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取り戻す旅④ 『善知鳥神社とギフト』編

 それにしてもすごい雪だ。今年は雪が少なくて心配と聞いていたけれど、昨日といい今朝といい、ずいぶんな歓迎を受けているなあと思う。僕は仕事柄、ロケ取材など晴れてほしい場面が多く、そういう日は大抵晴れる。ずいぶんな雨予報を何度もひっくり返してきた経験もあって、よく、晴れ男だと言われるのだけど、厳密に言えばそれは違っていて、秋田で長年一緒に取材を続けてきた仲間などは、「晴れ男というより、藤本さんが望む天候になるよね」と言う。雪のない関西に住む僕は、冬の東北取材でどっさり雪が降ってくれないとどこか寂しくて、地元のメンバーにとってはうんざりな大雪を前に「藤本さん来たからまた猛吹雪だ」って苦い顔で言われたりした。つまりは昨日今日の雪もまさにそれだと思った。

 にしても、降りすぎだろ。と思うけれど、やっぱり嬉しい。よく、ヒット曲というのは、その歌詞が時代にフィットしているからだとか、まるで自分のことを歌ってくれているような共感性があるからなどと言われたりするけれど、それで言えば、僕の人生で一番共感性の高いヒット曲は、「雪やこんこ あられやこんこ♪」でお馴染みの童謡『雪』だ。あの歌詞に登場する犬の気持ちほど自分にフィットするものはないなと思う。マジで。

 気になって、童謡『雪』の作詞者は誰なのか? を調べていると、作者不詳となっていたり、瀧廉太郎だという人がいたり、なんだかずいぶん混乱している。この混乱の一番の要因が、瀧廉太郎の『雪やこんこん』という曲。「もう〜 い〜くつ寝ると〜♪」という、あの『お正月』の詞を書いた、東くめが作詞、瀧廉太郎が作曲した『雪やこんこん』という曲がまた別にあるのだ。しかしこちらの歌い出しは、 「雪やこんこん 霰やこんこん」と、「こんこ」ではなく「こんこん」。歌い出しこそ似ているが、歌詞も曲も別物。ややこしい。

 童謡『雪』に関する記述の多くが作詞作曲不詳となっているなか、もう少し深く掘ってみると、当時、国定教科書の編纂と尋常小学唱歌の作詞に取り組んだ。武笠むかさ さんという人物が見えてきた。おそらく「雪」は彼の作詞だ。しかし編纂官という立場状、名前を伏せ、作詞作曲不詳となっている。これは著作権という概念がなかった時代ゆえかもしれないし、また、編集者というしごとにつきものの無名性の象徴にも思える。

 ちなみに武笠が作詞した唱歌『雪』は、明治44(1911)年発行の『尋常小學唱歌(二)』が初出。滝廉太郎と東くめによる『雪やこんこん』は、その10年前、明治 34(1901)年『幼稚園唱歌』が初出。その影響がなかったとは言えないだろう。だけど、子供たちの「雪よ降れ降れ!」という心持ちに著作権などないのだから、歌い出しの歌詞が似るのは仕方ないようにも思う。それよりも僕は、100年以上ものあいだ、歌い続けられているのが、「雪やこんこ♪」の『雪』で、その作詞作曲者が不詳となっていることにさまざまを思う。

 僕はずっと著作権とかアイデアに関する権利の考え方について、世間とのズレを抱えたまま生きてきた。権利の主張はとても大切だと僕も思っているけれど、その多くはお金の話で、つまりは権利というよりは、権利という字をひっくりかえした利権の話だと感じる。権利の主張をしているようで、単なる利権の確保について話していると感じる場面の多いことよ。

 僕たちが日々を健やかに生きる権利。何者にも自由を奪われない権利。意見の発信を邪魔されない権利。など、僕たちは多くの大切な権利を持つ。けれど、いつしか出来上がったこの著作権というやつが、僕は以前からどうにもフィットしない。この気持ちのグラデーションや機微を感じ取ってくれる人はとても少なくて、特に白か黒かを求めたくて仕方ない人には完全に勘違いされるから、誰にも彼にも話すわけではないのだけれど、とにかく僕はこの小さな異物をずっと胸のうちに抱えている。

 「経済も大事」という、僕にとっては限りなく詭弁に近い言葉のもとで、多くの人たちがお金につながるものを囲い込むことに必死になり、シェアすることの喜びを忘れてしまう。より多くのものを、より逃げ道なく囲い込むことこそが、いわゆる成功と呼ばれる状態を生む世の中で、手放すことにどれほど勇気がいることか。ネトフリもアマプラもスポティファイもアップルミュージックも何もかも加入して、綺麗に囲われた庭でエンタメ楽しんで、嬉しそうにサブスク払いまくってる僕の心の中に、これ以上ぼくらの生活を囲い込まないでくれ! と切実に叫び続けながらその庭をかけまわる犬がいる。

 僕はよく自身の編集事例の一つとして「マイボトル」という言葉をつくったと話す。みんなが驚いてくれるから、調子に乗ってよく話すのだけど、それは僕にロイヤリティが入ってくるわけではないからだ。「マイボトル」という言葉に©︎(コピーライト)など必要ないからこそ、気楽に話せるのだろう。人によっては、自身の権利や伴って発生する経済みたいなものを自慢げに振りかざしてくる人がいるけれど、僕はそういう人が心底苦手。いつまでやってんだ。って思う。僕はもうずっと、Re:Standard あたらしい“ふつう”をつくりたいと思って生きている。

 随分と前の話だけれど、webメディアなどを展開するgreenz代表の鈴木菜央くんとトークイベントをご一緒した際に、奈央くんが、面白い地域編集事例として、六甲山系の摩耶山頂で定期開催されている「リュックサックマーケット」というマルシェイベントを紹介していた。この「リュックサックマーケット」は、もともと、神戸六甲山の登山人口の高齢化をなんとかしたいという思いから生まれたマルシェイベントで、出店料を取るといういわゆる胴元の概念がなく、どこでも誰でも始めてよいというのが特徴だ。やりたいと思った人が、いつどこでやりまーすと宣言したら、そこに出店したい人がリュックを背負って集い、傍にリュックサックを置いて、中の商品を並べたら出店完了というシンプルさ。そのしがらみのなさがウケて、発祥の神戸だけでなく全国のいろんな土地で開催されていた。

 僕は彼の説明を聞きながら、終始ニヤニヤしていた。だって、リュックサックマーケットを考えたのは僕だからだ。僕が考えたことだけれど、そこに僕の印がないことがたまらなく嬉しかった。そして何より、菜央くんが、とても深い理解をもって紹介してくれていたことにとても感動した。イベントの後に、リュックサックマーケットって、僕が考えたんだよと菜央くんに伝えたら目を丸くして驚いていた。

 当時僕がリュックサックマーケットというものに施した編集は、以下の一文に集約されている。

リュックサックマーケットは、リュックから商品を出すだけで「はい、できあがり」。リュックがもう、お店の看板なのです。商品をリュックに詰めて持って来てください。いらなくなったもの、てづくりのもの、みせたいもの、なんでも。物々こうかんを積極的にやってみてください。勿論、お金のやりとりも OK! 出店料は無料・申込は不要です。

 このテキストとともにその考え方をシェアしようと試みたのがリュックサックマーケットだった。ここで僕がもし、何かしらの権利を主張していたら、よくある小さなマルシェイベントで終わっていたように思う。そう考えれば、唱歌「雪」は、作詞作曲者不詳という、著作権者不在の事実が、その浸透に深く影響しているのではないかと思った。

 この気持ち、うまく伝わるだろうか。

 八戸行きの電車に乗る前に、久しぶりに善知鳥うとう神社に寄ってみた。昨日訪れた棟方志功記念館で、棟方の生家がかつて善知鳥神社の向かいにあったことを知ったのと、15年前、『ニッポンの嵐』という本の取材で、嵐のリーダーの大野くんと一緒にこの神社で御朱印をいただいたことを思い出したからだ。その後も何度か訪れてはいるものの、しばらく足が遠のいていたことのお詫びと、何より青森での旅の出会いの感謝を伝えたかった。

 僕の旅に神社は欠かせない。また話を戻すようだが、いまのように御朱印文化が知られていない15年以上前に、寺社仏閣で御朱印をいただけることを広く知ってもらったきっかけの一つが、『ニッポンの嵐』における大野くんのくだりだったと思う。また、そういう場面で使ってもらえるように、『ALBUS』という名前のスマートでシンプルな御朱印帖を、京都の便利堂さんという老舗企業さんと既に商品開発していたことが大きかったと自負している。

 その後、御朱印ブームなるものも起こり、御朱印帖の文化は当たり前に知られるものになったけれど、最初に御朱印に出会った頃は、年配の信心深い方達だけが知るものだった。というのも、御朱印は本来、お寺で写経をした証としていただけるものだったからだ。それがいつしか参拝の証に変化していったもので、僕はお願いすれば目の前でライブで書いてくださる御朱印に感動してとても興奮した。だからなんとかこの文化を若者たちにも楽しんでもらおうと、写真のようにチェキを貼ったりして怒られたことも思い出す。

 そんなふうに御朱印帖をつくるほど神社に惹かれたのは、旅の途中で神社に立ち寄る癖がついていたからだった。それは、今回のように、旅の途中で思いがけない出会いや気づきのギフトをたくさんいただいてしまうからだ。天候はもちろん、偶然、北海道の友人家族に会うとか、初対面のおじさんが奇跡みたいなTシャツ着てるとか、細かいこと言えば、チャーシューが青森県のカタチをしているとか、これら怒涛のギフトコンボを前に、そのお礼を誰に伝えたらいいのか?! という気持ちになるのだ。旅するほどに積もり積もっていく感謝の捌け口が必要で、そんなとき目の前に現れるのは、いつも神社だった。

 先人たちがつくった神社というインフラは、セブンイレブンの比じゃない。それほどまでに日本人にとって重要な場所なのだ。神社は僕にとってお願いをするところではなく、お礼を伝えに行くところ。この感謝の連鎖が、あらたなギフトを連れてきてくれるようにすら思う。これこそ、囲い込む経済の真逆の世界。そんな大切な神社の守り手がいなくなり、神社が廃れていくことに対して、当時の僕はじっとしていられなかった。宮崎県の青島神社で偶然出合った御朱印に閃きをもらった僕は、御朱印帖というプロダクトをメディアに、御朱印をいただくというカルチャーを広め、若い人たちが神社の境内に足を踏み入れるようにしようと考えた。

 いま思えば、当時人気絶頂の嵐のメンバーに自分たちが作った御朱印帖を持たせて、社務所に行く場面を掲載するなんてのは、ある意味、職権濫用だったのかもしれない。けれど、当時、マネージメントのみなさんがそれをおおらかに受け止めてくれたのは、きっと僕がその利権を得たいのではなく、それぞれの街に神社があるという暮らしの権利を守りたいと思っていたからに違いない。編集とは、そういうものなのだと、善知鳥神社の前で、なにかひとつ大事なものを取り戻したような気持ちになって、僕はいつもより長くお礼を伝えた。

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