社会と共創する熟達の実践 by Okauchi|Reapra Book 2022

はじめに

私はここ最近までずっと喪失*の谷にいました。

 *「今までの自分の生き方では、未来のなりたい姿にはなれない」と身体感覚を伴って深く理解すること

喪失の中にあって、過去に築いてきたと思っていた信念や経験、得てきたスキルなどが崩れ、自分自身は「何者でもない」という強迫観念を含む焦燥感が今も頭の中を回っています。その何者でもないという焦りは、この執筆自体にも抵抗感を生み出し、今この時点においても「私に語れることがあるのだろうか」という問いが起きています。

社会と共創する熟達においては、自らが赤ちゃん(純粋無垢となってフラットにあらゆるものから学び直せる状態)に戻る必要がある。そのためには深く深く自らに潜って大きな喪失体験を経験することが大切、このようにReapraの中では言われます。

言うは易し行うは難しで実際に私が向き合っている喪失においては、そんなスムーズにこれまでアイデンティティとなっていた考え方を手放すことはできず、葛藤の連続です。

IFD(Intensive Foundation Design; 過去から現在にかけて培われてきた「らしさ」を深く理解し、社会と共創する熟達を目指す上での土台を整えるためのプロセス)を行って深い自分を理解し、ライフミッション・マスタリーに向かって生きようと決意しても、また気づくと何者かになることを追求してしまう。こんな連続でした。

正直なところ、これまでの私は人より劣っているという恐れをひた隠しながら、知識や経験など様々なものを身につけ、自らのポジションを築かなければならないという思いが、強く根付いていました。

そして自分が「何者かであること」を証明することが何よりも重要でした。ふとしたときに、自分は何者にもなれていないという焦燥感や欠乏感にかられたとしても、それを真正面から全身で受け止めることはなく、何者かであるように振る舞い続けていたのです。

そんな中、直近の喪失を通じて深く「これまでの生き方だと心から願うなりたい姿にはなれない」と深く身体感覚から体感せざるを得ない状況に直面しました。

最初はそれは苦しみばかりだったのですが、徐々に、またとない機会として受容し、何者かであることを追求して浅薄な喜びに浸るよりも、何者でもないことを深く体感していこうと思うようになりました。

そして、その奥に眠る自身の願いの封印をときながら、これまで駆動していた生存戦略(=エゴ)を穏やかに見つめることが少しずつできていっているように感じています。

これまでとは異なる考え方に移行しようとしているため、日常ではぎこちなさや不器用さが生じ、人との対話もちぐはぐになってしまいます。ただ、「これまでの生き方だと心から願うなりたい姿にはなれない」という気持ちから、小さな歩みではあるが、なりたい姿に近づけているような実感も生まれ、それがこれまで味わったことがない喜びにもなっています。

多くの人にとって喪失体験は、怖いものであり、踏み込んだとしても出口の見えない暗闇と感じてしまうものでもあると思います。

今回、Bookの執筆にあたっては私自身の1年以上にわたる喪失感や無力感、そして自分は何者でもないという欠乏感に直面した際の葛藤を伝えることが、喪失に対して不安や恐怖を感じている方にとって何らかの足場になればと思い、執筆を決意しました。

まだ答えや確信が見えている訳ではありませんが、今回の大きな経験から「今の生き方ではなりたい姿にはなれない」と深く自覚でき、この失敗経験さえもさらけ出していくことで、周りとの関係をより豊かなものにしながら前に進めていけるのではないか、という感触を持っています。

本執筆を通じて、自分自身の喪失や葛藤をありのまま語ることで、「何者かになること」に囚われている方の背中を支えることができれば幸いです。

私にとっての社会と共創する熟達

私の文章は、IFD/FLPの一般化をメインにしておらず、上述の通り、自身の葛藤に伴うIFD実践を詳細に記述することで、IFDの中で自らを再発見することや紡ぎ出すことの具体的なイメージを読者の皆さんにお伝えすることを目的としています。

ぜひ、もっと話を聞いてみたい、この部分の葛藤をより深く知りたいなどがあれば、私(yuki.okauchi@reapra.sg)までご連絡ください。

定義

私は社会と共創する熟達を以下のように捉えています。

「自らの幼少期から長い時間をかけて育んできた願いをベースになっていたい姿を定め、
長期で顕在化する社会課題と交差させる形で執着できるテーマを紡ぎ出し、自らを変容させながらその社会課題を長期で解決させていくような産業や概念を結実させていく行為」

社会と共創する熟達を歩む動機

私はReapraに出会う前からライフミッションを粒度が粗いながらも設定していました。
それは現在設定している内容にも通じており、「人、事業、組織を分断に捉えず、つながりを持って変容することを支援する」というものでした。

このような思いを持ちながら、これまでのキャリアを振り返ったり、ときにMBA等を通じた外部知見のインプットをしたりと、自らの枠の中ではその追求に精を出していました。

ただし、このミッションが自身の血肉になっていく過程で皮肉な状況を引き起こしてしまいました。それは、「相手を変容させなければならない」という一見、正義感のようにも見えますが、自分自身が変容し続けるということを切り離し、相手をどうにかすることに重きを置いた、「自己を含めない実践」となっていたのです。

実践を経ていくうちに、時に相手とうまく向き合えない場合、その理由を相手に向けてしまうこともありました。

対話がうまく進まない場合や衝突が起きた場合など、それが学習の機会であるはずなのに、その理由を相手に求めたり、自分自身を過剰に傷つけ自己憐憫に陥ってしまう。結果、コンディションが悪くなって、学習が滞る、こんなことを繰り返していました。

本来、ライフミッションは自らの「なりたい姿」が含まれており、自らの実践が前提にあるはずなのに、どこかしらこのライフミッション自体のユニークさに自らが埋没し、気づけば一方向になっているのに、それを直視できなかったというのが正しいのかもしれません。

ここ1年ほどのIFDの中で見えてきたのは、このような自らのエゴ、本当は隠しておきたい自らの根源的な弱みに光を当てようとしない自分自身でした。

自分のテーマと自分の弱みと向き合い続けなければ、ライフミッションを結実させていくことには繋がらない。このように決意したものの葛藤の連続で、すぐに自分のエゴに心が奪われてしまいます。ただ、それでも自分がこれに向き合い続けたいのか、そう考え続けた結果、やはり追求したい、これが私自身が社会と共創する熟達を歩む強い動機に繋がっています。

らしさ・ライフミッション・マスタリー

以下に現時点で私が設定しているらしさ及びらしさを強化した報酬と罰・ライフミッション・マスタリーテーマについて紹介します。

らしさ

自らのユニークさを発揮して独自の創作・冒険を行い、ニッチポジションを築きたい

・ユニークさ:自身の視座・スキル・知識等に基づく独自の着想や取り組み
・発揮:自らが「何者かである」と感じられる感覚が得られている状態
・創作・冒険:新しいやり方、領域を模索・実践すること
・ニッチポジション:集団における相対的に優位と自らが感じられる立ち位置

報酬と罰

▼報酬(らしさが満たされるとき)
ユニークさを発揮していることに喜びを感じ、ハイになって一人で創作・冒険し、ニッチポジションを更に確立しようとする

▼罰(らしさが満たされないとき)
ユニークさを発揮しようと意気込み、短期視点で一人でハッスルする。コンディションが悪化しても他者に素直に開示せず自己憐憫に陥る

ライフミッション

ありのままに他者と繋がり、共に学び合う

マスタリーテーマ

個人と組織と社会の変容

2022末までになっていたい姿

自らが「しなやかな喪失と再生」に向き合い続け、他者にとっての学びの触媒となる

  • 「含んで降りる*」の実践。上へ上へスキル・知識・段階を上がっていくのではなく、自らのプリミティブな積み残しに向き合うことを自らの実践を通じて、他者を支援する

岡内のライフストーリー

ここからは上述のらしさがどのように自らに入り、その後どのような場面で発揮され、上書きされてきたのか。また、そのらしさからどのような思いでライフミッション・マスタリーが紡がれたかについて紹介します。

幼少期に育まれた生存戦略、らしさの萌芽

私は四国の片田舎に生まれ、すくすくと育っていました。

四国のことを思い出すと、以前はやり場のない怒りにまみれてしまっていました。それは田舎では特に強い同調圧力の中で、自分自身の生きづらさをどう表現していったらいいか分からず、表面的には周囲をフォローしながらも、勉強やスポーツ、友人関係等においては相対的に優位なポジションを取れず悶々とし、苦し紛れになんとかニッチポジションをとろうとして、ときに変わったことをして注目を集めようとする気持ちです。このことを考えると、とても歯がゆい感覚になります。

最初はこの歯がゆさがどのように生まれてきたかを探ろうとしました。その中で見えてきたのは、3歳のときに弟が生まれたことが大きいことでした。弟によって母親の愛情を取られるのではないかと不安を感じ、細かい背景は省きますが、そこから私の生存戦略が、言うことを聞くことや、ニッチなポジションをとる、というような行為として現れるようになっていきました。3歳以前に他者を巻き込みながら楽しんでいた創作活動も、人の目を気にして合わせるか、逆にニッチな場所を取って一人でやるかという選択になっていきました。

私は、「一般的な競争の中では自分は勝つことができない。ナチュラルな自分自身だと人よりも劣っている。だから何らかのユニークさをその場に持ち込むことで、ニッチポジションを築き、自らの劣等さをひた隠し、周りからは突っ込まれずに一定の立ち位置を作り出す」ことが生存戦略となっていきました。

強化された生存戦略、らしさの上書き

小学校では、3月生まれだったこともあり同級生と比べて体格も小さく走るのも遅く、話すのも苦手で、クラスの中では地味な子という存在でした。3歳くらいまでは工作でモノをつくると母親がすごく喜んでくれるのに、学校に行くと普通の子になってしまって報酬が得られなくなってしまったんです。

運動もできない、勉強は普通、特技もないし、話もうまくないのでクラスの人気者になれない。そのため学校に行くのが嫌で仕方ありませんでした。

その欠乏感からか、高学年になると図工やプラモデルを一人で作り込んだり、ミニ四駆の大会に出たりするようになりました。同級生に自慢したくても、その大会には同じ校区からは誰も出ていなかったので、自慢することもなく、意図せずニッチ戦略を究めて行きました。目立ちたくても目立ち方が分からないというような感覚でした。

ここはまさに今振り返るとユニークさを発揮したいらしさが出ています。
ただし、特に小学生の頃はこのらしさの出し方もとても難しく、自分からはそのユニークさを表明できない。今でもこの傾向はあり、周囲に気づいて欲しいと思ってしまいます。

その後、中学生では例えば、みんなが邦楽を聞く中、自分だけは洋楽を聞くように、「自分だけしか知らない」というポジションを取ることを強化して自分の居場所をつくるようになりました。
小学校のときは不器用さがありましたが、中学、高校と経験を経るにつれて、自らの劣等さを隠し、ニッチポジションで周囲からの批判を受けない状況を構築していくことは次第にできるようになっていったと思います。

ただし、このようなポジションを築いたとしても、心のなかには未来を悲観する気持ちがずっと残っていました。

未来に対しての展望として、両親は四国の銀行や新聞社などに就職することが最も理想的と話してくれていました。

しかしながら、それに反発するように、自分のユニークさを生かして、自分の好きな音楽やゲーム、テレビなど何かを発信する側にならなければ、という意識に駆られました。そのためには東京に出ないとという思いが強くなっていきます。

けれども、私は勉強もイマイチでしたし、高校もほとんどが四国内での進学を志向する学校で、教育方針も自分が行ける範囲に行くことがよいとされていました。私は、そのことに嫌悪感を抱いていました。そして、どうしてもそのような選択肢が平凡に見えてしまい、選ぼうとは思えませんでした。

東京の大学を受験しようと決めたのですが、仮に失敗したら学校のコミュニティから弾かれることを恐れてしまい、そのことは必死に周りには隠していました。結果的には、何とか受験勉強が功を奏し、運良く大学に受かり東京に行くことになりました。

大学に合格したとき、両親と地域に対する怒りが湧いてきました。これはその後にもつながってきますが、同調圧力のようなものを無意識に感じ、自らのポテンシャルを押し込めざるを得ないような人を見ると、強烈に救ってあげたいという思いが生まれてきたのだと思います。また、そのような環境を作り出す地域や学校、家庭の価値観に対して憤りを感じていました。

大学では学業に大きな目的意識を見いだせず、たまたま入った部活の競技ダンスにはまりこみました。ちょうどその頃は日本の大企業が合従連衡を組んだり、リストラを行うようになったりとサラリーマンになることに疑問を持っていました。そのため、卒業後はプロになることを志向し、自らの演技を通じて他者に何かしらの感動を伝えられることは天職ではないか、と思っていました。

ダンスという表現を通して、踊りを見てくれている人たちにエネルギーを届け、冒険に誘いたいという気持ちがありました。それは高校時代までの同調圧力の中で生きづらさを感じていた自分に対する悔しさを投影するようになっていたのだと思います。

学生での競技期間が終わったあとも世界一周する船に乗り、ダンスを教えたり、ブラジルに行って異なるタイプのダンスを掛け算させたいと学んだりと試行錯誤しました。(このダンスにはまること、プロの選択肢を模索すること自体、大きく私のらしさが出ているように思います)

ただし、ダンスの道に進むことは難しく、社会人にならざるを得なくなりました。
そこで紆余曲折を経てブティックのコンサルティングファームに入社することができました。その会社は事業再生やPMIといった構造改革の場面において、戦略や組織など、比較的タッチーな部分も含めて広範囲に扱うプロジェクトが多く、最初は不慣れながらも徐々に生きがいを感じるようになりました。それは、事業再生局面や統合局面において揺れる従業員の方々を見ている中で、自分自身が松山で体感していた生きづらさと類似するものを感じたことが大きく、事業の長期ビジョンや戦略、組織といったものをかけ合わせて総合的に支援することが問題意識と合っていたことが大きいのだと思います。そういった支援をしている中で、成人発達理論等の人の内面に対する考え方も学んでいきました。

しかしながら、ここでも自らのらしさは顔を出します。
コンサルティングという高い報酬をもらいながら短期間でデリバリーするという業務特性と相まって、どうしても支援のときに毎回のセッションでクライアントにアハしてもらうことに重心が置かれがちで、かつ何とかプロジェクトの範囲・期間を超えた視点をもってあたろうにも、納品というゴールをクリアするためには、与えられた命題と期間内での満足度を最大化することを重視してしまう。
コンサルでの経験を通して、私自身の弱さを隠し、相対比較の中でのユニークさを発揮したいという傾向も相まって、なんとか馬鹿だと思われないように賢そうに振る舞って、それらしいメッセージとストーリーを作り出していくことが強化されたように思います。

ただ、これでは本当に企業が変わる局面での本質的な支援はできません。
私は10年ほどコンサルティングに携わったあと、ここまではっきりとは認識していなかったもののその限界感と、実践への憧れ、大企業で新しい事業が生み出せなかった秘訣がスタートアップにはあるのではないかという思いからベンチャー企業へ転職します。

そこでは事業責任者や人事責任者を務めました。
私はこのときにはもう冒頭で記述したような、人と事業と組織を繋げて捉えることに強い動機がありました。
しかしながら、所属した企業は入社してしばらくしてから成長の踊り場に入りました。私はその会社の経営幹部の一員としてなんとか成長し続ける事業・組織・人を育成したいという思いから奮闘していたのですが、なかなか成果に結びつかないもどかしさや、成長のあり方について他の経営陣と意見が異なることがありました。本来はそれはお互いの視界を共有し、より経営幹部としての結びつきが強くなるであろうチャンスであるはずなのに、私はあろうことかそこで他の経営陣に噛み付いてしまいました。

その頃に生じていた新規事業の行き詰まりや、退職者の増加の中で、自らその時点で考えていたあるべき経営論と現実の違いに対して、怒りに基づき衝突するという形で顕にしてしまったのです。

ここは自らの考え方にはまりこみ(ユニークさを追求し)、他者とのコミュニケーションが苦手でありながらもそれを開示せずに、違和感をぶつけるという形でらしさが発露したのだと思います。その時は必死でしたが、今となっては恥ずかしい限りです。

このような中で失意に陥りました。そして、人と事業と組織を繋げて捉えることに対して何とか答えを模索しようと、大学院に行って理論を勉強し研究に時間を費やしたこともありました。

こうして、これまでの松山での経験、そしてダンス、コンサル、スタートアップ、MBAと色々な経験を積み重ねていく中で、「人と事業と組織」というテーマが次第に強く形作られていきました。

最初は両親、次に学校の先生、その後経営者に変遷していくのですが、組織のリーダーの価値観や性格が、その集団の意思決定や文化に影響を及ぼしているのではないかという仮説にたどり着きました。しかしながら、一般的には例えば事業の問題は事業で解決する、経営者の問題は経営者でと、そのつながりに関しては複雑性もあり光があたりにくい、そのように感じるようになりました。

特に株式会社での試行錯誤を通じてより確信を持ったことは、「強みで勝負せよ」という言葉が一般的に信じ込まれている一方で、目の前で起きる状況はリーダーの「弱み」に起因しているのではないか。しかもその弱みは深くその人自身の価値観とつながっているのではないか、という感覚でした。しかしながら、コンサルタントは一般的には戦略、ITコンサルタントはシステムを、組織開発支援者は組織を、人材開発支援者は人材を、と分断されています。だからこそ、全体感をもって人と組織と事業、もっといえばそういった状況を生み出している社会環境自体をつながりを持って見ることの大切さを実感するようになりました。

Reapraとの出会い

そんなときに、偶然にも出会ったのがReapraでした。

Reapraが考える、研究と実践を通じた産業創造というテーマが、これまで持っていた探索・研究マインドと類似しているように感じたこと。特に自分たち自身が実践するということに重心を置くことが、コンサルで第三者として企業支援に関わっていたときに感じていた机上の空論感を払拭してくれるように感じました(自分自身は実践をやっていたとそのときは信じていました)。

また何より、経営者の価値観が事業や組織につながっているという考えのもと、その変容をあわせて支援する点はまさにこれまでの人生を通じて追い求めていたことであり、Reapraのミッションと、私個人のミッションの繋がり、これが何より大きな喜びでした。

紆余曲折を経ながらも、自らのライフミッション・マスタリーはクリアになっていき、その重なりに動機が高まるのに合わせて、次第に担当者数は増えていきました。
また、これまでの人事領域での経験、および新たに社会と共創する熟達を志向する方を探したいという思いから採用やソーシング、加えて外部共同も行うようになりました。Corporate Directions,Oriri との協業により設立したTorch.incはこの思いを大企業で実践できるフィールドとなったため強い繋がりを感じ、自らのマスタリー実践の幅が広がっていくことに喜びに溢れました。

ただし、その喜びでハイになっていくに連れて足元での分断が大きくなり、少しずつ起業家を支援しようとするとうまくいかない場面が増えてきます。そうすると、そのような局面でうまくいくようにしようとする、相対的に独自のポジションを維持しようとする私のらしさが顔を表すようになりました。それは積み残しであり、光が当たっていなかったらしさ、言わば古層のシャドウが露わになってきたのです。

IFDを通じた自己向き合い。変われない(変わりたくない)葛藤

私は2019年9月に入社し、在籍3年を超えます。
IFDは1年に2回以上は実施していたため、通算すると少なくとも5回は行ったと思います。また小さなアップデートを繰り返しているため、一部分を重点的に深めた対話を含めるとその数はより多くなります。

IFDは実施する度に新たな気づきがあります。
その時点での自我(その時点の自分自身が暗黙で持っているフィルター)で自身を深堀りしていたのが当初で、他者からのフィードバックを得たり、実際に起きたことを両親に聞いたりとしてその内容に幅が生まれていきました。

この1年ほどは特に0-3歳の自らの記憶がない時期も両親からのヒアリングや昔の写真を見ることなどを通じて探りに行くこと、ならびに祖父母や両親等の親族の状況などの環境要因も丁寧に見ていくことで、自分自身でも気づいていなかった、まさに生まれてから今に至る環境と自我の相互作用を明らかにしていくことができました。

その度に自分を知ることができる喜び、そしてその探求がライフミッション、マスタリーのブラッシュアップにもつながることが嬉しく感じていました。

ただし、自分自身の理解が深まる喜びに反して、諸藤さんからは「岡内さんは喪失をしていない」というメッセージを何度も何度も投げかけられ、正直それが理解できず、混乱とストレスが溜まっていきました。

諸藤さんは私自身がIFDで自分自身のらしさであり、特にシャドウとなっていたような自我傾向について、より深いところで洞察していたのではないかと思います。根幹のらしさである「ユニークさ」「ニッチポジション」を築こうとする自我を敏感にとらえていました。

私自身、過去のIFDを通じて「自らを理解した。喪失できた」とその度に感じていました。
ただ、そこには実はこれ以上踏み込んでくるなという、ディフェンス心があり根幹にある弱さ、恐怖を「できている風」に見せることで覆い隠そうとする心理が働いていたように今思うと感じます。
まさに生存戦略から来た相対比較の中で劣っていることが明らかになることへの恐れが生み出す虚像を見抜かれていました。

諸藤さんからの指摘は、本音の心象を開示することよりも、スキルや知識で何かを隠しながら対話しているのではないか(話したくない何かを抱えたミステリアスな雰囲気を生み出している)。物事を一人に閉じて進めようとする傾向があり、無意識に他者と比べていて剥き出しの自分を見せることを怖がっているのではないか。他者からの建設的な意見を批判と解釈して受け止めず、勝手に相対比較してコンデションを悪化させていないか。対話が短期視点になっていて一回一回のミーティングを相手にとって心地よくさせることになっていないか。その裏には長期の視点で考えて必要な衝突や停滞を避けようとする自我がでていないか。長期の時間軸をもちダイナミクスを踏まえながら相手と向き合っていく視点が、他者への恐怖から閉ざされていないか。といったものでした。

これらは今思い返すと、深い部分にある私の根源的な弱さだと思います。しかしながら、私はその指摘を正面から受け止めることはできませんでした。
これまでの自分を構成していた「何者かでないといけない」という強迫観念が大きくなった感触があり、必死に抵抗していました。
「自分はそんなんじゃない、一部を捉えて指摘されているだけだ!」と言い聞かせるも、諸藤さんとの対話では、構造で反論を返されていきます。

そして次第にその構造に直面せざるを得なくなっていきました。ただし、構造理解をしても、感情、もっといえば深い身体レベルで理解し、ゼロから変えていくには遠く、真髄にまで染み込んだ自我は暴れ、諸藤さんとの対話のあとにはコンディションが悪化し、夜も眠れない、休日はそのやり場のないもどかしさを家族にぶつけるという状態を繰り返しました。

心の奥底には自分自身へのやり場のない怒りと、変わることへの怖さがあり、頭の中でせめぎ合っていました。

一方で日常では、起業家との対話や採用面談、Torch.incの運営など、当たり前の業務は進んでいきます。
相手からコンディションの悪さを気付かれないように、表面的には落ち着いた風を演じ、何とかスキルや知識を総動員してその場を何とかすることを繰り返し、張り詰めた内側を覆い隠すのに必死でした。

LC*からもこの機会を学びとするために、丁寧に意見を投げかけてくれるも、私はそれを批判や突き上げと受け取ってしまい、ディフェンスは強化されていくばかり。むしろ、こんなに苦しい自分を誰も分かってくれない、と感じていて、今思えば、自己憐憫に陥っていました。
 *Learining Comapanion; 学習伴走者

そんなギリギリの状況において、周囲からの意見を受容できず、ストレスレベルが閾値を超えたときに動けなくなり、眠ることもできずどうしようもなくなってしまいました。

その後、起業家の方々や、Torch.incの皆に迷惑をかけながら半ば強制的に休みを取り、自分を見つめ直す期間を設けることになったのです。

当初は自分自身の問題について考えようとしましたが、やはり深いところまで見ようとすると、らしさが壁となり、自我がそれを阻むような感覚、不安と恐怖の日々が続きました。

自分の無価値さを自覚したときには絶望し、一時は人と話すのが怖くなり、家に閉じこもって一人苦しみ続けるといった日々が続きました。自分にとって根幹にある弱さと向き合うということはそれほど痛みの伴うことでした。

そんな時、ふと我に返るタイミングがあり、ライフミッションを見返すと、やはり自分はこれがやりたかった、こうなりたいというエネルギーが小さくふつふつと湧いてくるような感覚がありました。

すると「今までの自分の生き方だと、なりたい姿にはなれない」そんな深いところでの自覚が芽生えてきました。次第に、らしさの中でも固まっていた弱さ、恥ずかしさ、恐れといったものを徐々に認めることができるようになりました。

これまで蓋をしていた自分の奥底には、本当はコミュニケーションがとても怖い、本当は頭が悪い、本当は相手と関係を築けないのではないか、という根源的な怖さ、弱さがあることに気づきました。ずっとこれまで封印してきたことに気づけたという感覚です。

このような中で、諸藤さんやLCとのやりとりだけでなく、Reapraの外部アドバイザーである大野さん、加藤さんや産業医の瀧本先生等にも相談しました。

それまでは、「構造は分かっているけど、向き合うことへの恐怖が勝り、動けない」いわば頭が凍りついたような状態が続いていました。

アドバイザーの方々との対話は、大きく言えば自分自身が常に劣等感を持ちながらそれを隠す・埋めることが心を占めていること。本来持っている安心感、何者でもないことを受け入れたとしても変わらない安らぎに気づいていない、見ようとしていないのではないかということでした。

今までは自我から生まれた生存戦略で頭の中がいっぱいだったのに、その戦略ではもう生きられないと考えると、徐々に空虚感が表れてきて、気持ち悪さと不安、恐怖が溢れ、最初はすぐに怖くなってしまうことを繰り返していました。

そんな揺れ動くコンディションの中で、家族や友人、過去にお世話になった方々との対話を通じ、関係の再構築を試みたことはとても意義深いように思います。

両親や家族、昔からの友人や過去お世話になった方々、これまでに衝突してぎこちない関係となっていた人たちに、現状やIFDを通じて見えてきた自身のストーリーと、過去の何かしらのしこりがあるようなお互いの記憶について、素直なその時の心象を伝えていくという対話をしました。

驚いたことに、このような自分自身の脆さも含めて、不器用でも伝えていくと、いかに自分が一人で相手を誤解していたか、勝手に物語を作って一人で誤った解釈に囚われてきたかを感じました。

そのように理解が深まり、一連の気づきをそのまま周りに開示すると、新たな関係が結べていけたように思います。

そうしていくうちに次第に安心感が内側から湧き出てきて、自身の内面の土台にあった豊かさに気づくようになりました。

次第にアドバイザーの方々に言ってもらった、その空虚さや欠乏感の中にとどまり続ける安心感が育まれていったように思います。空っぽでありながらも豊かさや穏やかさが生まれてくること、こういったことを徐々に体感できるようになっていきました。

なお、スピリチュアルな話になりますが、禅においては空っぽになる(空になる)とそこに光が通る(emptinessからluminosityへ)と言われるそうです。自らの弱さを受け入れ、自我を飼いならし、心の中で叫び続ける声がなくなったときに空となり、自然でいまここにある知性が生じ、それが光となって自らの自然なエネルギーとなることと理解していますが、僅かながらではありますがそれに近い体験が起きたのだと思います。

こうして「自分自身の奥深くにある蓋を開けたとしても、また自分が何者でもないことが皆の前で顕になったとしても、たぶん大丈夫」そんな感覚に至るようになっていきました。

今の自分は完璧ではない。けれど、これまであった様々な経験は必要なことであり、起こるべくして起こった。今の不十分さを受け入れ、今できることをしながら、少しずつ変わっていきたいという柔らかな感触です。

これまで執着していた自らの欠乏を埋めていこうとして何者かになることを追求する自我の物語が溶けはじめ、安心の基盤を感じながら、自分の弱さをそのままに包容しつつ変化に向かっていく創造の物語が新たに浮かび上がっていきました。

そうして次第に落ち着いていくにつれて、これまでは「苦しい局面を迎えたときに内省的に一時的になって喪失できたと思い込み、それを味わいフラットになる前に、その経験をむしろ対話のクオリティを上げられる武器として付け加えていく」構造を認識することができました。

手放すのではなく、むしろ握りしめていくというパラドックスに陥りながら、らしさからその構造を繰り返していたのです。

そうして再度、ライフミッションとマスタリーを眺めていくと、やはりこれに向き合いたい。飾らずありのままに他者と繋がりたい。共に学び合いたい。そして、自分が変わっていけるのか、今苦しい状況にあり葛藤の最中にいる方に、その弱さを受け止めてしなやかな再生となる機会と信じてもらえるような触媒となりたいという気持ちが高まっていったのです。

こうして私は改めて自分のライフミッション・マスタリーとの繋がりを感じ、実践を進めていく動機を高めていくことができました。

今振り返ると、この停滞期を乗り越えることができたのは「弱さや怖さ」を味わい尽くすことができたからなのではと思います。弱みや怖さを自分のものだと受け入れるには、人それぞれの時間が必要です。

変にすぐにそれらを解消する方向へ頭を切り替えるのではなく、また早く苦しい状況から抜け出したくて新しい人や場に飛びつくのではなく、まずは自分自身の弱みとそれに付随する記憶を深掘り続け、そこから逃げずに味わい尽くすことで再びマスタリーとともに頑張ろうというエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。

実践(FLP)の現状

私は現在、以下のターゲットを設定し、実践を進めています。

ターゲット

ターゲット (2022/12末まで)

定量
IFDを通じて、社会と共創する熟達とアラインし、Reapraコミュニティと豊かに学び合える投資先、インターナルの発掘する

定性
ユニークさの発揮に囚われず、フラット・ニュートラルな状態をキープし、行為に集中し、DBを身体の一部として活用しながら学習を進められている

上記の目標をベースに、FLP(First Learning Practice; 初期学習実践)を開始しています。

私は過去にFLPを進めた気になっていましたが、今思えばそこに多くの誤解が生じていました。そのため、今回は特に注意深くならなければいけないと思っています。

これまでは、実践することよりも目標設定という行為自体にユニークさを発揮する傾向がありました。目標をライフミッション・マスタリーからトップダウンに落とし込み、かつ様々な状況を踏まえて精緻に作ること。ある意味、綺麗に整理されることにエネルギーを割いていました。これはコンサルティングの経験から引きずっている癖かもしれません。

これはReapraの考える、陳腐な領域をエントリーとして選ぶこととズレがあったように思います。
陳腐な領域とはプロダクトマーケットフィットが証明されていて、新規性や創造性を検証する必要なく、自らの学習行為によって作り込むことができるフィールド。学習がうまく進まない場合にマーケット等の外的要因を理由にするのではなく、経営者自身の学習へと意識が向けやすくなる場所です。

私はらしさから無意識のうちにオペレーションを地道にこなしていくよりも、インパクトの大きく派手な領域を策定することの方が素晴らしいと思っていました。そのため、どうしても陳腐な領域を選ぶことに抵抗を感じ、業務範囲を広げてしまったり、自分のやったことがないような新規性の高い業務を選んでしまっていました。

そのような難度が高い目標であるからこそ、設定後、次第に思うように日々のダッシュボードの入力・振り返りが進まなくなっていきました。ダッシュボードを壊したり、小さくしたりすることもできず、入力自体が億劫になっていく。どんどんと現実に引き込まれて、ダッシュボードを毎日見なくなる。そうして、現実とダッシュボードが乖離していることに対する気持ち悪さと、それを一人で解決しようにもうまくいかないことから、自分自身の実践に対して自信がなくなっていきました。一方でそれには気づきながらも、他者にはその不十分さを開示できず、他者から指摘されると批判と感じてガードしてしまうことを繰り返していました。

また、私は多くの役割を担っていたのですが、本来複数の役割を担うという行為は、自らのライフミッションやマスタリーを進めていくための一つの手段であるはずなのに、役割と私のユニークさ、およびニッチポジションの確立が同一化してしまい、役割を減らしていくことに抵抗感が生まれていきました。

FLPにおいては、ターゲットの達成に向けたKPIモニタリング・施策想起/実践のみならず、基本要件として時間管理、コンディション管理、情動の機微の把握という取り組みを重視しています。

この基本要件3つについても、これまでもやってはきていましたが、正直なところ本当にこの重要性を理解せずに実践していたように思います。

時間管理においては、これまでの精緻な目標、複数の役割に囚われていき、次第にそれらの役割をマネージできなくなってきました。そうすると、目標と役割を維持するために、労働時間を伸ばして何とかするという行為に出てしまっていました。私自身が社会に出た頃は長時間労働がむしろ美徳とされていたし、コンサルティングという業態の中では、深夜残業が業務へのコミットメントの証明と見なされていたように感じたこともあり、安易に時間軸のレバーを引いてしまっていました。

むしろ「この状況で時間を減らすこと自体が不可能である」そのように思い込んでしまい、本来はこの私の目標設定や役割自体を周囲に相談するといったソリューションがあったはずなのに、それは逃げであると感じてしまっていました。ユニークでニッチポジションを築こうとしている私にとっては、最も取りたくない選択肢であると無意識に蓋をし、この議論自体を避けようとしていました。

ここにコンディション管理も繋がってきます。
このように心の奥にある感情を隠したままであったため、身体はついてこずに次第にコンディションが悪化していきました。コンディションが本当は悪いのに、周囲にはそうでないように見せようとしていたのです。しかし、どこかで分かって欲しい気持ちは収まらず、自己犠牲的な感情と相まって「自分を傷つけながらも責任感からやるしかない」と自らを犠牲者と思い込み、自己憐憫になって周囲に「分かってくれ」と言う気持ちになってしまっていました。

本来、コンディション自体を丁寧に日頃からモニタリングし、私のコンディションの変動がそのまま対話のクオリティに影響していることを自覚していれば、もっと自分に敏感になってコンディションを維持・向上させることに丁寧になっていたはずです。

実際のところ、私はコンディションの重要性を理解していませんでした。これは私の生まれた時代背景であり、自分の感じることや身体的な揺れは無視しろ、競争環境の中では感情を無視してやるべきことをやれ、という考え方も影響もあるように思います。(私はゆとり教育より前の世代であり、体育会的な昭和の教育論に強く支配されていたのでないか)

結果、労働時間は伸びるし、コンディションも悪化する。しかしながら周囲には実践しているように見せるために必死になるという、偽りのFLPになっていたと思います。

情動の機微の把握においてもその重要性を深く理解はできていなかったように思います。本来この取組みは自分自身の器の縁を理解していく行為であり、それを刺激するような感情が生まれた際にその揺れに気づき、意図的に再解釈、施策につなげていくことでその許容量・包容力を広げていくことです。自分自身を知り、情動の揺れをなりたい姿から捉え直していくことで、同じ状況に遭遇した場合に、これまでと同じリアクションをするのではなく、自分の学びに変えていくこと。そうはなっていませんでした。

そして前章でも触れた通り、遂には心身の限界を迎えてしまい、動くことができなくなり、回復期間に入ることになりました。
(回復の過程は、前章の内容の通りです)

そして、今、新たにFLPを進めようとしています。

振り返ると、過去の私はFLPを実践するよう振る舞うことばかりで、一瞬一瞬のエネルギーに気を取られ、結局は長続きしませんでした。改めて思うのは、小さくても少しずつゆっくりと続けていくことだと考えます。

最後に

実践にあたって様々なことが起きると思います。ここに記載したような学びを拾いながら、断絶しないよう継続して学び続けていきたいと思っています。

ここまでが私の実践と葛藤の一連のストーリーになります。

冒頭にお伝えしたように、喪失に対して不安や恐怖を感じている方、「何者かになる」ことに執着心を持ちながらも何らかの違和感を持たれている方、自分を見つめることへの抵抗感じている方に対して、自分を一歩踏み込んで見つめること、踏み込んだ際に仮に空虚感や欠乏感を感じたとしても、それはなりたい姿に向かう大きな歩みであると信じられる、そんな風に背中を押すことができれば嬉しいです。

私自身は、FLP(First Learning Practice; 初期学習実践)を再開しようとしています。

今回のBookにおいては、私が今の状態でできることは、自分自身の失敗体験を伝えることだと考え、このような形を取らせて頂きました。アプローチや一般化された内容については、十分な内容を記載できなくて申し訳ありません。

次回、Bookを執筆する際には、より実践まで充実できるようにしたいと思っています。

長文ながらもここまで読んで頂き、ありがとうございます。
改めてありがとうございました。

岡内

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