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「邪」に呑まれる。

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。潜在意識を紐解いて、心の深淵に潜む概念を書き換えることなどもしています。

人は不合理な生き物です。

損することでも、気持ちが良ければそれに従い、善行をしたがることもあります。

金で動くこともあれば、金では動かなくなることもあります。

痛みで口を割ることもあれば、痛みでは仲間を裏切ることなど出来ないこともあります。

エゴという「邪」というものに呑まれるか、純粋愛の真心に従うかによって進むべき道が変わることがあります。

発想がそもそも「邪」に従うと、結末も「邪」で終わることが多いものでもあります。途中で心を入れ替えるなどという芸当が出来れば可愛いものですが、「邪」に従うと、振り上げた拳のように、振り下ろすまでやり遂げなくては成らない問題が隠れているものです。

「邪」の意味、定義とは?
「否定する為だけに価値観を育てているもので、決定的なミスを見つけるとそれを執拗に責め立てて『謝罪』させることでマウントを取り、相手の自由を奪い、自身のストレスの捌け口として利用するもの」
「価値観の相違をより決定的にする為に、相手の弱点や失点をさらして他人の不快感を利用して攻撃し、敵意の的に仕立て上げることで手を汚さず、罪悪感を煽ることで自滅を促し、心配をして味方の振りをして傷口に塩を塗り込む罠を仕掛けていく善意と正義振る悪意のこと」

邪心というものは、嘘の噂を信じて発生するもので、出所が「嘘」である為、悪口だけは達者な正義面をした存在とも言うべき概念だけで自立する自我です。

自立している為、易々とは消え去らず、脳内のお喋りを牛耳り「見下す」ことに長けており、それでいて生産性や創造性はなく、ひがみ根性だけは立派な心です。

真正直になろうとか、ポジティブな心で生きたいと願っても、「邪心」は消え去らず、当人を困らすだけの自らが墓穴を掘るようなものとなります。開き直りにも繋がり、「どうせ」という気持ちで精神を支配し、卑屈さを増幅させることで「助けを断る」ことばかりに邁進し、「諦め」だけが答えであるかのように振る舞うものです。

真心に従い、「邪」に対して邪の存在否定が出来ると良いものですが、全霊をかけて「邪を拒絶する」ことが出来る決意が持てないので、永遠に苦しめる存在として心を占めることがあります。

邪は厄介な存在です。

心の隙間に付け込み、いつまでも存続する働きを持つ為、仮に良心的な判断力を身につけても、元々が「嘘」が支えになっている為、伴侶や家族を持つと、心配のつもりで不信感をぶつけてくるようになります。

相手に失礼な不信感を出さなくても、独りで悶々と否定的価値観を放ち続けることをするものです。

そしてその邪心こそ、自分の本質だと錯覚する人を邪神に従っているなどと、心の中の声を正当化して、愛する人が喜ばないことをしでかすのです。

自分自身で制御出来ていないことに気づいても、どうにもならないのです。

頼れる相手にさえ、失礼な邪を示してしまい、詰めを見誤ることをして自滅するのです。

聖なる心を持つ人が、いつでも紳士で誠実であると「邪」は思い込むのです。

相手の良心に付け込もうとすることで、マウントを取り、自分を人質にして言うことを聞かせようとする働きがあります。

「邪」は付き合って貰えないと、その痛みは自分へと還ります。

放った言葉を相手が受け取らないと、自分の元へと戻るだけなのです。

邪念も同じことです。

邪に呑まれると、邪に墜ちて自滅するのです。

自分の心に打ち勝つことでしか、抜け出す方法がないのです。

その為、「邪」を払う気づきはシェア出来ず、自力で抜け出すしかないのです。

「偉ぶって、嘘くさい」という邪を聞き入れている真心があることに気づいて、真心が邪を払う意思を示すしかないのです。

真心を守るような盾となる邪など必要ないのです。

物語にあるような悪い人は存在しないと、嘘から目が覚めることです。

その方法論を手にすることがリーディングの道となります。


先人など経験者に、冷たくあしらわれた体験が誠実さであると気づけると、邪は滅びます。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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