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夜の蝉【短編小説/ネムキ】

 バスを降りた途端に熱い空気に包まれた。乾きかけていた汗が再び吹き出すのを感じる。駅に入ろうと一斉に歩き出すひとの波を避けて、停留所の街路樹の下に立った。鞄からハンドタオルを出して首筋と額の汗を拭い、マスクを持ち上げて鼻から下も拭く。
 暑い時期のマスクは辛い。最近、屋外では外すことも多い。コロナ禍のせいで、今ここにある空気、というものを意識するようになった。目に見えなくても確実に「ある」もの。
 足元に目をやり、木の下にむき出しになっているはずの根っこと土の部分が、ベージュ色のコンクリートのようなもので覆われていることに気がついた。コンクリートは木の幹まですっぽりと蓋をしていて、雑草が生える隙間がまったくない。木の根に人がつまずかないようにという配慮だろうか。いつの間に、と思った。固い土の表面にいくつか空いている小さな穴と、蝉の抜け殻を見つけて、ああ夏だ、と実感した記憶があるんだけど。

 気を取り直して暑い空気をひと呼吸し、駅に入ると電車に乗った。
 人混みの中で吊り革に捕まり、窓の外を流れてゆくコンクリートの建物を眺めながら、蝉について思いを馳せる。
 毎年、夏になると、蝉が出てきた後の穴と抜け殻を見て、あの昆虫についている小さな脚で、よくこんな硬そうな土を掘れるものだと驚嘆していた。私が手で土を掘ったら、十センチも掘らないうちに爪が割れてしまうんじゃないか。でも彼らは七年間も土の中を掘り進んで暮らして、成虫になる直前で地表に出てくるわけで。初めて地上に顔を出した瞬間の感覚ってどんなだろうか。やっと、と思うのか。残り時間は僅かだと思うのか。身体が変わってゆく感覚に翻弄されて、思考する暇がないかもしれない。

 首都圏に住んで、東京の会社に通勤していると、土そのものを目にすることが、ほぼ無い。見ようと思うなら、公園や道路の脇の植え込みの下をわざわざ覗く必要がある。駅も、駅前から続く通勤路も、会社が入っているビルの前の広場も、ぴっちり隙間なく人工物で舗装されて、覆いはどこまでも続いているように見える。
 大人になった今では、電車で1時間も離れれば、畑とか山とか、土が沢山ある場所に着くことは知っているけれど。それでもかなり広い面積の土がこうして覆われているわけで。
 土の中に暮らす蝉の幼虫が地表に出る時、上が舗装されていたらどうするんだろう。ゆっくり時間をかけて表面に近づいて、土ではない固いものにぶつかって、これ以上掘り進めない、となったら。とりあえず、いつか表面に出れる場所に行き着くだろうと運任せで掘ってゆくのか。それとも、生まれつきの本能で、土がむき出しになっている場所がわかるのかな。
 もしかして、運のなかった蝉は地表に出ることができずに、舗装のすぐ下で身体が変わってしまって息絶えるのかもしれない。もしかすると、いま歩いているこの道路の下では、半分成虫半分幼虫の姿をした屍がぎっしりあったりして。外に出ても出られなくても毎年たくさんの、自動的に消滅する蝉の命……私は足元のアスファルトの下にあるはずの見えない土を想像しながら、会社の玄関にたどり着いた。エントランスの冷気にほっと息をつく。


 私はデザイナーとして入社した新入社員で、同期は同い年の男の人がひとりだけ。つまり今年の新人はふたりで、それだって三年ぶりの採用だと聞いた。会社は大手広告代理店の下請けのひとつで、web制作、イベントやグッズの企画制作、それに伴うチラシや販促物の制作などなど。要はwebサイト周りの細々したことを色々やってると思ってもらえれば良い。

 けど、いま私は爪を気にしながら書類を閉じたホッチキスを外している。
 シュレッダーで廃棄するためだけど、問題はそれが大量にあること。要シュレッダーの書類入れがいっぱいになって溢れそうになっていたので仕方がない。書類は全部、さっさと電子化してほしいけど、無理なことも分かってる。社内書類は基本webなんだけど、外の人と打ち合わせする時の資料はやっぱり紙が主流なのだ。
 薄い束を閉じた小さな針金をこじ開けて引き抜き、シュレッダーに突っ込むと、機械はガタガタ言いながら紙束を引っぱってなかに飲み込んでゆく。書類の残り半分ほどのところでエラー音が鳴って機械が止まる。これは裁断された紙片が満杯になったサインだ。
 私はため息をつくと屈んで、細切りにされた紙屑がぎっしり詰まった容器を引っ張り出す。キャベツの千切りそっくりの山盛りになった細切れは、どう気をつけても下のカーペットの上に散らばってしまう。舌打ちをこらえ、ゴミ袋に紙片を移していると、ひょろりと細長い人影が視界に入ってきて、もう1人の新人……香川が現れた。彼はこちらには目もくれず、要シュレッダーの箱に、持っていた束を無造作に放り込んだ。たまらず私は声を上げた。
「ちょっと!」
 彼と目が合うと私は「いま掃除してるの見えない?普通さ、その場で新しくゴミ追加する?掃除している人間の足元にゴミ捨ててるのと同じじゃない?」
 香川は無表情のまま
「ここは指定のゴミ箱なんだから、文句言われる筋合いないと思う」
 彼の全く悪びれない態度に苛立ちが湧き上がる。せめてホッチキスを外して箱に入れるとか、わずかでも配慮を見せるならまだ可愛げがあるものを。私は片手でゴミ袋を掴んだまま背筋を伸ばし、香川と向き合った。
「シュレッダーの片付けするの、いっつも私じゃん!あんたも新人なんだから私ばかりはおかしいと思うんですけど。あのさあ、あんたがやんない雑用これだけじゃないからね?流しに溜まったカップを洗うのも、三角コーナーの掃除も、コピー用紙の補充とか備品の注文とか、郵便物を回収して配って回るとか、ほんと朝から晩までいっぱいあるんだからね!」
 香川は骨ばった肩をわずかにすくめた。
「誰も吉野に強要してないと思う」
「ああそう、きっと私が文句言うと上司からはそう言われるんだろうね。けどこういう仕事、なぜか女子社員だけがやってんだよ。おかしくない?なんで男は自分からやろうとしないわけ?この箱も、溢れるのに気がついても、男の先輩たちみんな知らんぷりしてるし。気にならないの?」
「男は力仕事系の雑用やってるからじゃない?」
「なに力仕事系って」
「キャビネット移動させるとか、ウォーターサーバーの予備のボトル運んだりとか。こないだ俺、棚のファイルをかなり大量に別の部屋に移動するの手伝ったけど、吉野その時いなかったじゃない」
「そういう仕事って週イチ、下手すると月イチレベルだよね?私のは毎日なんだけど?」
「だからさ雑用なんて気がついた人がやりゃいいんじゃない。吉野も忙しい時に無理してやんなくていいと思う、そーやって後で文句言うくらいなら」
 私はぐつぐつたぎる怒りを抑えつけ、袋をギュッと握った。声が震える。
「とかいって結局、私がやることになるんだよね!新人なんだから、ある程度しょうがないって分かってるよ、以前から言ってるじゃん、私らで話し合ってちゃんと分担決めようよ。仕事忙しいのにこんなことでストレス溜めたくない」
 香川の能面のような無表情がわずかに崩れて、眉間に細い縦線がはしる。そして声のボリュームを下げると独り言のように
「うわデター、フェミの“女ばっかりフコウヘイ”理論。何かっつうとすぐ『男が悪い』ってぶうぶう鳴く割に、いざと言うとき使えない。マジうざい」
「な……」
 あまりの言葉に絶句していると、離れたところから「香川!」と呼ぶ声がして、香川は声の方向に向かって返事をした。そして何ごともなかったように平静な態度でさっさと歩み去っていった。

 私は呆然と、彼の後ろ姿を眺めながら立ち尽くした。
 ……は? ……はあ? はあああああ?
 私、あそこまで言われることなんかした!?やりたくないって言ってるわけじゃなくて、分担決めようって提案してるのに。何なのあの態度、なにがフェミだ、なにがぶうぶう鳴くだ。香川のクソヤローふ・ざ・け・ん・なっ!!
 猛然と紙片を袋に移していると突然、声をかけられた。
「吉野さん!ちょっと、どした?」
 目の前に上司の鮎川さんの顔が出現し、怒りで沸騰していた血の温度が一気に5℃ほど下がった(気がした)。鮎川さんは穏やかで優しいけど、ちょっと指示がブレがちなおじさんで、いまは驚きと戸惑いがないまぜになった表情で私を伺っている。
「シュレッダーのなかを掃除してくれてるのか、それはいいんだけど、ちょっと片付けが元気すぎるのか散らかっちゃってる感じが。君、頭から真っ白だけど大丈夫?」
 言われて自分の服を見下ろすと、確かに深緑色のシャツと黒いパンツが、全身くまなく白い紙屑に塗れている。私はあわてて身体を叩き、髪の毛を掻きむしって紙片をはらい落とした。周囲の床には盛大に紙片がばら撒かれて、ここだけゲリラ吹雪が発生したみたいだった。これじゃ片付けてるのか散らかしてるのか分からない。
「すみません、塵取りとほうき、取って来ます!」と、焦ってその場を離れた。
 落ち着け、落ち着けと繰り返し自分に向かって言い聞かせながら、密かに深呼吸を繰り返した。猛スピードで掃除すると、席に戻って仕事をし(幾つかのつまらないミスを納品直前に発見して大急ぎで直し)トイレに入ろうとしてドアにぶつかり(さいわい誰にも見られなかった)郵便物を配るときうっかり床にばら撒き(歩いてきた人が間違って踏みつけてしまう)モニターにかじりついて、同じフロアにある香川の席の方は見ないように過ごしているうちに、周りから人が減っていって、気づくと夜になっていた。

 蛍光灯が、隅々までくまなく照らすフロア内は、天気も季節も感じられない。
 ただ壁にかかった大きな時計の針は二十時過ぎを示しているし、各自の出退勤と居場所を書き込むホワイトボードに「退勤」の印が増えている。私は我に返ったような気がした。ずっとズレていたピントがようやく合ったような感覚。
 私はホワイトボードに香川の名札を探した。彼は新人のくせにいつもさっさと帰る人で、部署での最初の挨拶のとき「出世も昇給も興味ありません。できる限り省エネで生きていく方法を確立するのが人生の目標です」と宣言して上の人間を苦笑させていた。──ので、もういないと思いきや、まだ名札は「退勤」になっていなかった。「A4会議室〜20時」とある。今は20時10分だ。打ち合わせが長引いているんだろう。
 私は帰り支度をした。自分が座っている島の先輩に挨拶して、ホワイトボードの名札を「退勤」にすると、フロアを出る。
 帰る前にトイレに寄った。冷房が弱いトイレの空気は生ぬるくて、こもったような匂いが染み付いている。用を足して鏡の前に立つとマスクをずらし、そこに映る顔を見つめた。いつもよりどんよりと疲れている顔。目やにを指でこそげ落として顔をしかめ、ため息をついた。同期男の捨て台詞ごときにこんなに消耗させられて、ほんと癪だ。無表情で自己主張が少なくて、なんとなく掴みどころが無いけど、相手が上司だろうと先輩だろうと淡々と応対できる超絶マイペースっぷりは、私にはない性格で、少し感心していたのに。
 私と香川はふたりだけの新人ということで、2人セットでやらされる作業も多いので、これからのことを想像して憂鬱な気分になった。
 はあ、雑用の相談の件はマイナスからのスタートか。同期ひとり説得できずに、上司を説得なんて無理だよなぁ……。
 私は二度目のため息をつき、ため息をつくと幸運が逃げるという言葉を思い出して、次のため息を押し殺すと口を強く結んだ。あんな奴のせいで1ミリでも幸運が減るなんて冗談じゃない。

 エレベーターホールに行くと、フロアのドアから出てきた香川とばったり会って、一瞬立ち止まった。向こうも微かに気まずそうな顔をすると目を伏せて「おつかれさまでした」と小さな声でいった。私も「……おつかれさまでした」と機械的に返した。
 ふたりともじっと点滅する数字を見つめたまま、微妙に離れた位置でエレベーターが降りてくるのを待つ。ああ神様おねがい誰か乗っていますように。未だかつて、これほど真剣に祈ったことはないくらいに祈ったのに、開いたドアの先は無人の空間があるばかりだった。どちらが先に動くか伺うような数秒間のあと、2人同時に乗り込んだ。密室の箱はなめらかに滑り出す。
「なんかごめん」
 マスクのせいで余計に聞き取りにくい、くぐもった声が聞こえた。香川の方を見ると、彼は数字を見つめたまま突っ立っている。私は慎重に答えた。
「なんかって何?」
「なんか、怒ってるみたいだから」
「そりゃ豚とかいわれたら怒るよ誰だって」
「豚なんていってない。ぶうぶうっていった」
「同じでしょ」
「女を豚に例えたりしない。豚に失礼」
 私は息を呑んだ。「喧嘩売ってんの?」
 香川はチラッと視線をこちらに投げた。
「ぶうぶう文句いう、って表現があるじゃん。吉野、文句言ってたから、ぶうぶうっていっただけで特に意味はない。たらたらの方が良かった?」
「はあ?なにその屁理屈。ぶうぶう鳴く、その割に使えないって完全に喧嘩売ってるよね。私、あんたになんかした?恨みでもあんの?」
「声大きい」
「誰のせいだよっ」
 思わず手に持ったバッグを振り回して香川にぶつけた。彼は自分のビジネスバッグを盾のように掲げてガードしながら
「暴れるとエレベーターが止まって閉じ込められるかもっ」
 と叫んだので、私はバッグを振りかぶった姿勢で固まった。張りつめた空気のなか見つめ合うこと一秒、二秒。硬い音と共にエレベーターは停止して、私はバッグを下ろした。そして扉が開くやいなや抜け出した。マスク越しに同じ場所の空気を吸うことさえ耐え難い。街灯を反射して白く輝く、無機質な人工広場を駅へと向かって歩く。できる限り早いスピードで。
 昼間吸い込んだ熱をコンクリが放出しているのか。夜だというのに熱風が吹きつけてきて、不快な汗が吹き出す。せっかく時間をかけて納めた気持ちが、また湧き立って沸騰するのを感じる。
 突然、後ろから伸びてきた手に腕を掴まれて、私は思わず悲鳴をあげた。香川だ。こちらが何か言う前に、彼は大声で「落としもの!」と叫んだ。目の前に突き出された彼の手に、彼のビジネスバッグと私のハンドタオルが握られている。私がタオルを見つめたのと、彼が腕を離したのは同時だった。
「……」
 普段ならお礼の一言くらい言う場面だけど、私は怒りでこわばった口を固く閉じたままタオルをひったくって、数歩離れた。彼は指でマスクを顎まで下ろして汗を拭った。私は踵を返そうと足に力を込めた。

 その時、視界を小さくて黒いなにかが横切って、勢いよく香川の胸にぶつかって止まった。茶色い羽の蝉だ。アブラゼミだったかミンミンゼミだったか。私は「あ」と声をあげ、香川は胸元を見つめた目をいっぱいに見開いて、のけぞった姿勢で数歩下がると、口を大きく開けて絶叫した。
「はうわぁああああぁあああぁああ」
 手からバッグを落とすと、大声でわめきながら街灯の方へと走ってゆく。彼のそんな声を聞いたのは初めてでびっくりし過ぎて事態が飲み込めず、私は呆然とそれを見守る。香川は自分の胸から目を離さず「ムリムリムリムリムリムリ」と言いながら走り回っていて、駅へと向かう会社員が何人か、通りすがりに不信の目を向けているのを視界の端にとらえる。
 すると彼はものすごい形相でこちらに駆け寄ってきたので、私は思わず一歩下がった。香川は私の目の前で立ち止まり胸を指さして叫んだ。
「取ってえ!これ取ってええ!ムリだからあ俺こういうのマジでムリだからっ」
 私はやっと、彼は蝉を怖がるあまりにこういう行動に出たのか、と納得した。
「蝉が怖いの?」
 香川は頭が千切れそうなほど頷いた。私はニヤリと笑うと蝉に顔を寄せて、じっくり観察した。
「へええー……すごく一生懸命しがみついてるね、かっわいいな。おしゃれじゃんライブ・インセクト・ブローチ」
 彼は顔を歪めて泣きそうになった。私は、みっともない泣きっ面に胸がスッとして一気に気分が良くなり、そろそろ助けてやるかと蝉に手を触れた途端、虫は鋭い鳴き声をあげて弾丸のように飛び立った。
「ひいいいいっ」
 香川は情けない悲鳴をあげてその場に尻餅をつき、私は蝉が不規則な軌道を描きながら飛んでいくのを見送った。蝉は街灯の照らす範囲をはずれて、闇の中へ姿を消した。香川は消耗した様子で座り込んでいる。私は少し屈んで、声をかけた。
「行っちゃったね」
 香川はぼんやり私の顔を見てから、蝉が飛び去った方向を確認すると、また視線をこちらに戻した。みるみるうちに目に光が戻ってくる。彼は咳払いすると立ち上がり、尻をはたいた。そしてバッグを拾うと私と向き合った。汗で湿った喉仏が上下した。
「あの、吉野。この件は、そのオフレコで」
「条件があります」私は彼の言葉をさえぎった。「いま私がひとりでやってる雑用の分担をきちんと決めること。明日、朝のグループミーティング終わったら当番表作ろう」
「俺、けっこう忙しいんだけど」
「私もですけど?たださ、急ぎの仕事入った、とか、どうしても無理ってときは、要相談ってことにしとこ。仕組みを作る時は、トラブルが起こることを前提で考えておくのが大事って先輩も言ってたし。ただ、基本はベストを尽くすこととする」
「…………」
「んじゃそういうことでまた明日」
 私は明るく宣言すると、くるりと向きを変えて駅の改札に向かった。彼の抗議の視線を背中に感じる。それでも、もっと理不尽な要求をすることもできたのに常識の範囲で納めたことを評価してもらいたいくらいだ。
 蒸し暑いホームに上がって電車を待っていると、線路を挟んだ向かいのホームに香川が入ってくる姿がみえた。
 線路側を向いて立っている彼は、うつむいたまま。
 でも、こっち側のホームに私がいることを知っているし、彼が知っていることを私も分かっている。
 電車が滑り込んできて、涼しい車内に乗り込んでひと息つくと、扉のガラス越しに香川の姿を探した。今度はばっちり目が合った。彼は無表情のまま、バッグを持っていない方の手を拳に握ると、中指を立ててみせた。私はにやりと笑った。


「スポンジに洗剤をつけて、あっ、つけ過ぎだよ、ちょっとだけで良いのに、まあいっか、で、泡立てて、カップをひとつずつ洗う……そう、カップのふちと底、ちゃんと洗って……ちょ、そのままじゃダメだってば、最後はゆすがなきゃダメ!洗剤がついたままはヤバいって」
 香川は鬱陶しそうに私を見て「うるさいんだけど」と言った。私は引かない。
「最初が肝心だからさ、こういうの。てかさ、あんた一人暮らしだよね?自分で洗う時もそんななの?」
「吉野はいい奥さんになるね」
「へっ!?なに、いきなり」
「褒めてない。イヤミだから」
「あっそ」
 香川は、洗ったカップをひとつずつゆすいで、狭い給湯室のシンクの脇にある水切りカゴにカップを入れた。私はまた口を出した。
「カップは伏せて置いて!上向きに置いて乾かすと、底に水が溜まっちゃうからさ」
「たまったら何?」
「使うとき、カップの底に水が残ってたら嫌じゃん」
「はあ?そんなん、どうでも良くない?」
「良くない。私だったらヤダ」
「……」
 香川は、はっきりと顔をしかめた。最後のカップをカゴに伏せると水道を止め、両手の水を払うとスーツのズボンになすりつける。彼のズボンに濡れたあとがついたのを見て、出かかった言葉を私は飲み込んだ。それは私の仕事じゃない。その代わり、こう言った。
「スポンジもゆすいで。よく絞っておいて」
 香川は驚いた様子で「なんで?次に使うとき洗剤残ってた方が、省エネになるじゃない」
「スポンジに洗剤が残ったままだとスポンジの劣化が早まるし、乾かさないと雑菌が繁殖するんだよ」
「洗剤が付いてても?」
「洗剤も、ついたまま放置はよくないの」
「……」
 香川はぐったりした顔で給湯室を出ていった。私はその後を追おうとして、通りかかった人影にぶつかった。「スミマセン!」そして相手の顔をみて続く言葉が引っ込んだ。スラリと背筋が伸びた、長身の立ち姿。営業部エースの滝沢さんだ。滝沢さんは私と香川を見てニヤリと笑った。
「なに?香川、吉野さんに調教されてんの?」
 調教?私が言葉に詰まっていると、香川が疲れた声で答えた。
「雑用分担しろってうるさいから仕方なく。女ってどうしてこう無駄に細かいんですかね。仕事と違って一銭の利益にもならないのに、マイルール押し付けてくるし非効率の極み」
 滝沢さんは楽しそうに笑った。
「男は女の尻に敷かれてるくらいが上手くいくってよ。俺は結婚してないからそういうの分かんないけどね。まあ世の中、男と女しかいないんだから、あえて調教されてやるのも男の仕事のうちだよ、な、同期は仲良く」
 滝沢さんは軽く香川の肩をはたくと、ちらっと私の顔に視線を走らせ、揶揄を含んだ笑みを浮かべると歩き去った。私はその後ろ姿を目で追いながら、喉元に込み上げる違和感に立ち尽くす。
 女が雑用仕事を男と分担しようとすると“調教する”ことになるわけ?で、男は、本来その必要はないけど、あえて“調教されてやる”わけ?なんだそれ、なにそれ。胸のなかにどんよりした黒雲が、重苦しく渦巻いた……そうだ、似たようなことは大学のサークルでもあった。男の先輩たちが、男しかいない所でしている話を偶然、耳にしたときのこと。
(アホか、女のいうことなんてウンウンそうねって流しときゃいいんだよ。女の子相手にきちんとしたアドバイスなんてムダ。基本おバカなんだよな、建設的な議論もできないしさ。それに真面目な話は楽しくないじゃん。楽しくなけりゃ、女といる意味無くね?)
「調教?」
 香川が呟いた。私は自分の心を読まれたかと思って、ちょっとビクッとする。香川は平坦な声で続けた。
「なん、調教って。まじオラオラ系営業男って言葉のセンス絶望的。30代にしてアラフィフマインド。あ、だから本社役員のおじさん受けするのか……類友……」
 オラオラ系という言葉に思わず笑いが漏れた。重苦しかった胸が急に軽くなった。
「あんたが嫌いなの女だと思ってた。オラついた男も嫌いなの?」
 彼はちょっとこちらを見て、また逸らした。
「女も男も嫌いだけど、何か?」
「蝉も嫌いだしね」
「虫も嫌いだ。動物も嫌いだ。地球の生き物はだいたい嫌いだ」
「逆に、なにが好きなの?」
 また目が合った。彼は目線を上に向けて、すこし考えた。
「……植物」
 私はまた笑ってしまった。「あんたって、草食男子を極めてるよねー」
 彼は無表情のまま「俺はベジタリアンではない」と言った。私は笑いが止まらなくなった。


 その週の金曜日。
 親会社の大型コンテンツが新しくスタートした。うちの会社が構築と運営をする公式WEBサイトがサービスインしたことで、とりあえずの節目と関係者の慰労と……その他もろもろの飲み会が、新宿某所で行われることになった。名目はともかく、実質はうちが親会社の関係者を接待する場だ。新人の私と香川は事前に「くれぐれも粗相のないように」と、営業の社員から釘を刺されて、少々緊張しながら臨んだ。

 けど、個人的に楽しみでもあったのは、先方の担当者に直接、会えることだった。担当者は油井あぶらいさんという壮年の男性社員で、この案件のデザイン部門のまとめ役だ。営業の人たちと制作責任者たちは、ミーティングで何度も顔を合わせていて顔馴染みだけど、下っ端の私と香川が会うのは初めてだ。
 本社の社員は、うちのような下請けに対峙するとき、尊大な態度の人も多い。普段のやり取りは丁寧でも、トラブルが起こると途端に攻撃的になるひともいる。けど、油井さんは違った。普段のやり取りも丁寧かつ的確で、トラブルも冷静に対処してくれる。滝沢さんも「やっぱデキル人ほど腰が低いってほんとだよな」と感心し、デザイン部の上司の花園はなぞのさんは「吉野さんの電話の声、素敵だって、油井さんが言ってたよ」と伝えてくれた。新人が褒められることなんて滅多にないので、直接仕事内容に関係なくても、嬉しくて飛び上がりそうになった。そんな憧れの相手にこれから会える!
 広々とした空間の中央に豪華な生け花が飾られているメインロビーで、私は香川に囁いた。
「香川。あんたの草食男子っぷり、隠しておきなよ。失礼だと思われちゃうかもしれないし」
 香川はだるそうに答えた。
「何度か電話でやり取りしてるし、もうバレてるんじゃない?」
「わかんないでしょ。いい?これは会社のためです。私たちは今、会社を代表してここにいるんだから」
「えっらそーに……別に吉野に会いに来るわけじゃないでしょ。なに舞い上がってんの」
「はあ?舞い上がってなんか」
 先輩たちが一斉に動き出したのを見て言葉を切った。そして彼らの脇に並んで頭を下げた。二階のアッパーロビーから、階段を降りてくる四人の男性社員たち。私の頭に“降臨”という単語が浮かぶ。全員がスーツにマスクの私たちとは違い、マスクをしないオフィスカジュアルな服装だった。きっと高価な服を身につけているんだろう。シンプルなのに、なんだか洗練された雰囲気だ。先輩たちが前に進み出て、その人たちと親しげに挨拶する。ついで彼らの目は私たちに注がれ、私と香川はぎこちなく名刺交換をした。中のひとり、ロマンスグレーの紳士が穏やかに微笑んだ。
「あなたが吉野さん。初めまして、油井です。といっても何度もやり取りしてるからか、初対面の感じはしませんよね。お会いできて嬉しい。新人さんなのにしっかりしていますよね。ほんと助かってます」
 私はドギマギしながら手を振った。
「そんな!至らないことばかりで申し訳ないです。あの、私、未熟すぎてなにが悪かったのかよく分かってないかもしれないので、どうか今後もご指導のほど、よろしくお願いしますっ」
「はっはは、新人で完璧に仕事できる人なんていません。そんな人がいたら、上司の存在理由がなくなる。上司は部下の失敗の責任を取るためにいるんだし、それが組織の良さでもあるんだから、ガンガン失敗してください。なんて、別会社の僕が偉そうにいうのも違うか」
 油井さんは笑い、私はその爽やかな笑顔に見惚れてしまう。若い頃はモテていただろう。30代といっても通る体型を維持しているせいか、ジーンズにジャケットが様になっていて若々しい。さすがは本社のエリート社員、デキル人オーラが漂っているなあ。
 突如、背中を軽く叩かれて我に返った。香川だ。
「吉野、行くよ」
 いわれてみると、新人二人以外の面々は、会社の玄関を通り抜けているところだった。私はあわてて足を早めながら
「油井さんってカッコいい人だよね。やっぱさ、能力の高さって見た目に出るんだねえ」と、我ながらうわずった声で言った。香川は相変わらず無表情のまま「滝沢さんによると」と、言いかけて、口ごもった。
「え?」
「……やっぱいい」
 香川は、とっとと先を歩いてゆく。私は後を追った。


 普段は足を踏み入れることはない高級中華料理店の個室で、私たちは乾杯した。そのあとは、運ばれてくる豪華な料理を取り皿に取り分けたり、グラスのお酒が少なくなると追加の注文をしたりと、私は始終、卓の上に目を光らせていたので、くつろいでご飯を食べる暇もない。
 とはいえ、緊張のあまり何杯かのお酒は飲んでいたので、気を張っているつもりで、そのじつ酔っていたらしい。大皿に残った野菜の豆豉炒めに箸を伸ばしたところで、隣の席に座っていた香川がいつの間にか、油井さんになっていて驚いた。油井さんも少しだけ顔が赤い。けど、変わらぬ紳士ぶりで
「吉野さん、ちゃんと食べてる?さっきからごはん食べてないことない?食べな、ほら。これも」と、油淋鶏を目の前の取り皿に置いてくれる。そして「あ、いかん」あのチャーミングな笑顔を浮かべて私の顔をみた。
「こういうさ、オヤジがでしゃばって女の子に構うのって嫌われるんだよね?ほら若い子が何か始める時に、寄って行っていろいろ教えてあげようとするオジサンが必ずいるっていうじゃない」
「ああ、聞いたことあるような」
「そうそう。歳をとるとどうしても、親切のつもりが空気読めなくてセクハラ、パワハラになっちゃう。悲しいよね。吉野さん、そういうの遠慮なく言ってくれていいから。こっちも言われないと分かんないし。めんどくさいと思うけど」
「油井さんなら大丈夫ですよ」
「どうかなあ」
 私と油井さんは笑いあった。くつろいで打ち解けた雰囲気と、お酒のせいで気が大きくなって、気がつくと私は、油井さんに打ち明けていた。雑用の仕事のこと。上司たちと香川のこと。蝉のくだりまで口を滑らせそうになって、ギリギリ残った理性でどうにか堪えた。頭の隅に、こんなことを本社の人に話すのはマズイと慌てている私がいる。もうひとりの私は、手の届かない高い場所にいる相手が、いまは隣で話を聞いてくれることを喜んでいる。そして、そのせめぎ合いを冷静に観察している第三の私がいる。
「……社会人になって、男の人と同じように仕事すれば、対等なんだと思ってたんです。うちの会社、性別で給料変わらないし。でも違いました。日常の細かいところは、性別によって役割が暗黙のうちに決まってる感じなんです」
「うん」
「夫婦別姓問題もずっと進展しないし。うちの会社、産休制度もちゃんとしてないし。こないだも女の先輩が、子供産んでしばらく時短勤務してから会社、辞めたんです。やっぱりここで子育てしながら仕事を続けるのは無理だったって」
「うんうん」
「なんで妊娠すると女だけが仕事を辞めなきゃならないんでしょう?男と女で子供作るのに。子供産んでも保育園に入れないとか、子供が小さいうちは時短でないとムリとか。その期間がブランクになってしまうと、子育て後に再就職で正社員になるのは、ほとんど不可能だと聞きます。ずっと頑張って希望の仕事に就いても、諦めなきゃならないなんて……すごく、すごく悲しいです。勿体無いです。子育てしながらキャリア作れる世の中にならないと、子供は増えないって思います」
「うんうん」
 そこで突然、稲妻のように、私のなかで台詞がリフレインした。
(女のいうことなんてウンウンそうねって流しときゃいいんだよ……女の子相手にきちんとしたアドバイスなんてムダ……)
 私は黙り込んだ。油井さんはビールを飲み干して、卓にグラスを置いてから、私の様子に気がついたようだ。
「ごめん。もっかい言ってもらっていい?」
「いえ、大した話じゃないので……」
 私はどうにか笑顔を取りつくろった。頭の中の、ふわふわしたピンク色のガスが驚くべき速さで抜けていき、冷えた空洞が残った。なにをヘラヘラ笑ってんだ私は。なにを期待してたんだ……。
 そこで向かいの席に座っていた香川が、こちらをじっと見ていることに気がついて、思わず目を伏せた。見られてたのか……上司に媚びる女の顔はさぞかし間抜けだったろう。
 急に情けなさが込み上げて、ほんの一瞬だけど、何もかも放り出してここを飛び出したい衝動にかられた。私は唇を笑みの形に結んだまま、歯をぐっと噛みしめた。これは仕事だ。ここにいるのは仕事だ。仕事、しごと、しごとしごとしごと……。
 それからはとにかく笑って、ひたすら笑ってごまかした。というか、笑うしかできなかった。失望、諦念、自嘲、無力感。そして苦い瞬間はこれが最後じゃないという確信。きっと世の中の女性社会人はみんな、何度もこういう経験をして、モヤモヤしたり闘ったり、諦めたりしているんだろう。


 店の外の、生あたたかく湿った空気に、溶けてにじむネオンの鮮やかな色合い。そのなかを行き交う人の多さに繁華街の夜を実感した。これからどこかに行く人と、これから帰る人、ここに居たい人が入り乱れて、まるでカオスだ。
 気がつくと。ネオンの光で極彩色に染まる街の中を、私はひとりで歩いていた。いつもより更に息苦しく感じて、マスクを外している。油井さんと本社の人たち、先輩たちと別れたときのことがよく思い出せない。けど、なんかいろいろ言い訳しながら逃げるようにその場を去った気がする。早くひとりになりたかったというのもあるけど、何より香川に顔を見られたくなかった。あの程度のことで傷ついたと思われたくなかったし、実際に傷ついている自分も嫌だった。

 不意に目の前に、人影が立ちはだかった。青と緑に輝くネオンに背後から照らされた男の顔はよく見えない。私は棒立ちになり、次の瞬間、相手が油井さんと分かって驚いた。
「吉野さん、歩くの早いねえ」
 油井さんは笑った。彼の額に滲んだ汗が、後ろからの光を反射する。
「油井さん、なんで……あの何か?」
「せっかくだから、もう一軒行かない?って言うつもりだったのに、いつの間にか君、いなくなっちゃったから。いや君と話をしていて、久しぶりに凄く楽しかったんだよね。ここんとこ色々あって、誰と飲んでも楽しくなかったんだけどね」
「え、っと」
「吉野さん、デザイナー同士、静かな場所でデザインの話をしませんか?僕はキャリアはそこそこあるから、面白い話ができるし、君にも良い学びになると思う」
 デザインの話?この誘いが飲み会の前だったら、私は嬉しくて天にも昇る心地になっただろう。尊敬するデザイナーで、業界の偉大な先輩でもある人の体験談を直に聞けるなんて。こんなチャンスはおそらく二度とない……でも、いまは余力がなさ過ぎて、1ミリも嬉しい気分が湧いてこなかった。
「あの、とても光栄なんですが。ちょっと飲みすぎたみたいで、気分が悪いっていうか。ほんとにすみません」
 油井さんは少し大げさなくらい顔を曇らせて、さらに近づいてきた。
「それはまずいな。こんな暑くて埃っぽい場所じゃ具合悪くなるよね。どこか涼しいところに行こう。少し休めば気分が良くなる」そして私の左腕を軽く掴んだ。
「え?ちょっと、あのっ」
「吉野さん、無理しなくていい。休むのも仕事のうちだよ」
 油井さんは腕を離してくれない。私は身をこわばらせて足をふんばった。「ほんと無理ですごめんなさい、今日は帰らせてください」
 すると油井さんは「うっ」とうめいて、私の腕を握ったまま前に屈んだ。私は腕を引っ張られて、彼をのぞき込むような格好になった。彼は苦しげな顔で
「持病があって……発作……ああ辛い、立っていられない」とささやくと、もう片方の手で私の右腕を掴んだ。私は両腕を掴まれて、ぐっと引き寄せられる。ええ?ちょ、どうしよう。私はあたりを見回した。周りの人たちは私たちが見えないみたいに通り過ぎて行く。どうするのが正しいの。救急車呼ぶ?それとも先輩に電話しようか?彼は私の両腕を掴んだ手に力を込めた。私は、その力の強さに少し怖くなる。
「大丈夫ですか?あの救急車呼びますか」
「いやっ30分も休めばおさまる。どこか静かなところで、横になれば……吉野さん、手を貸して」
 油井さんが辛そうに顔を歪めたまま、私の斜め後ろにさっと視線を走らせた。私はふり返って、看板の色の洪水のなかに、水色に光る「HOTEL」の文字を見つけた。──まさか。掴まれたところから全身へ、ざあっと肌が粟立った。愕然としながら油井さんに向き直った瞬間、彼はすぐに目を伏せたけど、冷たい目で私を観察していたことがわかった。
「嫌です、離してください」
 両腕を振りほどこうとしても、万力で固定されたように、びっくりするほど動けない。血の気がひいた。男が本気になったら女はこんなに歯が立たないの?そんな、どうしよう、怖い、いやだ怖い怖い、誰か助けて。

「大変だ!」
 横から駆け寄ってきた人影が、そう声を上げて油井さんの腕をつかんだ。私達は、ふいに湧いてきた細長い男を見つめる。香川だ。
「か」
 私が叫ぼうと口を開けたとき、遮るように香川が声を張り上げた。
「苦しいんですね、どっか横になれるところに行かなきゃ。俺でよければご一緒しますっ」
 油井さんは呆然と「君、どこから」と声をかけたが、香川はそれを無視して、油井さんに大きく頷いた。
「大丈夫。手を貸します。手を俺の肩にまわして、ほら、早く」
 私を掴んでいた手の力がゆるんだ。私は両腕を強引にふりほどいた。宙に泳いだ油井さんの両手を香川が捕まえて握った。そして自分の方に引き寄せたので、油井さんは香川のほうに数歩よろけた。彼は我に返ったように、香川に向かって「おい、手を離せ」と言った。
「無理しないでください。あの、俺じつはゲイなんですけど、病人を襲ったりしませんから。よく使うホテルが近くにあります、さあ行きましょ」
 油井さんはギョッとした顔で自分の手をひっぱったけど、香川はガッチリ握って離さず、そのまま強引に歩き出した。油井さんは引きずられながらわめいた。
「離せっ、香川っ、はなっ、だっだ大丈夫、大丈夫だからっ。治った!もう気分が良くなった。頼む、離してくれっ」
 香川は疑わしそうに油井さんの顔をのぞき込むと、急に足を止めて手を離した。油井さんは大きく体勢を崩して転びかけ、あやうく踏ん張ると、くるりと振り返って脱兎のごとく逃げ出した。機敏な動作は明らかに元気いっぱいで、とても発作を起こした人にはみえない。

 私は、腕をふりほどいた時に肩から滑り落ちたショルダーバックを、拾おうとしゃがんで、ゆっくり立ち上がった。香川は油井さんが去った方角をじっと見ていたが、ふいに視線をこちらに向けた。視線がぶつかったけど、どちらも口を開かない。彼も私も無言のままその場に立ち尽くして、目の端に通り過ぎゆく人たちを眺めた。
 私は受けたショックが大き過ぎて、うまく現実に戻ってこれない感じがしていた。脳がフリーズしている。分かるのは、とても疲れたということ。この場で溶け流れて、消えてしまいたいくらいに疲れた。
「吉野」
 香川の声だ。数秒間の沈黙のあと、彼はまた口を開いた。
「吉野、聞こえてる?」
 私は頷いた。
「駅、どっちか分かる?」
 私は顔をあげて、周囲をみまわすと黙って首をふった。香川は、とある方向を指さした。
「あっち。ほら、ここを真っ直ぐ進んで。横断歩道渡って。渡った先の、あそこの赤い看板見える?赤い看板と白い看板の間の道路をちょっと行くと、すぐ駅」
「無理」
 私はつぶやいた。「疲れ過ぎてて無理」
「帰りたくないわけ?」
「今すぐ帰りたい。どこでもドアが死ぬほど欲しい」
「完全に同意。けど令和にどこでもドアはない」
「……飲みたい」
「は?まだ飲み足りない?」
「コーヒー。トイレも行きたい」
「ああコーヒーね。了解」
 香川はゆっくり歩き出した。私は自動的にそれについていった。何も考えず、ただ彼の足元を見失わないように歩いた。


 コーヒーショップは賑わっていて席に空きがなく、私と香川は用だけ足させてもらい、アイスコーヒーをテイクアウトした。そして近くの広い公園に移動した。遅い時間だというのに、歩いている人影はそこそこいる。みんな何だか楽しそうなのが、昼間と違うところだ。私達は広い階段を降りると、脇のベンチに座った。
 しばらく無言のまま、私達は濡れたアイスコーヒーの容器からコーヒーをすすった。私は鞄からハンドタオルを出して汗を拭いた。ブラウスが汗で貼りついて、気持ち悪い。香川もハンカチを出して首筋の汗をぬぐっている。
「ありがと」
 気が抜けたように香川に言った。そして心に浮かんだ疑問のままに「ゲイってほんと?」と聞いた。香川は私をチラッと見ると目を逸らし、半身を前屈みにして目の前の地面を見つめた。てっきり否定すると思い込んでいた私は、その反応にヒヤリとした。え、嘘。マジでそうなの?気まずい思いで黙り込んでいると、彼はぽつりと漏らした。
「よくわからない」
 わからない?どういう意味だろう。返事できずにいると、彼は言葉を続けた。
「俺、性別関係なく、誰かに欲情したことないから」
「誰も好きになったことがないってこと?」
「それ以前。性的な意味でムラムラしないってこと」
「今まで一度も?」
「うん」
「えと、ちょっとエッチな漫画とか、女の人の際どい写真とか見ても?」
「そう」
「そうなんだ……いやでも、そういうのはほら、タイミングとかもあるし。たまたまそうなのかも」
 香川はこちらをジロリとみた。
「……中学、高校、大学ときて、まったく皆無って明らかに変だと思う。周りの奴らは、カノジョの話とか下ネタとか、めちゃくちゃ盛り上がってんのに。俺はいつもそういう話、どうでもよすぎて苦痛だった。たぶん、どっかおかしいんだ」
「人と違うことは、別に、おかしいことじゃないでしょ」
「マジョリティが言っても説得力皆無。きれいごとにしか聞こえない」
「……」
「だからっていうか、ああいう犯罪まがいのことしてまで女とやりたい男って、珍しい動物みてるような感じ。想像を絶する。女が強要されることを嫌がるのは分かる。まあそれも、本当の意味で分かってることにならないだろうけど。俺は女じゃないし、でも男として女に欲情したこともない。どっちにも共感できない」
「だから男も女も嫌いなの?」
「どっちかといえば女の方が嫌い。やたら共感大事って押しつけてくるから。キョーカンキョーカンって、できないもんはしょうがないじゃん。できない奴がいるってことを女の方こそ共感してよって感じ」
「そっか……」
 私はアイスコーヒーを飲みこんだ。そして、公園に集う人影をぼーっと眺めながら考えた。香川とまともに話をしたのはこれが初めてな気がする。入社いらい毎日、会社で顔を合わせていたにも関わらず。隣を見ると、渋い顔をした彼と目が合った。
「念の為にいっとくけど、同情して欲しいわけじゃないから。学生の時はまあ悩んだけど、今はもうね、どーでもいいっていうか。一生恋愛も結婚もしないやつも珍しくない世の中でしょ」
 彼は腰を前にずらし、上体を仰向けにして、ベンチの背もたれに寄りかかった。そして大きくため息をつくと、視線を宙に彷徨わせた。
「同情とか……理解とか……求めてない。逆に、理解できるよとか安易にいうやつは殴りたい。そうじゃなくて……排除も理解も、コントロールも、しようとしないで違うままでそこに居ていいって、ただそう言ってくれればいいんだよ。それだけ……」
「………」
 数十秒間、香川は黙って星の見えない夜空を眺めていた。そして急に身体を起こすと、両手で自分の身体を抱え込んでさすった。
「はあ、あ〜あっカユイ空気だ、キモっ。はいこの話はこれでおしまい。どう、そろそろ動けそう?」
 私と香川は顔を見合わせた。私は、いつのまにか張りつめた心がゆるんで、自分の身に起こった事を忘れていたことに気がついた。
 もしかすると、後になってショックの反動がくるのかもしれない。──でもこの土日は考えないようにしよう。預金の残高も気にしないで、おもいっきり美味しいもの食べたり買い物しよう。来週からまた仕事するために。私の仕事人生まだ始まったばかりだ、序盤でクソオヤジに負けてたまるか。そう考えると、自然と笑みが浮かんだ。
「おかげさまで」
 彼も珍しく、わずかに口を歪めて微笑みらしき表情を作った。

 と、いうわけで、その後のことをサクッと話す。

 油井さんとのことを、花園さんに話した。花園さんは驚いたり怒ったりしてくれて、でも会社として正式に彼に対して抗議したり、訴えたりすることはできない、と言った。それをすれば、油井さんにダメージを与えられるかもしれないけど、私は会社から痛がらせされて、クビになるだろうと。
「仕事は油井さんと被らないように調整してみるけど、それ以上のことはできない。うちの会社はあそこと縁を切ることはできないから。ごめんね」と、何度も謝られた。私は、納得いかないけど、まあそうだよねと思った。

「吉野、これ」
 と、香川が見せてくれたスマホの動画には、私が油井さんに腕を掴まれて嫌がっている動画が保存されていた。私は驚いた。
「なにこれ!こんなの撮ってたの!?」
「滝沢さんから聞いてたから。油井さんの女癖悪いって噂。いざという時に、証拠あった方がいいでしょ」
「そうなの!?そういうことは早く言ってよー」
「だって吉野、めっちゃ尊敬してたから。それに、実害なければ大人なんだからプライベートは別にいいかって思うし。……油井さん今、三人の元奥さんに訴えられてて、奥さんとも離婚するしないで揉めてるらしいよ」
「既婚者……」
「いくら仕事できる人でも、裁判沙汰になるような素行不良だと、炎上の可能性あるしマズイよね、今どき……で。動画あるけど、どうする?花園さんに見せる?それとももっと上に見せる?拡散するって手もあるけど」
 私は考えて、首を振った。
 かかずらわっている時間がもったいない。私の時間も、香川の時間も。

 私たちはその後も相変わらずだ。少なくとも一日一回は口喧嘩するし、一度なんか、あまりにも頭に来たんでゴミ箱を香川にぶつけたこともある。
 入社三年目になり、私たちの後に新人が入った頃合いで、社内の雑用を新人だけでなく、社内の人間で当番制でやろうと提案した。偉い人たちから散々嫌味を言われたし、抵抗もすごいけど、上司も含めて協力してくれる人はどんどん増えている。まあ気長にやるさ、と思う。意識改革は簡単じゃない。ちょっとずつでも進んでいくことが大事。
「わー意識たかぁい。吉野パイセンさすが」
 香川はからかってくる。そこを平常心でスルーする技を身につけた。何というか、こいつはこういう奴なのだ。腹を立てるのは時間とエネルギーの無駄だ。
 その代わりではないけど、ふたりで飲みに行って愚痴を聞いてもらうのはもっぱら私の方だったりする。こないだは彼氏にフラれて盛大に愚痴った。そういうとき香川は慰めてくれるわけじゃない。いつものように謎の上から目線で、こう言う。「いやアホなのかと」「ふーん、どうでもいいね」「意味不明」「出た出た、いつものやつ」「知ってますけど?」「ほんと吉野は学ばないなあ」そして最後に例の微笑みもどきを口に浮かべる。
「こういう飲みって、生産性のかけらもないと思うんだけど……吉野がいいならいいけどさ、別に」

 ほんと、なんなんだろね。
 恋じゃない。友達とも、ちょっと違う気もする。同僚よりは近い感じ。
 前線で共に戦う同志。……みたいなものかもしれない。
 ただ確実にいえるのは、私は香川が、人生という名のライ麦畑にある崖から落ちそうになっていたら、ぜったいに、なにがなんでも助けるということ。そして香川もそうしてくれるだろうという確信がある。私たちはお互いにそれを知っている。なぜかと訊かれても、そういうものだから、としか答えようがないけど。

「お前ら、これからもずっと一緒で、中年になってもお互い独身だったら結婚とかしそう」と、飲み会で上司に言われて、ふたり同時に「それはない」と否定した。

 飲み会のあと、立ち寄った店でコーヒーを飲みながら香川は言った。
「99%、ないと思う」
 私も頷いた。
「うん99%、ないよね」

──けど100%じゃないよね。 ……とは、ふたりとも言葉にしなかった。

 そう、100%ではない。


(完)

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