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【ひなた短編文学賞・佳作】散歩 / 春野息吹

23年6月、「生まれ変わる」をテーマとした、初めての短編文学賞「ひなた短編文学賞」を開催致しました。(主催:フレックスジャパン(株) 共催:(一社)日本メンズファッション協会

全国から817作品の応募を頂き、その中から受賞した17作品をご紹介いたします。様々な"生まれ変わる"、ぜひご覧ください。



【佳作】散歩 / 春野息吹


 玄関に掛かった赤いリード。少しくすんだ布地に、白と薄ピンクの花の刺繍。ぶらりと揺れた長い紐が、「連れてってくれないの?」と問いかけているようで、深く息を吐いた。
 大好きな妹が天国に行ってしまったのは、一ヶ月前のことだ。妹といっても血のつながりはない。彼女は赤いリードの持ち主であり、犬だから。
 でも、一人っ子だった私にとって、小学生の頃から一緒に育った彼女はまさに妹だ。そんな彼女のいない日々に、まだ慣れないでいる。

 三月頭にしては暖かく、ほころび始めた梅に、春の兆しを感じる日だった。歳をとった彼女は、冬の寒さが堪えるようで、病院の回数も随分と増えていた。やっと訪れた春の気配が心地よかったのか、窓辺で昼寝をしていた。そうして、そのまま、逝ってしまった。
 たんぽぽの綿毛のような毛は、撫でるとふわりと柔らかく、小さな身体は温い。なのに、感情豊かな尻尾は、いつまでも静かなままだった。
 想像以上に別れは静かで呆気なかった。
 天国でも退屈しないよう、思い出の品を手に取り、棺に入れる。その時でさえ、まるで夢の中にいるようで、どこか現実味がなかった。
 何度も投げて遊んだ、ペコペコ音の鳴る骨のおもちゃ。なぜかお気に入りの、私のお古の靴下。いつもくるまっていた、ピンクの毛布――
 宝箱にしまうように、一つ一つ、優しく触れた。
 最後に赤いリードの番になり、手が止まった。
 指先で刺繍の模様をなぞると、毎日の散歩の記憶が目に浮かぶ。神社まで走ったこと。舌を出して息をする彼女を笑ったこと。川から魚を見たこと。近所の人に、「元気だね」とよく言われたこと。散歩好きでお転婆の彼女との思い出が、たくさん詰まっていた。どうしても、手放せなかった。
 それから一ヶ月、見るたびに胸が苦しくなる。でも、涙は出なかった――

 数日が経ち、春休みも終わりかけの頃、唐突に母が言った。
「ねぇ、散歩に行こう」
「んー。いいや」
 特に予定はなかったが、顔も見ずになんとなく愛想のない返事をしてしまった。ここ数日、特にこもりがちになっていた。
「じゃあ、連れてってあげて」
 久しぶりに聞く言葉に、はっと顔を上げる。
 母が差し出したのは、赤いリード――?
 手のひらに収まるほど短くなっていたが、白とピンクの刺繍は、やはり間違いなく彼女のリードだった。長かった紐の部分が無くなり、持ち手部分だけのような輪の端には金具がついている。キーホルダーみたいだ。
「あの子と一緒に、行ってあげて」
 そっと受け取り、握りしめると、指にでこぼことした花の模様を感じる。
 目が、頬が、熱い。涙が溢れてきた。止まらなかった。懐かしい感触が愛おしくて、名前を呼ぶ。彼女がそばにいてくれるような気がした。
 少し落ち着いてから、母と一緒に散歩に出た。彼女といつも歩いた川沿いの散歩道は、いつの間にか桜が咲き、白い絨毯のようだった。
 優しい春の光に包まれて、積もっていた雪がようやく溶けたらしい。

「春になったんだね」



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