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多様な「読み」を、どうする?

桜も咲きはじめ、いい季節になりました。野を行けば、菜の花もいっぱい咲いています。吟行句会が華やかな気分になる時期ですね。

最近の句会で、気になるやりとりがありました。

合評で、ある句を「景がはっきり見える」とほめた人がいました。ところが、すかさず「いやこれでは分からないよ」と、反論が出ました。作者は吟行で出会った景を説明しましたが、結局もうひと工夫が必要という方向に、話が落ち着きました。

こういうやりとりは、よくあることでしょう。人により読み方が異なるのは当然ですから。

ほめた人は、自身の生活の経験や知識で、句の表現を補って解釈して、共感しました。俳句のような短詩型は、そのような文化的基盤の共有のうえに成り立つわけで、もちろん季語はその最たるものですね。

他の人は、句を文字通りに読み、描写が足りないと判断しました。正確に的確に表現し、読み手に伝えることは俳句表現のキホンのキですし、添削や推敲はそこを目指して研鑽を積むものといって過言ではありません。

ですから、どちらも間違いではないし、互いの多様な読みを認め合いたいものです。ディベートのように論を戦わせることは、句会の合評としては邪道です。

迷うことがあれば、句会の主宰に判断を委ねればよいわけですし、推敲が必要となれば、作者が後で考えればよいことです。

話の中でどうしても納得がいかない、ということもあるでしょうけど、それは後で自分で調べて、それを自身にストックしていけばいいこと。

いわば、句会は多様性を受容、享受する場であり、句会後が個人の熟考と集約の場になるわけですね。

なんだかずいぶん真面目な話になってしまいました。句会のことになると、RCはうるさいですよ(笑)。

明日も素敵な季語との出会いがありますように。

RC



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