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見ているのに、見ていないような

 どうでもいいことを考えがちだ。考えているときはきっとかなり呆けた顔をしていることだろう。
 深刻な人生の仕方のないあれこれを煮詰めるように考え込み、ゆっくりと沈んでいくようなことも多く、そんな闇めいたことはここにも時に綴ってしまうが、同様にそれが一体なんの理由でもって思考の渦の中に飛び込んでいるのか自分でも良く分からないようなテーマも多い
 
 先日、知人と話していて幽霊のようないるかいないかがはっきりとしない存在についてのやり取りとなったのだが、もしかしたら常に見えているのに無意識にヒトは見えないように脳がカットしているのかもしれないねという憶測めいた話。
 そのことを想起し、僕が思っていることは、ヒトはかなり自分達にとって都合の良い解釈で持ってこの世は成り立っていると思い込んでいるのではないかということだ。
 
 見えているから、それは現実そこに存在しているのだ。
 
例えば目の前に赤いリンゴがあったとすればそのリンゴをすでに(これはリンゴだ)疑問に思うことなくリンゴであると簡単に決めてしまう。誰からも
「これはリンゴですよ。」
と言われてもいないのにだ。
 この赤い丸みを帯びたこの大きさの果実はリンゴであると勝手信じてしまう。
 でもリンゴとは限らないし、そもそもリンゴは赤いと我々は思い込んでいるが、「赤」と名付けたあの色があの色に見えているのはヒトだからであって、色彩を感じることのない生物は多いだろうし、色彩を判別できていようともあの色に見えているとは限らないのだ。
 つまりは、大袈裟な言い方をするとヒトはヒトのエゴで持ってこの世が成り立っているとかなり思い込んでいる。傲慢。
 さらに、その目の前のリンゴそのものを我々は見ていると簡単に思いこむが、実際にはそのリンゴという物体を見ているのではなく、日光であれ人工の照明であれ、そこからの光がその物体に当たり反射し我々の目に飛び込んだ光を見ているのだということを忘れている。あらゆるは当たり反射光を見ているのだが。
 夜間部屋の中、テーブルの上のリンゴ。パチっと照明を消し暗闇になったとたんリンゴは見えなくなる。そういうことだ。
 そのものは見ていないのだから、つまりは反射しない何かがあればそれはそこにあるのに見えないということになる。
 幽霊は光を反射するのだろうか。霊魂的なことを別としても何かがそこにいてもおかしくはないだろうとは思うのだが。

 脳は見たくないもの、見えては困るものを無意識に遮断している。
 例えばテレビやネット上でも手元のスマホでも良いのだが、カメラを構え左側の被写体を写している状態から右の被写体へカメラを振れば、振っている瞬間スマホの液晶画面には「ヒュン!」と音を付けられそうな右から左へ流れる映像が映り込んでいると思うのだが、我々の目玉というレンズだって同様に目玉や首を振って左右に見たいものへ正面になるよう身体を動かしているのだが、当然この「ヒュン!」がその瞬間に我々の視界には流れているはず。
 その記憶はあるだろうか?
 「ヒュン!」は消されているらしい。
 見えているのに見えていないようにできているらしい。でも多分それを見ていたら、ヒトはまともに歩くこともできないだろう。平衡感覚も何もかも失ってしまうだろう。
 とてもよく出来ているが、見えているが余計で生きる上で危険をもたらすようなことであれば瞬間的にその情報を遮断するように我々の脳は進化したのだ。
 
 見えているのに、見えていないと思い込んでいることは我々が勝手思い込んでいるよりも遙かにこの現実次元に存在しているのではないだろうか。

 どう思いますか?



 
 


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