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思いやりの温度

心あたたまる出来事は、たったひとつあるだけでその日一日を素敵なものに変えてしまえる。

金曜日はそんな一日だった。どんよりとした冷たい曇り空の中、優しい光を放つあたたかい光がそっと灯っているような。

その日は朝から雨が降っていて、天気も気分もパッとしない朝だった。
木曜日の楽しかった一日を過ぎた翌日だったから、尚更気分は上がらない。前日にできなかった掃除も、洗濯も、食料品の買い出しもしなければならないし、ずっと痛いままの膝をどうにかするための整骨院と、親知らずを抜くための歯医者にも行かなければならなかった。

やらなきゃいけないことが多いとつい、ため息が出てしまうものだけど、金曜日はまさにそんな日だった。

本当は自転車で出かけたかったけど、雨なので諦めて電車に乗る。電車は決して嫌いなわけではないけど、基本的に時間に縛られたくないわたしは、近場で公共交通機関はできるだけ使いたくないのだ。

整骨院で膝のマッサージをしてもらって、歯医者の予約時間までまだ時間があるけど、一旦帰ってまたここまで来るのはめんどくさい。その時間はちょうどお昼時で、歯医者までにお昼ご飯を済ませてしまいたいけど、歯ブラシを忘れてきてしまったし……。

そんなことをうだうだ考えながら、歯医者までのおよそ徒歩25分の距離を、傘をさして歩いているときだった。

視界の端に映った、見慣れた看板。
モスバーガーだった。前にも一度入ったことのあるお店。あの時も確か、何かの時間つぶしのために使わせてもらったのだった。

ふらふらと吸い寄せられるように、自然と足がそちらへ向かう。
チェーン店の魅力は、この気軽に入れる安心感にあるよなあ、とつくづく思う。オシャレなカフェやレストランだと、よほどなじみのお店でない限り扉を開けるのに少なからず緊張するものだけど、チェーン店なら、もしその店舗に入るのは初めてでも、全国どこの店舗に入っても同じサービス、同じメニュー、同じ雰囲気を提供してくれるから。

そんなわけで、持参した本でも読みながら軽くカフェラテかシェイクでも飲もうかな、と入店したのだった。

「こんにちは!」と、元気で明るい挨拶が迎えてくれる。レジの対応をしてくれたお姉さんは、気持ちいい笑顔とあたたかい声で注文を取ってくれた。

まあ、ここまでは言うなれば「サービス業として当然のこと」、わたしはごく普通にコーヒー味のシェイクを注文し、特に何とも思わずに料金を支払って席に座った。

数分して、シェイクを乗せたトレーを席まで運んでくれる。それから間もなく、数名のお客さんが入ってきた。
店内で食べて行く人や、持ち帰りする人。それぞれだったけど、誰もが店長らしき男性のスタッフさんと親しげに言葉を交わしていた。

たぶん、常連さん達なのだろう。「今日の天気が〜」とか、「ここに来るまでにこんなことがあって~」とか、「これからどこどこへ行かなくちゃならないの〜」とか、注文をして食べ物を受け取るまでのちょっとした時間に、たわいもないおしゃべりが次々交わされていった。

窓際のカウンター席でシェイクを飲みながら、わたしは少し驚きながらそのやり取りを聞いていた。だって、ファストフード店で聞く店員とお客さんの会話らしくなかったから。まるで商店街の中の喫茶店とか、個人経営のお店かのような親密さで会話が交わされていた。

当たり前のサービスだけじゃない、プラス何か一言二言。「ああ、そっか、こういうのをおもてなしの心って言うんだよなあ」と、わたしは勝手に盗み聞きしながら、勝手にほっこりした気分になっていた。

お客さんと話をする店長さん(違うかもしれないけど)の、なんて楽しそうなこと。ニコニコしているのが声だけでも伝わってきて、ここに足繁く通える常連さんたちのことが、少しだけ羨ましくなった(わたしの家からは少し遠いから)。

その店長さん、フロアに出てテーブルを拭いたり椅子を整えたりするときも、軽く鼻歌なんか歌っていて。ここでのお仕事、楽しいんだろうな。好きなんだろうな。微笑ましくて、なぜかわたしまで楽しいような気がしてきた。

素晴らしいのはこの店長さんだけじゃなくて、わたしの横を通った別の店員さんも、にっこり笑って(マスクを付けていたけど笑っているのがちゃんと分かった。目尻が下がり、ふわっと優しく笑っている、素敵な笑顔だった)、「お店の中寒くないですか?」って。

寒い日だったのにシェイクを飲んでいる季節感のない人間を案じてくれたのか、いつもそうやってお客さんの体感温度を気にかけてくださっているのか、どちらにしてもほっとする、嬉しい気遣いだった。シェイクしか頼まず一時間近く居座っていたのに、ちゃんと「歓迎されている」と感じさせてくれたのが、気にしいのわたしにはすごく嬉しかったのだ。

この素敵なモスバーガーのおかげで、わたしの憂鬱はずいぶん取り払われた。
店員さんが楽しそう、お客さんが「歓迎されている」ことを実感できる。これって、すごく大事で、でも難しくて、これがいつもできているお店というのは最強だ、と思う。

だって、わたしのように、なんとなくふらっと入った憂鬱な人間をひとり、嬉しい気持ちにさせられるんだから。それにたぶん、わたしがそんなふうに「すごい」「ありがたい」って思ったことなんて、あのモスバーガーの店員さんたちは気にもしていないだろう。彼らにとって、わたしが感動したことは全部「当たり前にやっていること」なのだろうから。そうじゃないと、あのあたたかさは簡単に出せるものじゃない。

わたしも店頭に立って接客をやっている人間として、気が引き締まるような体験だった。
まじめくさったことを言いたいわけじゃないけど、やっぱりわたしも「ちゃんとお客さんをあったかくさせられる仕事をしなきゃな」って思わされた。

接客業をやってると、「お客さんを人と思えなくなる」「人を仕事としか認識できなくなる」というようなことを、前職の上司からチラッと話に聞いたことがある。

忙しいときや大変なことが重なったとき、そうなってしまう気持ちは確かによく分かるけど、それを聞いた当時のわたしは「そんなふうに思いたくないな」と少し嫌悪感を抱いた。

最近、わたしはその上司のようになりかけてはいなかっただろうか。モスバーガーであたためてもらった心に思わず問いかけてみて、怖くなった。

思いやりには温度がある。ちょっと時間つぶしに入っただけの、特別何かを期待しているわけではないお客さんでも、ちょっとした気遣いや笑顔であたためてあげることはできるのだ。

素直に、すごいな、素敵なお店だな、って思った。だから、それだけに留まらず、今度はわたしも誰かをあたたかくさせてあげたい。

こういう寒い季節には人からもらうあたたかさが尚更嬉しいものだから、わたしが冬を好きな理由はそこにもあるのかもしれない。


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