見出し画像

アルバムな旅04「北国の文化の光」

 迫くんと別れたあと、連れていってもらったのは「北書店」という小さな本屋さん。ここの佐藤店長と迫くんは、僕のなかの深い地層に潜むご縁でゆるやかにつながっている。それこそ迫くんと前回会ったのも北書店のトークイベントだった。しかしあのイベントは稀にみるヤバさだった。自著の出版記念として佐藤さんが組んでくれたイベントだったのだが、佐藤店長と僕、そして新潟県燕市にある「ツバメコーヒー」店主の田中くんとの鼎談のはずが、進行とともに客席の人が次々と壇上に引き上げられ、せいぜい90分ほどを予定していたイベントが、結果3時間半になった。お客さんも誰一人退席することなく、よくぞついてきてくれたことだと思うが、その際に壇上に上げられた一人が迫くんだった。

 Twitterを辿るともう7年前だ。そもそも、そんなイベントを企画してくれた北書店の佐藤店長との出会いは、そこからさらに7年遡る2010年。当時彼は、新潟市にあった老舗書店「北光社」の店長だった。そのときなぜ新潟市にやってきていたかというと、ヒッチハイクで大阪を飛び出したsaccoに会いにきたからだ。つまり迫くんと初めて出会ったあのとき、僕は佐藤さんとも間接的に出会っていた。間接的と表現するのは、その際はまだメッセージのやりとりだけで、実際に対面するのはその3年後だからだ。

 2010年1月9日。雪舞う新潟に、saccoに会うべく家族でやってきた僕は、古町十字路に面してあった本屋さん、北光社の前を通りがかり、ふらり入ってみた。「北国に文化の光を灯す」そんな願いを込めた「北光社」の品揃えは素晴らしく、当時エネルギーを注いでいた雑誌『Re:S(りす)』も面出しして並べてくれており、新潟の読者の多くが、そこで『Re:S』を買ってくれていたことを知る。しかし、店内の壁面には、こんな張り紙があった。

北光社の閉店を皆様の声と共に
二〇一〇年一月末日をもちまして北光社は閉店する事になりました。新聞等で報道されて以降、お客様から、しジにて、とてもあたたかく、うれしい言葉を頂く事があり、それによって私達は今、改めてこの場所における北光社の役割を考えさせられています。
そこで、日頃お世話になっている方々との共催という形で、そのお声をショーウインドーに展示し、北光社の歴史の幕を皆様と共に下ろしたいと思い、店内に記入スベースを設けました。
北光社で買った本の事、棚や空間についての記憶、待ち合わせの思い出等、どんな事でもかまいません。
多くの皆様のご参加をお待ちしております。

 なんと残念なことだろう。1820年(文政3年)に「紅屋潤身堂べにやじゅんしんどう」という名前で、書物だけでなく化粧品や医薬品を売るお店として創業。何度か場所を移転し、古町に出てきた1898年(明治31年)に、それまでの看板を捨てて「北光社」と名乗ったのだという。その後、大火によって全焼すること3回、それでも灯しつづけてきた光がついに消えてしまうというのは、旅人の僕でさえ、この街の大きな変化を感じざるを得なかった。

 幾冊かの本を買い、張り紙の前に置かれた色紙いろがみにメッセージを記入。これまで雑誌『Re:S』を応援していただいた感謝の気持ちとともに箱に入れて帰った。

 そしてそのことがまさかの縁をつないでいく。

 新潟の人たちの北光社への思いは強く、箱いっぱいに溜まったメッセージを整理しようと、僕が店を出た直後に作業をはじめた佐藤さんは、そこに僕のメッセージがあることを見つけてくれた。そしてTwitterのDMかなにかで連絡をくれた。そして佐藤さんは「残念ながら北光社は閉まるものの、棚や本を引き取って、あたらしい書店をはじめるつもりなんです」と教えてくれて、オープンしたら必ず行きますと約束を交わした。そこから数か月後にオープンしたのが「北書店」だった。

 想像以上にスピーディーな閉店&開店劇に追いつかず、実際にやってくるのは3年後になってしまったけれど、それでも突然訪れた僕に佐藤さんは、「藤本さんですよね?」と向こうから声をかけてくれて、とても嬉しかったことを思い出す。その後、池田修三さんという木版画家の展示イベントをさせてもらったり、先述のトークイベントをしたりと、ずいぶんとお世話になった。僕にとって新潟と言えば北書店というほどに大切な店となった。

 しかし2022年春、佐藤さんはトークイベント出演中に脳出血で倒れた。そこから4か月入院され、その間、北光社時代の後輩のかたが交代で店番をするなどして週2日営業を続けていたけれど、8月、ついに閉店してしまう。退院後、クロージングと冠がついたイベントが開催されていたことから、僕も閉店してしまうのかと残念に思っていたけれど、事情が事情なだけに、どう言葉をかけてよいかもわからなかった。何より、北光社の光を継いだ北書店の閉店に新潟の多くの人たちが悲しんでいるのは間違いない。よそ者の僕が何か発言することすら憚られた。

 出会った当時の佐藤さんは本当によく飲んだ。その飲みっぷりの破天荒さは、本屋というよりは作家のそれだなと思うほど、よく飲んでいた。秋田から来た友人たちと一緒に新潟で飲み明かした夜など、佐藤さんはどこか投げやりなくらいの飲み方で、彼が家族を持つことを知っていた僕は、その姿を前に微かな心配の雲が広がりかけるのだけど、その度、彼の自虐的且つ謎にポジティブな言動がそれを吹き飛ばし、そのうち自分も一緒に浴びるように酒を飲んで果てた。当時の彼の破滅的な言動は彼の魅力の一つに映りもしたけれど、過剰なものはいずれ何かを蝕んでいく。だからこそ、彼が倒れたと聞いたときの不安は濡れタオルのように僕を覆った。

 今思えば彼は、北光社の閉店以降、さまざまを背負い込んでいたに違いない。20代の頃にアルバイトで北光社に入った佐藤さんは、北光社、最後の店長となった。江戸時代から続いていた光を自分が消してしまうような、そんな気持ちになってもおかしくない。僕ならそう感じてしまうだろう。彼が引き取ることになった北光社の立派な本棚に並ぶのは、本だけでなく、古町の文化を支えてきた歴史や、それを引き継いでほしいという地元の人たちの、ある意味、勝手な願いでもあった。それを意識するしないにかかわらず、「文化の光」などという仰々しい魂を引き取るには、たった一人の男では荷が重すぎやしないか。

 だからもう、その光が再び灯ることはないのかもしれない、いやもはや、それはそれでよかったのだ。と、そう思っていた冬、北書店はまたしても復活した。当然、新潟の本好きたちは歓喜した。佐藤雄一すごすぎる。ツイッターが盛り上がるのをみながら、僕も嬉しくて仕方なかった。だから今回の新潟入りで僕は必ず北書店に訪れると決めていた。

 北書店は以前あった場所から移転していた。8月に閉店してそのまま撤収と物件探しと引越、搬入と、不自由な身体でやりきったなんて、どれほど強い思いだったのだろう。いや、もはや情熱だとか文化の光をどうだとか、そういったことを意識することもなく、佐藤さんにとっては本屋以外の選択肢はなく、ただ淡々と移転開業を目指しただけなのかもしれない。大病を患い、左半身に麻痺が残ってしまったという佐藤さんだったが、「おぉ〜藤本さん!」と言葉をくれて、それだけでこちらの緊張がほぐれていった。佐藤さんはいまどういう状況なんだろうと、正直とても心配且つ不安な気持ちで訪れていたからだ。

 あたらしいお店は前の半分くらいのスペースだった。以前のお店も、北光社を思えば小さく思ったけれど、それでも約40坪あったというから、一人で切り盛りするには大き過ぎたのだと気づく。「家賃も光熱費も半分以下になって、これならやれる」と佐藤さんは言った。「左半身に麻痺が残ってるから、顔の筋肉もこわばったままで、しゃべるのも大変なんだけど、今日は調子がいい」とも。元気そうだとは言わないけれど、変わらぬ佐藤さんの姿に嬉しくなる。ここまで連れてきてくれた博進堂の先輩二人に、「今後、本は必ずここで買ってくださいね」なんて冗談まじりに言いつつも90%は本気だった。街に本屋があるということは、まさにその街の文化の光を灯すということなのだから。

 北光社は「北国に文化の光を灯す」とその使命を高く掲げて営業したけれど、北書店はそんな言葉を謳うことなく、淡々と文化の光を灯し続けている。幾度もその光が消えかけ、満身創痍になりながらも、なお立ち上がるのは、佐藤さんにとって、それ以外の選択肢がないからで、それはとても偉大で大切なことだ。無限の在庫を抱えるAmazonと街の本屋の違いもそこにある。目の前にある限られた選択肢という有限性のなかで、僕らは幸福に生きられる。無限な自由よりも限られた自由こそが幸福を生む。

 左半身が動かないからと、杖をつきながら立ち上がり、僕におすすめの本を紹介してくれた。「これ、絶対藤本さん好きだよ」そう言って出してくれたのは『校長先生のはなし』という一冊だった。『レコードと暮らし』(夏葉社)の著者で、東京の高円寺にある中古レコード店「円盤」の店主でもある田口史人さんが編集したそれは、昭和30〜60年代に作られたさまざまな学校の卒業記念レコードに収められる校長先生のメッセージを文字起こししたものだった。そもそも卒業記念レコードなんてものが存在したことに驚く。カセットテープ以前、レコードが録音再生メディアの主流だった時代にたくさん制作されていたのだという。それらをコレクションするだけでなく、そこに込められた校長先生たちの言葉を活字化してまとめてくれた田口さんのしごとに、自然と敬意がわいてくる。

 そもそも写真アルバムではなく、CDやレコードをアルバムと呼ぶのは、なぜだか考えたことがあるだろうか。僕は最近、大分県湯布院にある「束ノ間」という宿にとてもお世話になっているのだけれど、そのオーナーの堀江さんという方に、さまざまを教わっていて、なかでも最近とくに感動したのが蓄音機だった。いまでも流通するLPレコード(long playing recordの略だそう)ではなく、SP盤と言われる蓄音機用のレコードに針を落とし、流れるルイ・アームストロングの「On The Sunny Side Of The Street」を束ノ間で初めて聴いた時、僕は何かあたらしい世界が広がるような心地になった。少し高台にある束ノ間から見下ろす湯煙の風景を前に、蓄音機の音を聴きながらそっと目を閉じた瞬間、まるで目の前にサッチモがいるかのごとく情景が切り替わっていく。その圧倒的な音の豊潤さに心が震えた。電気一つ使うことなく、手回しの動力で演奏者が目の前にいるかのごとし空気を再現するこの機械は人類史上もっともすばらしい発明なんじゃないかとすら思った。

 1曲再生すれば針先が完全に摩耗するゆえ、SPレコードの溝を傷めないためにも1回毎に針交換が必要で、それでもなお、再生するほどに盤面が摩耗することは避けることができない。だからこそ、一曲の再生がまさにLiveで、僕は蓄音機をもはや単なる再生機だとは思えなかった。基本的には、片面に1曲ずつしか収録できず、複数曲の再生にはSPレコード自体の交換が必要となる。それために複数のレコードを一つにまとめた作品集を「アルバム」と呼んだ。その見た目はまさに写真アルバムだ。つまり、複数の音源がまとまったものをアルバムと呼ぶのは、SPレコードを複数枚まとめた分厚い冊子に由来する。そういう意味で『校長先生のはなし』はまるで活字のアルバムだった。

ここから先は

174字 / 2画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?