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此岸と彼岸

此岸(しがん)


【此岸】しがん
仏教でいうところの、悩みや迷いに満ちた現実世界。この世。

明鏡国語辞典より引用編集


世の中が色々と窮屈に感じる。

政治にも、経済にも、仕事にも。

あれこれ鬱屈を感じる。

資本主義の暴走や、深刻さを増す環境問題。解決の糸口の見えないまま、日々の仕事に追われながら、それらを傍観する日々。そんな人生と如何に折り合いをつけて生きるか。

ーこうして書いてみると、我が事ながら、既に、それなりに生き方を、若干也とも拗らせている感がある。

して、その捌け口を求めるように、こうしてテキストを書き散らかしている気がする。

根本には、前述の通り「世の中」や自分の「仕事」に対する「不満」がある。

その「不満」はどこから来るか。

根っこには、きっと、日本の将来やら、地球の将来やら、人生・生活やらへの「不安」がある。わからんけど。

でも、「不満」と「不安」は絶妙にこんがらがって、自分一人ではなかなか、解きほぐせずにいる。

それを何とか少しでも解消するため、最近になって、すがるように「対話」という何かに関心を持ち始めたのかも知れない。

「対話」なるコトだかモノだかを通じて、何か(世の中なのか、自分自身なのか、双方か)を善くする、若しくは善く生きるきっかけが見いだせないか、先が見えないまま、足掻いているのかも知れない。

とは言え、拗らせてはいるし、足掻いているのかも知れないけど、一方で、そこまで深刻な話でもないのだろう、と思いたい。
ー自分を少しだけ、俯瞰して、そう思いたい。

幸い、憤懣やる方なくていつも血管が切れそうだ、とか、アレコレ思い詰めて発狂しそうだ、ということも、今のところない。

このまま、引き続き、極力、淡々と、飄々としていたい。

荒ぶらず、狂わず。

別に、感情を抑え込みたい訳ではない。

Official髭男dism 」の『Choral A』のMVを観て、鼻汁流して涙したって良いと思う。

そう言うのには、蓋をせず、でも淡々と、飄々と。目指す在り方として。

彼岸(ひがん)

【彼岸】ひがん
仏教でいうところの、迷いから脱して煩悩を超越した悟りの境地。

明鏡国語辞典より引用編集


一方で、そもそもの「世界」というものについて、その成り立ちを考えることが、近頃、多くなった。

きっかけは思い出せないけれど。たぶん、誰しも頭の何処かで、幾ばくかは、考えていることではないかな、と。

死んだらどうなるの?

神っているの?

宇宙の果ての、その先ってどうなっているの?

ビックバンの前って何があったの?

時間って存在するの?

世界って「ココ」以外にもあるのでは?

「イシキ」ってナニ?

「ジブン」ってナニ?

「ジブン」と「ソレイガイ」の境界ってナニ?

ーなどなどナドナド。

こういう問いは、そんなに奇抜なものでは無いだろうし、多分、世にも溢れているはず。

でも、そういう、「問い」にちゃんと向き合える「時間」を担保するのは難しい。

だって、日々、疲れるし、忙しいから。

が、逆境に抗うように、そして所謂「大人買い」をするように、最近、書籍に向かう時間を投じている

量子論やら、東洋哲学の本をいくつか齧ったり。

何に突き動かされているのか、今でも、良く分からない。

だが、やはり、というか、そこそこの工数を投じているにも関わらず、やっぱりあんまりちゃんと咀嚼して理解できていないし、正直、良く分からないことだらけ。

そりゃそうだ。専門家でもわからねー、って言っている話だし。それこそ、人類がずっとわかんねーって言って、研究し続けているコトなのだから。

「シュレーディンガー方程式」、「波動関数」、「観測者」、「エンタングルメント」、「デコヒーレンス」、「干渉」、「収縮」、「不確定性原理」
ーなどなど、とはなんぞや。

「意識」・「言語」、「縁起」、「相」、「空」、「梵」、「我」、「無我」、「輪廻」ーなどなど、とはなんぞや。

謎が謎を呼び、雪のように降り積もる。

哀しみに似て、降り積もる。

彼岸と此岸の境界の曖昧さと、「余暇」の必要性


それでも、この頃気がついたのは、いくつか本を読む読んでいると、(上述の「此岸(シガン)」で触れたような)「自分」とか「世の中(自分以外)」との境界は、「彼岸」的世界観においては、本来、そんなもの無いのかもしれない、なんて思えてくる。

だって、「自分」とか、「時間」なんて存在しないのかも知れないのだから。

だって、この「世界」(ユニバース)以外の別の「多様な複数の世界」(マルチバース)が存在するのかも知れないのだから。

存在するとしたら、それは併存関係にあるのか、包含関係にあるのか、どっちもなのか。いずれにせよ、「自分」とか「時間」とか、そう言うものは限りなく、希釈されてゆくのだろうから。

そういうことを、ぐるぐると、妄想する。(馬鹿じゃ無いのかと、思われるかもしれないけれども)

でも、この妄想は、「暇な時間」、つまり「余暇」がないとできないことだ。

いや、だから、そもそも、「時間」なんて存在するのか。

存在しないのかも知れない。

そして、ぐるぐる。

だけど、やっぱり「此岸」の感覚的には、「時間」は存在する。してしまう。

時間はお金に換算されたり、人生そのものと考えられたり。

で、やはり、その「時間」の中で「余暇」がないと、なかなかこういうコトは考えることができない。

だから、こういうことを、贅沢と言うのかも知れない。

哲学 此岸と彼岸をつなぐモノ


先に書いたように「余暇」を贅沢に、潤沢に使うことが今日日の「哲学」の仕方のひとつなのだと、最近は思う。そして、「此岸」と「彼岸」について、考える。

ひょっとしたら、両者に境目はなくて、緩く(もしくはダイレクトに)繋がっているのかも知れない。

そして、その繋がりというか、架け橋となるのも、哲学なのかも知れない。


(近頃の「科学」は、「そういうことを考えてみたって良いんだよ」って、そっと背中を押してくれている気がする)

ちなみに、"philosophy"の和訳の中に「達観」や「あきらめ」というのがあって、すごくホッとした、というか、慰められた。

世界の終わり

最後に、最近、「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」のチバユウスケさんが亡くなってしまった。

残念です。

正直なところ、そこまで熱心なファンはなかったのだけども、関連してか、しないか、好きな楽曲のひとつ、『世界の終わり』をここに捧げたい。YouTubeだから、いつまで、リンクが維持されるか知らんけど。

彼岸を見ている「君」と、それに何とか触れようとして届かない、此岸の「僕」。何と言われても知らんけど、「僕」は私に似ているな、って勝手に思うたのでした。

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