを断ったのは」
「え、やだ、ちょっと」
「やだじゃない、聞いてください、僕は前からリカさ」
「ストップストーップ!」
 リカは慌ててカップを置くと立ち上がり、両手のひらでミサワの口元を覆った。ミサワは情けない顔をしてリカの手を掴むと、口から手を退けた。リカの表情が怒っているように見えたからだ。彼女は強い口調で
「わたしから言わせて!でないと“放り出した”ことにならないから」
「は?」
「あなたと寝たい」
 ミサワは驚愕のあまりによろけて、机にぶつかった。カップが倒れて最後のコーヒーがこぼれた。リカは彼に掴まれた自分の手を引っぱった。そして向きを変えると、彼の手を掴んで、培養室-Dから暗い廊下に歩み出た。ミサワは手を引かれたまま問いかけた。
「どこに行くんですか?」
「一階のロビー」
「なんで? ていうか今から?」
「あそこに、ベッド並みにでっかいソファーがあるでしょ、革張りの」
 リカは振り返って笑った。「一度、あそこでしてみたかったんだ」
 ミサワは呆然としたまま、自由なほうの手で自分の頬をつねった。

◇◇◇

 空気の揺らぎ。もうずっと長いこと吹いていなかった、風を感じる……

 彼から見たリカは、いつも、どこか寂しそうにナオヒサの後ろ姿を見ていて。
 リカとナオヒサが会話をするとき、その内容は研究のこと、施設の運営のこと、部下のこと、助けを必要としている人々のこと──。彼はナオヒサを、上司として、偉大な研究者として尊敬していたけれど、同じくらい憎んでいた。

 どうして気がつかないんだろう。どうして、彼女の視線をまるで空気のように……さも当然だという顔をして気にも留めないんだろう。

『所長。あの、差し出たことをいいますが、リカさん、すごく頑張ってると思います。所長は奥さんに厳しすぎるんじゃないかって、僕から見るとそう感じます。もう少しだけ、労わってあげてくださいませんか』
 ナオヒサは微笑んで言った。
『そうか。でもね、こう言ってはなんだが、夫婦のことは外からは分からないもんなんだ。君にもいずれわかるよ……君はそんなに妻を気にかけてくれているんだな』

──そうですか。そうですね。
 あなたが思うよりずっと、僕は彼女を気にかけているんですよ。
 だから痛いほど分かるんだ。彼女が見てるのは僕じゃないってことが。
 あなたはどこかに消えてくれないか。
 消えろ、消えてしまえ──

 ナオヒサがくずおれて膝をつき、手先と足先から闇に侵食されていったとき、彼のそばに駆け寄ったのはミサワだった。ナオヒサはミサワを掴み、必死に何かを伝えようとしている。ミサワは最後の言葉を聞き取ろうと顔を寄せた。ナオヒサのしわがれた声が口から漏れて……

◇◇◇

 深い水の底を泳ぎのぼって、水面へと顔を出したように大きく息を吸って、はいた。天井を見つめたまま、早い鼓動を聞く。その目が横に動き、周りを見回した。薄闇の中の見慣れぬ景色に瞬きする。
 下着一枚で横たわっている革張りのソファの冷たい感触。彼はくしゃみをして、上体を起こした。上半身にかけてあったシャツが滑り落ちて、床にわだかまった。

 研究所の玄関を入ってすぐのロビーだ。広々とした大理石の床には、汚れた靴跡だらけのブルーシートの上に、土の付いたじゃがいもが入った大袋やたくさんのバケツとシャベル、予備の衣類と汚れた長靴が数組、飲料水の容器、未開封のゴミ袋などが雑然と置かれている。大きなガラス扉は無惨にひび割れていて、かつての無機質な美しさはない。
 ソファの隅には、脱ぎ捨てられたリカの衣類がそのままになっている。それに手を触れた途端に、どっと記憶が押し寄せた。
 腕の下に横たわる裸の彼女。優しく抱き寄せる腕、初めてじかに触れた唇、柔らかな肌の熱と匂いと、その味わい。

「リカさん……?」
 ミサワの心臓が、冷たい大きな手で直に握られたように、急に苦しくなった。コーヒーを飲んだのは昼前だった。あれからどれだけ時間が経った?夜までまだ時間があるはず。でも……そんな。僕が寝ている間に、彼女は消えてしまったのか?

 世界が暗くなってから。毎日、毎分、毎秒、リカの存在を確認するまで収まらない、いつもの焦燥感。大丈夫きっとまだ大丈夫、と自分に言い聞かせるが、それは嘘だと誰よりも分かっている。いままで沢山の人を、何百人もの人を、なすすべなく見送って来たから。今度こそ彼女の番が来たのだろうか。パニックの予兆に、彼は歯をグッと噛みしめた。
 嫌だ、認めるもんか。諦めるな、探せ、彼女を探せ。
「リカさん!!」
 彼は慌ててズボンを履くと、駆け出した。廊下を駆け抜ける。階段を登る。まずリカが寝起きしていた部屋。次に自分の部屋。培養室。リカの名前を呼びながら、部屋をひとつひとつ見てまわる。生活の残骸が残る空っぽの部屋に出入りするたびに、希望から絶望へと心のメーターの針が動いてゆく。無慈悲なまでに冷酷に。かちり。かちり。

 建物中を駆けまわって、ミサワはまたロビーに戻って来た。汗と落胆に塗れ、ふらふらとソファーに歩み寄ると腰を下ろした。ミサワは頭を垂れ、目を閉じた。

 ずっと恐れていたことが起こった。最後に残ったひとりになってしまった。

 しばらくその姿勢のままでじっとしていたが、ふと顔を上げて、開いた扉の向こうを見つめた。汗が冷える。空気が動いているのを感じる。
 ドームに閉じ込められた三年のあいだ、雨も風もぱったり止んでいた。外の大気から遮断されているせいなんだろうが、中にいても呼吸は問題なくできる。ドームの壁はどういう仕組みになっているのか……。
 と、そこまで考えて、空気の動きは、壁周辺の空気が吸い込まれているからで、壁がそれだけ接近している証拠だ、と思い当たった。そうだ。もう失くすものは何もないんだ。ただ消えるのを待つよりも、ギリギリまで壁に近づいてみよう。ずっと考えていた。消滅する前に壁に飛び込んだら何が見える?

 心の隅で、僕は彼女の消滅を直視したくないんだな、と理解しながらも、ミサワは立ち上がった。すると、細い笑い声がかすかに聞こえた。彼はその場で硬直し、必死に耳を澄ませた。

──気のせいか? ……いや。

……頼む、そうであってくれ……

 扉の外の暗闇に、ちらりと白い人影が見えた、気がした。ほんの一瞬で視界から消えたが、ミサワはそばにあった衣類を引っ掴むと、靴を履くのももどかしく、玄関から外へ駆け出した。

 外に出ると、風ははっきりと感じられた。建物の敷地は、雑木林に囲まれた広大な芝生になっていて、ここで寝起きしていた人々の、テントの跡と雑草で埋め尽くされている。ミサワはあちこちに積まれたがらくたの隙間を走り、広場と林の境界で立ち止まって、木々の間に立ちこめる闇を凝視した。
 雑木林の奥の方で、小さな人影が走り抜けた。闇に白く浮かぶ姿は人というよりも、幽霊か何かのようだ。
「リカさん!!」
 大声で怒鳴ると、人影は振り返って笑った。間違いない、リカだ。上半身は裸で、下着一枚と靴だけを身につけている。彼は安堵のあまり涙がこみ上げた。だが、彼に気がついたはずなのに、彼女はまた身を翻して、林の奥へ駆け去ろうとする。ミサワは混乱した。なんで?どうして逃げるんだ?

 そっちの方角は「果て」だ。

 ミサワは戦慄し、再び女を追って走りはじめた。

 空気の巨大な流れが風をつくり木々を揺らす。植物全部がいっせいに鳴動し低い地響きが絶え間なく聞こえる。いたるところで、木が、草が、黒い塵を散らして消滅するのが見える。
 林のなかを駆けて行く後ろ姿は、どことなく現実離れしていて、悪夢のなかのように、駆けても駆けても追いつかない気がした。僕の頭は絶望のあまりおかしくなっているんじゃないか?あれは幻覚で、捕まえた途端に消えてしまうんじゃないか?

 ミサワは少しずつ距離を詰めると、彼女の手首を掴んだ。手ごたえに安堵する気持ちはくるりとひるがえって、一瞬で真っ赤な怒りに変わる。そのまま強引に抱き寄せようとしたが、リカは身をくねらせて抗った。彼は思わず服を握っていた手を振りあげ、ギリギリで自分を抑えると手を下ろした。そのあいだも掴んだ手首は離さない。
 リカは強く眼を輝かせてそこに立ち、挑発するように笑った。風に乱れる彼女の髪を見て、数時間前に触れた感触が彼のなかで一瞬よみがえった。
 本当にリカさんか?いつもの穏やかで冷静な彼女とは思えない、まるで別人だ。見ているだけで心が激しく掻き乱されて、気持ちがコントロールできない。

「何やってんですか!」
 ミサワは内心を隠すように語気を荒くすると、手に持った衣服を女に押し付けた。
「早く着てください。なんでそんな、素っ裸で駆けまわってんですか。心配しました、消えて、しまったかと」
「すっごく気持ちいいよー。ミサワくんもやってみたら?どうせ私たちしか居ないんだから。ここまできて人間らしさなんてものに拘る意味ないでしょ」
「目のやり場に困るんですって」
「今さら。隅から隅までじっくり見たクセに」
 彼は顔を紅潮させ、横を向くと服をさらに押し付けた。
「僕を試さないでください!」
 リカが服を受け取ったので、ミサワは手を離した。服は白衣だった。それを羽織った女を見て、ミサワは片手で目を覆いながら顔を上に向けた。
「それっわざとじゃないですから、あーヤバイ、裸に白衣まじでヤバイ」
「あはは、なにそれ。着た方がいいの?それとも着ない?」
「着てください……」

 風がますます強くなっている。ミサワは気が気でなく、リカに向きなおった。
「ここは危ないです、早く研究所に戻りましょう」
 リカはまっすぐに彼の目を見つめた。
「なに言ってるの?どうせ全てが飲み込まれるのに。あなたも今のうちに、やりたかったことをやっておくといいよ。したいこと何もないの?」
「僕ですか」
 言われてミサワは瞬きし、さっきまで考えていたことを思い出した。壁だ。
「僕は……壁を、見ておこうと考えてました。ちょっと考えてることがあって」
「向こうが見たいって言ってたよね?……覚えてる? 研究所で培養していたサンプルのこと。培養の途中で菌が死んでしまって、なぜなのか原因がわからなかった。シャーレの端から黒ずんできて、だんだん真ん中まで侵食して、最後には全部黒くなって、死滅して消えてしまう」
「ありましたね。所長案件のやつ」
「果てが出現してから実験中止になって、私が処分を任されて、器具を片付けたんだけど。ちょっと思ったの。世界中で出現した壁と、このシャーレのなかのコロニーが似てるなって。菌のコロニーって、中にはたくさんの菌がひしめいていて、ひとつの社会を作ってる。一晩で何世代も交代して……」
 リカは空を仰いだ。ミサワもつられて空を見上げた。かつては青かったはずの空の色を、もう思い出せない。
「もしこの世界に神様がいたら……私たちはこんな風に見えてるのかもなって。私たちの世界はひとつのシャーレに過ぎなくて。他にもたくさん実験中のシャーレが並んでて。何らかの原因で世界が端から消滅し始める……いまこの瞬間にも、神様が顕微鏡で私たちを観察しているのかも……」
「…………」
 ミサワは何も言えずに立ち尽くして、棚に並んだシャーレを思い浮かべた。
 黒に侵食されるシャーレの中のコロニー。中心まで全て黒くなって、全ての生き物が消滅したあとの残りかすは、拭き取られ、洗い流されて消毒される。そして新しい培地が敷かれ、菌が植えられる。くり返しくり返し……。
 すぐそばに立っていた木が消滅し始めた。ミサワは我に返ると、一瞬ためらい、リカの手を取った。
「この林を出ましょう。もっとひらけた広い場所に行きましょう。その方が……壁がよく見える」
 リカは頷いた。彼らは連れ立って、急ぎ足で研究所のほうへと戻り始めた。
「ねえミサワ君、歩きながら聞いてくれる?」
 リカは声を張り上げた。ミサワは振り返って頷き、前へ向きなおった。

「意味があるかないか考えることに意味がない、って、コーヒー飲んでる時に言ってたでしょ? あの時、ナオヒサのことを思い出したの。あの人いつも言ってた。あれしなきゃ意味がない。こうでないと意味がない……実績を評価されて国立研究所の所長にまでなって、大勢の人間の上に立っていたのに。本心は怖かったんだと思う。若くて優秀な人材が、研究で自分より素晴らしい実績を上げることが。研究所の経営には実績が必要だから、矛盾してるんだけどね」
 ミサワはちらっとリカを振り返った。
「所長はどんなピンチにもどっしり構えて、余裕に見えてたのに。意外だな」
「外側は必死で取りつくろってたから。けど自分の研究が行き詰まったとき、私しか居ないところでは、ふさぎ込んだり怒鳴ったり……痛々しくて見てられなかった」
「…………」
「そんなとき、彼は私のやることなすこと、ひどく責め立てた。『君の判断は意味がなさすぎる。これに意味があると君は思うの?どうかしてるな』……私がどんなに気をつけてもダメだった。しまいには心を殺して機械的に指示に従ってた。彼にとって私は、なんだったんだろうって……」
「わかる気がします」
「簡単に『わかる』なんて言わないで!」
 リカの強い口調にミサワは驚き、振り返ると立ち止まった。リカは手を離して睨みつけた。「男に。女をいいように利用して、すぐに忘れてしまえる男に分かるわけない、そんな簡単に分かられてたまるか。あなただって、カエデちゃんの気持ち知った上で利用してたんでしょう、彼女のこと少しは悼んであげたの? 意識にものぼらなかったんじゃない? 違う?」
 ミサワとリカの視線が絡んだ。先に逸らしたのは彼の方だった。
「……違いません。彼女のことは、ほとんど考えなかった。壁と自分の残り時間と、あなたのことしか考えなかった」
 彼らは重さを増して沈みこむ空気のなか、しばらく向き合って立っていた。やがてリカは俯いた。
「ごめんなさい。あなたを責める資格なんてなかった。私だってあなたを利用したんだから」
「僕と、したことですか」
「そう」
 また沈黙が降りた。耳元を風が唸って吹き過ぎてゆく。
 ミサワは小さく息をついて、低く言葉を押し出した。
「……気まずいついでに聞いちゃいますけど。“放り出したことにならない”ってどういう意味ですか?」
「えっなに?」
「だから、その……する前に、あなたが。私から言わないと放り出したことにならないとか何とか」
「ああ」
 リカは悪戯っぽく微笑んだ。
「話してくれたでしょ。小説の軍人が、国がなくなっても、簡単に役割を放り出せないって。私も同じだなって思ったの。研究もとっくに中止になって、他の人もみんな居なくなって、ふたりだけなのに、私まだ、あなたに上司として向き合ってるなって。だから役割を放り出しちゃおうって」
「取らないで、って言われたから、逆に取ってやろうって?」
「そんな感じ」
「ふっ」
 ミサワは苦笑し、次いで笑い声をあげた。「はっは、最後の最後でそう来たか。意外と性格悪いなあ」
「そうなの。私も性格悪いの。だからまあ、お互い様ってことで」
 リカも笑い出した。ふたりは笑いながら林を抜けて、テントで埋め尽くされた廃墟に踏み込むと、テントと雑草の隙間を駆け抜けた。木の葉や黒い塵が空中を渦巻き、降りかかってくる。
 ミサワとリカは建物の玄関の前で立ち止まり、後ろを振り返った。
 空間の彼方にずっと見えていた深く濃い闇が、視界一面に拡がっていた。

「研究所のなかに入りますか?」ミサワの問いに、リカは首をふった。
 “果て”は目に見えるスピードで迫り、雑木林の木が、次々と闇の彼方に吸い込まれていくのが見える。やがて林を越えて広場へ進み、地面を覆う無数のテントが次々に飲み込まれていく。
 境界から先は断ち切られたように絶対的な“黒”の領域だった。
 リカは目を凝らした。
 純粋な黒のなかに、なにか……閃く雷光や、渦巻く雲、吸い込まれたはずの膨大な、すべての……生物の魂の色合いを見ることができないかと。
 空気の絶え間ない動き、風が耳元を過ぎる甲高い音、空間全体が鳴動しているような、低い地鳴りが微かにずっと聞こえている。

──が、静かだった。台風よりもずっと静かで、もはや彼らの視界にはわずかな草原と、どこまでも深々と続く闇だけ。

「壁の中心の予測はかなり正確だったね、研究所の……培養室-D、あたり」
 リカはミサワにそう呼びかけて、ふと自分の右手を見下ろした。彼女の隣に並んで立つミサワが、左手の指で彼女の指にそっと触れている。リカは小さく微笑み、ミサワの手を強くにぎり返して見あげた。彼の目は高揚で輝いている。
「いよいよ果ての向こうを見れますね、なかはどうなっているのか──言われているようにブラックホールで、僕らはただ重力に押しつぶされて消えるのか。それとも小説みたいに──なにか別の存在に変わるのか。ここから別次元の宇宙、別の時間に跳ぶのかも」
「あなた、なんだか嬉しそう。私たちの世界が終わろうとしてるのに」
 リカは半ば呆れ、半ば感心した。そうだ、私たちは科学者、観察し考察する者だ。
 彼女は自分の心を覗き込んで、恐怖よりずっと大きな、人類がいまだ想像すらできない何かをこの目で見たい、という渇望を見つけた。
 彼の晴れやかな声が聞こえる。

「僕が怖かったのは、あなたが先に消えてしまうことだった。でもふたりでここにいる。彼岸との境界、いやはての渚に。
 僕たちは、海の向こうにある人類未踏の島を、船の舳先から最初に見るふたりになれたんだ。果てがきて以来ずっと、そうなったらいいなって思ってた。僕的にはサイコーのハッピーエンドです。あなたはやっぱり僕の……運命だった」

「運命なんて言葉、科学者らしくないよ」

「リカさんは。いまここで、となりに居るのが僕で、嫌ですか?」

 ふたりは“果て”に向けた視線を、互いの瞳に向けて受け止め合った。自然と口もとがほころんで、柔らかい笑みが浮かんだ。

「わたしも、あなたで良かったって思ってる……あなたの言うとおり。運命だね」

 彼は泣きそうなところを無理やり捻じ曲げて笑ったような、なんとも言えない顔をして、握る手に力を込めた。その力強い熱が嬉しい。きっと今、自分も同じような顔してるだろうなとリカは思った。そしてふたりは、果ての向こうを見つめた。

 言葉はもういらない。

 あなたの温かい手。

 いま私たち生きてる。

 ──そうして  ……世界が終わる。

 “地軸くずれるとどろきもなくただひそやかに”



(完)


ネムキリスペクト。
今回のテーマは……「こんなもの頼んでないけど」です!
2月末までですよ〜まだまだ募集中〜

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