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アルバムな旅02『拾う神と拾われる天使』(新潟市)

 事前に博進堂の田沢さんに相談していた、立ち寄りたいお店のひとつは、上古町にある「hickory03travelers(ヒッコリースリートラベラーズ)」(以下、ヒッコリー)だった。雑貨や食品など、魅力的な新潟土産が並ぶセレクトショップで、それらのほとんどがオリジナルのデザインでとてもかわいいい。ところでこの「かわいい」という表現について、15年ほど前までは「なんでもかんでも、かわいい、かわいい、と馬鹿みたいに……」といったニュアンスで、やんわり否定されていたことを思い出す。特に文章表現における「かわいい」の使用は、曖昧で稚拙だという空気が漂っていた。いまでは、かわいいもの好きおじさんで何がわるいと開き直る僕だが、当時は、思わず「かわいい!」と声に出しそうになる衝動にひそかに蓋をしていた。けれどそんな僕のいびつな蓋をはずしてくれたのは、日々成長する娘だった。

 いまは大学生になった娘と、いまでもたまに二人で買い物に行くけれど、そのとき一緒に気持ちがあがり「買っちゃおうぜ」となるのは、いつだって「かわいい!」ものだ。僕は娘のおかげで「かわいい」を肯定できるようになった。おおきな目玉のモチーフがついたサコッシュ。小さなベーコンエピのブローチ。巨大なクリボーのスツール。娘との買い物で増えていくモノは、僕の日常に添えられる花のよう。雑貨という概念に収まるものの多様さは、「かわいい」の花たちの多様さとつながっている。そこに明確な定義や線引きがないもの。見るものによって感じ取る感覚が違うもの。その象徴である「かわいい」モノが、僕と娘の関係を対等にしてくれる。

 そんな、ヒッコリーオリジナルの、ユーモア溢れるかわいい商品たちを手がけているのは、迫一成くん。ヒッコリーを運営している張本人で、つまりは、同類のかわいいもの好きおじさんだ。

 hickory03travelers(ヒッコリースリートラベラーズ)という、ずいぶんと長ったらしい名前に感じる「若気」は、その出自を知れば納得する。前項最後にも書いたけれど、福岡出身ながら、新潟大学で学んでいた迫くんは、在学中、バックパックひとつでヨーロッパやインドを回るような旅好きだったそうだ。若者特有の「自分は何がしたいんだろう」という問いに、絵本をつくりたいと思った彼は、就活の代わりに、イラストレーターや絵本作家を養成する「パレットクラブ」に通ったという。そこでの出会いと、服飾を学んでいた大学時代の先輩との出会いから、2001年、行政や商工会主導のチャレンジショップ企画に参加。Tシャツのデザイン販売を行うショップとしてヒッコリーは生まれた。

 街に新しい風を吹かせるのは、若者、よそ者、馬鹿者の3者だと言われるけれど、hickory03travelersという名前は、いかにも世間知らずの若いよそ者の匂いがぷんぷんする。しかし、この若気の至りのようなネーミングだからこそ、動き出したものがあるに違いない。きっと、いま現在の迫くんが考えるなら、もっと「わかりやすくて」「シンプル」なネーミングになるはず。けれど当時の古町には、このhickory03travelersという、どう呼んでいいかすらわからない横文字が必要だったのだ。

 そこで思い出すのは、同じく新潟県の友人で、きっと迫くんとも年齢が近い、燕市にある株式会社MGNET(マグネット)代表の武田修美くんの話。東京の某イベントで武田くんと一緒に登壇させてもらったとき、彼が話してくれたエピソードがとても秀逸で、記憶のままに、かいつまんでみる。

・地元三条市の商店街にある古民家の活用アイデアを若手スタッフたちに求めた武田くん。
・スタッフから上がってきた提案は、新潟らしく、美味しいお米を味わえる、おにぎり屋さんを開くというアイデアだった。
・一見、なるほどと思いそうなそのアイデアを武田くんは、地元の人が訪れる商店街の古民家で、普段から美味しいお米を食べてる新潟の人がわざわざお金を出してまでおにぎりを食べにくるのか? と指摘。
・再考した若手スタッフたちは、なんだか流行っているらしい的なところから、ある種の軽薄さをもってハンバーガー屋を始めることに着地。
・結果、きちんと売上を上げて町に定着。いまもなお、お店は続いている。

 僕はこの話をずいぶん感心して聞いた。ローカルを盛り上げたいといった趣旨のアクションは大抵、風土に根ざした産品を使った動きに焦点が絞られがちだ。けれど、その土地の生活者目線をもつほど、スタバやマックを求めるピュアな気持ちが見えてくる。それを、よそ者目線で安易に否定したり、それぞれの事情を無視した「古き良きもの信仰」を押し付けるのは本当によろしくないと考える僕にとって、これほど痛快なエピソードはなかった。

 つまりhickory03travelersというアクションは明らかに、古町の文脈にないものだった。けれど人は、あるものを求めるのではなく、ないものを求める。ないものにワクワクし、なかったものに期待をする。とてもシンプルな話だ。

 古町界隈の、老舗と新しい店との繋ぎ役として人望の厚い「百貨さかい」の酒井さんは、2004年に「上古町まちづくり推進協議会」を立ち上げる際、「県外出身の若者3人が上古町に店を出したので、彼らのような若者の力を活かして、街を活性化させていきたいと思った」とインタビューで話している。そんな酒井さんの力を借りながら、まちの未来を思うアクションを重ねていった迫くんは、2006年に商店街振興組合が結成された際に、理事に就任。なんと27歳だったという。

 その頃、彼が始めた新しい取り組みがワタミチというフリースペースの運営だった。今現在、ヒッコリーの店舗がある場所だ。もともと「渡道わたみち商店」という老舗の酒屋さんだったが、後継者が亡くなり、建物が取り壊されようとしたときに、彼が借りたいと申し出た。一部を商店街の事務所として使ってもらったり、知り合いのデザイン事務所に入ってもらったりすることで家賃を捻出。さらに、誰でも自由にイベントを開催できる貸しスペースとして運用。日本酒教室や音楽ライブ、トークイベント、ワークショップなど、たくさんのイベントが行われた。実は僕が彼と初めて出会ったのは、まさにこのワタミチだった。

 さて唐突だが、ここからしばらく、一人の絵描きの女の子の話をしようと思う。名前はsacco(さっこ)。舞台は2000年初頭の大阪に移る。必ず、新潟に戻ってくるので、少しばかり身を委ねてほしい。

 もう20年以上前、『バグマガ』と呼ばれるフリーペーパーを作っていた僕は、そこに広告出稿してくれたご縁から、創造社という老舗デザイン専門学校の、卒業制作公開プレゼンテーションの審査員を引き受けた。プレゼンに参加できる生徒はすでに学内審査で選ばれた子たちで、すなわち、ある程度出来上がっているというか、企業の大人たちが喜びそうな、いかにも優秀で整ったものばかり。当時の僕にはあまり響くものがなかった。そのせいか、少しばかり辛辣なコメントを残してしまったりして反省もした。嘘でも、もう少し前向きなコメントをした方が良かったなあなどと、しょんぼり考えているところに、一人の女の子がかけよってきた。

「あの……わたしの作品は、発表には選ばれなかったけど、上の部屋に、作品があるから、ぜひ見てください」たどたどしい口調で話すその子は、幼いこどものようで、卒業作品があるということは、きっともう二十歳なのだろうけれど、およそ成人しているとは思えなかった。ずいぶん不思議な子だと気になって付いていくと、彼女は教室の奥にある作品を指差した。その先にあったのは、キャラメルの箱と、そこから溢れでるちいさな紙屑たち。「これが作品?」そう思っていたら、その紙屑のようなものを広げて中を見てくれという。こわごわ手に取り、小指の先ほどの、ちいさな紙片を一つひとつ広げてみると、そこにはボールペンで描かれた、ちいさなちいさな絵があり、あまりにプリミティブなその表現に、僕は一気に心を掴まれた。公開プレゼンテーションで紹介されたどの作品よりも強く強く刺さった。

 「展覧会ってやったことある? なければやろうよ。プロデュースさせてほしい」と、僕はその子に願い出た。彼女は「うれしい。やりたい。やりたい。」と言って、こどものようにはしゃぎながら喜びを表現していた。それがsaccoとの出会いだった。

 当時、友人がオーナーのカフェの2階に事務所を構えていた僕は、1階のカフェギャラリーのディレクションを任せてもらっていた。そこで彼女の展覧会の開催が決まったことで、saccoは、打ち合わせのために何度もカフェに来るようになった。いつもフワフワと宙に浮いているかのようなsaccoは、次第に、まだ小さかったうちの娘とも仲良しになって、気づけばまるで幼稚園のお友達のように二人で遊んでいることが多々あった。そんな姿を眺めながら、いよいよ専門学校も卒業し、これから彼女はどうやって生きていくんだろうと心配に思った僕は、「saccoは、何になりたいの」と聞いてみた。すると彼女は「sacco、天使になりたい」と言って、僕は戸惑いながらも、彼女なら、なれるような気がした。

 展覧会を無事終えてなお、僕は彼女の表現に心惹かれ続けていた。僕にとって初めて手掛ける全国誌だった雑誌『Re:S』の制作をはじめて以降も、僕は何かにつけ彼女に絵を描いてもらったり、誌面に登場してもらったりもした。

 いまではアール・ブリュットや、エイブルアートなどと言われる、障害を持った人たちのアート。90年代〜2000年頃、福祉の一環だった障害者の表現活動をアートとして社会に示した、絵本作家のはたよしこさんに心酔していた僕は、はたさんが始められた絵画教室のある、兵庫県西宮の「すずかけ作業所」にお邪魔させてもらったりもしていた。きっとそこで見る作家たちの衝動性とか無垢性のようなものを、saccoとその作品に感じていたんだと思う。とにかくsaccoは僕にとってスペシャルなアーティストだった。

 そんな彼女がある日、大阪を飛び出した。飛び出すという表現そのままに、saccoは突然、衝動的に大阪の街を出た。「どこに辿り着くかわからないけれど、ヒッチハイクでどこかに行く」と言って大阪の街からいなくなったのだ。そのことを最も寂しがっていたのは、うちの娘だったかもしれない。仲良しの友達が突然引っ越してしまったような、そんな寂しさをしばらく抱えていたように思う。

 そこから数週間後だったろうか、いや、もっと経っただろうか、突然、saccoから、娘宛に手紙が届いた。「そらちゃん来て」そう書かれた手紙をよく読むと、saccoは新潟県に居るという。優しい人に出会って、ここにしばらく居ればいいよと言ってもらったのだと書いてある。その場所の名前はワタミチ。天使を拾ってくれたのは、迫くんだった。

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