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恋愛小説家【短編小説/ネムキ】


「……れんあい」
 と、ぼくはオウム返しに言った。
 ノートパソコンの液晶モニターの向こうで、担当の佐々木さんが頷いた。そして、はげますように「音無おとなしさん、ある意味でこれはチャンスですよ。実際に行動すれば絶対になにか発見があります。やっぱりねえ、ものごとって何でもそうですけど変わるには挑戦が必要ですよ。いうでしょピンチはチャンスって。いいモノ書けたら『孤高のハードボイルド作家、溝の口譲みぞのくちじょうはじめての恋愛小説』って文藝夏冬に入れますよ。ね、短編いっぽんお願いします」といった。

 どうにか恋愛物語をひねり出そうとひと晩じゅう四苦八苦して朝になり、昼を過ぎて、気がつくと何も食べないまま午後4時になっていた。そう意識すると急に胃が縮こまるような空腹を感じて、ぼくは上着に手を通しながら、空きっ腹に流し込んだブラックコーヒーが焼いた胃の内壁をイメージした。身体は睡眠と食事をとることを訴えているけれど自分で作る気になれない。
 家を出ると海沿いの細い田舎道を歩きだした。晩秋の心地良い空気が、長々と空転して熱くなったぼくの頭を冷やした。会社や学校から帰って来た人たちが、自転車に乗って、または徒歩で、ぼくとは反対方向にすれ違ってゆく。
 5分経つごとに、うすい青味がかかった黒のセロファンを一枚一枚重ねていくみたいに暗さが増してゆく。ちゃくちゃくと冬に近づくこの季節がいちばん好きなのに、今日はそれを楽しむ気にもならない。
「恋愛小説、か」
 口調がどうしても渋くなった。今年で四十になるけれど、この歳で恋愛小説を書く羽目になるとは。
 作家になって十年たつ。その間ずっと、男同士の闘争物語ばかり書いてきた。スパイもの、探偵もの、警察もの、ヤクザもの、などなど。男のロマンなんていうと苦笑されたりする昨今だけど、男は汗と血にまみれて戦ってこそ物語になるとぼく個人は信じていた。
 しかしデビュー直後はそこそこ好調だった売り上げも、ずっと微妙な右肩下がりが続いていて、最新作の売り上げは紙で出版してもらえるラインを下回りそうになっている。それを思うと気分が沈みこんで、また、ため息をついた。デビュー前に何度か恋愛小説を書いたことがあるけれど、うまく書けたためしがなかった。それでもピンチをチャンスに変えることができなければ、いよいよ後がなくなる。

 目的地に向かう道の途中で、海の方へと曲がった。そのまま砂浜へむかって階段を降りていく。シーズンオフの平日の夕方、あてもなく海辺をさまよう、くたびれた中年作家か……ぼくは自嘲的な気分で、人っこひとりいない海辺を歩いた。
 波はおだやかだ。太陽は海面にじりじり近づいて、さえぎるものがない広い空間を埋めている雲は、水色と灰色とオレンジ色を混ぜたような、ドラマティックで美しい色合いをみせている。まさに恋愛小説だったらここで男女が出会ったりするようなシチュエーションかもしれない。ぼくは心の中でイメージを動かしてみた。

若い男が夕暮れの砂浜を歩いていて、向こうから女の子が歩いてくるのを見つける。ふたりの長い影が砂の上に伸びている。男は接近する相手の姿を見ながらどうしようか考える。2メートルの距離まで近づいたとき、女の子が話しかけてくる。
突然って嫌いですか?」男が答える。「えっ?」「突然でごめんなさい」「あの、失礼ですが、僕はあなたに見覚えがないんです。どこかで会ったことありますか?」「大学のサークルの同人誌を読んだんです。あなたの作品、すごく良かった。読んでいて何だか私もあなたと一緒に旅をしている感じになりました。それで友達に聞いたんです作者のこと」「はあ、ありがとうございます。ええと、どうしてここに?」「あなたとお話ししたくて。大学の帰りに、ここの砂浜を通るよって聞いてきました」「友達に?」「そう」

……ぼくは想像をやめた。つまらないし陳腐だ。それにどことなく一昨年に別れた妻を思い出させる。恋愛小説と同様に現実の恋愛も、うまくいったためしがなかった。すれ違いが続いたあげくに去っていった元妻のことを、できれば思い出したくない。
 夕日の落ちる瞬間を眺めようと、砂浜に力なく腰を下ろした。タバコでもあれば間が持つのかもしれないけど、あいにく喫煙はしない。目の細かいひんやりした砂を握りしめ、指の間からこぼれる感触を味わう。何事も経験だし吸ってみるのもいいかもしれない。

 ぼんやり海を眺めていると、魚の腹のような白いものが波に洗われ、波打ち際をただよっているのがチラチラと見えた。魚の死骸だろう。見るともなく目で追っていると、その白いものは、大きくて透明なクラゲの死体のようなものの一部だと気がついた。魚かクラゲの死体らしきゼリー状の透明な物体は、波が引いていくと、濡れた渚にはっきりと姿を現した。オレンジの光をつややかに反射するそれは細長い形をしていて、大人ひとりぶんくらいの大きさがある。ぼくはその物体の不気味さに顔をしかめた。またえらくでっかいクラゲの死体が打ち揚げられたな。
 出しぬけにクラゲはぬるっと“立ち上がった”。ぶよぶよと波打つ透明なゼリーは人のような形になり、下半分がふたつに分かれて足のようになり、片足が動いて一歩を踏み出した。さらに一歩、また一歩。クラゲみたいな何かはゼリー人間になって、ぼくの方へ向かって歩いてきた。

 ゼリー人間はぼくの目の前で立ち止まった。ぼくは驚き過ぎて、魅入られたように目を離すことができずにいた。波打つゼリー人間のなかの白い部分が上の方に移動して、人間で言えば頭の位置にくると、表面に亀裂が入ってぱっくり口のように開いた。口は「よう」と言葉を発した。ゼリー人間の目は見当たらなかったけど、その言葉はぼくへ対する呼びかけであること、見られていることがはっきりわかった。ぼくは「何だお前は」といった。ゼリー人間はにっと笑うように亀裂を弓形に曲げた。
「トツゼン……ライデスカ」
 ぼくは開いたり閉じたりする口元を見つめた。ゼリー人間はまた音を発した。
「と、つぜんってきらいですか」ゼリー人間はゴボゴボと音を立て「おかしな呼びかけだな。突然が心から好きなやつなんていない。今までよんだことがない」といった。ぼくはもういちど尋ねた。
「お前は何だ」
 ゼリー人間は表面を波うたせながら答えた。
「おれ、おれは……さとりだ」
「さとり?」
「さとりは心をよむものだ。生き物なら何でも」
「心を……」
「ずっと海にいて、海の生き物をよんでいたんだ。鯨とかイソギンチャクとかいろいろ」
「よむというのは?」
「相手の姿形をうつす。すると近い性質の生き物の心が聞こえやすくなる」
「姿形をうつすとは?」
「……おまえの心のなかには言葉がたくさんあるな……近い言葉は、擬態、だな。擬態するということ。海の生き物、山の生き物」
「植物にも擬態した?植物に心がある?」
「あるとも。お前らニンゲンは、自分たち以外の生き物に心があること、よく忘れるけどな」
 あまりの途方もない事態に、ぼくの頭はしびれたみたいになって、うまく思考ができない。ゼリー人間はまた泡立つような音を立てると口を開いた。
「……しんじられない……夢とか幻覚だったりは……いや待てよ。こいつはちゃんすかも……ショウセツノネタになるかも……」口はいったん閉じて、また開いた。「ショウセツノネタって何だ?」
 ぼくは立ち上がった。「ぼくの心を読んだのか」
「さとりはよむものなんだよ……怖がってるな……でも、お前のなかには恐怖よりもっと強い想いがある。目の前のものが何なのか知りたい。もっと話して深く知りたい……」
 ゼリー人間はそこまでいうと、感心したように付け加えた。「ニンゲンはこれだからおもしろい。久しぶりだ、こういう感じは。しばらくニンゲンになって過ごそう」
 透明なゼリー人間の中に漂っていた白い泡のような塊はどんどん増えて、ゼリー人間を中から覆いつくした。ゼリー人間は白く不透明になり、白の奥から浮かび上がってくるみたいに別の色が現れた。肌色とうすい緑と黒。ぼくの服装は、薄い緑色の上着と黒いズボンだ。亀裂のあたりの肌色部分がグネグネ動いて目鼻と口が形作られた。うすい緑色のところは上着の厚い布の質感に、黒いところはズボンのデニム生地の質感にみるみる変わってゆく。気がつくとぼくの前の前に、びしょ濡れになったぼくがいた。ぼくは呆然とし、ふとあることに気がついて声を上げた。
「ぼくがもうひとり居るなんて困るよ!ニンゲンに化けるなら他の姿にしてくれ、気持ち悪すぎる」
 ぼくそっくりのさとりは笑った。
「おまえは自分の姿が気持ち悪いのか?自分でひとつ持ってるくせに」


 夕陽が海に落ちきってまもなく、ぼくは行きつけのカフェのドアを押し開けた。明るい店のなかで真琴まことさんと、カウンターのなかに立っているマスターが振り向いた。ぼくがドアのところで立ち止まっているので、真琴さんが不思議そうに「いらっしゃい……あれ、どうしたの?」と近づいてきた。
 ぼくはドアを押さえた腕越しに後ろを振り向いた。そこに、さとりがいる。今は紺色のワンピースを着た若い女の子の姿になっている。真琴さんは目を見開いた。
「えっヤダ、びしょ濡れじゃない!たいへん、ちょっと待ってて。タオル持ってくるから」と、慌てて従業員用のドアへと駆け込んだ。入れ替わりにマスターがエプロンで手を拭きながらカウンターから出てきて、さとりの姿を見て穏やかな笑みを浮かべた。背が高くて恰幅がいいマスターは、笑うと細い目がしわと白髪混じりの髭にまぎれて、優しい熊みたいな顔になる。
「こんにちは音無さん。そろそろ来るころかなーなんて真琴と話してたとこなんだけど。かわいい女の子連れとは驚いた。お嬢さん、それじゃ冷えますよ。何か着るものをお貸ししましょう」
 さとりが何か言う前に、ぼくは慌てて言いつくろった。
「すみません、ご迷惑かけちゃって。ぼくの姪っ子なんだけど。うちに遊びに来ててね。海辺で遊んでて波をかぶっちゃって。ほんと昔からとろくて」そしてさとりの方を向いて「ほらサトコ、挨拶して。店のマスターの矢上さん」
 さとりはマスターに微笑みかけた。「サトコです。こんにちは」
 戻ってきた真琴さんからタオルを受け取ってさとりに渡した。そして真琴さんに
「座席が濡れちゃうし、外の席で食べようかな」といった。真琴さんは怒った顔をした。
「そんな、これからどんどん寒くなるのに、濡れたまんま外にいたら風邪をひきますよ!席は濡れても拭けばいいんだから大丈夫、はいって、さあ」
 さとりはぼくの腕の下をすり抜けてさっと店に踏み込み、タオルで髪の毛を拭きながら珍しそうにあたりを見まわしている。ぼくは慌てて後を追った。真琴さんはさとりに顔を寄せて、小声で着替えについて提案している様子だったが、さとりはひたすら首を振っている。ほかの客の視線を感じながら、ぼくらはすみっこの二人がけテーブル席に向かった。いちばんカウンターから離れたテーブルに腰掛けると、思わず大きなため息がでた。
 すかさず、さとりがテーブルに置いてあるバスケットに入った金属製のカトラリーを取り出して、カチカチぶつけて鳴らし始めたので、ぼくは慌てた。
「ちょっと、やめろって」
「陸にあがったのは久しぶりだが、ずいぶん様子が変わった。これは道具か」
「おい目立つなよ、恥ずかしいじゃないか。周りにも迷惑だ」
「これは罰をうけることなのか」
「そうじゃないけど。法律で禁止されていなくても、やっちゃいけないことはたくさんあるんだよ。マナーってやつだ」
 さとりは手を止めてぼくの目をじっと見たので、心を読まれているのかと落ち着かない気分になった。そこに真琴さんがグラスに入った水とメニューを運んできたので、さとりは視線をぼくから彼女へ、そして水とメニューへと移した。真琴さんはさとりに向かって
「よかったら、タオルを乾いたものに替えましょうか?」とやさしく尋ねた。さとりは首をふる。ぼくは真琴さんと微苦笑を交わしてから、彼女がお盆を持ってカウンターに下がるのを肩越しに見送った。不審に思われていないだろうか……思われてるだろうなあ。
 前に向きなおると、目の前のグラスを見つめていたさとりが、わずかに開いた口から赤い舌をのぞかぜた。舌は細長い管のようにシュッと伸びて先端が水に差しこまれ、そのままストローのように水を吸い始める。ぼくは急いで大きくメニューを開いて、まわりの視線からさとりの姿を隠そうとした。すぐに水はからになり、舌ストローは口の中に引っ込んだ。
「バカ、他の客に見られたらどうするんだ。もう絶対やるなよ」
「おまえは他人から自分がどう見えるかということばかり気にするな。ここのニンゲンは互いに監視しあっているのか?毛色の違う個体は敵に見つかりやすくて危険というわけだな」
「いや危険とまではいわないけど……下手に目立つと、色々めんどくさいんだよ」
「弱い個体は長生きしにくい。群れのなかの子供が同種の大人に喰われることだって珍しくない。しかしニンゲンに天敵はいないと思うがね……」
 さとりは大きな窓へ視線を向けた。オレンジ色に輝く雲は光を弱め、急速に深い藍色があたりを覆いはじめていた。窓の外はウッドデッキになっていて、大きな観葉植物の鉢と、屋外用テーブルセットがふたつ並んでいる。こちら側の壁はほぼ一面が窓になっているので、暗くなるとなおさら、外から店の中の様子がよく見える。
 夏の海水浴客はとっくに姿を消したが、少し先に港があって、寒い季節も新鮮な海産物を目当てに観光客が訪れる。駅前はシャッター街になってしまった一角もあるけど、このカフェは盛況で、いまも席は半分以上、客でうまっている。混雑のピークはランチから昼過ぎの時間帯なので、ぼくが店を訪れるのはいつもそれより遅い時間だ。ぼくはメニューをさとりに向けた。
「この中に食えるものある?」
 さとりはきょとんとして「もう水を飲んだ」といい、ぼくの心を読んだのか「ああ水の他に注文する必要があるのか……おれはニンゲンと食べものが違う。かまわず食うがいい」といった。ぼくは真琴さんを呼んでいつものディナーメニューを頼んだあと、さとりは何を食べているんだろうと考えた。すると答えが返ってきた。
「いずれわかる」
「人間の肉とか?ぼくを喰う気だったりして」
「ちがう」
「じゃあなんだよ」
「…………」
 さとりは口を閉じて、にぎやかな店内の方へ顔を向けた。
 ぼくは運ばれてきたシーフードドリアを食べはじめた。妻と別れてから週に1、2回はここに来ている。

 ふいに、さとりは視線を店内に向けたまま「あの女は店の主人のなんだ?」と言った。ぼくはコーヒーをひとくち飲み下した。「あの女?」
「マコトとかいう」
「マスターの娘さんだ」
「接触時間が短くて、よみきれてないが、いちど結婚してここを離れたあと、夫と別れて戻ったようだ」
「知ってるよ、この辺の人たちはみんな。けど詳しくは聞いてない。あのさあ、やたらとまわりの人をよむなよ。個人情報だし」
「個人情報?」さとりは目線をぼくに移して鼻で笑った。「あの女と性交したいんだろ」
 ぼくはコーヒーを吹き出しそうになった。さとりは目を細め、うすい笑みを浮かべた。「そこまで強い感情じゃないな。向こうから言い寄って来たら応えるのにやぶさかではない、という程度……いや意識して気持ちの手綱を引いているな。うまく関係を作る自信がない……昔の女のことがまだ引っかかってるのか」
「やめろよ」
「まったくニンゲンってやつは。生き物なら生殖本能が優先されそうなものだが。女の方でお前をどう思っているかよんでやろうか」
「やめろってば!」
 さとりを睨みつけて強い調子でさえぎった。隣のテーブル席に座った二人連れが、ちらりとこちらを見たのが視界の端に映った。あまり長居しない方が良さそうだ。ぼくは食べるペースを早めた。
「あのー」
 声が斜め後ろから降ってきて、ぼくは驚いて肩越しに振り返った。真琴さんが小さなカップを載せたお盆を持ち、にこやかに立っている。
「いま新作スープを試作していて。よかったら味見して、感想を聞かせてもらえませんか?あ、お代は要りません。アサリが入っているけどアレルギーとか大丈夫?」
 どうやらサトコに言っているらしい。ぼくらが揉めている気配だったので、気を使ってくれたのかもしれない。さとりが真琴さんをじっと見つめているので、彼女の心を読んでいるんだと気がついて、ひどく後ろめたい気持ちになった。
「真琴さんこいつ、いやこの子、ダイエット中みたいで。あとアレルギーがあるんでそれぼくが貰います」
 ぼくは焦って立ち上がるとお盆の上のカップを掴んでひと息に飲んだ。すごく熱かったけど我慢して飲み干し「うまい!これすごくうまいです。このあと用事あるんで急いで帰らなきゃ、ほらさとり、じゃないサトコ、行くよ」
 真琴さんを見つめ続けるさとりの手首をとってレジへと引っ張っていく。真琴さんの不思議そうな視線を背中に感じながら、ぼくは支払いを済ませ、さとりをせき立てるようにして店を出た。
 店の窓側の出入り口から出たところで、観葉植物に隠れるように立っていた人物が、さっとその場から離れるのが見えた。黒いパーカーにグレーのズボンを身につけた長身の男は、ぼくの視線を避けるように、そのまま早足で建物の陰へと歩いて闇の中にまぎれた。

 外はすっかり暗くなっている。ぼくは腹を立てていたので周りを見ることなく、ずかずか砂浜を歩いて行った。少なからず動揺もしていた。気づかないフリをしてきたことが、はっきりと指摘されて逃げ場がなくなったような気がしていた。大きく波打つ気持ちがいくぶん収まるまで大股で歩き続けて、歩くペースをゆるめた時には店はとっくに見えなくなっていた。
 うしろを振り返るとさとりは5メートルほど間隔をあけてついて来ていた。紺色の服が背景に溶け込んで、さとりの顔と手先だけが白く浮かび上がってみえる。ぼくは歩く方向を変えると砂浜を出て階段を登り、登りきって先に道路にたどり着くと、階段の最初の段にふみ出したさとりに向かって声をはりあげた。
「お前もういいよ、どっかに行けよ。心を読まれているとぜんぜん気が休まらない。我慢できない」
 さとりは平然と「おれはお前の心を言葉にしただけ、いわば鏡だ。それに腹を立てるのは、鏡に向かって『なぜ俺はこんな顔をしているんだ』と腹を立てているようなものだぜ」
「うるさい!だからこそ我慢できないんだ」
「ショウセツノネタはいいのか?」
「いい。ぼくは帰る。ついて来るなよ」
 ぼくはさとりに背を向けた。するとさとりは「あの女を欲しがっているのはお前だけじゃない」といった。ぼくは少し迷ったけど、足を踏み出した。二、三歩歩くと、ぼくの背中から、さとりの言葉が追いかけてきた。
「あの女を殺してでも自分のものにしたいって男がいる」
 ぼくは足を止めた。
 さとりの方を振り向いた。


──かいつまんでいうとこういう事らしい。
 真琴さんの結婚生活はひどいものだった。結婚すると、夫は暴力を振るうようになった。普段は優しすぎるほど優しいのに、何かがトリガーになって突然、凶暴になるのだ。原因は些細なことだった。そして荒れ狂う時間が過ぎると妻に土下座して謝り、二度としないと誓った。しかし、また暴力が起こる、そのくり返し。
 長い期間、恐怖に耐え続けた真琴さんは、身も心もぼろぼろに疲れ果ててしまった。そしてついに荷物をまとめて逃げ出した。施設を転々としながら弁護士を雇い、心を削られるような辛くて長い協議期間と、しかるべき事務処理を経て、ようやく離婚することができた。
 8年間、他所で暮らしたあと、地元に帰って父親の店を手伝った。しばらくは平穏な時間が続いた。が、最近になって、嫌がらせの手紙が届くようになった。ゴミや、刃物や、汚いものが入った封筒や小包が。宛名の文字は元夫の筆跡に似ていた。警察に届けたが、これだけでは元夫が犯人という証拠にはならない。荷物のなかに、遠くからこっそり撮影した真琴さんの写真が入っていることもあった。

「……マコトの心は不安と恐怖でいっぱいだった。捕食者に追いつめられている小さな動物みたいに。店のなかはマコトの恐怖の声が大きすぎて、他のニンゲンの声がよみにくかった」
 さとりはいったん口をつぐむと、居間のテーブルの上に置いてあるリモコンを手に取って、エアコンの電源スイッチを入れたり切ったりし始めた。ここはぼくの自宅だ。ぼくは、いつもニコニコしている真琴さんが、そんなにひどい精神状態でいたのかとショックだった。ぜんぜん気がつかなかった。
「じゃあ、元旦那が真琴さんを殺そうとしているってこと?」
「マコトはそう考えて怯えているようだ。以前に何度も脅されたようだな。自分から離れたらお前を殺して自分も死ぬといって」
「そんな身勝手な……写真があったということは、元旦那は彼女を監視しているってことだよな。近くにいるってことか」
 店を出た時に見かけた、黒いパーカーを着た男のことを思い出した。にわかに事態が現実味を帯びて感じられ、男への怒りで首のうしろがこわばった。そしてある事を思い出して愕然とした。
「待てよ、今日は火曜だよな。まずいぞ……店は水曜が定休日なんだ。火曜は店が終わったあと、マスターが食材の買い付けに遠出するって聞いたことがある。今日の夜は、真琴さんは自宅にひとりになるんだ」
 自分の言葉で、頭の中のイメージが勝手に動き出す。どういう方法でか真琴さんの家の合鍵を作った元旦那が、鍵を開けて玄関から侵入する場面。悲鳴をあげて逃げる彼女を捕まえた男は、壁際に追いつめて脅迫する。そしてソファにあお向けに押し倒してそのまま馬乗りになり、両手で首を締めつける。真琴さんは苦悶の表情を浮かべ、必死で男の手に爪を立てるが……力尽きる。ソファの側面にだらりとふらさがる彼女の手。
「やけに鮮明だな。映画の映像か?」
 さとりののんきな声で現実に引き戻される。さとりはまたいった。「お前の予想だと、男がマコトを襲うのは店が閉まったあとになるな。まだ少し時間がある。今から準備を始めれば間に合うかもしれない」
「準備って、何を?」
「悪党を成敗するんだろ。武器はないのか、日本刀とか銃とか」
「どっちもないよ。てゆうか、それじゃこっちが犯罪者になっちゃうだろ、ぼくは殺人罪で捕まる気はないぞ」
「じゃあどうやってマコトを助けるんだ?」
「そっ……」
 言葉に詰まった。実際に行動して彼女を守る?ぼくが?……こういってはなんだけど昔から運動は苦手だ。護身術も格闘技も学んだことがないし防弾ベストも持っていない。喧嘩だって口喧嘩しかしたことがない。警察に電話した方がよくはないか。でも、どう説明する?ぼくは当事者じゃないし、男が真琴さんを脅迫した証拠を持っていない。これじゃ相手にされないだろう。店に電話して真琴さんに警告する?いやダメだ、ぼくがなぜ彼女のトラブルを知っているのか説明できない。さとりのことを話して信じてもらえるわけがない。
 さとりは黙りこんだぼくを眺めた。
「お前のなかの沢山の物語では例外なく、男は戦って敵を倒したり、目的を達成しなければ、女を得ることができない仕組みになっているようだが。……物語を作っているお前自身は、いままで誰かと戦ったことがないのか。なら、これは最高のショウセツノネタになるな。よかったじゃないか」
「…………」
「どうした。お前はチャンスが欲しかったんだろう?ショウセツノネタを手に入れるチャンスだし、うまくいけばマコトを手に入れるチャンスになるかも。さあどうする……選べ、ジョウ」
 ぼくは目の前の、腕組みをして仁王立ちする少女をじっと見つめた。いつだったか別れた妻が、同じ場所に立って、同じように腕組みをして言った言葉。

(あなたは、ものごとに対して外から偉そうにコメントするけど、自分から参加は絶対にしない。プレイヤーじゃない、ただのウォッチャー。自分のことも私との生活も、いつも他人事みたい。あなたにとって私ってなんなの。あなたの人生に私はちゃんと存在してるの?それとも全部フィクションなのかな。フィクションのなかでフィクションを書いているんだね。だからあなたの物語は、隅から隅まで空疎なの)

 あの時は、彼女が言っていることの意味が分からなかった。でも妻はぼくよりぼくのことを理解していたと、今ならわかる。
 確かに真琴さんのトラブルは他人事だ。でも、ここで何もせず、真琴さんにもしものことがあったらぼくは、あのとき何かできたんじゃないか、と後悔し続けることになるんだろう、この先の人生でずっと。

 ウォッチャーのままでいるか。プレイヤーになるか。

 ぼくにできることなんか何もない無理だ無理に決まってる……という心の声を、ねじ伏せるように深くため息をつき、さとりの方を見た。
「行くよ。それしかないだろ……なあ、その姿さ、もうちょっと強そうな感じのやつに擬態できない?」
 さとりは笑みを大きく広げた。
「おれはお前より強いからな、心配はいらないよ」
「わかった」
 さあ準備をしなくては。けど、具体的に何をすればいいんだろう?



 暗くなった道路を、ふたたび店に向かって歩いた。動きやすい服に着替えて、気温が下がっているので厚手の上着を羽織った。
 ずっしり重いカバンの中には、元妻がキッチンに遺していった麺棒と、冷却スプレー、ライター、ガムテープ、ロープひと巻き、ハサミ、懐中電灯、軍手、タオル、包帯……が入っている。包丁はさすがに危なすぎると思ってやめた。
 奇妙に昂ぶった気分と、腹の底が冷たくなる恐怖と、まだどこか夢の中の出来事のような心もとなさを感じる。いま警察に職務質問されて、カバンの中身を確認されたら相当まずいことになるだろう。これらは実際に誰かを拘束するための道具なのだから。しかも、となりを歩くのは若い女の子ときた。警察官には、女の子をこれからホテルにひっぱりこんでSMプレイをしようと目論む性犯罪者にしか見えないだろう。ぼくは早まる鼓動を悟られないように胸をはり、ひと気が多い道を選んでゆうゆうと歩いている演技をした。どうか警察の目に止まりませんように。

 やがてカフェの建物が視界にはいった。店は明るく、外から中の様子がよく見えた。店内に客の姿は無さそうだけど、片付けがあるだろうし、真琴さんとマスターが店を離れるのは21時くらいかもしれない。とりあえず離れた場所から見守ることにした。双眼鏡がないので、裏口から30mくらいの場所まで近づいて塀の影に身をひそめる。さとりは少し呆れたように言った。「なんだ、お前はマコトの家の場所も知らないのか。それでどうやって女を守るつもりだ」
「ここから歩いて10分くらいとしか知らないよ。店を離れたら後をついていって、無事に家に着いたら……外から見張っていればいいんじゃないか?」
「いつまで」
「うーん、明け方まで?」
「ひと晩中ということか。お前の頭の中に車の中から見張るイメージがあるな。ハリコミ……警察が使う方法か。しかしお前は車を所有していない。立ったまま見張るのか。食い物や飲み物を用意しておく必要があったんじゃないのか」
 ぼくは、戦いにばかり気を取られて、見張りのことをまったく考えず衝動的にここまで来てしまったことに気がついた。
「今さらそんなこと言われても。おまえがせかすからだろ」
「それは違う。今夜が危ないと言い出したのはおまえだ……おや、マコトが外に出てきたぞ」
 ぼくは裏口を注視した。真琴さんが大きなゴミ袋を半ば引きずるようにして、屋外ゴミステーションへと向かっている。すると物陰から黒い服を着た背の高い人影が出てきて、まっすぐ真琴さんへ向かって歩くのが見えた。あたりが暗いせいか、砂地で足音が聞こえないのか、真琴さんは気がつかない。ぼくは塀の陰から出て全力で走った。人影がうしろから真琴さんへ手を伸ばして、その手が肩に触れそうになったところで追いつくと思いきりタックルした。真琴さんの悲鳴が聞こえ、男とぼくは勢い余って砂の上を転がった。地面に倒れた衝撃でちょっとの間、息が止まる。しかし痛みにかまっていられない。ぼくは暴れる男を押さえようと必死でもがきながら叫んだ。
「真琴さあん!逃げて、くださいっ」
「え、音無さん!?ちょっと、なに?」
 男の方が力が強く、ぼくを地面に押しつけて上からのしかかってきた。ぼくより少し若そうな男の顔に見覚えがある気がする、と思ったところで、男もぼくの顔を見て「なんであなたが?」といった。問いの意味がわからず、ぼくらは息を切らせて、互いに見つめ合った。傍に真琴さんがしゃがむと、困り顔でぼくらを交互に見た。
「ねえちょっとほんとに意味がわからないんだけど。音無さん、逃げてってどういうこと?」
「えっ?」
「この人は違うの。離してあげて」
 と、真琴さんは男にいった。彼はぼくの上から身を引き、ぼくらは二人ともその場に座った。男は砂を払い落としながら、ぼくに「あなたの顔、見覚えがあります。今日もお店に来てましたよね。彼女のトラブルのこと、なにか知ってるんですか?」と尋ねた。ぼくが言葉に詰まっているうちに、さとりがぼくの側までたどり着いて、つぶやいた。
「護衛は手配ずみだったか。少々よみが足りなかったな」それからぼくに「この男はマコトの婚約者だ」といった。
 婚約者?ぼくは呆然とふたりを見つめた。真琴さんと男は顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
「それは……おめでとう」祝いの言葉を述べるには場違いな気もするけど他にコメントが思いつかず、ぼくはそう言った。いっきに力が抜けて、急に身体の痛みを意識する。地面にぶつけた肘と、肩から脇腹にかけてを手でさすりながら、恨めしい気分でさとりを睨みつけた。骨折でもしていたら文字通り、骨折り損のくたびれもうけじゃないか。
「ジョウ。コトが終わった気でいるが、本番はこれからだぜ」
 さとりはそう言い捨てて、店の裏口の方へと歩き出した。怪訝な顔をした真琴さんと婚約者は立ち上がり、ぼくもよろよろ立って、痛む腰をさすった。

 大きな音がして、裏口のドアが勢いよく開いた。ドアの影からマスターの大柄な姿が現れた。眉間にしわを寄せて厳しい表情をしている。マスターのそんな顔を見るのは初めてで、ぼくは詫びの言葉を口にしかけて固まった。彼のうしろにもうひとりの男が見えたからだ。真琴さんが息を呑む気配があった。
 うしろの男はマスターの背中の陰になっていた右手をあげた。その手にナイフのようなものが握られていて、刃先が店内からこぼれる灯りを反射して鋭く光った。男は背後から刃物をマスターの喉元にかざすと、そのままの体勢で数歩あるいて、さとりの脇で立ち止まった。その間ずっと男は真琴さんに視線を固定していて、さとりの姿は目に入っていないようだった。真琴さんが静かに男の名を呼んだ。
「キョウイチ。やめて」
 キョウイチと呼ばれた男は大声を出した。
「俺だってやりたくてやってるわけじゃない。お前が強情だからこうするしかないんだよ。これから起こることは、ぜーんぶお前のせいなんだ。お前が悪いんだ」
 婚約者が怒りの声をあげた。
「彼女は何も悪くない!そうやって事あるごとに彼女を攻め立てていたんだな。あんたが彼女をひどい目に遭わせて……」
 キョウイチはヒステリックにわめいた。
「部外者は黙ってろ!!」
「部外者じゃない」
 と、強い調子で真琴さんが割って入った。「彼と私はもうすぐ家族になるの。あなたの方こそ、もう私の人生では部外者でしかない。キョウイチ、ぜんぶ手遅れなの。あなた刑務所に入るつもり?お父さんを離して」
「なっ……おまえ、次の、男だと……このアバズレが。こうなったらこの場にいる奴をひとりずつ殺してやる。お前が男を諦めて、俺とよりを戻すと約束するまでな!まずはジジイからだ」
 キョウイチの凶暴な顔が激情にゆがんで、ナイフを持つ手に力がこもった。思わずぼくは大声で叫んだ。
「ちょおっと待ったあああ!!」
 ぼくは必死になって考えた。「さとり!この男はなぜ今になってこんなことをするんだ?別れて何年も経ってるのに。こいつの本当の目的はなんだ?」
 すると、さとりはゴボゴボと湿った音を立てて笑った。
「マコトへの執着もまだ残っている。が、一番の目的は金だ……コイツには借金がある。ほんとうに殺す気はない。マコトから手を引く代わりに金を寄越せと交渉するつもりだった……いや、借金を返したあとも、マコトと父親を脅して店の売り上げを取り上げる気だな……」
「なんだお前はあっ」
 キョウイチはさとりに怒鳴った。さとりはニヤニヤ笑った。
「金と色と暴力。いつでもどこでも変わらない……恥じることはない。どんなニンゲンだろうと鍋のスープの中身は似たようなもんだ」
 さとりは半分目を閉じ、口元に謎めいた微笑を浮かべて男へゆっくり近づいていく。キョウイチの顔がひきつった。マスターに突きつけた刃物が震えている。
「来るな、こいつを刺すぞ!殺すぞ、ほんとうに殺すぞ」
 さとりはスピードを落とさずに歩き続けて、男の方に右手を伸ばした。男はプレッシャーに耐えられなくなったのか、マスターを荒っぽく前方に突き飛ばして、さとりに襲いかかった。ナイフはさとりの右手を切り裂き、右眼に突き刺さった。周りからひきつった悲鳴が漏れる。キョウイチはナイフから手を離すと、目を見開き激しく震えながら、さとりの右眼に突き刺さった刃物を見つめた。真琴さんの声が聞こえた。「サトコちゃ……」
 さとりはその場に立ったままニヤリと笑った。血はまったく出ない。少女の顔からナイフが生えているように見えて、何かが途方もなく間違っている感じがした。そうか、まばたきだ。さとりは最初から、まったくまばたきをしていない。ナイフは次第に顔にひきずり込まれ、完全に飲み込まれた。右眼の傷はすぐにふさがる。その間も、さとりは平然と語り続ける。
「……いま、お前に寄り添うニンゲンは誰もいないんだな……いいぞ。お前のようにひたすら孤独で、大きすぎる欲望が手に負えない獣になって、本体を振りまわしているやつが、おれは好きだ」
 さとりはキョウイチにすばやく歩み寄って両腕を男の首に巻きつけた。男はうろたえ悲鳴をあげたが、さとりはそれに構わず、なにかを囁くように耳元に口を寄せた。ふたりの動きが止まる。ぼくらも魔法にかかったように動けず、息をつめて彼らを見守る。凍りついた時間は数秒か、数十秒か。さとりが男から離れたときに、口から伸びた赤い管が男の耳の穴に差し込まれているのが一瞬みえた。管は巻き尺を巻き取るように、速やかに口のなかに収まった。暗かったし、ほんの一瞬だったので、ぼく以外の者は何が起こったのかよく分からなかっただろう。
 さとりはそこから離れると、いつの間にか砂地に落ちていたナイフを拾い上げた。さとりの身体のなかを通り抜けて落ちたに違いない。キョウイチはその場に立ち尽くして、途方に暮れたような眼差しでまわりを見まわした。真琴さんの上で視線が止まると、彼は悲しそうな顔をした。
「真琴……ごめん」
「えっ」
「俺さ、お前と一緒にいたとき、なにをあんなに怒っていたんだろう……いつも、何やってもうまくいかなくて、苦しくて……ずうっと悪い夢を見ていたような……でも、自分がやったことの記憶もあるんだよな」男はマスターに視線をうつすと、うつむいた。
「お義父さん、すみません。ひどいことをしてしまった。謝って済むことじゃないですが、謝ることしかできない」
「いや……キョウイチ君、どうした。なんだか別人みたいだな。いったいなにが起こっているんだ、訳がわからない」そしてさとりを見た。その眼は、数時間前に初めてさとりを見たときとはまったく違っていた。混乱と畏れと恐怖が混ざった目。真琴さんも、彼女の婚約者も、同じ目でさとりとぼくを見た。さとりはナイフを両手でもて遊びながら歩きだしている。すでに、この場で起こったことに関心がなくなったみたいに。ぼくは少し迷ってから、さとりの後を追った。


 ぼくは、放り出したままになっていたカバンを担ぐと、さとりに追いついた。
「おまえ、あの元旦那になにをした」
「喰った」
「くった?何を?」
「あの男の欲望を。生気といってもいいか。ニンゲンは久しぶりだ。濃くて美味だった」
「欲望を……」
 さとりは、飽きたのかナイフを海に放り投げた。
「あの男はこれからどうなるのか、と考えているな。男の記憶や命に別状はない。しばらくは、何に対しても欲望がおこらなくなるだろう。食欲もなくなるが、肉体は生きようとするから死なない程度に食べるだろう。そしてまたすこしずつ、あの男の心に欲望は溜まっていく。いずれ元に戻るだろう。10年先か、20年先か」
「じゃあ事態は先送りされただけってこと?」
「どうかねえ。時間が経てば環境も変わるし、男の心境も変わるかもな」
「そうか……」
 しばらくの間、並んで砂浜を歩いた。暗い海と星空がどこまでも続いていて、半月が明るく輝いている。砂浜と空と道路の境目が闇のなかで溶けあう眺めに、ぼくは“月の砂漠をはるばると”というフレーズを思い出した。さとりは「砂漠に海はない」とつぶやいて、ぶらぶら歩きながら語りはじめた。

「大昔、おれは砂に囲まれた街のなかで、ニンゲンに紛れて暮らしていたことがある。その頃は腹が減ったら適当に喰っていた。欲望の質とか、喰う量とか考えずにな。……あるとき、絵描きの欲望を喰った。そうしたらそいつは絵が描けなくなった。そいつはまわりのニンゲンに比べて、なにも持っていないやつだった。仕事も金も、友達も。絵を描くことだけが生きる望みというタイプのニンゲンだった。それをおれが喰ったので、そいつは絶望の果てに自死した。……その報せを聞いても、おれは特にどうとも思わなかった。で、他のニンゲンに擬態することもなく過ごしていた。
 そいつにはひとりだけ家族がいた。母親だ。カンのいい女で、息子の死はおれが原因だと気がついた。それで何回かおれを殺そうとした。おれを殺すことは簡単じゃない。切られても突かれても、燃やされても死なない。そのうち諦めるだろうと放っておいたが、ニンゲンの知恵と執念をあまく見ていたんだな。
 母親はある時、おれを罠にはめて、大きな冷凍部屋に閉じ込めた。おれはカチカチに凍りついた……おれ自身、おれが凍ることを知らなかったんだ……凍ったおれの身体を母親は砕いた。細かい破片になるまで砕いて、海にばら撒いた……それでもおれは死ななかったが、たくさんの海の生き物に喰われていたから、おれのカケラは広い範囲に散らばって、ぜんぶ集まるまで長い長い時間がかかった」
「だから海にいたのか」
「それ以来、ニンゲンを喰う時は慎重になった……孤独で、いなくなっても誰も気にしないやつ。自分ひとりの鍋で心をぐつぐつ煮込んで焦げつく寸前……そういうやつの方が味も濃い」さとりは横目でぼくの方を見たので、思わず立ち止まった。
「ぼくに声をかけて来たのもそれが目的か!喰うつもりなんだろ」
 さとりはこちらを振り向いた。
「そのつもりなら、わざわざ警戒されるような事を話すはずがない」
「そうかもしれないけど。やっぱり家に入れるわけにはいかない。書きたい欲望を喰われちゃ困るよ」
「ふっふっそうかい。ショウセツノネタになるかと思ったんだがね。じゃあ、おれは行って、また別のやつをよむことにするかな。事件が解決すれば探偵は現場から立ち去る。それが物語のきまりなんだろ?」
「えっ?行くって……」

 さとりは立ち止まると、海の方を向いてじっと立ち尽くした。小柄な紺色のワンピース姿は、小さくしぼんでいった。背丈がぐんぐん縮んでゆき、細かい羽のようなものが生えてきて身体を包みこむ。やがて、はっきりと鳥の形になった。胸から腹、太い脚まで白い羽毛で覆われて、頭と背中と羽根は黒い。このツートンカラーの猛禽は、たしか大鷹だ。鷹は眼を開けた。金色の眼のなかに黒い瞳が輝く。
 鷹の目がぼくを捉え、くちばしが僅かに動いた。
「おまえのなかには言葉がたくさんあって、なかなか面白かった。……心の中で色んな想いがぶつかって反響しているな……レンアイショウセツを書かなくてはならないのか。おまえの鍋の底のほうには、言葉になっていない話がまだまだたくさんあるぜ。ひっぱり出せばいいだけだ、簡単だ」
 ぼくは苦笑した。
「あっさり言ってくれるなあ」
「おれは何にでもなれるが、なにかを生み出すことはできない。どこにでも行けるが、どこにも行き着かない。なあ、おれが出てくる物語を書いてくれよ。誰かの心に、それをよむことができたら嬉しい」
「やってみるよ」
「では、おさらば。恋愛小説家になるニンゲンよ」
 さとりの大鷹は、海の方へ助走しながら羽根を羽ばたかせ、大きな手で空気をつかんでいっきに体を持ち上げるように空へ舞い上がった。数回の力強い羽ばたきで、みるみるその姿が小さくなる。
 ぼくは月夜のなかに遠ざかる姿を見つめ続けた。


 自宅に戻り、風呂に入った。
 室内着に着替えて、ウィスキーの水割りを作ると卓に置いた。
 椅子に座って、ノートパソコンを開いた。ライティングソフトを起動する。
 いつもは物語の設計図を作ってから取りかかるのだけど、たまには何もないところから書いてみようか。鍋の底からなにかをひっぱり出せるかもしれない。気持ちの向くままに、鉤かっこを打ちこんだ。

かっこ。
3点リーダーを2回。
れ、ん、あ、い
かっこ閉じ。

「……れんあい」
 と、ぼくはオウム返しに言った。


(完)

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