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人間性から非人間性へ

「人間性 = 二元性 = デュアリティ」と、
「非人間性 = 非二元性 = ノンデュアリティ」
です。

いきなり難しそうな言葉が出ましたが、こういうことです。
「二元(にげん)」は「人間(に ん げん)」のことで
「非二元(ひにげん)」は「人間性からの継承と卒業」が含まれます。
ごくシンプルに言うと、人間性を学んで得た知恵を持ちつつ、さらに一段上の人間性を生きたい時に、古い世代新しい世代を分けて呼ぶことにしたよ、と言う意味です。要は、人間性 2.0 から人間性 3.0 へ世代が上昇したことで互換性の有無などのルール変更があるよという感じです。

意識の拡大は、横軸と縦軸に分けると、二元性を手放して非二元性に入る、というのは縦軸の進化なので一段階ジャンプアップします。これが革新的なことです。人間性 1.0 や 2.0 等の数字だと、飛躍して別物になっているということが表せないので名称を変更しました。
デュアリティじゃなく、「ノン」デュアリティですね。

ノンデュアリティのとらえ方は、デュアリティのとらえ方の「完全上位互換」です。(ここが重要!)の

テーマチェンジ


わかりやすくするためにもう少し具体的に書きますと、
2000年前の人々は人を十字架に貼り付けにして見せしめとして拷問することが当たり前でした。
400年前の人は大名行列が来たらおでこを地面につけて土下座しなくてはなりませんでした。その行列の前に立つと切り捨て御免で容赦なく殺してもよいこととなっていました。
今考えると「狂気の世代」ですね。安心して暮らすには程遠い環境が整備されています。

人は都度進化して意識を横方向に拡大でき、様々な価値観を共有してきました。あるところから、人を殺しても良いという認識から現代では殺してはいけない、という意識に切り変わりました。人間性 1.0(※) から 2.0 へのジャンプアップを完了しました。
そして、さらに進歩し、今現在では人間性 2.0 から 3.0 への飛躍をどのようにするのかと言った段階に入りました。今は「死というテーマ」が終了し、本当はどう生きたいの?という「生というテーマ」に入ります。

現代人は社会の歯車として生きています。社畜と揶揄されたりもします。その経験からの教訓を次の世代に継承するために、今は社会に飼われる家畜になる選択を、多くの方が自らしています。しかし今後はそうではなくて、意識の変化に対応するようにAIやXRやメタバースを出現させ、世界のルールは大きく変化します。
(※注意 1.0 や 2.0 や 3.0 はシンプルに説明するためのたとえなので実際とは異なります。)

非人間性と言うのは非人道的という意味ではありません。


非人間性と言うのは非人道的という意味ではありません。そうではなくて、自分はこういう人間ですという思い込みは後天的な文化的な刷り込みです、というのがここで言っているみそです。核心はこうです。つまり、「これはこうだよと教えられその通り覚えた」ということです。それはデュアリティでの「継承」のことです。デュアリティというのはもともと、意識の上で無限に細分化でき、関連付けられるような意識なので、誰かに教えてもらわないと範囲が広すぎてしまいます。なのでデュアリティの意識では継承は当たり前すぎる大前提です。

先天的に「空性」があります。


そこにきて、ついにノンデュアリティがインストールされます。するとどうなるのでしょうか?デュアリティはただの空想だよ、原点は「空」だよ。と教えてくれるのです。つまり、先天的に「空性」があるということをノンデュアリティが示すことで人間性の枠を拡張します。自分はこういう人間ですという枠が縦にも横にも拡大します。

辛く苦しい人の社会の波にもまれて生きていると、神も仏もいないと感じていたのに、その思考の枠から一歩出ると、なんだもともと神レベルの愛(=無条件さという愛)の中にいるじゃないかと腑に落ちるということになります。これがノンデュアリティの役割です。既存の人間性の枠を超えるのです。

非人間性 ≒ 神 = わかっちゃった元人間 です。

しかし、やはり非人間性という名称は単純に誤解の素なので非二元という名称が一般向けです。

人間性に赦される大きなポイントの一つにエゴ ≒ 自由意志というものがあります。そのエゴを手放せれば、非人間性への目覚めが起こります。

これまでの知識を「差別」の餌にしないように注意してください。すべての「差(さ)」が取れてしまうことが「悟り(さとり)」なので差がなくなるように感じてください。


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