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ノンデュアリティ「一元(非二元)」って何ですか?

非二元というのは二元じゃないよ、ということなのですが、二元じゃないならなんなのさ!っていうのが一元だよ、だけど普通の一元とは真逆だよということです。用語解説をご覧ください。


ノンデュアリティは、「一元=非二元」です。



ノンデュアリティチーム


ぼくが個人的に思う、ノンデュアリティというチームは、ノンデュアリティを印象付けた「私はいない」に代表される「空」から話をされる先達たちのことです。空性の側近ですね。ノンデュアリティの立役者で現在(2022)もノンデュアリティのメインストリームです。非二元(=一元)という視座からのメッセンジャーです。

ワンネスの特徴はといえば、全部が自分なので、他を認めないということなのですが、他を認めないでできる経験の幅は無限の宇宙からすればそれほどの発展は望まれることがなくなり、何か新しい一手をという頃になって出てきたのが真逆の体制であるノンデュアリティという発想でした。しかしノンデュアリティはその文化ではワンネスの反対のことなので、ノンデュアリティとは呼ばれずに、別の名前(概念)で呼ばれました。

引用元: ワンネス と デュアリティ と ノンデュアリティ の関係性

この文明ではワンネスの反対がノンデュアリティです。両方とも「一元」を指しています。両者の違いは「自己投影」ができるかできないかだけです。

  • ワンネス     自己投影「〇」 一元

  • ノンデュアリティ 自己投影「×」 非二元(一元)

「一元(非二元)」というのは、「ノンデュアリティ」と呼びます。それは個人的投影をしないので、「全部が自分」という一元ではなくて、単に「非分離の一元」です。その場合の一元は自己を超えたものとして「愛」と「生命」を指します。愛とか生命といった大きな大きな愛に、自分という自己投影をしないよ、ということになります。自己投影をするかしないかが通常の「一元」であるワンネスの意識との違いです。また、二元に対する(相反する)というアプローチをとる必要から、二元のアンチテーゼの役割も担います。平たく言うと、二元性を愛する(否定する)んですね。二元に対する「慈悲の愛」を表現可能です。

ノンデュアリティはここからスタート(用語解説)


自己投影するかしないかについて


「自己投影」というのは、これが自分だ、と感じられるかどうかのことですね。平たく言うと、所有の感覚みたいなものです。

1.ワンネスの場合には、どれもこれもがすべて自分のこと過ぎてしまい、もはや自分という疑問も持っていない感じです。すべてに自己投影するのが当たり前だという感じですね。良いも悪いもなく全部が愛で、非分離の意識なので「一元」です。

2.ノンデュアリティの場合には、どれもこれも自分だとは全く感じない代わりに、生命そのものだと感じているという感じです。生命そのものが自分なので何に対しても個人的な自己投影ができません。良いも悪いもなく全部が生命で、非分離の意識なので「一元」ですが、デュアリティのアンチテーゼも込めて「非二元」です。指している内容は「一元(非二元)」です。

3.デュアリティの場合には、自分の領域と他人の領域とを、比較できるということです。しかし、不安やおせっかいなどにより自己投影の範囲を他人の自由意志を侵害するところまで伸ばす場合もあり、そこを学びのポイントにしています。人間ドラマがあり続けるのはまさに、今この時みんなそれぞれ勉強中のマスター(見習い期間)だからだと思います。いずれはマスターするので今はまだ研究生ですね。分離の意識なので「二元」です。良い方と悪い方があって、それを比較できるということです。この仕組みがあること自体はチャレンジブルなことなのでドロー(良いも悪いもない)です。

ボタンの掛け違いを防ぐ前提条件


「良いも悪いもない」ですが、個人的には、ノンデュアリティは一度わかればわかりやすい反面、分かっていない分離の視点からではすごくわかりにくいと思います。

ノンデュアリティチームのメッセージは、デュアリティチームへ役割としてのアンチテーゼがあるので、否定されたように聞こえます。

しかし、ノンデュアリティチームには、聞き手サイドが「否定されていることについて」自己投影して自分のこととして「持つ」という理解があまりない場合があります。そうすると、聞き手であるあなたにとっては、人間性を否定されるので「ノンデュアリティ難民」になったり、落ち込んだり、虚無になったりという症状が出ます。

なお、デュアリティチームの方については、ノンデュアリティ先生の言うことは自身の場所から次元を隔てたところに目を移そうとしているんだ、ということを知っておくといいです。否定されているわけではないと理解できるという意味です。

結論だけを書くと、ノンデュアリティ先生「一元(非二元)」はデュアリティ生徒「二元」と違い、何にも自己投影していないということです。個人的な人間ではなく、全体的な生命としてそこに在るように在るということです。

ノンデュアリティ先生の焦点は、今ご自身がいる次元の中ではない別の次元(世界線)のお話なので、自分の今いる世界線の中(今使っている引き出しの中)で答えを探さないでください、ということです。シンプルに見つからないからです。無いところには結局無いからです。

別次元はそこの次元に行かないと見えません。それで、次元というのは単に違いを示したいから使った言葉です。実際にはすごく簡単です。脱力するぐらい簡単なことです。

  1. 単に人に会ったのか、

  2. 「私のお気に入りの」人に会って「思わぬ幸運を期待している」のか、

という違いです。


ノンデュアリティの究極値


ノンデュアリティ先生は、

全体に向かって個人的な自己投影をしていないというのが「今全体として在れる」ということです。その今にしかない全体のことを、「愛」「生命」と呼びます。

「愛」や「生命」は個々人が専用に持って生きているのではなく、全体で一つなので、もともとからして個人というものはいないよ、ということです。とてもシンプルです。

それとこれが最も大事なことですが、どれがそれかをはっきりと伝えてくれている、という特徴があります。愛とか生命と呼ばれる、今ここにあるダイナミックな現われを「これがそれだよ」と知らせてくれるということです。そのような人は他ジャンルにめったにいません。これがノンデュアリティというカリキュラムのみそです。


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