小説『指先に唇に、兵士の頌歌を』

 以前書いた小説を投稿します。分量はワード40枚。半分までは無料で読むことができます。改行をして、多少は読みやすくしてみました。

芸術家の両親を盲信する、中学生の皇言。少年は傲慢で孤独で、勉強はできても「美」がどうしても理解できない。そんな彼は風変わりな男と時間を友にすることになる。


「冬の日に母様が亡くなった。その知らせを聞いた時、僕は信じられなかったし、数時間後に瞳を閉じている母様と面会した時も半信半疑だった。ただ、とても気分が悪く、この場所にはいたくないと思い早々に帰宅をして、部屋のベッドで横になっていて、身体のほてりとだるさで熱を計ると39度あり、翌日病院に行くとインフルエンザだと診断された。僕は家にこもる口実ができたことに、朦朧とした頭で安堵感を覚えつつ、ベッドの上で経口補水液とブドウ糖を摂取して、まどろみ続けていた。葬儀には出なかった。誰も強制はしなかったし、意味がないと思った。母様は死んではいない、しかしそこにはいないのだと妙なことを考えていた。一週間後、体調が回復してリビングで読書をしている僕に、姉様が何かを手渡してきた。小さな金色の円筒形。そこに黒い文字で英語のロゴが入っている。


『サンローランのリップ。母様が愛用していたから。少し迷ったけれど、皇言が持っているのがいいと思って。でもね、もしそうじゃなかったら言って。私が預かる』


 僕は無言で蓋を取ると、少し、使いかけの、見知ったような赤色があった。僕はそれを目にして、


『千両と万両の違いって何だっけ』と口にしていた。姉様が間の抜けた声を出したから、僕は言葉を続ける。


『冬に赤い実がなるんだ。小さな赤い実が沢山。母様が前に床の間に飾っていた。千両と万両とは似ているけど、何かが違った。そうだ、前に睡蓮と蓮の違いも教えてもらったのに、忘れてしまった。母様が今年の夏に一時帰宅した際に、睡蓮だか蓮だかが綺麗に咲く寺が奈良だか京都だかにあるって話していたよね。行きたいな。そうだ、明日父様と美術館に行くんだ。それじゃあ』


 そう言って僕は自室に戻ろうとすると背後から姉様の声がして、それを無視して戻り鍵をしめて、椅子に腰を下ろし赤い口紅をじっと見つめる。それから蓋をして、勉強机の奥に置いて、しまった。


 都心から離れたその美術館は十分な敷地面積があり、道を歩くとタクシーから降りたばかりで少し熱っぽい頬に冷たい風が触れ、心地よかった。館内ではなく、この広々とした場所に展示をしてもいいかもしれないという思いが生まれたが、それは単なる思い付きで、建物の中へと吸い込まれていく。


 その画を初めて目にした時に、ぎょっとするような感覚を覚えた。真っ赤な板だ。僕はそれに近づくと、その赤はどうやら筆で描かれたらしいことを知り、同時に絵の具の生々しい質感に襲われた。そして、右端には白い線。僕はじっとその線の行く先を追っていた。カンバスは横に長く巨大で、真っ赤な画面の右端を白い線が走っている。線を見て、無数の線の集まりのような赤い面を見て、僕は数分間その画を鑑賞していたのだった。こんなのは誰にでも描けるようなものだろうと思った。でもそれは僕じゃない。


 会場から出て、父様にあの画が欲しいから幾らなのか尋ねてみると『近所にある素敵なマンションが幾つも買える』と言われて、大人になったら買おうかな、買えるのかなと考えて、少しおかしくなって小さく笑った。すると父様も笑い返した。自分が久しぶりに笑ったことを思い出し、母様のことを想起した。そして連想してしまう生々しい赤。僕はあれをもう一度目にしたいような、記憶から消したいような、とにかくあれが疎ましいと手元に置きたいと思った。


 一年後、その画が海外に売却されたことをニュースで知った。小学生の僕は海外に自分が行ってまで、あの画を鑑賞するとか買い求めるといったことが想像できない。そして今も、本当のことを言うと母様が生きているのか亡くなっているのか分からない。ただ、もうそこにはいない」


 自分で書いたはずなのに、自分で書いた文章ではないような気がする。いつもよりも、本心を多く書いてしまったから、こんな嫌な気持ちに襲われているのかもしれない。こんな物を書かなければよかったと思いながら、僕はこれを読まなければいけない機会が何度かある。我ながら小学生にしてはよく書けていたのではないかと思うが、それでもこれのせいで父様に美術評の執筆を強要され、誇らしさよりも困惑の方が強く出てしまって、父様はそれに気が付いていたらしいけれど、いつもは見せない強引さで、僕にそれを任せた。


 僕は美術が好きではない。美しさとかいうものがさっぱり分からない。それに比べると退屈な公式や数式の方がまだかわいげがある。僕の父様は美大の教授で、母様は芸術家だった。元気だった頃の母様の作品を目にしたことがある。母様、の作ったはずのそれなのに、僕はその美点が全く分からなかった。美点、なんて言葉は何だかぞっとする。


 でも、僕には父様と母様がいた。僕には分からないしどこかで馬鹿にしている真善美、という物があるとして、二人はそれにとても近いように思われた。つまり、二人は僕にとっての全てだ。僕は二人に愛されたいと思う。そして、自分にはその価値がなければならないとも。


 僕はきっと勉学に向いている。そしてそれを求められている。点を取ることは最低限のノルマで、さらにそれよりも明確な判断基準がない芸術は困難らしいけれど、僕は二人に価値があると認めてもらわねばならないのだ。


 初夏の日差しが制服を焼き、地下鉄から出て少し歩いただけなのに汗ばんできて、おまけにスマホで地図を見ながら歩いているから進みも遅く、父様に命令されたからとはいえなんとか理屈をつけて断ろうかと算段しながらも具体的なことは思いつかず、不快で、少し、伸びた襟足にまで汗はにじみ、目に入った自動販売機でサイダーを買って口に運ぶと、自然に「ふう」とため息が出た。僕はもう一口サイダーを飲む。げっぷが出る。僕は胃腸が弱く、久しぶりにサイダーを飲んで、久しぶりに飲むと美味しいなあとのんきに考えながらゆっくりと日陰に入り、スマホを眺め、ここが目的地の近くらしいのだけれど、近くなったらなったでますます行く気が減退してきて、いきなり肩に何かが触れ、びくり、と反応をしてしまって視界には見知らぬ男。


「どうも」と彼は言った。黒のスーツにブランドのロゴが入ったネクタイ。日本人離れした彫りの深いぎょろり、とした瞳に鷲鼻のその男は「じゃあ行こうか」と僕に言ってきて、不信感よりも不快感が勝り刺々しく「僕は貴方なんかと行かない」と返すと、少し、驚いた様子でたどたどしく言う「えーと、ミコト君?」


「なんで?」と僕が思わず口にしてしまうと、男は微笑を浮かべて言う。
「以前アカツキギャラリーで会ったはずだよ。その時に貴一と一緒だっただろ。俺は君に挨拶したはずなんだけどな。まあ、君は大勢の大人に会っているらしいし、俺のことを覚えてなくても仕方がないけどさ」


 僕はようやく気付いた。男のことを思い出したわけではないけれど、僕はスマホの画面を見て「津川栄太郎さんでよろしいですか?」「うん。上にも飲み物あるよ。行こう」と男は背を見せ歩き出し、断る機会を失った僕はその後を追うのだが、男の足は長く歩幅に差があって、男に対して競歩をする羽目になった僕は小さな苛立ちを覚えながら正面にあるビルへ入る。


フロントにはつまらない画が飾られていた。なんで金持ちは金持ちぶりたい奴らは画を飾りたがるのだろうと、目につく度に思う。ふと、なぜ男が夏の暑い日に外に出てきたのだろうかと考えた。用事があったのだろうか、それとも僕を迎えにきたのだろうか。


 しかしその疑問は口に出すほどのことではなかった。エレベーターに乗り、男が9階のボタンを押す。


「皇言君は何年生?」
「こいつは幼稚園の先生気取りかよ」と思いながら「中学一年生です」と返す。すると、
「学校楽しい? 仲のいい友達と何の話をしてるの?」と尋ねてきたからげんなりして、
「学校に対して些細な感情しか抱いていません。友人は一人もいないので話しません」と正直に答えた。


「そうなんだ。よかったね」と男は口にした。それは時候の挨拶のような口調で、男の口調というか声色には、その厳めしいというか、欧米の気難しい芸術家然とした顔立ちとは不釣り合いの、ムード歌謡歌手とか企業のオペレーターとか、そういった感じの軽薄な甘さがあった。


 今まで接してきた大人は、父様の息子というだけで僕に媚びてくる人間ばかりだった。それから外れる人間は、驚くほどの自己肯定感と傲慢さを併せ持つ、肩書のある人間。どちらもちっとも好きになれない。だから父様を貴一と呼び捨てにして、僕にも雑な対応をする彼に多少の物珍しさというか、興味を抱いた。


この夏から父様は、メールで僕に、放課後は彼のいるオフィスで自習をするように告げた。そこから察すると父様は彼を信頼しているらしいし、彼も父様を名前で呼んでいる。でも、どのパーティでも彼に会った記憶がないのはなぜだろう。アカツキギャラリーは渋谷に新しくオープンした、現代美術を扱うギャラリーで、僕は父様とオープニングの時に一度だけ顔を出しただけだ。一度きりだからその時に会った人なら覚えているはずなのに、彼のことは思い出せない。エレベーターの扉が開くとほぼ同時に「アカツキギャラリーでお会いしましたか?」と尋ねてみると、男は振り返らずに大きな革靴で一歩進むと、


「うん。嘘だよ。そしてここをすぐ右に」
 僕はこういう下らない嘘が嫌いでしかも男の歩幅が長いから自然と小走りをすることになってしまい苛立ちを隠さずに「意味のないつまらない嘘は嫌いだ」と言った。彼は振り返ると微笑を浮かべ言う「俺は好きだ。よろしくね」


「そうですか。そういった方と同席していると自習の妨げになると判断しましたので、帰ります。それでは」 


 僕は腹立たしさと共に、断る口実が出来たことに内心ほくそ笑みながらエレベーター前に戻る。男は追ってこなかった。


 普段使用しない路線の電車に乗り、路線図が視界に入るとある名前に目が留まり、なんでだろうと考えていると、その駅の近くにドーム球場があるらしいことを思い出した。


 中学受験に合格したらドームに行こうってゆびきりをしたのだけれど、父様は完全に忘れているのだと、何度も繰り返した思いを引っ張り出し、また捨て去る。


 僕は眼鏡をかけていないが、視力があまり良くないから、球場に行くよりも動画で試合を見る方があっているのだと思う。それに、別に本当は野球なんかにたいして興味はない。


 でも、平泉克己のスイングは素晴らしい。若くして何本もホームランを打っているし、なぜだろう、彼がバットを振る姿は、何だかわくわくする。ただの暇つぶしで、つけっぱなしにしていた動画サイトから流れ出した彼のフルスイングには思わず目を奪われ、あ、乗り換え、ということにようやく気付き、僕は慌てて扉の向こうへと足を踏み出し、歩きながらまた野球について考えつつ、また、父様は約束を忘れてしまったのか、と考えが一巡して、それも捨てる。これで本当の一巡だ。何度もこうやって、捨てたと思った物を拾い上げて、また捨てるのは馬鹿げている。もうこのことは考えないようにしないと。


 帰宅して視界に入ったのは女物の、赤い下品なハイヒールで、僕は嫌な気分になり苛立ちながら自室まで戻ろうとすると、廊下で姉様に会った。姉様は肩まであった髪が短くなっていて、耳には小さなダイヤのピアス、大きな目を細めて弾んだ声で僕の名前を呼んだ。僕は一刻も早く自室に戻りたくてつい冷たい態度をとってしまって、姉様の顔が曇り、僕は慌てて付け足す「玄関に下品な靴があった。後妻が来てるんだろ。早く自分の部屋に戻りたい」


 そう言うと、姉様は顔色を変えずに「お願いだから、もう少し咲奈さんと歩み寄って」と何度も聞いたことを言われ、僕は嫌になって黙り込んだ。その抗議の意味を理解してくれたのか、姉様の顔は一変して華やぎ、


「それはそうと、六本木の交差点で父様にばったり会ったの。少しだけお茶したわ。それでね、父様、皇言のこと話してた。貴方なんでもできるのね」
「なんでもって何?」と内心誇らしくもそれを見せないように、また警戒しながら言葉を待つと、姉さまは楽しそうに言う「美術のエッセイ。私も読んだわ。すごいじゃない。中学一年で『美術時代』に連載しているなんて」
「違うよ! あれは!」
「違うって、何を言ってるの? だって私雑誌を買って読んだ」
「だって、あんなの! 僕は美術なんて好きじゃない。父様が、悪ふざけをしたんだ」
「皇言、どうかしたの?」


 姉様の心配そうな声で、僕はようやく自分が少し取り乱してことに気づき謝罪をした。姉様はすぐに朗らかな調子に戻り、久しぶりに帰宅して、自室の整理をしていたと告げてきた。姉様は父様が学長を勤めている美大の一年生で、数か月前から一人暮らしを開始して、以前にもましてとても生き生きとした生活をしており、この家からは活気が消えうせた。家に残されたのは僕、毎日来るヘルパー、一、二週間に一度程度訪れる父様、後妻。


 リビングでしばらく姉様と話をしていのだけれど、後妻の姿が視界に入り、僕は無言で速やかに自室に戻り、苛立ちを抑えながら読みたくもない本に目を落とし、少しずつ自分の感情が平坦になっていくことに気づくと少しは良い気分になり、興味がない文章と数字の群れに愛着のような感情も芽生えてくるのだ。


 ともかく、あの馬鹿げた講師陣ともお別れできたし、今日始まりそうになった夏期講習じみた物にも出なくてよさそうだ。そう思うと少し気分が楽になった。


 講師が誘導した補助線を何度もなぞる作業は馬鹿げていた。多分こんなことを続けていると思考することがなくなるのだろう。思考しなくてもいいような特訓、教え子を難関校へ入学させることが彼らの責務だとすると理解できるのだが、その中学についての関心は薄かった。父様が入れと言った。それだけだ。だから、苦手だし興味がない国語での点取りのために講師に頼んだんだ「登場人物の感情をアーカイブ化して。一覧から類推するから」って。馬鹿な話だけれど、講師はその要求に応えてくれた。僕は人の心が分からないけれど国語で安定した点を取ることができるようになった。


 夜に毎日スカイプで30分、英語教師とどうでもいい会話をすることは続けていた。僕は自分が英語を好きだとか、誰かと少しは喋りたいのかと錯覚してしまうが、本当の所は分からない。


 受験は愚かなことかもしれない。知性だか才能だかのふるい分けに、何でこんな耐久力のテストを行うのか全く理解ができない。でも、それを突破した哀れで優秀なガキ共は何だか得意そうな、鼻持ちならない雰囲気をまとっているから気分が悪い。ポルノグラフィみたいな顔、皮膚病のひよこみたいな顔、低賃金労働者みたいな顔、ロボトミー手術を受けたらしき善良そうな顔、自分はそういった物ではないのだと信じるクソガキの顔、そういったものらで僕のクラスは構成されていて、当たり前のことなのだけれど、小学校から中学校に入っても人は変われど顔ぶれにさほど変わりはなく、とにかくこの学校という所は馬鹿馬鹿しい、けれども難関校ならではの美点もあって、それは整列した机に並ぶ生徒達が、それがいびつであっても一応選定されているということで、耐久テストに耐えた彼ら、僕ら、は工業製品のように並べられて人間扱いをしてもらえるのだ。馬鹿げてはいるけれど、結局僕はこの世界の中から些細なやすらぎや楽しみを覚えているのだ。


 休み時間に彼らが話す会話の中、塾に毎月何万円かかっているとか何時間勉強しているとか、そういう機械の労働力に関する話題は馬鹿らしくも興味深い点がある。いや、それはここにいる彼らというよりかは単に、僕が工業製品、店に並んでいるそれらが好きだからかもしれない。


 たまに、買いたいものなどないのに都心の大型家電量販店に向かう。今の時代ネットでの購入の方が安くて便利らしく、売り場に人はまばらで、酷い時には客よりも店員の方が多く、所在無さげにうろつき、対照的に行儀よく大量に並ぶ商品。まるで主従が逆転しているかのような光景を見ると、何故だか少しだけ気持ちが良くなる、ような気がする。


 母様の作品も有名な芸術家の作品も理解できないしリラックスしたりしないのに、工業製品や工業製品めいた物が並んでいるというのに心地良さを覚えるのは、もしかしたら好きなのかもしれない。


 授業終了のチャイムが鳴って休み時間になり、生徒たちの中の一部は着替えを始める。次の授業は体育で、夏なので室内で球技だったはずだ。僕の前に座る赤坂は多分クラスで一番体格がよく、彼が服を脱ぐと腋毛がちらと見え、騒ぐのが好きで、やたらと誰かと話していて不快な奴だが、球技の時の彼は中々のもので、こんな学校よりもスポーツに力を入れている所に入学すればいいのに、とクラスの生徒から言われることもしばしばあり、その点については僕も同感だが、彼がここにいるおかげで、間近で身体能力の高い人間の一振り、身体の動きを見られるというのは中々よいことだ。何がよいのか、説明はできないけれど。


 赤坂が50Mダッシュをする。最初からトップに立ったまま、周りとの差を広げていく。ゴールについても余裕の表情で、歩きながら静かに呼吸を整えると周りにいる友人とふざけている。早くもかごからボールを手に取って、投げるフォームが綺麗だと思う。彼のフォームが綺麗だ、と思う僕には彼に似た速球もコントロールもない。


 小学校の時はこんなに身体的に目を見張るような人間はいなかった。彼を見て、同世代で優れている人間というのを意識した。僕はこの学校にいる生徒と教師全員の知性を疑い見下しているけれど、僕には運動の才能がない。身体的に劣っている。僕には美術を美しいと思う感性がなく、何かを生み出そうとする衝動も能力もない。


 でも、僕は通知表で最上の評価以外もらったことがない。体育に関しては態度で高い点をもらっているらしいが。僕には様々な情熱とかそういう野心とかがない上に、父様や母様が属する世界の美、という物への感受性に欠けている。それなのに、僕は満点を最上級の扱いを、極めて優れているという評価を下されてこういう場所にいる。


 参加している僕もその組織にいる人間も下らないと思う。それなのに僕は自分で選んでここにいる。父様が選んだ学校だから。母様はもういない。だから父様の存在は絶対のものだ。


 父様は絶対の存在だ。野球選手の平泉克己や赤坂のフォームが美しいと感じるよりも、もっと強固な磁場があるのだ。僕が幼い頃から、父様は周囲の人間たちの常にトップにいて、そういう待遇を受け、発言や書いたものはどれも素晴らしかった。非の打ちどころがなかった。優秀になるような誘導をする、講師からの反復練習というのは、他人のあら捜しをするような態度にも通じるものがあったが、父様については知れば知るほど困惑してしまうのだ。瑕疵がないし分かることができない、圧倒的に父様の存在は正しいのだと僕は了解していて、それを思うと胸の奥が熱くなり、僕は父様にとって価値のある人間にならなければと思う。


 父様の文章が好きだ。というか、父様と話す機会に恵まれない僕は父様の書いた物を読んで、理解しようと努めた。中には理解しがたい物や、僕の理解力や美意識が低いからか首をかしげるものもあったが、父様の文章の多くは僕の胸に灯をともすかのような何かがあった。怜悧で自信家な人物像が浮かび上がる、断定が多く難解な文言、それに軽やかに飛躍していく文章が合わさると、軽いめまいにすら襲われることがあった。しかし圧倒的だ。何が、なんてうまく説明ができないのにそれは明らかに圧倒的で、それを生み出すのは父様だけだ。文は人を表す、とかいうどこかから拾ったような格言も馬鹿にできないと思った。僕にとっての、知であり国王、父様。


 僕がひとり壁に向かってボールを投げる。しかしボールは僕の方へと向かってこない。勢いよくあさっての方向へ転がったボールを手に取ったのは、赤坂。


「お、芦間。俺とキャッチボールする?」
「しない」と言って僕はボールを受け取った。僕は、ボールをまっすぐに投げることすらできないし、身体能力以外の赤坂の美点を知らない。
「お前は一人でやってるのがいいんだ。それだけでいいんだ。僕だってそうだ」と一人心の中で呟く。


 昼になり、持参したカロリーバーを硬水のミネラルウォーターで流し込みながら大して見たくもない文書をタブレット端末で消化している、と、父様からのメールに気づいた。文面を見て、血の気が引いた。


「『美術時代』の連載落とさないように。きちんと津川栄太郎のオフィスで勉学に励んでくれ。そこには皇言にとって必要な資料がある。メールに添付して今週中に編集者か僕に送るように」


 僕は、それをすっぽかすつもりだったのに、いざ父様からこういうメールが届くと、もうそれをでっちあげなくてはならないのだという気分に苛まれ、頭の中では思ってもいないことをまっとうな上質な文章に仕立て上げる為の下卑た算段が回る。


 僕は父様を尊敬している、だけど、たまに反抗心の萌芽を認めてしまうのだ。父様は、母様が病気で亡くなった翌月に、あの女と結婚した。後妻はアーティストという肩書きらしかった。世間一般ではとても高い評価を受けているらしい、そいつの作品の良し悪しが感受性の乏しい自分には分からないことに苛立ちを覚えた。僕は、母様の作品と後妻の作品をいくつか並べられたら、判別がつかなくなるだろう。


 しかし、母様と後妻とは決定的に違うのだ。自分でこういう表現をするのが非常に面映ゆいのだが、母様には極めて高くそれでいて自然な品性、聖人君子、とかいうありえない冠詞に耐えうるような、他者への優しさや思いやりというものがあった。僕だけじゃない。母様の周りにいる人間はみんなそう感じていたはずだ。誰にでも分け隔てなく接する母様は、鷹揚として周囲を威圧する父様とは真逆の美点を持っていた。小さい頃から、病気がちでたまにしか会えない母様が、僕以外の子供にも優しくして時間をとるから、子供じみた嫉妬をしたこともある。そんな時に僕を叱るのも母様だった。母様だけだった。


 でも、母様はいつからか、ずっと、病院で生活するようになっていた。むしろ、僕の記憶の中の母様は、病院の個室のベッドの上にいたのだ。いつから、母様は身体を悪くしていたのだろう。幼い僕は、母様の身体が悪い、ということをどうしても認められなかったからか、父様にもたまにしか会えないし、母様もそういうことなのだと無理やり納得していた気がする。僕は勉強をこなして、たまに、両親に認められればその報告をすればいいのだ、と。


 そんな母様に、父様はたまに冷たく当たったり、無関心な態度をとったりすることがあった。そのことは、未だに信じたくないし、記憶したくないせいかその事実だけは覚えているが具体的な行動については忘れていることも多かった。


 だが、病床の母様が旅立ってから、わずか一月で再婚をして、大きな式も挙げたことについては本当に、嫌だと思った。


 人は死んだら終わりで、父様の人生は父様のものだ。そう思っていながら、あまりにも正しいことしかしない父様の行動なのに、僕は心の中で違和感を育て続けて、持て余している。


 タブレットで自分が書いたあの文章を目に映す。これも多くが嘘だ。なんとなく、文学的だか、この雑誌に載っている評論やエッセイの水準に合わせて、小学生なりに、既存の文章を切り貼りしてから綺麗に見栄えを整えたのだ。本当は病室で母様のその時を悟った際に、その細くなった指をつかみ無理やり指切りをして告げた「約束して。元気になるって。鯛のお茶漬けと白和えと肉豆腐作って。それと、おにぎり。母様の握ったおにぎりが一番おいしい。三つ食べる。それで、それで、また花の名前を教えて、僕はすぐに忘れてしまうから。指切りするから。絶対に守って。約束だ。約束だから。絶対だよほんとだから。ほんとだからね。約束」


 母様はか細い声で「分かったわ」と告げ、小指が離れた。


一報を聞いた時、僕は病院にいた。僕は、横になっている母様に大きな声で嘘つきと叫んで、その冷たくなった手をとり、涙を流し続け、姉様が引きはがすまでずっと母様のそばにいて、そして突然、母様がこと切れていることに気づくと、姉様の静止を振り切りタクシーに乗り、車内から宿題の続きと予習と復習とを開始するのだ。


 葬儀には出なかった。出るなら死ぬと姉様と親族を脅した。母様への悪罵、初めての最後の悪罵を口にした自分自身の厚顔無恥さを何度も思い出しその度に「母様ごめんなさい」と言って泣いた。そして何度も泣くうちに、それが甘い痛みだと自己憐憫だと気づいてしまうのだ。僕は謝罪をしているつもりで自分を慰めているのだという醜悪、しかし、母様のことを考えるとはらはらとぼたぼたと涙が出てしまい胸が痛む。


 はっとした、僕は、教室で涙をこぼしそうになっていた。誰も僕のことなんか視界にいれていないことを承知で、しかし警戒してこっそり袖で両目をこすり、立ち上がり、向かったトイレの鏡の前で、自分の顔を見る。


 見知ったような見慣れない顔だ。僕は自分の目が赤くないことを確認すると水で顔を洗い、片付けねばならないと覚悟を決める。


 そこへは迷わずに進むことができて、オフィスの前のドアでメールに記されていた番号に電話をかけると、何も発することなく扉が開いた。


「どうぞ」と男は言った。見透かされているかのような行動に気分が悪くなるが、ここで話しても弱みをネタにされるだけだと思い「失礼します」と部屋の中に入る。


 そこには実用的とは考えにくい形の机と椅子、そして壁際には父様の大学の研究室にあるような、レバーを回して動かす大型書架が並んでおり、正直ここまでの設備があるとは思わなかった、けれど気後れする必要はないから男に資料になりそうな物のありかを聞く。


「それよりさ、皇言君はココアとラッシーどっちが飲みたい?」
「結構です」と告げ、レバーを回して書棚を動かそうとするのだが、重い。それに男がすぐに気づいて、無言で回すのが気に食わない。でも僕は当然の権利のように目についた背表紙を適当に手に取って、椅子に腰を下ろした。


 好きでもない、さして何も感じない物体が仰々しく映っている書籍に目を落とし、そこに書かれた文章からどうやって何かしらでっちあげようかと考える。今日は水曜日だから、まだ時間はある。僕は目についた幾つかの本を選び、コピーを取ったり付箋を貼ったりしつつ持ち帰ることにする。大きな本は重く、バッグの中にも数冊しか入らなかったが、仕方がない「明日またよろしくお願いいたします」と慇懃無礼な嫌味さで男に告げると、彼は「うん、待ってるよ」と爽やかに返した。気に食わなかった。そもそも、彼は仕事をしているのだろうか? そしてこのオフィスに一人しかいないというのも変だ。彼は正業に就いているのだろうか、父様の知り合いなのだから犯罪者ではないと思うが、こいつもアーティストなのだろうか。


 考えなくてもいいことを考えてしまい、それを頭から追い出すことを意識する。いらないんだあんな男のことなんて考える必要がない。だがしかし、僕が調べている美術の課題だって似たり寄ったりだ。そう思ってしまうとまた僕の頭にあの男がちらつき、本当に最近自分はおかしい、おかしいから矯正するべきだと瞳を閉じゆっくりと鼻から息を吸い、肺一杯にため込んだそれを吐く、ということを数分間繰り返すと気分が安定してくる。いらない物は些細な思いはわきあがってくるのだ。僕は機械じゃない。機械じゃないけれど、機械みたいな存在はわりと好きだ。数少ない僕の好きなもの。


 ふと、それがあのどうでもいい美術作品の中にあることを想起する。大量生産の産物や既製品の提出、或いは手作りの既製品じみた反復。


 やりたくないどうでもいい課題のやっつけ方に思い当たり、帰宅するなり本を読み込み、明日にはこれを完全にやっつけることを一人考え早めに眠りにつく。


 扉を開いた先で真っ先に目に入ったのは赤。陶器の花入れから伸びた濃い緑色の葉、その近くには赤く小さな実が幾つもなっていて、僕はこれを知っているはずで思わず口からこぼれてしまう「千両、万両?」


「おお、知ってるんだ」と白いシャツに真っ赤で悪趣味な絵柄のネクタイ合わせた男が言った。男は僕に近づき「造花だけどね」と言って煙草に火をつける。とたん、何だか嫌な臭いが立ち上り、しかし僕は入り口で棒立ちになりテーブルに置かれた造花をじっと見る。言われても造花なのだという確信が持てない。しかしあの花はたしか冬の花で、さすがに夏に飾るような物にも思えない。


「これは、千両万両どっちですか?」
「造花だけど、多分万両だよ。葉の上に実がまとまっているのが千両。葉の上に実がばらばらにぶら下がってるようなのが万両。でも意外だな、皇言君がこういう質問をするなんて」
「忘れてしまうんです。記憶しておこうと思っているのに、花の名前は気が付くといつも失念してしまう」


 自分でそう口にしてから、男の問いかけに対する反応ではなく心情吐露であることに気づき、少し、頬に熱を帯びていることに気づくが、男が何も言わずに煙草をふかしているのが、僕に対して賢しさと余裕からくる当てこすりのように感じられ、八つ当たりだとは分かっているのだが無性に腹立たしく、こんな気持ちを切断する為にも課題をやっつけることにする。


 好きとか嫌いとかではなく、与えられた事柄を始末していくのはそれなりに頭が冴え、冷静な心持になる。そこに求められている言葉を数式を単語を、ルールを元に存在妥当性の高い回答をでっちあげる作業は馬鹿らしくも慣れているからか向いているからか、悪くないとも思う。


 いつの間にか男が近くにいたことに気づく。でも気にしていないふりをしてタブレットに文字を打ち込んでいく。


「ポップアートとミニマルアートが好きなんだ」


 男の言葉を無視していると再び「ポップアートとミニマルアートが好きなんだね。同列に論じている。君が好きな作家は」と男が喋り出したのに被せて言う「僕は美術が好きじゃないですし、誰かの主義とか運動とかも興味ないです。でも、カテゴライズしたり体系的に論じると文字数稼げるしなんかそれなりに見栄えがするらしいって、こういう歴史をでっち上げる雑誌に書くときは、それを求められているんだって、それだけです」


 一気にまくし立てて、これで男は言葉を失っただろうし、ここで完成させてここからもおさらばだ、と思ったが男は言う「でも好きなんだろ?」苛立って僕は返した「好きじゃないって言いました。やっつけるだけですよ」
「でもさ、好きじゃなかったらそんな言葉が出てこないよ。それに注目したりしないじゃん。ほら、文章のここの部分読み上げてもいい? 


 そう言って男は素早く僕からタブレットを奪い取り読み上げる。


「気を留めるような価値がない物が複数並んでいると、何故だか目を留めてしまう。『特殊な物体(スペシフィック・オブジェクト)』という便利な言葉があるのでそれを使わせてもらうが、工業製品のような既製品のようなそれらが並ぶ時に感じるものは心地良さに近い。手で作られた、良く見れば手で作られたことが分かる物が美術品然として構えている。奇妙な光景。


僕は美的なセンスとか美意識という物に欠けているらしく、多くの展示を見ても感情の変化に乏しい。けれど、こういった特殊な物体、その実は手作りの工業製品のまがい物なのだが、それが行儀よく配置されていると、そこには何かが生まれる。目を留めてしまうような何か。その空間を生み出す物体、物体の構成を『特殊な物体(スペシフィック・オブジェクト)』と呼ぶのだろうか」


「こんな文章、美術が嫌いで興味がないのにどうやって書くの? 」


 僕は自分に余裕があることを示す為、男の振る舞いを容認するような素振りをして、タブレットを取り返し、ゆっくりと話す


「こんな文章、要するに何も言っていないし分かっていないってことですよね。よく分からない物を見てよく分からないって言っているだけ。興味なくても、訓練すれば書けますよ」


「そうかな。訓練しても中々難しいと思うけれど。素晴らしい物を見て素晴らしいと言う、その程度のことでも十分だと思うよ」


「僕は馬鹿じゃない。馬鹿じゃなきゃこんなこと、誰だってできる。ロボットだってきっと、将来は小説を書けるようになります。僕はロボットよりある点では優れているんだと思います。だからアーカイブから引き出して類推して編集して、人間の書いた文章みたいな物をでっち上げることができるんです」
「でも君は好きなんだ」


 僕は男の強情さに苛立ちながら反論しようとすると、男が言った「俺も好きなんだ。美術館で値が付く作品よりも、大型スーパーとかファストフード店とか家電量販店の光景にわくわくする。皇言君もそうだろ?」


 言葉が出なかった。僕はこの男に自分の好みを話したつもりはないし、僕にはそういったことを話す人もいない。


 か細い声で「何で」と呟いてしまった。自分の声を認識して、ぞっとする。口に出さなければいいのに、この男の、あっちこっちに飛ぶ軽薄な言葉なんて無視すればいいのに。


「そうだ、冷蔵庫にオペラがあるの忘れてた。今持ってくる」
僕は苛立ち声を荒らげ「ふざけないで下さい。三流詩人の物まねなんて最低だ。冷蔵庫にオペラなんてない。そもそもオペラなんて最悪だ。あのみっともない、高カロリーの痴態! 静かなだけ能の方がましだ!」
すると男は微笑を浮かべ「オペラって四角いチョコレートケーキのことだよ。ちょっと待ってて」と男は長い足でさっと、部屋の隅にある小さな冷蔵庫から真白な箱を取り出し戻ってくる。その中には確かにチョコレートとクリームが層になっているケーキがあって、男はそれを手づかみで口まで運び、かじりついた。そして笑顔で「おいしい」と言った。満足そうなその顔が、なぜか様になっている、かのようなその傲岸な態度と顔立ちが腹立たしく、


「随分と品がないんですね。親御さんに食事のマナーを教えてもらえなかったんですか?」
「うん。孤児なんだ」
 僕の反応が止まると彼は指を軽く舐め「冗談」と言った。僕は席を立とうかと思いながらも未だここにある図版と文章が必要であることが頭をよぎり、僕も手づかみで白い箱の中のチョコレートを手にすると、何かねばねばする。嫌だな。だからみんなチョコはフォークを使うんだ、等と馬鹿らしいことを考えながら口に運ぶと、


「おいしい」
 男は軽くうなずく。
「甘さが濃厚なのに、そこそこ口当たりが軽いというか、質がいいんですかね。カロリーバーとは違って、食品の味がします」
 彼は笑いながら「カロリーバーと一緒にしたら作った人が可哀相だ」
「何で? カロリーバーだって人が作った有用な食品じゃないですか」
 すると男は真顔になって言った「君の感性は素敵だね」


 感性を褒められるなんて初めての経験で意味が分からず、ただ、面映ゆく、目をそらして口の中に残る濃厚な味を舌先でいじくる。


後日僕に「夏期講習は栄太郎のオフィスで過ごすように」というメールが届いた。僕が提出した文章は、父様をそれなりに満足させたらしかった。


 その前に片づける期末試験、区内で一等の学校だからそれなりの歯ごたえがあるけれど能力があり対処法も染みついている僕は常に相応の手ごたえがあり、ぼんやりと頭に浮かぶ、男のこと。


 彼は、花が好きらしかった。たまにテーブルに造花や生花が飾られている。両切りの煙草とミネラルウォーターが好き。たまに甘物を食べている。パーティでしか見ないような派手な柄のネクタイを普段使いにしている。僕が読書をしている時、彼はパソコンで何かをタイピングしていることが多い。彼は何を書いているのだろう。知りたいしそれと同じ位知らなくてもいいような気がした。


 なんてことがぼんやりとした頭に浮かび、全ての工程を終了して、教師が退室すると、周りで勉強についてのあれやこれやの話しが出てきて、不満そうにこれからの予定を話す生徒たち、その中で赤坂が「俺はトライアスロンに出ようかな」と言っていて、中学生でもトライアスロンというのに参加できるのかと新鮮な気持ちになる、と彼は僕の肩を叩き「芦間も出る? トライアスロン」


 思わずじっと見てしまった彼は真顔だった。


「出るわけない」と僕は言った、すると彼は不思議そうに、
「でもさ、俺のことよく見てるじゃん」
「君や運動には興味がない。でも、フォームがきれいだなと思って」
 赤坂が笑いながら僕の背中を叩く、だから思わず苦い顔になり奴の靴を踏む、けれどそれは止まず、
「さっすが裏口入学。言ってることがわっかんねーや」と満面の笑みの赤坂。


 僕が陰でそう言われているのは知っていた。僕に試験の結果は知らされていないから真実は分からないしどうでもいい、けれど真正面からの悪罵は雑魚共のさえずりよりかは幾分ましで、


「お前らとは違う。僕は優秀だ。そんなことも分からないくらい馬鹿なのか? この学校に入学できたのに、信じられない」


 僕はそう告げると自分の座席にきちんと腰かけ、バッグから本を取り出そうとする、と、首元に強い圧迫感のようなものが生じて、いや、背中の辺りが、熱く、ふっと、何かが軽くなる。


 気が付いた時に、僕の視界には白い壁があった、違う。これは天井だ。同時に自分が仰臥していることに気づき、ゆっくりと身体を起こし周囲を見回すと、どうやらここは保健室らしく、ようやく自分が誰かの手で昏倒だか気絶だかしたらしいことを知り、しかし目覚めに不快感や違和感はなく、床に立ち、自分の身体が何事もなく直立できることを確かめ、一息ついてカーテンを開けると、担任の教師と赤坂とがこちらを見ていた。


「帰ってもいいですか」という僕の言葉に担任が何だか要領をえない言葉をだらだらと話しだして苛つき「元気ですし、何があったかなんて興味ないですから。いいですか?」と部屋から出ようとすると背に飛んできた言葉「お前なんて死ねばよかったのに」


 教師の強い叱責の言葉が飛び、僕はそれも構わずに退室してゆっくりと廊下を歩き、途中でバッグを忘れたことに気が付いたが別の日でもいいやと思い直す。父様の手を煩わせるようなことにならなくてよかったと、小さな安堵が生まれるが直接「死ねばよかった」とまで言われたのは初めてで、何だか不思議な心持になった。彼とは、彼から俺に話しかけてきた、その位の接点しかなかった。だから彼が心の内にどんな鬱屈を抱いていたのかは分からない。


 たまに、こういうことがあって、僕はそれを機械のエラー、バグみたいだと感じていた。代わりのいる機械のくせに、さも上等な人間みたいに鋳造され調教されたガキ共、彼らの反乱の様子を見るのは中々興味深い。どこかに異常が生じているのだが、それを本人ですら分からない。リスクヘッジの為に表立った反抗心を抑えているはずの優秀なはずの優秀になるはずの彼ら、だけれどもしょせんクソガキだ、不自然ないびつな存在だこいつら。喜んで勉強をしているような自主性のない奴も勉強に食われてしまうような能力が低い奴も全部人間ではないし、そもそも人間なんてこの学校にいるのか疑わしい、というかこの国には何人いるのかすら。絶望的だ、とエビデンスの裏付けのない確信を幼少期から抱いているんだ愚かにも傲慢にもでも、それは的外れではないはずだ。


 きっと、優秀な人間は一握りだけだ。父様、とそれに近しいような存在。父様が認める者や、父様にとって利用価値があるもの。


 たまに、自分にもバグが起きることを想像する。それは十分ありうることだ。僕はたまに自分が捨てられることを想像する。それは十分ありうることだ。僕は社会的な成功を得るだろう。でもそれが父様にとって価値があるかとはイコールではない。僕はいつの日にか捨てられるだろう、でもそれは今じゃないのだと、結局、いつもそういう希望的観測に収斂する。母様は亡くなった。そして父様に捨てられたとしたら、僕は文字通りの思考停止状態に陥るだろう。


 書店で雑誌を購入する。往来ですぐに開いて、そこに父様の名前を見つけて立ったままその文章を味わう。それは世界が変わるとか、そういう陳腐な表現を使いたくなる程の体験だ。自分がこの文章を能動的に受け入れているのだという感覚。その幸福。幸福だ。感受性が乏しい僕に与えられた、数少ない幸福の享受。幸福というか、パラダイムシフトと言う方が、仰々しいが相応しいかもしれない。父様にはたまにしか会えないけれど、こうやって文章で出会えることをとても嬉しく思う。認識が世界が変わる、父様に会える。


 そして今日は父様とギャラリーで会う約束をしていたのだ。中目黒の新しく完成したギャラリーのレセプションに出席するのだけれど、これについて考えることを先延ばしにしていたのは、そのギャラリーには後妻の作品があり、彼女も参加することは明らかで、以前もこういう場で、誰が見ても険悪な関係、なのに周りの者からの追従も加わりとても不愉快な思いをしたのだ。


 でも、僕は久しぶりに父様に会いたかった。何を言われても、会ってすぐに帰ればいいのだと思いつつも、今日読んだ文章の感想だけ、少しだけ言いたいな話せたらなと思いながら喫茶店で問題集をやっつけ暇をつぶし、百貨店で和紙の重箱に入った干菓子を買い求め、中目黒に向かう。日が暮れ、川沿いを歩くとこの暑さでもどこか涼し気な気がしてくるから不思議で、しかし長居はするものではないと真白な建物に入ると受付で「芦間皇言と申します」


と告げ、手土産を渡して受付の人に連れられ中に入ると、そこはスーツを着た男性と軽くドレスアップをした女性とがにぎやかに談笑をしていて、誰も壁にかけられている作品になんか目を向けていないらしいのが、まあ、これまで見てきたレセプションでも同じ光景で、後妻の作品もそれなりに格好がついて持てはやされる作品にだって、市場で値段がついたとしても結局の所、雑な扱い、人脈作りや媚びへつらいの時間の箸休め程度の物なのだろうと思えば、この豪奢、ということになっている空間は都心部の良い立地にあるのに客の入りよりも販売員の数が多い家電量販店の光景と大した相違がないように思われ、僕としては家電量販店の方が好みだなあと冷笑と共に会場をよく見まわしていると、輪から外れ、シャンパングラスを片手にゴミ袋のような立体作品を注視している臙脂のスーツに苔色のネクタイを合わせた悪趣味な黒縁眼鏡の!


 僕はようやくその正体に気づいて、ゆっくりとその顔を確認すると、確かにあの男、栄太郎だったのだが雰囲気が違う、あのオフィスにいる時よりもフォーマルな恰好、でもないのだけれど、元々どんな仕事に従事しているのか分からない男だけれど、ここにいる彼は、談笑の輪から外れているにも関わらず、僕の眼には一番存在感があるように映ったのだ。


 僕は少し待ってから「どうも」と声をかけた。すると、栄太郎はいつものような顔を作って微笑み会釈。僕は楽しいですかと聞くと、彼は白い歯を見せにっかりと笑い「分かってるくせに」と言った。


 僕は、少し彼を見直したというか、この場でもそんな軽口をたたけるのは、不躾ではあるが物乞いのようにへこへこしている奴らよりかはよほど立派に思えたのだけれど、そんな人間がここに招待されたというのも何だか不思議で、それに父様の姿が見えないのだが……ともう一度広いとはいえないギャラリーを見回すと、父様は後妻と共に恰好だけは一丁前の大学生だか院生だか、そして何だか冴えない非常勤講師といった雰囲気の若造(三十過ぎ)と話をしていて、僕は隣に後妻がいるものだから遠くから見て目が合ったら会釈だけして退室しようと思い、父様の視線を待って、それを感じ取ると頭を下げる、すると声がする「皇言、こちらに来なさい」


 その声を聞いて従わないわけにはいかないのだ。僕は父様の瞳だけを見てその場に近づき、形だけの挨拶を周りの人にして、手短に雑誌の感想を告げる。父様が満足そうな笑みを浮かべ、僕は自分の頬がほころびそうになるのを堪える。


「今回の文章も読ませていただきましたよ。いやあ、貴一さんのご子息は恐ろしい。末は博士か大臣か」と言って冴えない男が笑う。父様が満更でもない表情をしていたが、僕は醜悪だと思った。僕が何かになると思うとぞっとする。でも、その吐き気も父様が望むなら中和される、きっと。


 ちら、と、後妻と目が合ってしまった。そして相手から目線をそらす。ありがたい。僕もお前なんかと家族になったつもりなんてない。父様をたぶらかした、母親のふりすら放棄した毒婦め。


「皇言さんはどの作品がお気に入りですか?」と誰かが口にしていた。僕は正直に答えた「全部興味ないです」すると、数秒後に「これは手厳しい」とこの場を取り繕ったような言葉が出てきて、何故か父様が笑いながら言った。


「皇言には最高の物しか目に入ってないんだ。そうだろ?」
「はい」と僕は返した。父様の言っている言葉の意味が分からない、けれどその声が耳に入ると、僕は従うように出来上がっているのだ。
「皇言君にとって最高の物って何なのかな?」と口にしたのは栄太郎だった。僕は彼が口出ししてくるのを意外に思ったが、すぐに返事をした。
「父様の言葉、文章です。まだ僕がそれの多くを理解しているとは思えないのですが、それを啓示だと理解しています。そしてそれが幸福なんだと了解しているんです」


 栄太郎は苦笑した。父様は悠然とした笑みを浮かべた。僕は会釈をしてその場を後にする、のだけれど、ギャラリーから出たと思ったら隣には栄太郎がいた。


「そんなに貴一のことが好きなんだ」
「好きとか嫌いとかではありません。父様は今の僕にとっての全てだ」
「全て?」
「感受性がない僕が、素晴らしいと心から思える者。それが父様だから」と自分で口にして、ここまで誰かに言う必要なんてないのだと気づいて、面映ゆく、少し速足になるけれども栄太郎の長い足ですぐに追いつかれ「感受性ないかな? あると思うけど」「その話はもういいです。単に僕は美術なんて好きじゃないって、それだけだから」「そうなんだ。好きじゃないのに貴一の文章には感動できるなんて不思議だ」


 またこいつはしつこいなと苛立ち、僕は言った「僕にとっての光だ。だから当然だ」


 そう、口に出していた。馬鹿げていた。悪くなかった。栄太郎はわずかに首を縦に振り、


「理解したよ」と告げた。


 彼から食事に誘われ、それは断り帰宅途中の車内で自分の言葉を想起する。


「僕にとっての光だ」というのは、大仰ではあるが本心で、それを口に出してしまうのは妙な高揚感があった。父様は光だと、心の中で呟く。僕の心に灯がともる。自分が何にでもなれて何でもできるのだと、幼い全能感に浸っていることを意識する。でも、僕はできる。父様が望んでいるのだから。
 帰宅してカロリーバーを口にして、読みたくもない本を読みながら父様からのメールを密かに期待していたけれどそれはかなわず、気が緩んでスマホで野球のバッテイング集の動画を見る。


 彼らのフォーム、特に気に入っている平泉克己の打撃には思わず目を留めてしまう。何でだろう。憧憬、という単語が浮かび、その自分としては突飛な発想に驚きつつも、そう的外れでもないのかもしれないと思う。


 野球は、運動は、それを言葉でとらえるのは芸術以上に困難なことのように思われた。ただ、大きいスイングやストロークを見るのが、僕は好きだ。それがどういう理屈で生み出されているのかには興味は薄い。ベビーフェイスといえば聞こえがいいのだが、ファンからは王子と呼ばれており幼い顔をして凡庸な事だけを口にする、平泉のインタビューはいつも陳腐で見る価値がない。しかし、彼がホームランを打つ時、僕は言葉を失い、自分が絶対に成しえない物を持つ彼に憧れのような敬意のような物を抱くのだ。


 でも、こういった感情が生まれる自分自身に居心地の悪さも感じる。誰にでもとるに足らない、他者には理解しがたい娯楽という物があるはずだ。父様にとってのそれがあの後妻だと思えば多少の合点はいく。僕は野球を見下しているのだ。あの玉遊びに夢中になるのは馬鹿げているように思えた。けれど、僕はそれをたまに目にすることが好きで、そして僕には野球の才能がない。多分、羨んでいるわけではないと思う。でも、不思議だと思う。


 一応興行として成り立っているけれど、生きる上での有用性が低い気がした。それを言うと音楽や美術や文学という物も当てはまるだろうが、それらには何かしらの論理、らしきものが見いだせる、或いは文章化できるように思えたから、まだ子供のお遊びからは脱しているととらえてもよいだろう。
だがしかしあれは玉遊びだ。大の大人が決められた空間で決められた回数のやりとりをする。何だか途方に暮れてしまう。でも、なぜだろう。僕はその断片をすごいと感じ取っていた。


 ダメだ。とりとめのない思考はこの位にした方がいいと思う。幾ら考えてもこれについての答えは出せない気がする。僕は単純な性格をしている。判断基準は父様に近しいか、どうでもいいか。野球はどうでもいいはずなのだが、でも自分でそれを選んで見ている。


 ああ、もうこの位にしようと思い、僕は読みたくもない面倒な本、僕が一生かかっても踏破できないであろう、読む必要もないだろう、定期的に増える、棚に並ぶ本の群れに手を出すことにする。


 僕の通う学校では中学一年生の一年間で、普通の公立中学で行う三年間の中学の数学を学ぶことになる。この夏は、最初の一学年の間は楽勝だとしても、徐々に問題の難易度は増し、また塾に通うことになるだろう。おそらく中学三年時にはみっちりと試験の為の演習、高校受験をパスする為の勉強をすることになるらしい。


 試験をパスする為に一年も費やすのか、と考えたら馬鹿げた話だと思うのだが、一応優秀な学生がいるとされている難関中学でこの有様なのだ。むしろ難関中学、ということになっているからこそこの有様なのだろうか。


 そして、父様がそれを選んだ。僕は試験をパスすればいい。僕には意味があるようには思えないけれど、最低限の務めは果たさねばならないと思っているし、僕に際立った能力があるとしたら、極めて目立ったとか特筆すべき何か、「スペシフィック・オブジェクト」を生み出すことではなく、せいぜい試験をパスするとか一定以上の品質の何かをでっちあげるとかいうことしかできないのだ。


 そんな僕の、一般教養、とかいうありもしないしかし確かにあるらしいこと、目につく課題消化の一つ、僕は映画の美しさというのも美術と同様にほとんど理解できないから、課されてもいない映画鑑賞のノルマを潰すため自然とドキュメンタリー映画を多く見るようになっていた。物語よりも事実はまだ慣れ親しんでいる。


 その中で、少年兵についての映画は中々興味深く、それについては本でも読んだ。彼らはいきなり大人たちに武器を持たされ、渡された銃で隣の奴を殺せと言われる。殺さない奴は銃で撃たれ、別の奴も銃を渡されて言われる

「お前もこいつみたいになりたいのか。なりたくなければ殺せ」


 最初に、相手を殺さないと殺すという「教育」を受ける彼ら。そして馬鹿な甘言に従う「死んだ後で天国に行ける、神の兵は決して弾に当たらない」
こういった洗脳教育を受け、有能な少年は、殺人にためらいがなくなる。


 また、少年兵についての著作を読むと、彼らが教育の為に麻薬を常用している、させられているという記述にあたることがしばしばある。そして本当に麻薬のせいで感覚が麻痺してしまった子もいれば、助かった際に、麻薬のせいで俺は人を殺したから俺は悪くないと言う子もいるという。少年兵の遊びのひとつに、妊婦の腹をかっさばいて、中の子供が男か女か当てるゲームがあるそうだ。大人をかっさばいたり大人の盾になったりする彼ら、その生き残りの中には、幸運にも? 更生プログラムに参加できる者もいる。そしてその中で彼らは銃を自らの手で壊す。すると、少年は涙を流す子もいるそうだ。自分自身の相棒を壊すのだから。銃のない彼らは何もできないのだから。武器がないのに、社会へと出荷されるのだから。


 でも僕は彼らではない。彼らが知り得ない理由で僕は哀れだ。でも彼らを僕は見下す。愚かだと思う、何より、僕は僕の痛みしか分からないし、もっと言うと僕は僕の痛みについても慣れてしまっている麻痺している、かのようだ。自分がダメになる瞬間をエラーが出る瞬間をたまに考える。でもそれは今じゃない。明日でもない。どこかの国の哀れな誰かが死にいくけれど、それは僕じゃない。傲慢な僕は常にそう思っていながらも自分の姿をその中に見出す。こんなことを考える僕は幼いのだ、年相応なのだろうと思う。


 試験が終わった後に、登校して受けた授業は何故かエイズについてのドキュメンタリー映画を見て、性病についての教育。レジュメ、ではなくざらざらしたプリントに書かれた性病の、エイズの知識。夏休みには性病に注意しましょうということなのだろうか。


 いつもとは違い教室の私語が多く、どういうわけか、教師はそれを許していた。試験とは関係がないからだろうか。様々な体験談やら注意勧告。これって道徳の授業みたいだ、というか道徳を学ぶ、ということがどういうことか僕は理解していないし試験の項目もない。企業に就職する際には、それもまた学ぶのだろうか。


 ふと、目が留まったのはエイズになったアメリカのゲイの少年の言葉だった。彼は言う。僕らは学校で手を繋いだりできない、だからセックスがしたい。愛を確かめたい。馬鹿だと思った。様々な人の発言を取り上げることに意義があるのかもしれないが、それにしてもこれはないだろうと思った。でも、性欲に脳を支配された顔をしている奴らはここにだっているのだ。不純同性交友は、肛門性交は、性病のリスクが高いらしい。せいぜいそれが好きな人間は楽しめばいいだろう、それは僕じゃない。


 授業が終わって、特に用があるわけではないけれど、書店に向かう。そこは一般的な書店では見かけない本も揃えており、棚には父様の本も置いてある。売り場で父様の名前を見つけるのは、小さな喜びだ。日本国民が全員父様の本を買えば日本はよりよい国になるだろうと僕は信じる。幸福な心持のまま、ぼんやりと店内を歩いていると、


「皇言君」


 名前を呼んだのは栄太郎だった。細身のスーツに、ネクタイの柄をよく見ると悪趣味な髑髏。欲しい本があるのかと聞かれたから特にないと答えた。すると何故か彼は機嫌よささげに言う。
「俺もなんだ。普段買い物する時って、つい似たような範囲の著者とかを選びがちだろ。だからたまに書店に来ると気分が良くなるね。色んな本を目にすると刺激を受けるよ」


 と、僕は平積みになっていた本を彼に示す。そしてその近くにある本の題名を読み上げる。


『天才になるな! 凡人サバイバル術』『サイコパス時代の処方箋』『会社の一番になりなさい~四十の鉄則~』『現役〇〇生が教える最低限の教養リスト』


 何が言いたいの? と彼が不思議そうに、口に出した。


「この世の中には必要がない、むしろ害悪な本が山ほどある。こういう本が平積みになっているなんて。反知性主義の為の読書なんて恐ろしいと思います」
「反知性主義の為の読書かあ。なるほど、もう少し説明してくれないかな」
「衆愚は学ぶべきだ。幾ら学んでも足りない位だ。だからこんな本で居直るべきじゃない。知性の活用はリスクヘッジや既得権益の段階でとどまる道具ではないと思います。会社で、社会で困るからとか他人に示したいから読書をするとか、そういう生活の為の読書は、みっともないでしょう」
「ははは。手厳しいね。それで皇言君は何のために読書をするの?」
「父様に認められるため」という言葉を飲み込み、嫌味な響きを持った栄太郎の言葉に傲岸を持って構える。
「得意なんですよ。処理できる、消化できる、理解できる。だから暇つぶしにするんです。優秀だから。それに、趣味がないから。それだけのことです」
「そっかそっか。皇言君は社会人とか、社会で楽しく暮らしている人の生き方はちょっと合わないのかな。でもさ、生活を良くしたり、楽しむ努力もしてみたらきっといいと思うよ」


 自分が良い生活をするなんて、具体的な想像がつかないし、彼の物言いは不愉快だった。それを苦々しく感じながらも、良い反撃の言葉が思いつかずに平気なふりをして、


「そうかもしれないですね。でも、そういう人も必要だと思いますよ。そういう人がいないとカロリーバーがコンビニで買えなくなるし」
「ははは。そっかーでもねーそういうのはお金を稼いでから言った方が、説得力があるかもね」


 頬が熱を持っていることに気が付いた。僕はもう13歳だ。幼稚園児ではない。でも、労働に従事する年齢でもない。しかしながらすぐに反撃の言葉が口をつかなかった以上、彼の言葉は僕の痛い所を刺したのだ。


「僕は稼ぎますよ。そういう風にできていますから。少なくとも、父様がした初期投資分くらいは返済します」と自信を持って告げる。すると栄太郎は右の親指を顎に当て、
「初期投資か。いいね。僕も皇言君みたいなのが欲しいな」
「里子を選別するのはどうですかね」と放言を口にしていて、すぐにその露悪に口をつぐむ。さすがに訂正したい位のはしたない発言だったが、僕は沈黙を守る。栄太郎は僕の発言には答えず「オフィスに来るだろ。クロワッサンを買って行こう。コラゾのはバターたっぷりでねーほんと美味しいんだ」と楽しげに口にした。それが、僕への気遣いの様で頬は再び熱を持った。彼の言葉が耳に刺さる。自活していないクソガキが。


 僕は企業の労働力なんかになりたくない。しかし僕はアーティスト、つまり合法詐欺師にもなれないから、どこかの組織に属するだろう。僕もやがて労働力になり、父様の投資分の何倍もの返済するのだ。だが、決してよりよく生きるための読書等しない。読書は光に、父様に触れるため近づくため、或いは暇つぶしだ。幸福な生き方、なんて考えただけでぞっとした。生活とは愚者に任せるべきもので、僕は彼らではないのだ。


 もやもやしたまま、長い足に、歩幅に遅れないように栄太郎のオフィスへ。父様に言われたとはいえ、行かなくても問題はないだろうけれど、あそこには豊かな資料があった。読書をする環境も悪くない。座りやすい椅子、それらがどこかで目にしたはずの、値段の張る椅子だということに僕は最近ようやく気が付いた。机もよく見ると、そこらの店にある物とは違う、らしいがそれはここにあるからそう見えるだけかもしれず、ふと、花瓶の花の名前を言ってみる「トルコキキョウ、でしたっけ」「ん? ラナンキュラスじゃないの?」


 そう言われても、僕は返す言葉がない。


「皇言君って何でもできると思ったけど、案外子供らしいところもあるんだよね」


 こいつはいちいち嫌味を言わないといけないのか、と腹立たしく、しかし僕は冷静に返す。


「何でもできる人なんていないんじゃないですかね。そんなのボロがでてないだけか、見ている側がよっぽど盲目的かどちらかだ」
「貴一に対する君の視線はどっちかな?」
「どちらでもありません。物事には必ず例外が存在する。さっきから僕に何をしたいんですか。こういったことが続くならば、もうお会いすることもないと思います」
「そうそう、今度の『美術時代』の、特別号だか別冊だかで、貴一の特集があるってよ」


 僕は、それはとてもいい企画だとかそれはまあ当然あるだろうだとかそういう思いが生まれた後で、何故か僕は何で自分がそれを栄太郎から聞かされているのか、という点が引っかかった。


 でもそれは僕が父様から聞かされたかったのだという、勝手な欲求でしかないことに気づき、努めて穏やかに「とてもいいですね」と返した。


「そうだね」と栄太郎は言うと、ノートパソコンへ軽やかにタイプ、そしてその手はせわしなく動き続け、僕も少し何かを読もうかなとここの本棚から目についたハードカバーを数冊手に取り、本に向き合うことにした。


 栄太郎は本屋が刺激になると言ったけれど、僕にとってはこのオフィスの書架が刺激に満ちていた。自分の手に負えないであろう本が幾つも並んでいて、その厳めしい背表紙の群れが目に映ると、こいつらを屈服させてやりたいという、感受性の欠けた人間としては殊勝な気持ちが湧いてくることすらあった。読みたくもない、誰かの面倒で秩序を備えた狂熱、それに触れるということは、僕の頭の中だけでも屈服させるということは、それなりに楽しい行為だ。


 ふと、視界から栄太郎が消えていたことに気づく。同時に、軽い尿意を覚え、僕は本に栞代わりのスマホをはさみ、席を立つ、と、気になった。僕はちらと、彼のパソコンを覗き込むと、ワードが立ち上がっていて、そこに書かれていた文章を目にして、鳥肌が立った。


 それは、美しい文章だった。美しい文章だと、僕は認識してしまったんだ、確信してしまったんだ。目にしたその意味を捉えているわけではない、それなのに僕はその文章の蠱惑に引きずり込まれそうになり、慌てて目をそらした。僕は、どうにかトイレに行き、放尿をしながら、頭には文章ではなく先程の体験が蘇り、意識は支配され再び鳥肌が立ち、だらりと垂れた陰茎の先から小便がこぼれ続けているのを目にするのは、間が抜けていた。手を洗い、鏡に映った自分の顔が視界に入り、僕は目をそらした。


 僕がオフィスに戻る時には、栄太郎は席について何かをタイピングしていた。どこかの誰かではない、間違いなく栄太郎があの文章を作り上げたのだ。だがしかし、と思い僕は自滅するような勢いで彼のパソコンを後ろから覗き込み、そこに生み出されている物は彼の言葉であることを再確認してしまい、回らない頭でなんとか椅子までたどり着き、腰を下ろす。


 彼は、僕がそれを覗き込んだことなんて意に介していないようだった。タイピングの軽やかな音が室内に響く。その文章は、どこかの誰かの書いたページを表示しているものではなく、今、彼が生み出しているものだった。
 僕は震える声で「少し体調が悪いので、今日は帰ります」と告げた。彼は手を止め、少し不思議そうに「どうしたの? お大事に」と言った。僕は、のろのろと、逃げ出すようにその場を後にする。




 僕は、電車に乗り、スマホでバッティングフォームの動画を見ながら、このことについては深く考えないようにしようと固く誓う。そして、帰宅して、スカイプで会話をしていると、なぜだか、僕の口は回り、自分でも意識してしまう多弁、すると笑顔の外国人から突然放たれてきた言葉


「Looks like fun! What's wrong?」


 僕はイヤホンを外し、会話を強制的に終了していた。当分、誰かと話したくないと思い、ノートパソコンをシャットダウンすると、スマホが音をたて、びくり、として、登録していない番号が表示されているのに、反射的に出てしまう。


「もしもし?」と若い声がする。
「どなたですか?」と嫌な返事をするが、その声は変わらない調子で、
「ごめんねーびっくりした? 俺沢城。クラスの奴らでさ、今度の日曜日に野球するんだ。芦間も来ない?」


 沢城という人物を僕は知らない、いや、覚えていないだけなのか。そして、何故奴が僕の番号を知っているのかも、僕を野球に誘っているのかも理解ができない。僕が返事をできないでいると、彼は言葉を続けた。


「たまにはさ、こういうのいいと思うんだ。どう?」
「どうか、分からないけれど……」と歯切れの悪い言葉を口にしてしまった。普段ならはっきり断っているのに。彼はそれに気が付いたのだろうか、言葉を弾ませ、
「青葉コートって言ってさ、区営だから利用料金がすごく安いんだ。だけど倍率高くて、やっと予約取れて。それでさ、悪いんだけど、そこ駅からちょい歩くし、周りにコンビニないから、待ち合わせの時に飲み物さ、できるだけ多く買ってきてくれない? みんな運営の代金ちょっとずつ負担してんだよね」
「ああ、頭数が増えるといいってことなのか」
「まあそうだけどさ、悪い話じゃないと思う。途中で帰りたくなったら、いつでも帰っていいし。いいだろ? 四日後、青葉コートに十時集合。どう?」
「分かった」と、僕は返事をしてしまった。電話が切れた後、今日の自分は何かおかしいと考えながらも、早速ネットで青葉コートを検索してみると、実在する場所で、話の通り区営で評判が良く、予約が取りにくい施設らしく、画像を目にするとバッターボックスに立つ自分の姿を思い浮かべていて、どうせ打てないくせにと考えながらも、何だか浮足立っていて、また、スマホが震え音を立てて、また、僕はびくり、と反応をしてしまっていた。


「食事しよう。ダイニングに来なさい」


 思いがけない父様からのメールだった。一緒に食事をするのは何週間ぶりだろう? 僕は慌ててダイニングへと向かうと、やはりそこには後妻の姿もあり、僕は父様に向けて会釈をして椅子に座る。テーブルに並べられているのは鮮やかな色彩のサラダと具沢山のサンドウィッチで、父様はワインを片手にもう食事をしていた。僕はおしぼりで指先をふき、何だかぎこちなく「いただきます」と口にする。


 会話が無い食卓。どうして父様はここに僕を呼んだのだろうと考えながら、どうやら値段が張るらしい、これ見よがしに野菜が挟まったサンドウィッチを口にするのだが、おいしいのかまずいのか分からず、しかし少し口にしただけで僕の胃は満足してしまい、盗み見るように父様の顔を確認すると、豊かな髭をたくわえていることに今更気が付き、父様の顔をしっかりと見たのはいつぶりだろうとか考えつつ、僕も将来はあの姿になるのだろうか、等と夢想するのは楽しく、無防備にぼんやり父様を眺めてしまっていると、僕を見る父様の黒目。


「どうかしたのか?」


僕は何て答えればいいのか分からず、しかし髭の上にパンくずがひっかかっていることに気が付いた。


「あ、あの、暇つぶしで読んでいたんです。彼の、栄太郎さんの書架にあった本かな。たしかモーパッサンの小説を箸休めに読んでいて。それはつまんないものですけれど、その上うろ覚えなんですけれど、主人公の髭をたくわえた男が食事をしていると、小さな女の子に『伯父さまの髭の上には星くずがいっぱい』って言われる場面があって、その小説でそれだけ覚えていて。それで、つまんない話でした。すみません」
「今日はよく喋るな。どうかしたのか?」
 

父様がそう口にして、僕は、自分でも分かる位顔が熱く赤く「熱があるんだと思います」と言葉にしていた。そしてこれ以上醜態をさらす前に「せっかくですが部屋に戻ります、失礼しました」と無作法なのも構わずに部屋に逃げ帰る。本当に僕は熱があるのかもしれない。うんざりする。


 翌日、どこにも行きたくはなかったが、無為に過ごすこともできず、観念して惰性で栄太郎のオフィスに向かうつもりなのに途中、窓から見えた看板に目を留め、途中下車しスポーツショップへ。


 駅の隣にある大きなビルの入り口にそこはあって、足を踏み入れると派手な色の衣服や靴が並んでいて、機能性以外に何でこんな色彩が求められているのか考えても分からず、しばらく棚を眺めていると、店員に「何かお探しですか」と声をかけられ、僕は「野球の、道具を探していて」と答えてしまっていて、すると店員が快活そうに「野球は奥のフロアですね。ご案内いたします」と歩き出し、さすがにここで無視するわけにもいかないからついて行く羽目になる。


 バット、グラブ、シューズ。そういった物がところ狭しと並んでいるのを見ると、不思議な気分になった。家電量販店で目にするそれとは違う心地良さのような物がそこにはあった。いっぱい、あるんだ。


「今日は何をお探しですか?」と店員が尋ねてくる。それは、押しつけがましくないように聞こえたし、それがこの店の或いはこの店員のセールストークだとしても嫌な気分にはならなかった。


「まず、少し見てみます。何かありましたらお伺いします」と僕は答え、店員は会釈をして少し僕から離れた。


 伸ばした手に収まるグローブ、少し、革の匂いそして、どっしりとした重さ。学校の授業で手に取るそれとは違う。質が違うのだろうか、分からないけれど、それはぴったりと僕に収まるような感覚があった。手を軽く動かすと、グローブが呼吸を始めた、かのようだった。僕はそれを手にしたまま、見本のボールを手にして、その縫い目をなぞり、新品のボールが収められたケースを手にレジへと向かっていた。そこそこいい値段がした。バッグに押し込んだそれはそこそこ重さがした。


 僕は、自分が平常心であることを示すかのように、栄太郎のオフィスに向かう。彼はいつものように僕を迎えてくれて、今日はパソコンを使わず、本と何かをコピーした物をテーブルに並べている。僕は近くのテーブルで読書を始めた。お互いに無言で、時折ページをめくる音だけがして、集中するとそれも聞こえなくなる。


 僕は少し疲労感を覚え、彼にまた来ますと言って別れた。栄太郎は微笑み「またね」と言った。ビルから出て、僕はバッグを開くと、乱雑に袋を開けて中からボールを取り出し、握った。新しい革が僕の手のひらにぴたりと吸い付いた。軽く、投げるふりをしてみる。ボールは遠くまで飛んで行く。そんな夢想をして、僕はそれをバッグにしまう。


 時々、触ってしまう触れてしまう。時折考えてしまう。つまり僕は毎日そのことを考えていて、それらは僕の手になじんでいるかのようで、うまく、課題を設問を要求をどうにかする時とは違う高揚感のような物が生まれていることに気づいて、いや、単に僕はそれをいじって、楽しんでいたんだそれだけなんだ。


 朝早く目が覚めた。顔を洗い、ブドウ糖を舐めながら何か口にした方がいいかなと思うが、結局何も咀嚼せずに家を出た。日が肌を刺す。今日は一段と暑く、少し歩くだけで汗ばみ、僕は自分が運動に適する服を持っていないし、今日着ているのだってそうなのだけれど、紺のハーフパンツから伸びた青白く細い足からして見るからに運動には不向きで、でも、なんだかなんとかなるような気がしていて電車に乗り、最寄り駅の近くのコンビニで二リットルのスポーツドリンクを二本買うと思った以上に重く、途中でスマホをちらちらと見ながら、たまにコンビニの袋を地面に置き、じんじんとした手を休ませながら目的地に着くと自然に大きなため息が出た。僕はじっとりと濡れていた額を白いシャツの袖でぬぐう。


 グラウンドには人がいた。僕は背の低い芝に足を踏み入れ、少し、土の匂いを感じ、ゆっくりと近づく。視界に入った幾人かは全員学生ではないのだが、そもそも僕はクラスメートの顔を覚えていないのだ。


「あれ? 君、どうしたの?」四十過ぎらしい男性が、不思議そうに僕に喋りかける。僕は学友に誘われたことを伝える。すると男は別の男の顔を見る。
「いや、それはない。今日は社会人野球チームがここで対戦をするんだから。それにさあ、君の友達みたいな子はここに誰もいないだろ。お友達に確かめてみたらどう?」


 彼の言葉はもっともだった。僕は、電話をかける。すると、この番号は使われていないというメッセージが流れだした。僕は奴らを見下していて、奴らもそうだ。ようやく僕は理解した。


 ふと、手に食い込むスポーツドリンクの重みを感じると、彼の賢しさに気づき、少しだけ感心した。多少は頭が回るか、慣れているのだろう。


 僕は、その場から少し離れて、両手に持っていたビニール袋を置いて、バッグからいらない荷物を投げ出し、身軽になって足早にその場を後にする。僕の背に何かの声が投げつけられたらしいが、きっと気のせいで、汗ばんだ肌は不快で、しかし喫茶店とかに入る気になれず、電車であのオフィスに向かう、けれど今日は彼がいなかった。こんなことは初めてで、しかし今度から鍵を預けてもらうという気にもならなかった。


 乗り換えで新宿を使うのだけれど、思い立って駅前の家電量販店へ。エスカレーターに乗り見る店内、客の入りは今日もまばらで、僕は大型テレビが展示している階で降り、直立不動の店員だけがいるフロアで立ち止まる。並んだモニターからは知りたくもないニュースを告げる、無数のキャスター。僕は「ポップアートとミニマルアートが好きなんだね」と言った栄太郎の言葉を思い出す。


 有用な既製品に似た作品も無用な既製品に似た作品も、大して好みというわけではなかった。もし、それが好みというか、僕に近しいとしても、それが既製品の真似事をしているという点においてだろう。


 ふと、あの絵画のことを思う。僕は、いまだにあの絵画が好きなのかどうか、判断がつけられない。もう見ることができないはずの絵画。ネットで検索すれば、きっと画像がみつかるだろう。でも、僕はそれをしたくないし、できない。それに、ここだって別に本当は好きじゃないから、僕は帰宅してシャワーを浴びて、少し体を休めて、見たくもない映画を見て、読みたくもない本を読んで、寝る。


「別冊の特集号が出る。文章量は気にしなくていいので、寄稿してほしい」
 朝、メールをチェックして父様の文章に出会った。僕は、いつものような感情が湧き上がってこないことに気が付いた。もしかしたら、何だか途方にくれてしまったのかもしれない。何で、途方にくれたのだろう。それは、わからないけれど、課題が与えられた以上僕はそれをこなす、べく身支度を整え栄太郎のオフィスに向かい美術時代のバックナンバーや著作に改めて目を通しながら、コピーをして、特に重要だと思われる個所はタブレット内に打ち込む。父様の文章を自分の手で打ち込んでいると、それがただの書き写しの、コピーアンドペーストの作業でしかないのに、指先が美しい文章を生んでいくと、陶然として、指が止まってしまっていた。ふと、指先が覚えていた、真新しいボールの縫い目をなぞった感覚が蘇る。僕は、これ以上は考えてはいけないとわざとらしくため息をついて、ペットボトルのミネラルウォーターに口をつけ、気分を強引に変えようと、少し離れた席でノートパソコンに向かっている栄太郎に声をかけた。


「あれ、どうかした?」と栄太郎は手を止めて僕に言う。しかし、僕はどうかしたわけじゃない。ただ、何か言わねばならないと思って仕事は何をしているのかと聞いてみた。


「仕事? なんだろ」と彼は微笑んだ。はぐらかそうとしているのかもしれないが、答えに対して興味が無かったから作業に戻ろうとすると、
「十分な不労所得があるんだ。だからフリーで好きに仕事をしているよ」
「そうですか。よかったですね」と返す。彼は小さく笑い、
「なに一つよくないし、うらやましくないって感じだね。皇言君は将来どうなりたいの? 何かなりたい職業とかってある?」
「野球選手」という単語が頭に浮かんですぐに霧散し「ありません」と口にした。
「貴一になりたいとは思わないの?」
「ないですね。ただ、父様にとって恥ずかしくない人物ではありたいと思っています」


 それを口にした僕は、面映ゆいような自らの言葉で胸にしこりが生まれたような。小さな不快感を黙して耐えていると「そう、立派だね」と、栄太郎は口にした。僕は、露悪が口をつく。


「立派だなんて、少しも思っていないでしょう」
「うん、そうだよ」と奴は悪気なく返した。そして、互いに作業へ戻る。僕は、直截で無作法な彼の言葉が、そう悪くないと思っているのだ。単に慣れてきただけなのかもしれないけれど、慣れるくらい、彼と無言の空間を共にしていたのだ。


 適当に瞳に映す情報、本やらネットやらで見る、誰かの作品をずっと目にしていると、妙な気分になることがある。彼らはなんであんなにもよく分からない物を作り続けるのだろうか。労働に従事している者も作品を作る者も、何だか、奇妙だ。労働はせざるを得ないにしても、作品を生み出す人間について、合法詐欺師にしろ上級詐欺師にしろ、僕は彼らを下に見ながらも、そこに僕が図れない何かがあるのは明らかで、少しだけ怯んだり立ち止まったりしてしまうこともある。


 父様は評論、批評といった文章を残していたが、昔は作品も作っていた。昔の雑誌の対談、鼎談を目にするとそういった記述に出会うことがあるのだが、今回改めて様々な文章に目を通しても実際の作品を目にする機会はなかった。


「父様の制作は、文章だけなのか。昔は作っていたはずの、美術の作品は残っていないのかな」


 恐らく、僕は父様の作品を見ても、その良さが分からない気がする。でも、できれば、それを見てみたい。独り言のように、しかし栄太郎に聞こえるように、僕はそう言った。


「よく知らないけれど、今回は何か作品を仕上げるみたいだよ」


 聞いておきながら、僕はその言葉に刺すような不快感と驚きを覚えてしまう。


「今更ですけれど、貴方と父様はどういう関係なんですか?」
「ビジネスパートナー、いや、下請け? 派遣社員? うーん、何だろう。まあ気の合う友人みたいなところかな」


 ふと、父様には友人という存在が似合わないというか、釣り合うような人間が思い浮かばなかったのだけれど、栄太郎ならば天秤の上にその姿を想像することができたのだ。彼について僕はほんの少ししか知らないし、だからこそ僕にとって彼はメッキの、真鍮製の知者でいられるのだろう。しかし僕は誰かのことを知っているわけでも知りたいわけでもない。ただ、父様と母様について少し。きっと、僕にはそれで十分だ。


 作業は、思っていたよりもずっと困難だった。父様の文章を目にすると、自分の情熱のなさとか感受性の欠如とか単純な知識や経験の乏しさに目くらましにあったような、いや、その輝きに思考を奪われるような感覚に陥るのだけれど、とにかく僕は何かの文章を生み出さねばならない。今までならばそういう作業にはそれなりに慣れていたのだけれど、いざ父様について向き合おうとすると、指が止まった。幾つか、メモのような草稿のような物を残してはいても、それは何物にもなる気配がなかった。


 栄太郎のオフィス、オフィスが閉まっていたら駅前の喫茶店と家との往復を繰り返す。そして、何も書けないまま夏休みは終わってしまった。


 別冊ではない、美術時代の連載を落とした。父様からのメールに、僕は震える指で正直に書いた。別冊に書く文章のことで頭がいっぱいで何も手に着かないということを。そのメールに対して返信はなかった。僕は自分に能力が欠けているのだというメールを送信して、自棄の愚かな解放感というか小さな躁状態というか、ともかく諦めのような物が身体中に広がっていって、数日間は頭を使う本も読まず学校の授業だけをこなしていたのだが、ふと、しかし雑誌の原稿から逃げても父様についての原稿からは逃げられないし逃げてはいけないのだと思うと下腹部に強い痛みを感じ、それが食当たりなどではないことは知っているから、とにかく自分の、いや、人間が本来持つと言われている自然治癒能力を信じて大人しく過ごす、のだけれども日に何度も、腹部を刺すような、或いは金属が出現して内蔵に居座るような不快感があり、薬局で痛み止めと神経性胃炎の漢方薬を服用する、と、あっけなく楽になって、何か大げさに考えてしまったと自分のことながら一人苦笑してしまったが、数時間後に確かに痛みは戻って来た。しかし、薬を服用すると緩和された。こんなことに付き合うことになるのだと、げんなりして、また、胃なのか腸なのかは分からないけれど、痛んだ。

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