小説 シネマの暴力のように

数年前に書いた小説です。
ワード換算で46ページ位。半分くらいまでは無料で読めます。




父は雪原を単独踏破する冒険家。或る日彼は女装をして、母と離婚をした。
母はスキャンダルでのし上がり生きながらえる女優。父とは離婚をしたけれど、彼女のメディアでの発言や著作は全て父が制作している。
双子の兄はとても美しい。何でもできて皆に愛される若きスターで僕の憧れで自慢。でも、兄は暴力団らしき祖父に心酔していて、両親を憎悪している。

僕は家族が大好きだ。僕だけが家族のみんなを愛している。そして僕だけがそれ以外なにもない。僕だけが才能も理想もない。映画を見て時間をつぶすだけの引きこもり。

僕は家族を愛している。僕は家族に愛されたい。








背の高いビルから出て吐いた息が白く、冷たい空気が肌を撫で、僕はふと横にいるセツさんを見ると、ボルドーの唇から「それじゃあ」とこぼれ、大きなリュックを背負ったまま長い足をさっと動かし雑踏に紛れて行く。僕はそれをぼんやり見送りながら自分の手のひらを見るとやはり赤いてんてん、短い爪の先でそれをひっかいてみるが、これといった変化も痛みもなく、真っ赤なショルダーバッグから音楽プレーヤーを出すとイヤホンをつけ、流れる雑音、に身を任せながらふらふらと駅の方に歩き出していくけれど、その時直哉さんとの約束を思い出し立ち止まり、慌てて携帯で待ち合わせをした喫茶店の場所を探すと、入ったことはないが周りの景色には見覚えがあって少しほっとして街を見た。朝ここに来た時よりずっと人が増えている。でも、僕は朝の新宿の方が好きだなと思った。

 思い出す数時間前の景色、スーツ姿の人々に交じり、近所をランニングしているスポーツウェアの人や奇抜な衣装の人、水商売で働いているらしい人、そして動かないホームレスらがちらほら。朝の新宿は、静かに街が動き出していく感じがする。ノイズミュージックに、雑音が音になって認識できるのに似ている、って直哉さんに言ったなあ、でも直哉さんは「ガキの頃からノイズミュージックなんて聞いてると暗い大人になるぞ」って顔をしかめる。直哉さんが何を言いたいのかよく分からない。直哉さんはとても音楽や映画に詳しいけど、ノイズミュージックが好きだと暗い大人になっちゃうのかな、僕、暗くてもいいけど、というか暗いとか明るいとかよく分からないけど。

 急に背中を掴まれた。叫びたい衝動に奥歯を噛みしめぐっと堪え、怒りに震えながら振り返ると、そこにいたのは銀色のビニール袋を手にしたスーツ姿の男性で、僕はイヤホンを片方外す。

「落としましたよ」

「あ、りがとうございます」と僕はそれを受け取った。さっきもらった薬だった。男性はすぐにいなくなった。過剰反応をしてしまった僕は何だか居心地が悪くなって、早く家に帰りたいなと思いながら速足で喫茶店まで向かって、着いたら連絡をしようかと思って携帯をいじっていると「おう」と上から声がした。そこにいたのは見慣れたモスグリーンの細身のトレンチコートで「ここだよ。寒いから早く入りなよ」「あ、はい」と僕が返事をすると、何故か直哉さんは足を止めて少し、落ち着いた声で「もしかしてこの店嫌? それなら俺んちでも事務所でもいいけど……ああ、今日事務所無理だな。俺んちも……」

「大丈夫」と僕は言葉を遮って言った。直哉さんは小さく「分かった」と言うと、狭い階段をバラバラと足音を鳴らし下りて行った。

 地下だけどそこそこ広い店内の照明は橙、人がまばらで少し換気が良くないらしく何かのにおいがしたけれど、分からないしきっと質問しても分からないだろうし、あまり居心地のよくない木製の椅子に座ってお品書きを眺める、とそこにはプリンアラモードがあって思わず声を出してしまった。

「あれ、好きだっけ。いいよ、哲人。頼みなよ。俺コーヒーでいいから」

「プリンアラモード大好き。でも、僕が食べたらプリンアラモードの形が崩れちゃう。僕は見るのが好き。かわいい。食べたら自分がプリンアラモードをパーツごとに分解するみたいじゃん。なんか、複雑な気分になる。飾りの果物も、見た目はいいけど食べるのはそんなに好きじゃないし」

「あー分かった分かった。それで最近何かあった? なければないでいいけどさ」

「病院行ったよ」

「病院?」

「うん。赤いてんてんが出てきて、手のひらと足の裏ともも。あとちんこ。ちんこの先。それで皮膚科に行ったら何もなくて、泌尿器科? 性病科? みたいなので調べたら梅毒なんだって」「おい、冗談言うなよ」と直哉さんは大きな声を出し、でも隣に立っているウェイターに気づいたらしく声を潜めて「コーヒー。ホット二つ」と告げ、ウェイターが去ったのを確認して言う「お願いだから冗談言わないでくれよ。哲人まで……ああ、いや、そういう意味じゃない。でもなあ、お前、友達とかいないだろ」

「そんなの知ってるくせに。これ見れば分かるよ」と僕はちょっと腹が立って処方箋が入った銀色のビニール袋を渡すと、直哉さんはそれをじっくり確認する。

「ネットで会った?」

「何が」

「その相手」

「違う」

「じゃあ誰? 俺の知ってる人?」

「知らないよそんなの」

「哲人! お願いだから聞いてくれ。真面目な話なんだよ。俺だってこんなこと言いたくない。でもよ、またあいつはフラフラどっかに行っちまうし、ちゃんと話しておかないとまずいって。生活費だけ置いてけばいいってもんじゃないんだぜちくしょー。いや、ほんと、びっくりした。ほんとびっくりした」

 直哉さんが大きなため息をついて、僕は少し申し訳なくなって「でも毎日お薬飲むだけで治るって。それで、基準値以下になったらオッケーだって」と告げると、何故か直哉さんがにやつき、右の親指であごを撫でながら言う「知ってる。俺もなったことあるから」

 僕は身を乗り出し直哉さんの指毛を引っ張ると「なかまー」と言った。直哉さんはにやついたまま「バカ」と返した。そしてまたため息をつき、

「会うたび説教してるからな。自分でも嫌になる。哲人も疲れるだろ。ああ、でもほんと病気とかは気をつけてくれよ。ほんとにな。絶対ゴムは使えよ」

 と口にする直哉さんの顔がなぜか弾んでいるようだったので聞いてみると、困ったように笑い「いやあ、ね。ガキのつもりのかわいい甥っ子が、いつの間にか初体験を済ませてたってのは、まあ嬉しいというか茶化したくなるよねえ。こいつ、やることやりやがって。お前らは顔が良いからなー。ずるい。まあ、俺はその分努力することを覚えたからよ。へへ」

 僕の表情が動いていないのに、直哉さんは気づいたようだった。直哉さんの表情も固まり、二人とも黙っているとコーヒーが運ばれてきて、お互いそれに口づける。

「どう、あいつ。元気してる?」

「セツさん? それとも昴太?」

「栄斗。あいつしばらく国内にとどまるみたいだけど、また色々騒がしいだろ」

「騒がしい?」

「ああ見なくていい見なくていい。それに元気ならいいんだ。まあちょっと聞いてみただけだから、気にしないでいい」

「セツさんまた歩いたり山登ったりしてるみたい。また大きなリュック背負ってた」

「あーそっか。どうせリュックに重りが入ってるんだよ。マンガの世界かよ。ほんと、十年以上前に俺と会った時から変わってないんだよなー。ほんと変な男だよ君のお父さんは」

「変かな。よく分からないけど、でも僕はセツさんが好きだからそれでいい」

「栄斗じゃなくても? あいつが男の恰好じゃなくて女の恰好をして、家に帰らなくてもいいの?」

 僕は「うん」と答えるつもりだったけど、携帯が音を出し、反射的にそれを確認してしまった。着信は昴太からで、この後会おうというメールだった。僕はその画面を直哉さんに見せる。直哉さんは「分かった」と言い、また少しコーヒーを口にして、

「哲人は分かってくれてると思うけど、俺はお前が心配なんだ。昴太は俺の話なんて聞かない。夕奈だって栄斗だってそうだ。ただ、夕奈と栄斗は大人だ。でも昴太や哲人は未成年だ。普通なら来年から高校に通う年だろ。そんな時に親が離婚して、しかも夕奈も栄斗もちゃんとお前らを育てているようには思えない。俺がいくら夕奈の兄であっても、余計なお世話かもしれないこと位は意識してる。でも、病気はダメだ。俺はお前たちが元気で暮らして欲しいんだ。そんで、俺の話しをちゃんと聞いてくれるのはお前なんだよ。お願いだからそれは分かって。あんまおっさん心配させないで」

 僕は直哉さんの瞳を見て小さくうなずくと、固くなっている直哉さんの顔が少しだけほころんだ、気がした。

 もらった鍵でオートロックを外し中に入ると、階段で二階に上がって二つ目の扉のインターホンを鳴らし、返事がないから中に入る。玄関には大量の靴と、頭部がない天使が抱く薔薇のドライフラワー。歩を進めると、間接照明のほのかな明かりの中、薄暗い部屋の真ん中にある真っ白く長いソファに身を任せるシャンパン色の髪、僕もお気に入りの、サンローランの豹柄のシャツとディオールのタイトなダメージジーンズを着て、近くの床に座る僕に伸ばした指には大きな黒い石がついた指輪が幾つも。

「つまんなかった」

「何が?」

「さつえーい!」と言って昴太が大きく伸びをして、僕は駆け寄るとその手を掴み大きな声で、

「映画?」

「違うよ。なんかよくわかんねー放送。ネット配信? わからんけど。でも、映画俳優の人にも会った。貫禄あるおっさん。名前忘れたけど」

 僕はにやけた顔のまま、昴太の手を握る。

「僕昴太が映画出るなら映画館行く!」

 すると昴太は身体を起こし、優しく僕の手をほどくと、少し苦い顔をして、

「いいって。哲人ゲロする」

「しない」

「するって。人が多くて狭い所にずっといるとすぐ調子悪くなるじゃんか。つーか、俺でねーし。人前では嘘ばっかついてるけど、嘘はいいけど、演技つまんね」

「なんだよ。昴太絶対映画スターになれるよ。僕が保証する。僕、昴太が映画に出るの見たいのに。あっ、母さんドラマ出るんだよね。最近会ってる?」

「会わねーに決まってるだろ。元親の話はやめ」と言った昴太の顔はあからさまに不機嫌になって、僕は口をつぐむ。セツさんも夕奈さんも、戸籍上がどうにかなっていたとしても僕の大切な家族で、大切な人だ。だから大好きな昴太にも二人のことが好きになって欲しいと思うのだけれど、それはとても難しい。そして昴太が嫌がるのを知っているくせに、僕は両親だった人の話題を出してしまうのだ。

 昴太の不機嫌そうな横顔。とてもきれい。一卵性の双子だから僕とそっくりの形のはずなのに、自分とは別物って気がする。僕のよりもずっと生き生きとしているような、僕の身体がマネキンで、命を吹き込まれたのが昴太みたいな。

 と、僕は昴太見ているとあの日のことを思い出して心が乱れ、そしてそれを悟られないように、遠回しに告げるのだけれど、性病の検査に行けなんてどう言うのが適切なんだろうと頭を悩ませ言葉をぽつぽつこぼしていたら、何故か昴太が直哉さんのような笑み。

「やっぱ哲人すごいな。エスパー?」と言って、昴太が前のめりになって僕の頬をつまんだ。自然と昴太の顔が僕の顔に近づき、僕は少し顔をそらし言う「超能力なんてないよ」

「いや、でもさ、昔アメリカのドキュメンタリー番組で見たことある。双子同士で通じる感覚があるって。そうだよ、哲人が誘拐された時も俺が気づいたって話したじゃん」

「いいよその話は。それで? 昴太、病気? 病院行った?」

「おう。梅毒だって。でも今って薬飲むだけで治るんだな。でも一、二ヵ月位セックスもキスもだめらしい。あーあつまんね、でもさ、俺の体液の中にウイルスが潜んでいるんだって考えると中々悪くない。まるで俺悪モンみたい」

「昴太は悪い奴だよ」と僕は苦笑いをしながら言う。昴太も僕みたいな顔をして「もっと悪くなりたいな」と返して、僕の肩を軽く抱いた。ほのかな体温と一緒に何かのかすかな匂いに気が付く。これは豹柄のシャツから? 僕は昴太のシャツに鼻を押し付けると、

「これ、ほんの少しだけセツさんの匂いがする。似た匂いする」

 そう僕が興奮して告げると、昴太は身体を引きはがし乱暴にシャツを脱いで、くしゃくしゃのそれを鼻に押し付ける。

「げ、マジか。匂いついてるけどちょっとだけじゃん。朝まで遊んでさあ、クリーニング出さずにそのままほっといたからなー。でもそんなくさくないから。ほんと哲人は味とか匂いにうるさいよな」

「でも、嫌味じゃないよ。僕セツさんの、その匂いすごく好きだもん。普段のセツさんからはしない匂い。雪山とか北極か南極から帰ってきた時だけする匂い。あれ、ずっと不思議なんだ。一度だけセツさんに聞いたけどはぐらかされるし。何のせいだと思う? なんかさ、獣の匂いする。お風呂に入らないからかな。それとも食べ物なのかな。セツさんの本流し読みしたらさ、雪山とかって物凄くカロリーが高い食事をしなきゃいけないんだって。一日六千? 八千? カロリーとか。ちゃんと覚えてないけど、すごく沢山。それなのにセツさん必ずやせて帰国する。痩せて、獣の匂いがするんだ。セツさん獣になって帰ってくるんだ」

 僕が興奮して語っている途中で昴太は立ち上がり、冷蔵庫からペリエを取り出しボトルに口づけ、手に持っていた豹柄のシャツを洗濯機に放り投げる。あのシャツ洗わなくてもいいのになと思ったけど、これ以上昴太の機嫌を悪くしたくなかった、から部屋の隅に飾られている、僕が前にあげた、退色した紫陽花のリースを手にして、壁によりかかって黙ってペリエを飲む昴太の頭にそれを乗せる。

「お坊ちゃま、よくお似合いですよ」

 すると昴太は口の端で笑い「俺の携帯で写真撮って。後でネットにあげるから」

 僕は真っ白な携帯を受け取り、昴太を撮る。僕が「よく撮れてる」と口にすると昴太が「知ってる」と返す。僕は昴太の顔が世界で一番美しいと思うし、好きだ。それを以前昴太に言ったら「哲人も同じ顔のくせに、お前超自分大好きかよ」と笑われて恥ずかしい思いをした。確かに双子の兄と顔はとても似ているが、でも僕と昴太とは違う。昴太は、かっこいいのだ。僕は映画をたくさん見るけれど、どんなかっこいい俳優だって、昴太の方が優れているか同等だと感じた。顔も仕草も佇まいも、つまり全てがかっこいいんだ。かっこいい、としか言いようがない存在なんだ。

 それに昴太の肌の上には星も髑髏も花も鷲もいる。僕には何もない。未成年はタトゥーを入れてはいけないというか、彫り師が罪に問われるから普通は入れてくれないらしいけど、昴太はとても交友関係が広くて、昴太が言うには友達ではない、そうなのだけれど、とにかく色んな人と関係があり、色んな人のパーティや企画やネットの記事にほんの少しだけ顔を出す昴太は、悪人を探している、のだけれど刑法に抵触する行為をする人間は山ほどいても悪人には会わない、そうつまらなそうに僕に言う。

 僕は昴太の部屋に向かい、彼の机から四角い、黒い香水瓶を取り出し、ポーズをとったままの昴太に手渡す。すると、昴太が「黒水仙はネットにあげたくない」と言ったので、僕が携帯を背けると、僕のポケットから携帯を取り出し、自撮りをして、僕にそれを手渡し微笑み「じいちゃんみたいかな?」僕は少し迷ったが「うん」と言った。すると昴太がリースを僕の頭に乗せ、自分の携帯を取りピザの注文をして、電話を切ると大きな声で言う「あーマジ久しぶりに沢山食べるし、久しぶりに熟睡できそうー」

「寝てない? それにちゃんと食べてないの?」僕が少し心配になってそう聞くと、

「今日するから大丈夫」と昴太は僕の頭を軽く撫で笑う。

 男が俯き、頭を下げ、猫背でのろのろと歩き、寺の前で立ち止まる。その時隣の昴太が倒れこみ、モニターを見つめあぐらをかいている僕の腿に顔を乗せる。僕は声をかけるが返事はない。映画でも男は黙り込んで動かないままだ。

 少し、昴太からチーズのにおいがした。僕は彼の顔をじっと見る。画面に映っている美丈夫よりも、もっとカメラに映えそうだと思った。

「寝てるの? 映画始まって、未だ十分もたってないのに」

 昴太が反応しないと思いながらそう独り言を言う。そしてまだ僕は彼の顔を見つめて、それから手のひらの赤いてんてんを見る。

 あの時の昴太は、何かをキメていたのだろうか。それとも酒に酔っていただけなのだろうか。昴太の家で会って、ソファで休んでいる僕に、彼は口づけた。頭が真っ白になり、抵抗するという発想すら出なかった。ぐっと、頭を両手で固定され、差し込まれた舌、まとわりつく唾液、重なる吐息、そういった一連の動作は、慣れたような印象を受けて、そんな経験がない僕はなすがままになっていた。でも、昴太はその最中に、突然ゆっくりと膝から崩れ落ち、床の上で身体を丸くしてしまった。驚いて大きな声で彼の名前を呼んだ。何度も。すると昴太は不機嫌そうな声で「うるせえ」と言って、床の上に身体を投げ出す。

 返事をできるということは大丈夫なのかもしれないと思い、それ以上は言わないようにして、寝室から薄手の星座柄の毛布を持ってきて、銀のシャツを着た彼にかけた。僕は、立ったまま咥内に残る感覚を持て余していた。翌日、昴太は昨日のことを何も言わなかった。だから僕も言わないようにした。

 でも、不意に思い出してしまう昴太の舌、その厚みうねりぬめり。一緒に寝たり抱きしめたりはたまにあるけれど、キスするなんて経験がなかったから、どうすればいいのか分からないし誰にも言えない。でも、気持ちよかったんだ。でも、分からないけれど、それはもうしない方がいいような気がする。

 元々集中力もないけど、余計な事ばかり考えているせいで映画の内容がさっぱり頭に入ってこず、そわそわしてきて、そっと昴太の頭を床に置くと、ショルダーバッグから彫刻刀と角材を取り出し、モニターの前にあぐらをかき、昴太の頭部を迎えた。

 画面の中では男が大きな声で何かを訴えていたが、それは無視されており、僕も彼が何を言いたいのかが分からず、角材に彫刻刀を刺す。昴太は穏やかで、彼の重みを感じながら、少しずつ角材へと手を滑らせ、ちらちらと必死になっている男を見る。

僕は大好きな昴太と好きな、でもどうでもいい映画と共に、考えもなく掘り進めるのだけれど、次第に造形や秩序が生まれるような時があって、この時間がとても好きだ。

くっ、と指で木材の肌をめくる感覚。差し込まれる昴太の舌先を思い出して、僕はそれを打ち払う。

「詳しいことはあんまり覚えてないんだ。でも、金属バットで誘拐犯ぶん殴った時の感覚は覚えてる。僕はそんな力ないけど、あの時は必至だったから、ちびっこだったけどすごい力が出ていたみたいで、はっきりと骨が折れる感覚が握りしめた両手にも伝わってきたんだ。それでさ、僕を脅していた大人が身体を崩してわめいたんだ。大人がわーわー言うの初めて見たから、なんかおかしかった。僕のことさらったくせに、僕なんかに痛めつけられるとかコントみたいだった」

 僕が小さい頃誘拐されて、でも阿呆な誘拐犯に逆襲をして、無事に助かった時のことを話すと昴太はとても喜んでくれた。僕のことをワルだ、さすがおじいちゃんの血を引いているってすごく褒めてくれた。俺も骨を砕く感覚知りたいなって、昴太は笑った。

 でも、僕はワルなんかじゃなかった。ワル? ともかく、昴太の求めるワル、悪人像ではない。僕は他人がどうなろうとあまり興味がない。おじいちゃんの仕事についても良く知らないし、深く知ろうともしていない。

 ただ、骨を折った時の腕の手のひらのしびれと震え。落ち着きがなく手癖が悪い僕の趣味、いたずらやカービング、それらはその時の感覚を思い出させる。僕の手が静かに何かを削り出す快感、に身体の内が熱を帯びたまま、じっと黙り込む男の沈鬱そうな顔に見とれながらも僕の指は動き続け、

「こいつ、いつまでたっても誰も殺さないじゃねえか」

刺すような声が耳に飛び込んでくると、びくりと、身を固くして、しかし動かないと僕は昴太の後頭部しか見えないのだ。

「つまんねえなあ。悲しいなあ、な、哲人」

「分かんないよ。だって、僕は映画好きだけど、好きだから沢山見るし沢山見逃すし沢山忘れるしでも好き沢山見ていたい」

「すぐはぐらかす。俺が言いたいこと分かってるくせに」と昴太が呟き、僕は観念して言う「だって、暴力団にもヤクザにもあんま興味ないんだもん」

 小さな笑い声の後で昴太は落ち着いた声で言う「暴対法がほんと厳しくて、みんなヤクザになりたがらないのな。だせえんだってよ。どっかの田舎みたくさあ、ヤクザの高齢化も問題になってる。暴力団から暴力が失われてるんだ。じいちゃんずるいよな。暴力があった日本で、かっこいいまま死んじゃって。残された息子はオカマになっちゃって、なっちゃって、なっちゃってってってってって」

 そう言う昴太の語尾は震え、嗚咽と共に流れる涙がじんわりと僕の腿を濡らし、画面の主役は何分も動こうとせず、僕は覆い被さるようにして昴太の頭を抱く。泣き声が少し小さくなる。

「お金儲けできないと、あいつもこいつも暴力捨てちゃうんだぜ。マジだせえし。半グレとかマジいらねえし。本物のヤクザがいないのに、俺はどう生きていけばいいんだろ?」

 定期的に、昴太は僕にこういうことを言って泣いて、昴太は何を言っても何があっても満足しないのは知っている、けれど僕は思わず口にしてしまう「外国に行けば? 治安悪い所沢山あるし、それに今の時代ギャングやマフィアやテロリストも自撮りしてネットにあげるじゃん。昴太ならどこに行っても様になるよ。昴太皆に好かれるしかっこいいから」

「でもさ、俺外国人の真似事したいわけじゃない。俺は日本人だから日本の中にいるヤクザを輝かせないといけない」

 昴太はそう言うと起き上がり目元をぬぐい、映画俳優よりもフォトジェニックな笑みを浮かべ言う「じいちゃんのオートクチュールのスーツ、お直ししてもらったんだ。あれが似合う年になるまで待とうかスゲー悩んだけど、いい機会っつーか、そろそろ作りたかったんだよねー。エド君に頼んだから絶対いい仕上がりになるはず。出来上がったら一番に哲人に見せるからな」

 僕はそれを見るから最高だって知っているから、記憶が朧げになっている、というかそもそも知らないかもしれないおじいちゃんのスーツについて思いを巡らせ、そもそも僕はおじいちゃんに会ったのは多分一回しかないし、こんなに昴太がおじいちゃんのことを好きなのかいまいち分からなくって、昔夕奈さんにおじいちゃんのことを尋ねたら、キッチンでホットケーキを焼きながら言ってたなあ、何だっけ? 

覚えてる。形が悪いホットケーキにチョコシロップと濃厚なバニラアイス、でも夕奈さんがなんて言ったか覚えてない、思い出せない。

「夕奈さんのホットケーキ食べたいな」と僕がぼそりというと、昴太はさっきまで泣いていたのが嘘みたく猛禽類の顔になって僕を睨みつけ、

「表参道でも自由が丘でも神田でもどこでも連れてってやる。日本中にホットケーキのうまい店ある。つーか思ったこと何でも口に出すなよ子供じゃねーんだから」

「自分だってすぐ口に出す癖に」

「俺は超考えてるから」

「じゃあ僕もそれにする」

「真似すんなよ」

「うん。それでさ、メロンソーダかコーラ飲みたくなった」

「マジか。でさ、俺明日も撮影。最近また寝つき悪くて、薬飲むと寝すぎるし頭ぼーっとして回り悪くなるし。最悪。身体第一マジ。哲人歯磨きサボるから甘いの食べすぎるなよ。身体大切にしろよ」

「もし歯が無くなったら外国の野蛮な金持ちみたいに、歯にダイヤ入れるから平気だよ」

 昴太は白い歯を見せて「それいいな」と笑う。

「不思議に思われるかもしれませんが、私たちの間ではそれはおかしなことではないんです。確かに結婚生活は終わりましたし、多くの混乱がありました。しかし、長い時間をかけて話し合って、私たちは友人関係を結べるようになったんです。私は今も彼が女性の化粧をしたり服を着たりすることを受け入れているわけではありません。彼は私が知っていた、愛していた男ではない。でも、彼が優秀で誠実な人間だということは知っています。先日上梓された飯塚栄斗、セツの著作『北極の女神』にも詳しいのですが、彼は北極や南極や雪山に単独で向かっています。GPSがある今の時代、そういった場所に赴くことは冒険と言うよりかはレジャーや見世物めいているかもしれませんが、彼は最小限の装備で、単独で極地に挑みます。他人から見たら苦行めいているようでも、彼はいつも楽しそうに帰ってくるのです。彼は多くを語ろうとはしません。でも、私は彼のそういう理解できない面にも惹かれます。不思議な人です。今も私は彼のことが良くわかりません。彼には両親がいません。友人も少ない。うぬぼれているように聞こえるかもしれませんが、私は彼にとって、一番の理解者であると思っていますし、これからもそうありたいと願っています。ご存知の通り、私の恋は終わりました。私は恋をしないと生きていけないから、彼と結婚生活を続けることはできません。でも、彼とは一生家族でいたいと、今、そう思っています」

 母さんが出ている最新作をチェックしようと、ネットで母さんのホームページを見ていると、トップに固定されている離婚の記者会見で喋ったこの記事が表示され、また全てに目を通してしまった。少し前の僕は、何だかこの文章の意味が分からなかった。今も、分かっていないかもしれない、でも、セツさんが女性の服を着るのは何とも思わなかったし、とても似合っていた。

母さん、夕奈さんは日本人とルーマニア人とのハーフで顔の彫りが深いけれど、父さん、セツさんは切れ長の一重に小さなパーツが行儀よく配置されていて、一見静かそうな、派手ではない落ち着いた顔立ちをしており、その分メイクがとても映えた。父さんの年齢は三十代半ばだと思うんだけれど、化粧をした父さんは二十代の利発そうな女子大生やOLに見えた。セツさんになる前から、父さんはほとんど家にいないし、会話もないからこれと言った変化はないけれど、始めてその姿を目にした時、少し、驚き、でも素直に化粧が似合っているから綺麗だねと口から言葉が出て、セツさんは小さく微笑み「ありがとう」と言った。多分、それはセツさん、父さんからもらった初めての感謝の言葉で、時々それを思い出し、心が少し暖かくなる。

母さん、相坂夕奈もほとんど家にはいなかった。タレント業とスキャンダルで忙しいらしい。両親と一緒の生活をした記憶は少ないけれど、昴太と違って僕は夕奈さんもセツさんも大好きだったから、三、四ヶ月前に離婚したことを知らされて、僕は訳も分からず泣いた。それも夕奈さんの兄、直哉さんに知らされたことで、僕は両親から何も聞いていない。

仕事の邪魔になるからと、夕奈さんに自分から電話をしたことがほとんどなかった。けど、僕はわけも分からずに苦しくなって、直哉さんに離婚についての話を聞いた後日、電話をかけてしまった。なんて言ったのかは覚えていないけれど、泣いてしまったことは覚えている。その時母さん、夕奈さんは言った。

「お兄ちゃんが説明したと思うけどもう一度言うね。親権は哲人も昴太も飯塚栄斗にある。でも、お金は二人の口座に振り込んであるし、今までと何も変わらない。それに知ってると思うけれど、私のこれまでのエッセイとか全て栄斗が書いたものでしょ。離婚会見の文章も栄斗が書いて、私がその文章を見たのは会見の二時間前なの。彼を信頼しているのは本当。だからそんな泣いたりしないで。大丈夫だから」

 何が大丈夫なのかは全く分からないけれど、夕奈さんをこれ以上困らせたくなくて、僕は大丈夫なのだと思い込もうとした。もしかしたら、夕奈さんとセツさんは家族ではなくビジネスパートナーとしては続いているから大丈夫なのだと自分を納得させようとしたけれど、僕は彼らと家族でいたかった。元々セツさんと夕奈さんは別居していたし、何度も、実生活では何も変わっていないのだと感じながらも僕はとても寂しくなり、何度も夕奈さんの発言、全てはセツさんが書いた文章を読み、この二人の関係が繋がっていることを確認する。こんなにも戸籍に執着するなんて、昴太の暴力団好きを笑えない。

 家で会う時の夕奈さんの姿は、だいたい不愛想でジャージ姿だったけれど、ネットにアップされた彼女の姿は全てにこだわっていてほら、表参道のショップでしか買えない一杯千二百円するグリーンスムージーを片手にして微笑んでいる夕奈さん、グッチの桃色とピンクベージュのツイードのショートドレスを着て、すごく朗らかで健康そうで、元家族ということを抜きにしても、見ている僕も夕奈さんに好感を持つ、

 のだけれど、ネットで夕奈さんの名前を検索すると、サジェスト機能でネガティブなワードが幾つも表示されて、僕はいつも見ないようにしているのだけれど、小さい頃何かの気の迷いで開いてしまったその中には僕が思いつく以上の悪意が吐き出されていて、自動でスクロールする画面を前に固まってしまった。

 今思うと本当に気づかいができていないのだけれど、僕は或る日、久しぶりに自宅にきていた夕奈さんにそのことを告げてしまった。自分の母親(当時)がこんなにも悪意にさらされているというのは、恐怖でしかなかった、

 のだけれど夕奈さんは顔色一つ変えずにアディダスのジャージの毛玉を取りながら言う。

「だってそうしてるんだから当たり前でしょ」

 僕は、その言葉の意味があまり分からずに、ただ、怖くなってきて、喋らなければ沈黙しなければと頭は混乱しながら、僕の方などは見ない夕奈さんの伏し目がちな視線と、ふと出会ってしまって耐えられなくて言ってしまったのだゴシップ好きな誰かのような無責任な台詞を沢山。言ってしまった。僕は自分のしたことを後悔したがもう遅かった。黙って、夕奈さんの言葉を待った。

 夕奈さんは、何故だか不思議な物でも見るように僕の顔を眺めて、ゆっくりと目線を外し、指先で袖口の毛玉を取りながら、

「栄斗が言ってたんだけど、凡人でもプロのサポートがあれば南極でも北極でも秘境でも行けちゃうんだって。私さ、別に興味ないの。冒険だか探検だかにさ。だから詳しいことは分からないけど、あれは最初にした人たちは命がけでも、今はもうレジャーというか安全装置がついたというか、あれ、ジェットコースターかホラーアトラクションみたいなものなのね。でさ、栄斗は謙遜なのか皮肉なのか分からないけど、私はあーって納得したのよ。凡人がスターのふりをするにはスキャンダルが必要だって気づいた。だから人目について騒がれているのはいいことだから。私が生きているってこと。だから騒いだり邪魔したり心配したりしなくていいからね」

 母さんの不幸を悲しんではいけないんだって思って、僕はそのことが飲み込めずに深く傷つき、でもそれを口にしたら母さんの、夕奈さんの言葉に逆らうことになるから黙るしかなかった。父さんが寒すぎる場所に行くのは自分の意志でするんだって、疑問を抱かなかったけれど、夕奈さんが悪意の中へと渡り歩き、罵られるのは何だか辛かったし分からなかった。分からなかったけれど、僕は何も言えないし変えられない。母さんを助けることも守ることも、いや、彼女の視界に入らないことが彼女を理解できないのが辛かった。

 僕は、綺麗な、画面上の夕奈さんを見ることはできていた。両親が別れてから少しずつ、夕奈さんがネット上に、メディアに向けて喋った言葉を読むようになっていた。それはセツさんが全て考えた、夕奈さんの為の言葉らしいから。

夕奈さんの文章を読むと僕は何だか落ち着いてくるような時があって、それはもしかしたら二人が仲良しなのだと思えるからかもしれない。

けれど、僕はセツさんが書いた本、文章というのがあまり頭に入ってこない。セツさんはほとんど僕とも昴太とも喋らないし、親友らしい直哉さんとですらそうで、その文章もなんだかとっつきにくく、セツさんが書いた本を読んでも雪山やら北極やらのことはほとんど頭に残らずに「コスメデコルテのシートマスクが乾いた肌にしみこむ」とか「M・A・Cのリップの発色が良く、なじみ」とかそういうコスメに関する部分か食べ物に関する記述ばかり。実際に目にするセツさんも文章で目にするセツさんも靄の中の人みたいで、距離を感じてしまう。

でも、僕は冒険から帰ってきたセツさんの匂いが好きだ。普段出会わない体臭、獣の匂い。昴太が好きな、おじいちゃんが身にまとっていたはずの、老人の匂いがするオートクチュールのスーツに通じるものだって僕は思っているけれど、昴太はセツさんの匂いについてただの加齢臭か不潔な臭いだって言い捨てる。だけど僕にとってあの匂いが父さんのことを確かに感じられる大切なものだ。

僕は自室の小さなパソコンで映画を流し瞳を閉じる。指先で彫りかけの木片をいじる。こういうのが、好きだ。ぼんやりしながら家族のことを考えて、たまに雑音みたいな映画が頭を通り過ぎ、ざらざらした手触りの木片を削り出しながらゴミのような繭のような変形中のような物を作りだしていく。

僕には才能とか美しさとかやりたいことがない。それに人が多い所に行くとわくわくすることもあるけれど、大抵そわそわしたり気持ち悪くなったりしてしまう。昴太や直哉さんから連絡が来るとき以外は大体、家の中で映画や本の一部分だけを消費している。

「正直僕以外の家族(だった人達)に対する引け目を感じている、けど、僕は三人のことが大好きで、三人のことが好きだと思うと気持ちが楽になるし、何だか僕も生きていていいような気がしてくるから不思議」

って、映画を流し見しながら直哉さんにメールを送ると、直哉さんは困った顔の絵文字を沢山使った後で、

「最近哲人が色んなことを俺に話してくれるようになって嬉しい。でもさあ、あまり考えすぎたり自分を責めたりしないで欲しい。俺は、哲人がとても良い子だって思ってるよ。なんてな! 俺さあ、ほんとちゃらんぽらんな人生で、栄斗の方がずっと頑固で馬鹿真面目だと思ってきたけど、今の俺、なんか父性? 母性? 出てきてる(笑)まー俺にはいつでも連絡していいから。いい伯父さんだろー。尊敬してくれてもいいんだぜ!」

「ありがとうございます。また連絡します」と俺は返した。直哉さんはフリーの編集者でライターでたまに知人の仕事の手伝いもする、詳しく知らないけど自分で色々出来てしまう人で、普通の会社員よりかは自分の時間が自由になるらしい。電話やメールをしたら、何か立て込んでなければ必ずその日の内に連絡をしてくれる。家族の中でそんな人はいないので、直哉さんの性格の真面目さに感心してしまうと、直哉さんは「フリーって無職みたいなもんだから。何事も信用ないとね」と笑った。僕は直哉さんがすごいと思いながらも、自分には会社勤めは勿論フリーで働くのもどちらも絶望的に思えてきて少しだけへこむ。

 僕へのお金は口座に振り込まれる。それがいつまで続くかは分からないけれど、僕はできたら自分で働いてみたいと思っている。ただ、自信がない。人が大勢いる所で誰かの言葉を翻訳して適切な言葉を言ってそれを何時間も続けて、

 鳥肌が立って僕は立ち上がるとその考えを中断して、冷蔵庫からブラッド・オレンジジュースの紙パックを取り出し勢いよく喉元に流し込む。濃厚な酸味と豊かな味わいを感じると少し気が紛れる。僕はまだ入金をしてもらえる立場だ、けれどそれもいつかは終わるし、できたら自分の力で生きてみたいし、自分のお金で、家族に恩返しがしたいんだ。

 このジュースの値段は近くのコンビニの時給と同じ位で、家賃とかも稼ぐとなると、頭がくらくらしてきて、僕はその考えにまた蓋をする、けれども何度もそれを考えてしまっている。

 昴太は自分の力で生きている。法に触れるようなことでお金を稼いでいるのかもしれないし、誰かパトロンがいるのかもしれない、けれどもそのお金で家族である僕にもプレゼントをしてくれる。僕も自分の力で家族に何かあげたいな。

 低いテーブルの上に置かれた、昴太からもらったティファニーのサラダボウルの中、僕が削った木片達に目が行った。お金なんかにはならない。もし、昴太が作ったって言ったなら買いたい人はいるだろうけれど。

 ふと、また考えてしまう。やっぱり夕奈さんの渇きが分からない。渇き、なんて言うのは適切ではないのかもしれないけれど、人に悪く言われるのも人に褒められるのも同じだなんておかしいと思ってしまうし、母さん、だった人のことを理解できていない、どこかで馬鹿にしているような態度は自己嫌悪も生んでしまう、けれど僕は昴太の大好きなヤクザだってセツさんの大好きな雪の降る場所のことだって大して分かっていないのだ。

 昴太は僕が大好きで僕も昴太が大好き、夕奈さんとは緊張するけれどたまに数分以上会話をしたことがある、けれどもセツさんとは会話、みたいなことをしたことがなくて、でも僕はセツさんの名義の家に住み同じ戸籍でセツさんが僕の口座に振り込む、からセツさんは僕のことはどうでもいいらしいけれど多少の親愛だか義務感だかの感情があって、多分僕のことを嫌いではないんだと思う。そうだと思いたい。

というか、僕はセツさんについて考えることを諦めていたというか考えないようにしていて、セツさんのライフスタイル上たまにしか会えないし、同じ空間にいても僕はいないのも同然でセツさんの顔色を窺って、おどおどびくびくしている、のを気づかれないようにしながらも愛情の乞食になっている自分が恥ずかしいと思う。でも僕は愛されたい。でも愛されたいと言うのはすごく恥ずかしいことだと思うしバカ丸出しだ。それは愛する人が決めることなのに。そういうことが分かるのに苦しい。僕はセツさんに愛されたい。

セツさんが出した本は二冊。南極に行った記録をまとめた処女作は全然売れなかった、らしいけれど数か月前の事件で重版がかかった、ってネットの記事で目にした。そして最近出版された『北極の女神』という本。内容は数十年前単独で北極点に挑んで、消息不明になったカナダ人女性と同じやり方で同じ場所を目指す、というものらしい。僕は全部読めていないというか、興味がないというか、読めない。発表したのが夕奈さんということになっている文章ではなく、生のセツさんの文章に触れるのはなんだか気後れする。

でも、僕も少しずつ読まねばならないと思うようになってきて、たまに意を決して開く、けれどもその中身は平坦で退屈で専門用語とか固有名詞とかが頻出して書いていることが頭に入ってこない。ぼんやりとした内容だって、どこかのだれかの書評を見て知った。それにこれは僕だけの意見ではなくて、ネットや雑誌の本のレヴューにも似たような意見が並んでいて、でも夫婦の離婚記者会見の効果があってとても売れた、らしい。

夕奈さんはライフスタイルについてのエッセイも何冊か出していて、それもセツさんが書いているらしく、その文章はわりと読みやすく、一つの文章、テーマの中で矛盾しているようなことを言っているような個所がたまにある、のだけれどそれがすんなり受け入れられるというかそれも魅力になっているような所があって、正反対のことを言っているようでもなんとなく説得力があるような何をいっているのか分からないような何だかよいことを言っているような文章。昴太の身勝手で楽しいおしゃべりを聞くのにも通じるようなそれ、

それを書けるはずなのに、セツさんの著作は人を寄せ付けない退屈さやそっけなさやどうでもよさで埋め尽くされていて、どうしても目が滑り読み進められない。

またセツさんの本を読もうとしながらも諦めて、見たくもない映画をつけ、彫刻刀やデザインナイフで木片を削る、という生活の繰り返しをしている僕は、これでもそれなりに満足していて、買い物は大体ネットで済ませてしまうから外に出る機会は昴太か直哉さんに呼ばれた時くらい。

それで今日は昴太とお昼の約束があるから、忘れずに小さな錠剤を口に運んで渋谷に向かう際昼近くの少し込み合う電車に駆け込むと少し、汗のにおい。誰の? 誰かの。思い出せないけれど他人のにおい他人の肌のにおい。でも、鼻が慣れたのか次第に気にならなくなる。

セツさんの本は未だまともに読めていないし、セツさんは日本にいるはずなのに家にはあまり戻っていない。セツさんはまたどこかの国に行くと思う。それまでに、少しだけ話せたらいいな、なんて何度も思いつつできていない。

そんな迷いが入り混じった顔をするのはやめにしようと思う、だって知ってるんだ。僕はにやにやしたりにやにやするのを抑えながら上る宮益坂、白い息を吐きながら青山に向かう途中で突然、肩をぐいと掴まれていつかの記憶が蘇り反射的に身体が固くなるけどすぐに分かったんだ。

真っ黒なスーツにサンローランのクラシカルなサングラス。仏頂面をした男に僕は歓声を浴びせる「今、渋谷区で一番かっこいいよ昴太!」

すると男は白い歯を見せ「知ってる」と言った後、ランウェイで不機嫌なふりをするモデルみたくポーズをきめて「いいだろこのスーツ。エド君におなおししてもらった」

おじいちゃんのオートクチュールのスーツは、今は完全に昴太の皮膚になっていた。昴太の皮膚、老人のにおいと香水のにおいが混じり合って、何て言ったらいいかわかなくって、どきどきして、それを告げると昴太はにやにやしながら「お坊ちゃま、よくご存じで」と満足そうに返事をした。ここで写真撮ろうかと聞くと、

「いや、いい。寒い。マジスーツ寒すぎ」と両手で自分の肩を撫で笑うから、僕もつられて笑った。

「あれ? なんでいんの? スゲー。どっかのセレブかと思った。昴太じゃん。お、哲人もいる。久しぶり」

 突然頭の上から声がした。身長は190センチ近くてがっしりとした身体つき、顔がとても濃くてワコマリアのやんちゃな大人、みたいな服が好きで、そう、昴太の友達の、

「ゼンジ君!」と僕が名前を呼ぶと、彼はにやりと僕に笑顔を見せ、それからにやついたまま昴太に「久しぶり。元気? 飯食った?」と喋りかけるが、心なしか昴太の表情も返答も固く、でもゼンジ君が半ば強引に食事に誘って、僕らは彼の言うお店に向かうことになった。

「そこさあ、アヒージョがすげーうまいんよ」と上機嫌のゼンジ君。

「アヒージョってなに?」と僕が質問すると、ゼンジ君は少し黙り込んだ後で、

「うまいエビの食べ方。食べれば分かるって。うまいから。そこ個室あるから」と楽しそうに言った。でも、昴太は「俺スーツににおいつけたくないんだけど」と冷たく言い放った。あれ、ゼンジ君と会わなくたって、僕と昼食をとる予定だったのに、昴太がなんか変だと思いながらも、僕は何も言えない。

ゼンジ君は穏やかな声で言う「そのスーツいいじゃん。どこの?」

「おさがりオートクチュール」と、昴太は少し嫌味っぽく言ったけれど、様になっていた。かっこよかった。

「ふーん。いいね」とゼンジ君は興味なさげに言った。

 なんか、変だな。前まで昴太とゼンジ君は仲が良かったはずだ。昴太に誘われて、三人で何度か食事をとったことがある。その時、ゼンジ君はわりと俺様風を吹かせて、昴太と軽口を叩きあっていたはずだった。たまーに、僕にどうでもいいメールを送ってくれる時もあった。

 ゼンジ君の見た目は三十代後半のイカツさと貫禄だったけれど未だ二十歳くらいのはずで、それで、暴力団とか半グレとか、まあ、そういう集団の一員だったはずで、でも僕への接し方はとても優しい人だ。僕が以前食事の最中に「ゼンジ君は優しいね」と言ったら、昴太とゼンジ君に爆笑されたことがあった。そして二人は楽しそうに、いかにゼンジ君がよろしくないかというのを遠回しに口にする、けれど僕は「でも今は優しいから、それでいいんだ」と返した。

 その時ゼンジ君は真面目な顔で「哲人が女だったら、今俺確実にチューしてる」と口にして、昴太が怒気をはらんだ声で「お前マジ殺すぞ」って言ってたっけ。

 今の二人は、マジ殺すぞ、の緊張感がほんとに漂っている気がして、でも僕は事情を知らないから何も出来ないのがはがゆい。二人が喧嘩しているみたいなのは嫌だなと思う。

 通された薄暗い個室の中、美味しいはずの食事も何だか盛り上がらなくて、場の雰囲気を良くしようと気を使うゼンジ君だけど、それは難しく、僕もなんだかそわそわしてきて一人になりたくなってしまって、怖くなって生唾を飲み込み、何も考えないように欲しがらないようにと思いながらぐっと耐える。

自分のそわそわを表に出さないようにとそればかり考えてしまっていると、ゼンジ君が新しい自分の仕事について喋り出し、僕が気軽に「なんだか楽しそうだね」と口にすると、激しい音がして身が固まり、数秒後にようやく、隣に座っている昴太が空のグラスを床に叩きつけたことに気づく、でも僕はやはり何も言葉が出せなかった。

「お前、そんなんでいいのかよ」

「いいに決まってるだろ」と、怒気を隠そうともしない昴太とは対照的な、落ち着き払ったゼンジ君の声。すると昴太も低い声で言う「お前、どんどんぬるくなってくな」

「何? マジメに働いたら説教されんの? つーか何度も言ってるけど、また言わせんのかよ。俺元からどこにも籍置いてないんだけど」

「ならアカタカは? 矢代のとこは? 全部飽きたら捨てんのか」

 すると、ゼンジ君は苦笑した。そして柔らかい声でしゃべる、僕はその声で震えてしまう。

「俺はヤクザじゃない。俺のクソオヤジがそうだっただけ。アカタカとかだせえよ。半グレなんて全部クソばっか。せいぜい利用できる時だけ利用すればいい。あいつらだってあってないような存在じゃんか。騒げればいい。自分が良い思いができたらいい。派手な暇つぶしができたらいい。それだけ。消えてもまた新しいの出てくるし。もし若いの気になるんならそこから探してみろよ。俺はバカじゃない。それだけ」

「実利主義め」と昴太が吐き捨てるように言った。するとゼンジ君は初めて怒りをあらわにして怒鳴る。

「てめーは恵まれすぎてるボンボンじゃねーか。実利主義なんて言って金儲け否定するならよ、おさがりのオートクチュールのスーツなんて着んな。そのスーツの代金、実利主義のクソどもから巻き上げた金で出来てんだぜ」

 という言葉の途中で僕はダメ! と大声を出していた。そうだ、僕は昴太がキレるのが分かったから、だから止めなくちゃいけなかったし、僕自身も多少パニック状態になりかけていて、でも、大きな声を出したら少しだけ気分が楽になる、かと思いきや何だか身体がガクガクしてきて、過呼吸のような症状が出てきた、けれど僕は表情筋に声援を送りながら懸命に笑顔を作っていた、はずだった。

「会計いらない。俺今払っとく。ごめん、また今度な」

 それだけゼンジ君は言って、静かにこの場を後にして、昴太が無言のままだからとりあえず安堵のため息が出る、と身体ががくり、と揺れ、座り心地の良い椅子から転げそうになるのになんとか耐え、大きなため息をついた。

「水飲めよ」と昴太が少し低い調子で声をかけてきて、反射的に僕は「エビリファイ無いから水いらない」と返してしまって、しまった、と思うけれど言った言葉を無かったことにはできないから慌てて言い加える「今は頓服の薬何も飲んでないから。大丈夫だから。僕は都内有数の健康体だから」

 ごつごつした指輪をはめた昴太の手が優しく僕の両手を掴み包み、昴太は僕と視線が合うとゆっくりと瞳を閉じる。

「バカ。俺がいるから。俺がいるから哲人は大丈夫だろ」

「うん」と僕は口にしたが、僕と昴太は多分大丈夫ではないのは分かる、けれど僕は昴太が大丈夫だと言うのが好きだ。だから僕は昴太の体温を意識しながら「ありがとう昴太」と言った。昴太はじっと黙っていて、僕も沈黙を共有していたけれど、ぽつりと口にする。

「ゼンジ、どんどんお金儲けのことだけになってく。寂しいな」

 お金儲けがしたくてもできない僕はゼンジ君を否定なんてできないけれど、昴太を傷つけたくなかったから黙るしかない。すると昴太は言葉を続ける。

「俺は、いつでも寂しい。けどさ、哲人がいるから自殺したり犬死したり自棄にならないですんでる。哲人が健康で幸せでいて欲しいって思ってる。だから、薬キメるとか嘘でも言わないで。約束」

「自分はドラッグを定期的にキメてるのに、僕が心療内科で処方されていた薬を否定するのはおかしい」と思わないこともなかったけれど、僕は昴太を安心させたくって、

「うん」と言って優しく彼が包んでくれた手をほどくと、僕の手で昴太の手を包みなおす。すると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるのだ。

 寒い冬の或る日突然、僕は調子がおかしくなった。新しいOSになったパソコンみたいだと思った。様々なことに支障をきたすし様々なことを処理できないんだ不思議な不具合標準搭載なんだ、昨日できたこと、ちびっ子の頃からできていたことがどうしてもできない。僕は、自分がおかしくなってしまったんだって気づきながらもそれを認めたくなくて、でも昴太に何度も指摘されて自分の状態を説明すると、二人で心療内科に行くことに決まった。病院なんて行きたくないけれど、その時の僕は誰かの言葉に何かを言うような気力がなくって、それで行ったら狭い清潔な白い空間にぎゅうぎゅうな人々、にげんなりしながらぎゅうと昴太の手首を握り、椅子に座りうつむきがちな僕の視線まで身をかがめて柔和な声で簡単なテストと記入用紙を渡してくれるカウンターのお姉さん、にすら警戒心を抱きながら待つこと一時間以上、流れる穏やかなオルゴールミュージックにも苛立ってきて、通された扉の向こうにいたその人、を目にした瞬間心臓が早鐘を打って、僕はうまく説明ができず、代わりに昴太が僕の症状や状態を全て話してくれて、先生は僕に確認をして、薬を出し渋る先生に昴太は何かを言って、とにかく僕は病人になったんだ。

「二週間後にまた来て下さい」という言葉をよく覚えている、というか先生のそれ以外の言葉を思い出せないのか記憶したくなかったのか。

 でも、処方された薬を飲むと、僕はグラグラしている気分の波が落ち着いた。昴太は喜んだし、僕も何だかわからないけれどもほっとした、でも、僕は薬を服用してから映画も本も美術もゲームも漫画もアニメもお菓子も洋服も、何もかもに興味を失ってしまった。より正確に言うならば、感情の動きというのが一定の地点までで固定されるというか、喜びも悲しみも持てなくなってしまったのだ。

 それに気づいて問題視したのは昴太の方で、薬を変えた、ら何かがマシになった時は何かの副作用が出たり、逆に効果が分からなかったり。一進一退のやりとりの中、或る日先生が言った。きっと最初からそれを言いたくて、でも言わないようにしていたんだろう。それとも、最初の時点で言われたのかな。思い出せないんだ、聞きたくないんだ「今度親御さんと一緒に来ることは可能ですか?」

「両親は存在していますが、来れない、役に立たない。だから俺がここにいるんです。これ以上言わなくてもいいですか?」

 昴太がそう言った時、僕は、泣いてしまった。情けなくて辛くて申し訳なくて、そして僕らはそのまま帰宅した。

 昴太は昔から頻繁に外出していて、その日もどうしても出なければならない用事があったみたいで、昴太の携帯は何度も震えていて、僕は昴太に「もう大丈夫だよ」と言った。昴太は「嘘つき」と言ったけれど、僕は欲しくもない最新ゲーム機が欲しいと嘘を重ね、昴太は今度あげると言って、新宿駅で別れた。山手線に揺られていると渋谷に着く少し前に僕の携帯電話にメールが届いていた。

「人間でも病気でも芸術でも、恐怖に名前を付けて飼いならすのはカッコ悪いと思っていた。でも、哲人に何でもしてあげたかった。俺は、哲人を治せるんだってこと忘れてた。俺は哲人を愛する。薬を飲みたい位にヤバイなら俺を呼んで。俺はいつでも哲人を愛する」

 電車が停止して、平日の空いた車内が緩やかに運動すると、僕もそれに加わって、ホームの自動販売機でココアを買って、ポケットに入れっぱなしにしていた薬をココアで流し込み、効き目はすぐにやってくることを知っているから、それだけでも気分が落ち着いてきた。昴太に迷惑をかけたくないなと思った。薬は頭をおかしくしてくれる。ありがたいと思うんだ。昴太だって、乱用や中毒ではないはずだけれど、アルコールや薬物を口にしているのは知っていた。昴太が辛いと思うと、僕は辛い。僕ではその辛さを取り除けないことを知ってしまっているから。昴太も同じだと思う。だから僕も薬を飲んだり飲まなかったりして、平気なふりをしなければならないんだって思う。自分が間違っているのかは分からないけれど、昴太のことが好きで彼を困らせたくない。

 僕は色んなものを見ないようにしていたのか、処理できる能力がないのか、受け止める覚悟がないのか。

 両親が離婚して、少しずつだけど、僕も変わらなければならないって思うようになってきた。みんなで幸せになるために。愛されますように愛することができますように。

 昴太は僕のことを心配して一緒にいようとしたけれど、僕はなんだかそわそわしてきて一人になりたかったし、昴太に甘えてばかりいるのも気恥ずかしくて、自分から次に会う約束をとりつけ、タクシーに乗って別れた。僕は、帰宅すると電気ケトルでお湯をわかし、睡眠薬を少し、お湯を少し飲んで、ベッドの中に入って大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だと祈るように唱えてやがて眠りに落ちる。

「美意識がぴったり悪だ」

 昴太の顔が、言葉が頭に浮かんで目が覚めた。昴太は、ここにはいない。昴太と一緒にいる夢をみていたのだと気づいた。夢の内容は覚えていないけれど「美意識がぴったり悪だ」というのは、数年前に昴太が本当に言った言葉だった。それはおじいちゃんのことを評していたのだけれど、僕には何を言っているのか正直分からず、でも昴太が美意識、という言葉を口にすると、そこには美しい響きがあった。それを口にした昴太も、とても朗らかで美しい顔をしていた。その時僕は黙り込んでしまったけれど、今更彼にきれいだと言ってあげたくなった。

 でも、僕はおじいちゃんについて大して知っているわけではない。枕元にあった電話で時刻を確認して、多分翌日の午前中になっていて、身体を起こして伸びをするとシャワーを浴びることにして、暖かい雨を受けながらゆっくりと頭を動かしていく。

 セツさんはおじいちゃんの話をしていないはずだ。でも、昴太と二人でおじいちゃんに会いに行ったし、当時七、八歳だった僕はなぜかその人のことを自分のおじいちゃんだと確信していた。港区の閑静な住宅街にある、綺麗でこじんまりとしたマンション。僕らはたしか、二人だけでタクシーで行ったはずだ。迎えてくれたのはスーツ姿の男性。立派な体格でにこやかで、カルピスを出してくれた。おいしかった。リビングで会ったおじいちゃんは、今までに見た誰にも似ていなかった。やや小柄な体で、眼光は鋭く、白髪のオールバックで、黒革のソファの真ん中で身を固くしていて、僕は人よりも鷹に近いと思った。

 何を話したのか、やはり思い出せない。大した会話をしなかったはずだけど。ああ、その頃から昴太は僕と違う風になっていった。同じものを食べて同じ服が好きで同じ玩具が同じ色が同じゲームが好きだったけれど、八歳の誕生日、昴太は髪の色を自分で脱色して金色にした。それを見て「僕もしたい」と言ったけれど、昴太は「哲人には黒髪が似合うよ」と言った。僕はなぜだかそれを納得してしまった。

 その時に、僕と昴太とは別の人間なのだと気づいた。そして、彼がとても美しいことにも。

 双子の僕らは何もかもが同じだったはずなのに、昴太は誰にも物怖じしないし、好かれる。一人でどこにでも行ける。そして、輝かしい。僕とは違う。金髪になった昴太に天使みたいだって言ったら、「俺、神様の奴隷なんてやだ」と言われた。

誰の言うことも聞かないのに、おじいちゃんのことは、暴力団のことは好きになった昴太。それは彼らの「美意識がぴったり悪だ」から?

 分からない。僕の中に美意識がないからだろうか。家族の中で僕だけがない。

 なんて、またこんなことを考えてしまって、こんなことを考えても解決なんてしなくて落ち込むだけだから、僕は直哉さんにメールを送って、今日の夕方に会う約束を取り付け、適当な服を着て外に出て、外を歩くと着こんでいたはずなのにやはり肌寒く、セツさんはこれよりずっと寒い場所に重い荷物を背負ったり引いたりしながら行くんだなあと思うとやはり想像がつかなくて、他人事みたいで、僕は携帯を取り出し、電話帳のセツさんのページをちらと見てから携帯をしまって、と、している最中に人に軽くぶつかっていて、すみませんと謝りながら逃げるように早足で駅のホームへと向かって、丁度やって来た電車に乗り込むことができて、空いている席に腰を下ろすと身をかがめ瞳を閉じゆっくり息を吐く。電車の振動を感じ、帰りたくなってそわそわしてきて、でも、ぐっと堪えて昴太のことを思い出し、ふと、あの口づけの思い出が闖入してくると僕は両手で上気した頬を抑えた。冷たい指がじんわりと、温かく、熱を持つ。なんだか、僕は本当に病気みたいな気がしてきて、でも、家に一人でいるのはなんだかぞっとしてきて、一人でいるのも誰かといるのも苦手な僕は本当にわがままで弱いと思って、でもここでまた家にこもるより、直哉さんに元気な姿を見てもらいたいと思って、今度は携帯の中の昴太の画像を見て彼の真似をして「大丈夫」と囁くように口にすると、不思議と気持ちが落ち着いてきて、自分でも本当に大丈夫なような気がしてくるのだ。

 店内の中央にある大きなモニターには消音で最新の外国のドラマか映画が流れていて、それとは不釣り合いな年代物のティーカップが大きな硝子棚に整列しており、その前を通って僕と直哉さんは奥の半個室みたいな部屋に入ると早速、コーヒーを二つ頼む。

「俺に合わせなくてもいいんだぞ」と直哉さんが言うけど、僕はメニューを選ぶのに時間がかかり過ぎるから、頼むのは何でもよかった。

 直哉さんは黒色の重そうなライダースを脱いでハンガーにかけ「最近寒いけど風邪ひいてないか?」と尋ねてきて、それがテレビに出てくるお父さん役の人の芝居みたいで少し笑ってしまった。

「何かおかしいこと言ったか?」と直哉さんが不思議そうに言うけれど、答えられなくて代わりに今何の仕事をしてるのかと聞く。

「今日はアイドルのインタヴュー記事まとめてた。芹沢はるか。すごいだろ。誰かに自慢しちゃだめだぞー秘密にしとけよなー」

「芹沢はるか?」

「ああそうか。哲人アイドル詳しくないもんな。超有名人だぞ。たれ目で可愛いんだこれが」

「そうなんだ。直哉さん、インタヴューの仕事もしてるんだね。ねえ、夕奈さんにもするの? したことあるの?」

「おっまえさぁ。何が悲しくて実の妹にインタヴューしなきゃならねーのよ。まあ、依頼があったらするけど。ねーよねーよそんなこと」

「じゃあおじいちゃんにインタヴューしたことある?」

 直哉さんの表情はこわばり「お前も昴太みたいになろうとしてるのか」と刺すような口調で、僕は、すぐに返事ができなかった。なりたいけれどなれないのだ。そんな自分の気持ちを見透かされたような気がした。

「違う、僕は知りたいだけ。ずっと、家族のことを深く考えないようにしてたから。でも、ずっとそれじゃだめだと思ったから。それで、誰に話せばいいのか分からなくて、それで……」と、深く考えないようにしていたから、なんて、とっさに出てきた言葉で、でも思いつくままに話していると、それが自分の本心みたく思えてきて、でもコーヒーが運ばれてきて、直哉さんの顔を見ないようにして、青いお屋敷が描かれたボーンチャイナに口づける。

「お前のじいちゃんと栄斗とは血が繋がっているが、籍は外れている。他人だ」

「他人かもしれないけど、でも、昴太が好きな人だ。だから。昴太が好きな人はきっと、僕にも大切な人だと思うから」

「そうか。わりとキツイこと言うと思うけれど、いいか」

 僕は小さくうなずく。

「俺の友人に暴力団や警察が専門のライターがいて、哲人達のじいちゃんのインタヴューも行ったことがある。そいつとその話、何度か話題に出たんだ。まあそれなりに名が売れた人物だけあって、他人が娯楽として接するには興味深い人物だと思ったよ。でもな、決して褒められた人間ではないってことだ。あのじいちゃんがモデルになった映画、見たことある?」

「知ってるけど、別に見たいとは思わない」

「そうか。映画自体は結構面白いぜ。かっこいい任侠、アクション映画だ。でも、当たり前だがそれは映画の話。美化され過ぎた男の世界の話だ。色んな人に迷惑をかけて、人の弱みに付け込んで、奴らは金儲けをしてる。その事実を忘れちゃいけない。暴力団に属しているっていうだけで人間としてはもう道を外れてる。若いうちにそういうアウトローに憧れる気持ちを否定するわけじゃない。ただ、昴太がそうだとしても、哲人、お前は違う。分かるだろ」

「何が?」

「お前まで犯罪者の仲間入りをしなくてもいいってこと」

 つい僕は声を荒らげ「昴太は犯罪者なんかじゃない」と叫んでしまった。しかし知っているんだ昴太は犯罪者だ多分きっとおそらく絶対。知ってる、知らない、いや、わかんないよでも、僕は昴太が犯罪者だと認めるのも犯罪者呼ばわりされて黙っていることもできなかった。しかし、直哉さんは表情を変えずに言う。

「はっきり言うぞ。哲人は犯罪者に向いてない」

 この人はいきなり何を言うんだと僕が言葉につまると、彼は言葉を続けた。

「ほら、その顔。俺が言ったのが昴太だったら、殴るか水ぶっかける位の事は平気でする。お前は向いてない」

「向いてないってなんだよ! 僕は昴太が超好きだから、一番好きだから!」

 僕のかみつくような言葉を、直哉さんは「知ってるよ」と受け止めた。

「哲人の気持ちも、双子のお前らが本当に仲良しなのは知ってる。それはすごいことだし、すごくいいことだと思う。だけど、犯罪はだめだ。他人に迷惑をかけるのが平気な人間になっちゃだめだ」

 逃げ道がない。直哉さんも僕のことを思って言っているのが分かるから。でも、僕は「もう遅いよ」とすねたように口にした。

「昴太は、だろ」

「直哉さん、なんでそんな酷いことばかり言うの?」

 僕はそう口にして、自分で言った言葉があまりにも悲しすぎて涙をこぼしてしまった。直哉さんは僕から目をそらさずに「残念だけど、昴太は誰の言葉も聞かない。あいつはもう大人だ。でも、哲人は違う」

「ちがわなくない! 僕と昴太はおんなじだ!」そう口にしてはいたけれど、自分と昴太が違うことも、直哉さんが僕の心配をして言っていることも分かったから思考の言葉の出口がない。泣くことしかできない。愚かだと馬鹿だと腑抜けだと弱虫だと思い、そう思うたびに涙はこぼれ、でも、それもやがて止む。僕は目元をぬぐって「僕は、家族が仲良しでいて欲しい。それと皆が好きなことをしていて欲しいだけ」と言葉をひねり出した。直哉さんは僕にポケットティッシュを渡してくれた。僕は少しためらったが、それで鼻をかむとべっとりと体液が出た。この中にも未だ、梅毒のウイルスがいるのだろうか。性病のウイルスが住んでいても、誘拐犯をバットでぶん殴って骨折させても、僕は臆病な人間で昴太とは違う。分かってる。

指で、白地に小さな青い城が描かれたポットから角砂糖を取り出し、ざらざらした表面を爪で削りながら言う「僕は家族が幸せでいて欲しいと思ってるんだ」「分かってるよ」と直哉さんが言った。僕はポットの蓋を撫でながら「それだけ」と口にした、でも嘘だった。

僕は家族がみんな仲良しでいて欲しいと思っている。そして僕は彼らに愛されたい。でも僕は昴太からの愛しか知らない。その十分過ぎる愛情に満足できない僕は昴太を裏切っているような高望みをしているような罪悪感を覚える。

ずっと黙っていようと思っていたのに、僕はそのことを直哉さんに口にしてしまった。

「僕は愛されたい」

 そう口にすると、僕は気持ちが軽くなると共にそれが無理であることを悟ってしまってまた涙が出た。泣きながら僕は、心配そうに僕を見つめる直哉さんに「大丈夫だよ」と昴太が言うみたいに告げる。

「どこがだよ」と低い声で直哉さんが言った。僕はもう一度小さな声で「大丈夫」と口にして、少し呼吸を整え、

「ちょっとずつ僕も、大人にならなきゃいけないの、分かってるんだ。いつまでも二人が離婚したことにこだわってるの、変だよね。それは二人の問題で、僕にはどうしようもないのに。変わらないのに。前には戻れないのに。それに、前だって別に家族で何かをした記憶ないし。それで、でも、僕は大丈夫なんだ」

 直哉さんが苦い顔をしている。僕はちょっと明るい声を出して言った「要するに、辛いけど悲しいけどでも、平気なふりしなくなったからマシになった。こうやって直哉さんに色々話すとか、半年前の僕ならきっとしなかった。だから、いいんだ」

 直哉さんは困ったように笑ったまま言う「頭おかしい親友と妹をぶん殴ってやりたくなるよ」

 僕は固まってしまったのか、指から角砂糖がこぼれ落ち、あせってそれを拾うと「冗談だからな」と声がしてほっとする。ほっとして、話題を変えたくて、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出す「そういえば暴対法って何がよくないの?」

 すると直哉さんはなぜか笑って「相変わらずだな」と呟いた後で、

「哲人が言いたいのは、あれだろ? 暴対法で、締め付けが厳しくなったってことだろ? それで暴力団が資金稼ぎに困って、やっていけなくなってる」

「あ、多分そう」

「いいことじゃん。悪いことをした人が罰せられる社会。悪者に厳しい社会。考えてみりゃ当たり前のことだろ。犯罪者に優しい社会ってなんだよそれ。そもそも暴力団なんて組織が存在しているのがおかしいだろ」

「暴対法が厳しい時代のヤクザ。それって、GPSが存在してしまう時代の北極探検家みたいなこと?」

「はい?」

「いや、別に。思い付きだけど」

「GPSって……ああ、あれか。栄斗のことか。でもよ、それがあっても冒険にはプラスになるんだろ。逆じゃん。今の時代北極とか南極でも電話できるんだっけか。すごいな、ほんと」

「すごいよね。でもさ、夕奈さんが言ってるというか、セツさんが書いたのを自分のページで書いてて、GPSがある今の時代、そういった場所に赴くことは冒険と言うよりかはレジャーや見世物めいている、って」

「ゴーストか」

「ゴースト?」

「ゴーストライター。ゴーストって言うかあいつらの場合二人三脚っていうか、ほんとわけわかんない夫婦だ……って、そのことは今いい。ええと、何だっけ。GPSがあると、冒険がレジャーになる。そっか。栄斗は必要最低限だか数十年前の探検家に近い装備だかで雪山とかに行ってるんだよな。それと現代の暴力団に関係あるか?」

「時代の流れで、ファンタジーがなくなっていくのかなと思って。だからユキさんも昴太も必死なんだ」

「バカだろ!」と直哉さんは声を出して少し笑い、その声が僕に刺さる。

「僕もそう思う。二人ともちょっとバカみたいに見える。でもそれは僕と直哉さんには美意識がないから。二人の美意識を理解してないから」

「他人のことなんて一生理解できないぞ」と直哉さんはすぐに答えた。僕は「知ってる」と返した。知っているけれど、理解したい、近づきたい、愛したい。直哉さんは少し、コーヒーを飲んでから、穏やかな声を出した。

「哲人は自分のこと責めすぎだ。それに無理しすぎなのも伝わるから。それならまだ愛されたいって素直に言ってた方がマシだ。自分のこと責めて解決するならいいけど、そうじゃないならほどほどにしないと、どんどん悪い考えばっかになるぞ」

 僕が何も言えないでいると、直哉さんは自分の頭をかいて苦笑いをする。

「オヤジ面したいわけでもないし、しようともおもってないし、つーかあの電話繋がらない野郎に説教かましたいとこだけどさ、あーマジなんだこれだよ。父親って多分大変なんだよなー。俺、最近しみじみそう思うわー」

「何それ!」と僕が不満げたっぷりにそう言うと、直哉さんは両の掌を見せて「まあまあ」とにやけ顔で僕をたしなめ、

「哲人の父さん母さんどっちも自己中心的な人間だけど、それなりに子供のことも考えてるかもしれないっつーか、あいつらにまともな説教しても暖簾に腕押しだろ。そりゃ俺だってなんだこいつ、って思ったこともあるけど、怒ってばっかってのは最悪かなーとか考えてさあ。だってそれは俺の正しい考えを聞いて、その通りの人間になれってことだろ。そんなの聞くわけがない連中じゃん。話し合いができない。ああ、だからそんな顔すんなって。俺もさ、哲人とよく話すようになってから、少しずつ考えが変わってきたんだ。まさか自分がこんな甥っ子をかわいがるとは。そんで、正義感が強い人みたく、いっちょ前に怒ったりしてな。ははは。自分でもよくわかんねーわ」

 そう言って笑う直哉さんは頼もしく、僕は身体の内が暖かくなってきて、

「今度映画見ようね」と約束をして、ずっと、僕が見た映画の話ばかりして、仕事の続きがあるということで、四時間以上カフェにいて、すっきりと別れることが出来て、僕はなんて幸せ者なんだろうと自宅に戻ると玄関には見慣れない登山靴。

 僕が固まっていると、セツさんが玄関の前を通ってバスルームに向かっていた。ちらと視界に映った薄い胸板、何かのにおい父さんのにおい懐かしいにおい。靴を見ると泥と土がこびりついていて、身にまとったそれをそぎ落とそうとしているのかと気づくともったいない気がしてしまったが、さすがにそんなことは言えず、ほどなくしてシャワーの音が聞こえてきて、僕は、リビングのソファで見たくもないアフリカの動物についてのドキュメンタリー番組を流しながら、セツさんの汚れた洋服が欲しいというかにおいを嗅いでみたいと思ったが、洗濯籠からそれを取ってまでするのは動物めいていてどうしてもできず、ぼんやりと画面を見ているとそわそわしてきて自分の部屋から木片とデザインカッターを持ち出してわざわざリビングで削っていると、セツさんが裸で、リビングを通り自室に向かって、僕は息が止まるかと思った、後ちんこついてた、大きいのぶらぶらしてたからつい目で追ってた。

 僕はセツさんの残り香を探そうとするが、分からなかった。長期間外泊していたわけではないからか、あの匂いはない。セツさんが長期間家を空ける時までに、何か会話をしたいと思ったけれど、セツさんとの会話ってどうやってするのかが分からない。直哉さんに無理するなって言われたのを思い出す。家族の幸せを望むとか個人の意思を尊重するみたいなこと言いながら僕は、彼と彼女に愛されたいのだと思ってしまって、恥ずかしくって、削りかけの木片を床に置いて身を丸くしてモニターの中のけだものを目で追う。いいな、あの毛皮、肌にぴたりとくっついているあの毛皮。昴太に似合う。昴太ならどんな毛皮でもよく似合う。

 僕は少し寒さを感じて、自分の部屋から毛布を持ってきてリビングで丸くなる。そして少し、うとうとしていると、気が付いた時には画面がどこかの港町らしきものに変わっていて、自分が寝入ってしまったことに気づき少し慌てたけど、僕が数時間無駄にしたからって何があるわけでもない、けどなんだかお腹が空いてきたかも、と、ひらめいた。

 セツさんと食事がしたい。できるだろうか? 断られた時のことを考えると身体が冷えたが、その時は映画を垂れ流しながら睡眠薬でも飲めばいい、と僕はとても前向きな気持ちでセツさんの部屋に向かって歩き、ノックをして一気に扉をあける、と、やたらと本とダンボールが多い部屋の奥で、セツさんは黙々とチョコレートバーを食べていた。周囲には食べ終えた後の包装紙が幾つもあった。僕は驚いて「チョコレート好きなんですか」と口からこぼしていた。

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