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【再録】自分の絵の方向性を見失って、そして思い出した

この記事は、再録です。
初出:2022-01-30(はてなブログ)



一旦階段を登り切ってしまったかな

ずっと絵を描き続けていると、その時々の環境や心境、目にしているもの、そして絵の熟練度によって作風が少しずつ変化してくる。


最近、自分の目指したい場所がわからなくなっていた。

それは恐らく、以前の私が目指し続けてきた場所にたどり着いてしまったからだろう。

当初の私は「中鶴さん※や平井さん※の作風を自分のものにしたい」だとか「自分なりの作風を確立したい」という強い想いがあったはずだ。
そして、いつの間にかそれらすべてが叶っている。


※中鶴勝祥さん:アニメーター。デジモンアドベンチャーのキャラクターデザイナー。鳥山明先生そっくりの画風を描けるという理由で、本人多忙のため起用されたとのこと。
※平井久司さん:アニメーター。ガンダムSEEDシリーズのキャラクターデザイナー。良い原画仕事もされる。)

オリジナル=既存物のいいとこどりであるので、作風をものにしたうえで自己を確立するというのは相反しているようでしていない。


今の画力で描けるものはだいたい描き尽くしてしまったこともあり、ここ一か月、私は色んなタイプの絵を漁っては、それを参考にした作風やモチーフを試した。


私と八神太一、その精神性

まどろみ

この間描いた太一。

この絵は、恐らく初めてちゃんとカラーラフを起こしたのちに仕上げた絵だったと思う。カラーラフで全体の色バランスや粗密を調整できるので、びっくりするぐらい修正の手間とそれにかかるストレスが軽減された。
カラーラフ、神である。

その場でどんどんらくがきを描いていく楽しさももちろんあるけれど、ちゃんとした一枚絵はゴールを明確にした方が無駄なく作業を進められて良い。


でも、この絵を描き上げた後もやもや感じた。「私はこんな絵が描きたかったんだっけ?」と。私が長時間かけてまで表現したかったものって、きっとこういうことじゃない気がする。



私はかなり長い期間、八神太一というキャラクターを通して、自分の色々なものを吐き出し表現し発散してきた。

私の描く太一は、デジモンアドベンチャーの世界の延長線上にはいるけれども、デジタルワールドやお台場にいる太一とは違う。
ゴーグルを外した絵が多いのは、「ここにいる彼は、デジモンという世界のヒーローとしての役割は請け負っていないですよ。」という意味合いを伝えるためのものだ。


目覚め
記憶


今回の絵も、上の二枚の絵も、彼の精神性の一部分を誇張して、私の独自解釈を加えて表現している。

何故オリジナルではなく版権キャラクターの彼を描くのかというと、彼の精神性が好きだからだ。共鳴するものがあるから、彼という器で表現してしまうのだ。

けれども、今回の絵は視覚上の華やかさの表現を目的に絵を描き始めてしまったので、中身があまり籠らなかった。



周囲にあるものが「世界のすべて」ではない

数日後、古本屋で数年前のイラストノートという雑誌を立ち読みした。そこにはグラフィカルでデザイン性が高い個性的なーー逆に言うとアニメ色は薄いーーイラストが沢山掲載されていた。

そして思い出した。そうだ、本来絵ってこれぐらい自由なものなんだ!とはっとした。


pixivやアニメ作画などでアニメチックなイラストばかり目にしていて、無意識のうちにそういう絵に影響を受けて、寄せているところがあったのかもしれない。

pixivは流行りの作風で溢れているので、ずっとその中にいると知らず知らずのうちに「本来絵は自由である」ことを忘れてしまう。人に受けるものを描かなければいけないような気持ちにいつの間にかなっている。


私にとってのアート、表現行為

私はアートが好きだ。村上隆とか、ウィリアム・ブーグローとか、ミケランジェロとか、ベクシンスキーとか、挙げたらキリがない。

そしてデザインも好きだ。ロゴも好きだし、ショップデザインとか、デザインインテリアとか、雑貨とか、家具とか、建築とか環境デザインとか、そちらもキリがない。


この二つは似ているようで違う。アートは作家の自己表現だがデザインは設計された結果だ。でも共通していることがある。「美しく、尊厳があり、遊び心やアイデアが詰まっている」ことだ。


キャラの表現欲求が満たされたことで出現した、新たな表現衝動によって苦し紛れにアートチックな抽象画を描いた。

タイトル不明

描きたいものがまだわからないので、心のアンテナが反応するもののスタイルを借りて、片っ端から描いていくしかない。


私にとっての絵、そして創作行為は、流行のモチーフを描くことでも、承認されるために需要のあるものを描くことでもない。周囲の人が描いてるからと流れに便乗して描くものでもない。気づくとやってしまいがちだけれど、自分をよく見せようとして取り繕うものでもない。


私は、自分のなかにあるものを、外に出して形を与えるために描いている。自分の精神を満足させるために描いている。自分の苦しみを昇華させて、非言語媒体によって精神性を表現するために描いている。五感全てを振るわせて、全身で喜びに浸り幸せを感じるために描いている。己の感性を磨いて磨いて、尖らせて宝石にして、その輝きを見つけてもらうために描いている。



本物、すなわち”自分自身”

私は「本物」になりたいのだ。

誰になりたいでもなく、私は「私自身」の表現者でありたいのだ。

心のありようをただ表現して、その表現を研ぎ澄まして、その叫びを絵の端々から汲み取って欲しいのだ。


そのために、私は自分の外側ではなく、内側から湧き出るものを形にしていく必要がある。この表現衝動を鎮め癒していくために、私は表現していくほかないのだ。

そしてこの行為はきっと、生きるのに苦しみを伴う私の魂の救済になる。


そのために既存の枠組みに自分をはめて、自分を相対的に知ろうとして苦しんだこともあった。でも、自分と同じ人間なんて2人もいないのだから、結局何にも自分を当てはめることなどできない。


自分を知るためには、表現という行為を磨く必要がある。自分の中に何があるのか、まるで地中から化石を少しずつ削り掘り起こすように、形を知っていく必要がある。



「ゼロから描いたものじゃないと創作ではない」という病から早めに脱却しないと本当に上手くならないよ。
これだけは言える。

— アニメ私塾 (@animesijyuku) January 18, 2022


模倣(コピー)→パロディ(アレンジ)→オリジナル…は正統な成長過程です。
模倣なくしてオリジナルなし。

— アニメ私塾 (@animesijyuku) January 18, 2022



自分自身である、根が張っているということ

近年まであまり音楽に興味がなかった私が、宇多田ヒカル、レディガガやビリーアイリッシュ、ピチカートファイブ、SAOSINなどのアーティストの音楽を聴いて「ああ、私はこんな音楽を求めていたんだ!探していた本物が、存在したんだ!」と心にガツンと衝撃を受けたことは、よく覚えている。

私は、ちまたに溢れる「〇〇風」の発端を、ずっと探していた。どれもこれも、少し違う。上辺だけは記号として似ているが、根が張っていないのだ。


彼ら・彼女達が「本物」である所以は、既存物の模倣と寄せ集めのステージから離脱し、自己を表現しているからだ。彼女たちの曲は、生きて来た時間と環境によるユニークな魂の形がそのまま表れている。

音楽ではないが、「不滅のあなたへ」や「聲の形」の大今良時先生も、物事の本質を見つめる本物の作家さんだ。



偽物も、本物になるときが来る

ずっと、絵にここまで真剣に向き合って、深く考えている自分を恥ずかしいと思っていた。たかが趣味のお絵かきに、こんなに必死になっているなんて、なんてみっともないのだろうと。

商業レベルでもない、ただキャラ絵を描いているだけの趣味絵描きが、一体何を抜かしているのだろうと。


でも、笑われたところで、なんだっていうんだろう。

笑われても、馬鹿にされても、いいじゃないか。趣味は絵だけではないのに最終的に絵に戻ってきてしまうなら、きっとそれは私に必要なことなのだ。

レディガガだって、ずっと周囲から笑われたり馬鹿にされても、表現をやめずに続けたのだ。

(私と彼女を横に並べるにはあまりにも立つステージが違いすぎるけれど、自分を表現したい衝動がある点ではそこに差はない)


それに大事なことは、例え他人が気づかずとも、その表現行為とその結果には価値があるのだ。


“誰にも見せなくてもキレイなものはキレイ”


宇多田さんのPINK BLOODの歌詞をリピートしろ。自分の価値は自分が知っている。誰に知られずとも、私にとっての、私の絵、創作行為の価値は変わらないのだ。



こんなに本気で長期間向き合っていれば、いずれ絵のレベルも必ず追い付いてくる。

最初はキャラをただ描いているだけで良かった。心の渇きを承認されることで潤したいだけだった。

けれどもそれらの表現が満足にできるようになって、マズローの欲求ピラミッドのように、表現の欲求が次の段階へと進んだのだと思う。



当時の、キャラ絵を追うだけで満足できた自分がいまこの瞬間の自分を作った。

過去触れたものがいまの私を形作っている。であるならば、いまこの瞬間の私によって、未来の私は次の段階へと歩を進めた私へと形作られている。

だから、安心していい。私の尊敬するYoutuberの髪西くんも、中身が成熟してくれば外見もそれに追いついてくると言っていた。

話は逸れるけど、髪西くんもとても芯のある素敵な方です。とても尊敬している。物事の本質を見ている人だと感じる。


そして、私の暗黒青春時代を助け、また彩っていたボカロP、ゆよゆっぺさんはこう言っていた。


"偽物も、信念を持って続ければ、それはいずれ本物になる"


と。その言葉のとおり、彼は本物の音作りをする音楽クリエイターとなり、いまではベビーメタルに音楽提供をしたり、ニコ動時代の音楽が海外にまで知れ渡る人となった。

彼の音楽は、聴いた人に様々な衝撃を与えて、切ない傷跡を残していく。



絵描きは絵に自分の全存在を注ぎ込む。だから絵が売れない時、いいねがつかない時、心底傷つく。そして、こんな絵に価値はなかったと自分の絵を全否定しがちだ。でも今になって思うのは、売れなかった時代の絵もかけがえのない絵だったという事。それに気づくには、やはり描き続けるしかないという事🍀

— さいとう なおき🍀 (@_NaokiSaito) January 18, 2022


先日、このツイートを見かけてとても心が救われた。全存在を注いでいたから傷ついていたのだ。そしてそのことは全くおかしいことではないのだ。


そうはわかっても、やはり絵で振り向かせられないうちは何度でも傷つくのだろう。

それでも、傷つきながら私は自分の中にあるまだ形のない何かを、取り出しこの世へ出すために表現という行為を続けていく。


いつか、私の深い深い部分まで汲み取ってくれる人に見つけて貰うために。

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