見出し画像

アルバムな旅01「旅上手は甘え上手」(新潟市)

 東北から戻った二日後、再び飛行機に乗って向かったのは、新潟だった。飛行機で新潟に行くのはいつぶりだろうか。かれこれ12年ほど毎月秋田に通い続けた僕は、そのうちのいくつかを車で往来した。神戸を起点にして京都→福井→石川→富山、そして長い長い新潟を抜けてようやく東北、山形へ。山形と秋田の県境にある鳥海山の姿を眺めながら、あともう少しだと車を進め、ようやくたどり着く秋田。行程約900km、休憩なく走り切れば12時間の距離を、だいたい二泊三日かけて上がっていくと、無理なく移動できる。しかしそんな方法をとるようになったのも40歳を過ぎてからで、それまではとにかくいち早く目的地に辿り着きたい気持ちと、休みたい気持ちとのデッドヒート。新潟市あたりで一泊するくらいが関の山だった。というのも、新潟市は異様にホテル代の相場が低い。かつては人口日本一を誇った時代もある新潟県。その真ん中には北前船から続く海運の存在があった。江戸時代、市民自治が確立していた新潟は、北前船の入港税を安くして、人やモノ、そして情報の行き来を活発にしていたという。そういった土壌がいまもなお新潟市のホテル代を安価にしているのだろうか、などと考えたりもした。

 いよいよ50歳を目前にして、さすがに900kmを運転するのは無謀だと思うようになってきた。そう思うようになるなんてこと自体、若いうちはまったく考えていなかったけれど、それは単に「若さ」が理由ではなく、ガソリン代はもちろん、さまざまなものの物価がここまで高騰することもなく、どんな交通手段を選ぶよりも安価に移動できたからだとも思う。いまは正直、公共交通機関を使うほうがよっぽど安くすむし、なによりタイムイズマネーなどと思ってしまう。つまりは、まあ暇だったんだな。

 けれど僕の人生で忙しい時期なんてものがあったんだろうか? とも思う。原稿締切が迫っているとか、何かの納品時期が近づいているとか、そういう焦りはあるものの、一年のカレンダーを俯瞰でみれば、常に土地から土地への移動ばかりで、「ずいぶん呑気なものだな」と思う。経済活動に勤しむことが忙しさなのだとしたら、企業につとめて日々忙しくしている人たちに比べて、僕の忙しさはたかが知れている。たいした大金を稼ぐこともなく、それでもなんとか家族と幸福に暮らしていけるだけのお金をいただきながらと、納得のいかない仕事を避けて生きてきた僕は、隙間という隙間を埋め尽くさんとする経済の二文字を前に、いよいよその隙間をこじ開けてやるぞと、 ミヒャエルエンデの「モモ」を思う。

 新潟空港に到着すると、博進堂の田沢さんが車で迎えに来てくださっていて恐縮する。博進堂は新潟市に印刷・製本工場を持つ会社で、長年、学校アルバムつくられている。「アルバムのチカラ」なんて本も出している僕は、以前から博進堂さんにはとてもお世話になっていて、講演などをさせてもらったりもしていた。そう言えば講演はいつだったろうか? とPC内を検索してみたら、当時の講演録が出てきた。ちょっと引用してみる。

 きっかけは『Re:S』という雑誌です。この雑誌は2006年に創刊したんですが、2号目で「フイルムカメラで残していく」という特集をしたんですよ。当然この頃は既にデジカメ全盛でした。ヨドバシカメラへ行ってもフイルムカメラのコーナーは申し訳程度にあるという状態でした。
 そんな時になぜフイルムカメラの特集をしようと思ったかというと、知り合いの、ある女性編集者が「皆さんデジカメでどんどん写真撮っていますけど、アルバムどうしているんでしょうね?」と聞いてきたんです。その女性はただ世間に対する疑問として投げかけた言葉だと思うんですけど、ちょうどその頃の僕は、娘が生まれてすごく嬉しくて、まだ病院にいる時とか初めて家に帰って来たとか、EOS Kissデジタルでバシャバシャ撮ってたわけですよ。ものすごい数撮ったけどほとんどがメディアに入っているままで、メモリがいっぱいになったらハードディスクに移しているだけやなと思って、世間のことに対して聞かれたはずの問いが、僕自身に刺さったんです。
 よくよく考えていくと、目の前に物理的にプリントがないから整理しようとしない、つまりアルバムをつくろうとしないわけです。フイルムカメラというのは必然的にプリントが生まれたわけだから、アルバムのことを考えればすごくよかったんだなとか、そもそも写真の現像やプリントを待つあの時間ってよかったよなとか、いろんなことを思い始めたんです。それで、こういうことについて写真を専門にしている皆さんというか、写真屋さんは当然考えているんだろうと思って家の周りの写真屋を見渡したら、「安い」「早い」とかだけで、はあ? と思ったわけですよ。なんやこの町の写真屋たちは? 写真の本当の大切さというか価値みたいなものをどこだと思っているんだろうと、すごい写真屋に対する不信感が募ったんです。別にそんな安くなくてもいいし、ちゃんといいプリントをしてほしいと思っている人間としては何か違うなと思い続け、それでフイルムカメラの特集をしようと思って飛び出した。

2014年1月29日(水) 博進堂ゼミナール 新潟会場 基調講演
「新しいふつうを提案する 写真のカタチ、写真のチカラ」藤本智士

 ちなみにこの講演は、博進堂さんがお取引をしている、全国の街の写真屋さんたちが100人くらい集まるなかでの講演だったから、やんわり喧嘩売ってる感じが、自分でもおそろしい。

 田沢さんに案内されるまま車に向かうと、社内には博進堂社長の清水さんまでいらっしゃって恐縮がMAXになる。いまから一緒に新潟市内をアテンドしてくださるという。清水さんはもちろん、運転してくれている田沢さんも先輩だ。どうしたって積まれていくキャリアに、つい、若い子に頼ることが多くなってる僕は、こんなシチュエーションはなかなかないぞと、逆に甘えまくろうというスイッチが入る。いや、後輩だろうと先輩だろうと、いつだって甘えてるか。自分で言うのもなんだが、そもそも旅上手な人というのは、甘え上手なのかもしれない。世の中において「他力本願」という言葉は、ひたすら他人の協力や援助をあてにするようなダメな言葉として理解されるけれど、自分の才能、あるいは努力だけで事を成し遂げられると考えている方が、よっぽどいけない。同い年で神戸フレンドな湯川カナさんによる『他力資本主義』という本がとても面白いから興味あればぜひ読んでもらいたいけれど、とにかく他力なくして旅はできぬ。『他力旅のすすめ』みたいな本、書いてみるかね。

 事前に交わした田沢さんとのやりとりで、行きたいところを尋ねられていた僕は、立ち寄りたい店を二つ伝えていた。その一つが古町ふるまちにある友人のお店だったこともあり、まずは古町で昼食を取りましょうということになる。古町というのは、新潟駅から日本海側に向かって萬代橋を渡った先、信濃川と日本海に挟まれる新潟島にある中心市街地だ。河川舟運と海運、両方の拠点として栄えた新潟島のなかでも、花街を抱えた古町は、多くの余所者を受け入れてきた町だという。

 田沢さんの運転のもと、まっすぐ案内してくれたのは「青海ショッピングセンター」という市場だった。社長の清水さんも初めてだったようで、二人して興味津々、足を踏み入れると、多様な魚が並ぶ鮮魚店のとなりに、空き店舗を活用した飲食スペースがあり、それぞれに昼食を楽しむ姿がある。建物内はそんなに広くなく、店舗数は10にも満たないけれど、なかには餃子店などもあって楽しい。昭和感あふれるミニフードコートといったところか。

 さっそく「古川鮮魚」というお店で、サワラの照り焼きの定食を注文。これが実に美味しかった。なんのてらいもないシンプルな定食。けれど、汁も惣菜も好みの味付けで、なにより、米が旨かった。新潟の豊かさを感じる、田沢さんのランチアテンドに、さすがだなあ〜と、その開拓力に感心する。というのも、実は田沢さんがここを知ったのもつい最近だという。歳を重ねるほどに、行きつけばかりになるもの。地元の街というのは、長く住むほどに灯台下暗しな店が増える。アウトドア好きでつい最近も車中泊してどこそこまでいったと、活動的な日々について話してくれる田沢さんは、映画『PERFECT DAYS』の感想について書いた僕のnoteを読んでくれたようで、Spotifyでサウンドトラック的なプレイリストを作ったと言って、空港からここまでの車内で、かけてくれたりもした。

The Animals “The House of the Rising Sun”
The Velvet Underground “Pale Blue Eyes”
Otis Redding “(Sittin’ On) The Dock Of The Bay”
Patti Smith “Redondo Beach”
The Rolling Stones “(Walkin’ Thru The) Sleepy City”
Lou Reed “Perfect Day”
The Kinks “Sunny Afternoon”
Van Morisson “Brown Eyed Girl”
Nina Simone “Feeling Good”

「あとでプレイリストをシェアしますよ」と言ってくれて、いきなり最高なギフトをもらった気持ちになる。

 古町にある友人のお店までは、そのまま徒歩で向かうことに。野球漫画で有名な漫画家・水島新司さんの出身が新潟市というご縁から生まれた水島漫画のキャラクター銅像がならぶ通称「ドカベンロード」。全国にいろんな銅像があるけれど、ここの銅像たちは特に躍動感があって、訪れる度にシャッターを押してしまう。水島さんは、商店街の会長の提案に対価も求めず二つ返事で「やろうよ」と言って下さったというけれど、それは2002年当時の古町の状況を前に、なんとかせねばと思った郷土愛の現れでもあったのかもしれない。

 1964年の新潟地震を経てもなお、市内唯一の繁華街として栄えた古町は、多くの百貨店や映画館がまちの賑わいを支えたものの、1973年以降、「ダイエー」出店が看板となった「万代シティ」の開発によって、徐々にその繁栄に翳りがみえはじめる。新潟大学の郊外移転もすすみ、1990年代には、新潟一の繁華街は、新潟駅前にその称号を譲る。さらに2000年代には幾つかあった映画館すべてが閉館。いよいよ古町が寂しくなっていくなかの「ドカベンロード」だった。

これは「あぶさん」

ここから先は

269字 / 2画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?