必然

気付いたらもう18歳。高校3年生になった。高校生というのは、不安定で不透明で、何も綺麗なものではなかった。中学の頃夢見ていた高校生に、私はなれているのだろうか。
私の中学校生活は本当に狭いコミュニティの中で形成されていたことを知ったのは高校生になってからだった。一気に広がった世界が、私は怖かった。歯車が狂い始めたのはいつだっただろう。友達Aと友達B、両方を失いたくなくて試行錯誤した私は、いつの間にか独りになっていた。ひとりでいることは平気だったけど、ひとりでいる自分を見られることが耐えられなかった。ひとりでいる自分を、許してあげられなかった。中学時代「ずっと親友でいよう」と挨拶を交わすかのように言い合っていた大好きな親友は、私と違う高校で、私と違う世界で、毎日楽しそうに過ごしていた。親友の優先順位に私は入れなくなって、気付けば唯一無二の親友まで失っていた。その頃には私の頭は「死にたい」で埋め尽くされるようになっていた。何もなかった。息をしているだけだった。学校に行くのが本当に辛くて、だけど行きたくないと親に言えなかった。私が学校に行くより先に家を出る両親を見送ってから、自分で学校に欠席連絡を入れることが増えていった。休んだって鳴らないスマホは、私がひとりだという事実を痛いほど突きつけてきた。私がいなくても変わらず進んでいく時間が、日常が、憎くて仕方なかった。いつ死のう、どうやって死のう、そればかり考えていた。ある朝私は、母親に学校を休みたいと言った。母親は許してくれなかった。私は折れなかった。休むと言い張った。母親は泣き出して、作ってくれた弁当を机の上にひっくり返した。そして私に罵声を浴びせて仕事に行った。どうせなら殺してくれと思った。なんで母親が泣くのか分からなかった。母がいなくなった部屋で私は泣きながら弁当を食べた。甘いはずの卵焼きはしょっぱかった。その日から私は、家で学校に行きたくないと言うのをやめた。こっそり休んだことは何度かあったけど、ほとんど毎日学校に行った。私は空気なんだと思い込んでいた。誰とも繋がってないTwitterのアカウントは、死にたいというつぶやきが増える一方だった。そんな毎日は急に終わった。コロナウイルスが流行して、緊急事態宣言が出て、学校は長期休校になった。不謹慎だと思うけど、私は心の底から喜んだ。嬉しくて涙が出た。学校が嫌で死ぬくらいなら、コロナで死にたいと思った。
高校2年生が始まったのは6月だった。クラス替えのおかげで私の新しい生活が始まった。新しいクラスには話せる子が沢山いて、一気に毎日が楽しくなった、はずだったのに。もうひとりになりたくないという思いが私をどんどん追い詰めた。常に気を張って、気を使って、嘘笑いして、興味のないアイドルの勉強までした。私を殺したのは私だった。そこまでしても私は必要とされなかった。他愛もない話で笑い合える周りの子達が羨ましくて仕方なかった。上辺だけの友達しかいなかった。同じクラスには、小学校からずっと一緒の男の子がいた。同じ方向だから、毎日一緒に帰っていた。2学期のはじめ頃、帰り道で「お前、休み時間ひとりじゃない?大丈夫?」と言われた。嬉しいよりも苦しいが勝った。「勉強大変でさ・・・」嘘笑いも得意になっていた。気の許せる人に心配されていることを知って、翌日から休み時間の度に話したくもない子のところへ行くようになった。心配してもらうことすらも私を苦しめて、私は光を、道を、失った。学校を休めない私は、仮病を使って保健室に通うようになった。保健室の先生は優しかった。だけど実はどう思われているのかが気になった。人の優しさが怖かった。悪いことばかりしか考えられなかった。仮病を使うことを覚えた私は、朝通学して駅で体調が悪くなって吐いたと嘘をついた。母は心配して仕事を休んで迎えに来てくれた。父は何も悪くないのに、自分が朝早くに起こしたせいだと思い込んで何度も謝ってきた。自分が惨めで仕方なかった。ただただ申し訳なかった。生きていてごめん、と何度も心の中で言った。その日以来、学校にちゃんと行って、ちゃんと授業を受けることを心に決めた。私の苦しみは、私だけで背負って生きていくと決めた。毎日毎日、朝が来るのが怖かった。学校に行くために玄関を開ける手が震えていた。学校へ向かうために乗るバスが大嫌いだった。また地獄が始まるんだと思うと、全部全部投げ捨てたくなった。周りの人の楽しそうな声を聞くのが苦痛で、イヤホンは必要不可欠になった。そんな毎日の中で、流れてきたのがDAY DREAM BEATだった。季節が秋から冬に移り変わる頃、私はかけがえのないものに出会った。
狂ったはずの歯車は突然噛み合って、私の価値観、考え方、見え方も変わっていった。少しずつ、少しずつだったけど、生きるのが楽になっていった。学校に行きたくないのも、友達がいないのも変わらなかったけど、失ったはずの光が、失ったはずの道を照らしてくれるようになった。冬、勇気を出して中学時代の親友にDMを送った。話すのは1年半ぶりだった。私は、失ったはずのものを少しずつ取り戻していった。ハンブレの音楽に出会ってから、音楽が好きな他クラスの友達ができた。年明けにハンブレのライブが決まって、ハンブレのライブを目標に生きたらいつの間にか高校2年生が終わった。
高校3年生になって半年が経った今、私は学校に行きたくないと思わなくなった。みんなと仲良くするのをやめた。友達を選ぶようになった。誰にでもいい顔をしなくなった。いい人になろうとするのをやめた。有難いことに、今の私には親友だと呼べる人がいるし、友達もいる。死ななくてよかった、生きててよかった、今ならそう思える。あの頃死にたいと思い続けていた私が死ねなかったのは、失うものがあったからだったと思う。なにもないと思っていたけど、私はどこかで未来に期待していたんだと思う。未来は、期待を裏切らないでいてくれた。私は、出会いは必然だと思っている。人は、出会うべき時に出会うべきものに出会えるようにできている。出会ったもの、人、全てが自分にとってプラスになるとは限らないけど、少なくとも私は、あの苦しみも、あの悲しみも、今の私に必要だったんだと思えている。本当に小さな出来事でも、人生は大きく変わる。これから先、なにがあるのかなんて誰にも分からないけど、私は必死で生きようと思う。あの頃の私が頑張って繋いでくれた命だから。
中学の頃、私が憧れていた高校生にはなれてないのかもしれない。それでもいいや。誰も私と同じ人生は歩めないから、誰も私にはなれないから。この世界はきっと、私のものだから。

この文章に出会ってくれて、ありがとう。

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