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【ひなた短編文学賞・MFU賞】焦げ跡 / 彼方ひらく

23年6月、「生まれ変わる」をテーマとした、初めての短編文学賞「ひなた短編文学賞」を開催致しました。(主催:フレックスジャパン(株) 共催:(一社)日本メンズファッション協会

全国から817作品の応募を頂き、その中から受賞した17作品をご紹介いたします。様々な"生まれ変わる"、ぜひご覧ください。



【MFU賞】焦げ跡 / 彼方ひらく


「どうしてくれるんだ、親父の形見なんだぞ!」
物静かな父が母に対してそんな怒声を張り上げたのを、私は生まれて十七年間で初めて聞いた。母はアイロン台を前に、正座を崩して黙っていた。垂れた前髪で目元は見えなかったが、唇をきっと結んでいた。
アイロン台にかかったフレンチリネンの白シャツは、後ろ身頃にくっきりと焦げ跡がついている。私も縫製工場の跡取り娘だ。取り返しがつかないことは分かる。
「このシャツはな、親父が若い頃にパリで惚れ込んで、なけなしの財布を叩いて買ってきたんだ。二枚とないんだぞ! それを……」
「そんなに大切ならアイロンくらい自分でかければいいじゃない! いつまでも親父が親父がって!」
「……な、なんだと!」
「お父さん、だめ!」
私は必死に、身を乗り出す父にとりついた。

よりによって旅行の前夜に、なんでこんなことになったんだろう。
創業者にあたる祖父が早くに亡くなり、父と母は働き通しで、安い輸入品から従業員とその家族を守るのに精一杯だった。だから私は二十年ごしの、二人がかつて行けなかった新婚旅行を提案したのだ。軽井沢のペンションと新幹線を予約して、乗馬体験と、ジョン・レノンが行きつけだったカフェテラスのランチと、ニューアートミュージアムと、詰め込みの二泊三日のオリジナルツアー。古株の職人さんたちにも話を付けておいたのに。
父の去ったあと、薄暗い小さなダイニングで母にハーブティーを淹れた。母はテーブルで柱時計を見ていた。壊れて鳩が出なくなってから何年も経つ。
「お父さんさぁ、あんなに怒らなくてもいいのにね……。でも、お母さんもおじいちゃんのこと言っちゃだめだよ。あれ絶対怒るやつじゃん」
父は祖父を尊敬しているのだ。
「わざとなの」
「え?」
「シャツ、だめにしてやろうと思って」
「……え、え? なんで?」
母は頬杖の手を外して、カップを横に押しのけ、テーブルに突っ伏してしまった。
「あんたには分かんないのよ」
「なにそれ!」

翌朝、ベッドから出たくなかった。旅行は中止だろう。今日は可燃ゴミの日だから、シャツを捨てる捨てないで、きっと揉める。分かってる。私は無力だ。枕を壁に投げて部屋を出ると、父が玄関で靴を磨いていた。横には革のボストンバッグ、その上に古い野球帽。
父は初めて見る柄の茶色いシャツを着ていた。最初は分からなかった。何回、何十回アイロンを押し当てたらあんなになるのか。襟ぐりから裾まで無数にアイロンの焦げ跡が重なっている。あのシャツだった。母のつけた焦げ跡はもう分からなかった。
「ごめんなさい」
気づくと、隣に母が立っていた。母の眼がみるみる潤んで、涙が溢れた。
「ごめんなさい、あなた。私、私…………」
「いいんだ」
父がさえぎった。母は嗚咽する。
「支度できるまで待ってるよ」
「お、お父さん、本当にその服で行くの?」
父は顔を上げて笑った。
「俺には俺の生き方があったんだ」


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